翠の賑やかな一日
四月二十一日、木曜日の午前。
翠は喫茶『色神の森』に足を踏み入れた瞬間、目を見開いた。
店内は、まるで猫の王国のようになっていた。床や椅子、テーブルの上、天井の梁など、至る所に猫の姿があった。約五十匹、いろんな種類の猫がいた。
「ニャーニャー」とあちこちから猫の鳴き声が飛び交っていた。
翠は思わずその場で立ち尽くしていたが、猫が爪とぎをしようとする姿を見て、慌てて動いた。手を伸ばし、猫に触れようとしたが、その手はすり抜け、翠は困惑した。猫はまるで空気のように掴むことができず、ノイズが走った。
戸惑いつつも、目を凝らして猫を見つめ、翠はハッと気づいた。目の前の猫たちが、本物ではなく、すべて3Dホログラムだということに。つまり、猫毛が散ることはないし、爪とぎの跡も決してつかない。
翠はほっと息をついたが、すぐに「ホッとしてる場合じゃないでしょ、わたし!」と自分にツッコミを入れた。
普通の喫茶店――『色神の森』が、3Dホログラムとはいえ、猫カフェのようになっている店内を冷静に見回した。
猫ホログラムの再現度は非常に高く、各々自由に店内を歩き回ったり跳び回ったりくつろいでいたりしていた。
客が手を伸ばせばすり抜けるくせに、気まぐれな猫たちは、膝の上や肩、果ては頭の上まで勝手に乗ってくるのだった。
翠が通路から見渡していると、背後にメルがひょっこりと現れた。
「あっ、翠ちゃん、おはよう!」とメルは明るく声をかけた。
「メルさん、おはようございます。……ではなく、大変です! 店内が猫だらけになってますよ!」
「かわいいよね~」
「か、かわいいですけど……これでは、仕事に支障が……」
「ホログラムだから大丈夫だよ!」
「そ、そうですが……でも、どうしてこんなことに?」
「それはね、翠ちゃん……」メルの目が急に鋭くなった。翠が息をのんで待ち構えると、メルは笑顔で言った。「――今日は、猫に触れると、みんなの運が良くなるんだよ!」
翠は目を丸くして硬直し、一瞬の静寂が訪れた。
「運……? あっ……! もしかして、これってメルさんがやったのですか?」と翠は問いかけた。
「ううん……やったのは、ラーゼスくん。でも、お願いしたのは、わたしだよ」
メルは屈託のない笑顔で答え、さらに言い添えた。
「……ほんとは本物の猫が良かったんだけど、いきなり連れてくるのは猫に迷惑だから、ラーゼスくんにホログラムを頼んだんだ!」
「ホログラムでも、ご利益あるんですか?」
「わからないから、とりあえず数だけ増やしたんだ!」
「増やし過ぎです! 人より猫の方が多くなってるじゃないですか!?」
「でも、そのおかげで、ホログラムでも効果があることがわかったんだ!」
「え、あるんですか!?」
「うん、ほら見て――」
メルが店内を見渡すように促し、翠は続いた。
「みんな笑顔だよ!」
翠は猫のホログラムばかりに気を取られていたが、客たちに目を向けてみると、メルの言った通り、皆が幸せそうな顔をしていた。
常連客の百鬼夜行は、猫じゃらしのホログラムで猫と戯れ、その他の客たちも、各々猫のホログラムと遊んでいた。その光景はまるで、猫好きが集まっているようだった。
「でも、この状態を店長が見たら、怒られるのでは……?」と翠は冷静に問いかけた。
「店長なら、あそこにいるよ」メルはカウンターの奥を指差した。
翠が目をやると、そこには猫のホログラムとにらめっこしている青山の姿があった。
「……って、お前もか!」と翠は思わず声を上げた。
青山は翠に視線を向けた。
「おお、翠くん、おはよう」
「お、おはようございます……店長」と翠は返した。
青山はキリっとした目つきに変わった。「早速だが、翠くんに聞きたいことがある!」
翠は思わず身構えた。
(聞きたいこと!? なんでしょうか……?)
そう思いながら、「な、何ですか?」と翠は慎重に尋ねた。
青山は一呼吸置いてから、真剣な表情でゆっくりと口を開いた。
「……ぼくとこの猫、どっちがモテると思う?」
「猫です!」翠は鋭い口調で即答した。
こうして、翠は一日限定の猫カフェで働くこととなった。
早速呼び出しベルが鳴り、翠は夜行の座る二人掛けのテーブル席へ向かった。
夜行は、一度見たら忘れられない、強烈な風貌の持ち主だった。つるつるの頭に、白い眉毛、口髭、そして顎髭がまるで絵巻物に出てくる仙人のように長く垂れ下がっていた。額には深い傷跡が一本走り、過去に何らかの壮絶な戦いがあったと信じたくなるほどだ。いつもサングラスを掛け、瞳の奥は見えないが、その下品な笑みからどこを見ているのかは一目瞭然だった。
「ご注文をお伺いします」翠は笑顔を浮かべて声をかけた。
「ほっほっほ……翠ちゃん、今日も美しいのう。見ているだけで、心が若返るわい!」
夜行はサングラス越しに翠をじろじろ眺め、下品な笑みを浮かべた。その視線がどこを注視しているのかは、説明するまでもなく明らかだった。そう、夜行は典型的な“エロじじい”だった。
「ご注文をお伺いします」と翠は淡々と繰り返した。
「ほっほっほ……そうじゃなぁ……」
夜行は顎髭をさすりながら、意味深な笑みを浮かべて口を開いた。
「今度、翠ちゃんとデートできる券を、注文しようかのう?」
「アハハ……ご冗談は結構です」
翠は営業スマイルで返したが、次の瞬間、その笑みがスッと消え、目を鋭く細めた。
「――殴られたいんですか?」翠は拳を顔の横に掲げ、凍てつくような声音で言い放った。その低く冷たい声は、まるで氷の刃のようだった。
「うぅ、いいのう!」
夜行はわずかに身を震わせ、胸に手を当てた。
「こ、これはたまらん……翠ちゃんの冷徹な視線と声! 最高じゃ!」
罵倒されて喜んでいた。その様子は明らかに異常だが、本人は自覚がないようだった。
翠が蔑んだ目で夜行を見ていると、呼び出しベルが鳴った。
翠は夜行の注文を完全にスルーし、無言で次のテーブルへ向かった。しかし、次の客も、その次の客も、まるで夜行に倣ったかのように「翠ちゃんとデートできる券」を注文した。
それが偶然ではないことに、翠はすぐ気づいた。この奇妙な流行は、どうやら夜行を発端に、常連客たちの間でじわじわと広がっていたらしい。
その度に、翠は無表情のまま冷たい視線と辛辣な言葉を投げかけた。
「――そんな注文、取り扱っておりません」
翠に罵倒された客たちは、むしろ恍惚とした表情で頷き、次々と“撃ち抜かれて”いった。
翠にとっては大迷惑だが、店長の青山は止める気などさらさらなく、むしろ羨ましそうな眼差しで見つめていた。その視線に気づいた翠が反射的に睨み返すと、青山は嬉しそうに微笑んだ。
翠はハッとして視線を逸らし、早足でカウンターの奥へと戻った。
そのとき、『色神の森』のパーソナルAI――ラーゼスから声がかかった。
「翠さん、厨房の人手が足りないので、手伝ってもらっていいですか?」
「あ、はい。わかりました」
翠はすぐに厨房へと向かった。
厨房に入ると、二人の少年が真剣な顔つきで、手際よく作業を進めていた。
キッチン担当の一人――霧間慈郎は、鋭い目つきで慎重に星形クッキーを積み上げていた。驚くほどの集中力で、まるで芸術品のようなクッキータワーが着実に積み上げられていた。
慈郎が作る料理は、美しい見た目と繊細な味わいで、まさにアート作品と呼べるものだった。中でも人気の高いメニューが、“シェフの気ままなスイーツ”。
注文を受けた慈郎は、相手をじっくり観察し、その人にぴったりのスイーツを直感的に作り上げる。この特別メニューは、訪れる客を魅了し、多くのリピーターを生み出していた。
慈郎の観察眼は鋭く、注文した人のほとんどが満足する。元々こだわりの強い性格が、ここで上手く活かされているのだった。リピーターも多く、店の売り上げに貢献していた。
そして今まさに、慈郎は“シェフの気ままなスイーツ”作りに全力で臨んでいた。
もちろん、喫茶『色森』には、スイーツ以外のメニューも豊富にあり、それらも注文を受けるため、誰かが作らなければならない。
その役目を現在、もう一人のキッチン担当――珈風怜央が担っていた。
怜央は筋トレが趣味で、動作のたびにさりげなくポージングを挟み、ムキムキの体をこれでもかと誇示してくる。これには少々困る部分もあるが、料理の腕は一流で、忙しい状況では頼りになる存在だ。筋骨隆々の身体は存在感抜群だが、実は繊細な作業も得意で、意外にも裁縫が得意らしい。以前、流香が作ったコーヒー豆の帽子は、怜央のアドバイスのおかげで完成したという。
「おはようございます」と翠は軽く挨拶して、厨房に足を踏み入れた。
「おはよう」と怜央はさりげなく二の腕を曲げ、筋肉をアピールするように返した。
慈郎は無言のままクッキーに全集中していた。翠の挨拶すら聞こえていないようだった。
翠は素早く注文票に目を通し、厨房内を見渡すと、静かに気合いを入れて調理に取りかかった。オムライスやパスタ、サンドイッチ、ピザなどの多彩なメニューを次々と作り上げ、その無駄のない動きには、一種の美しさすら感じられた。翠が加わると同時に、注文は雪崩のように押し寄せ、一息つく暇もなくなっていった。だが、ラーゼスの先読みのおかげで、厨房は混乱することなく、三人の料理人が次々と注文を捌いていった。
あっという間に時間が経過し、ふと気づいたときには、午後二時を過ぎていた。客入りがピークを迎え、最も忙しい時間帯に、ようやく青山が厨房に現れた。
青山はのんきな様子で翠に声をかけた。
「翠くん、そろそろ休憩だろ? ぼくと交代だ」
翠はチャーハンを作る手を止めずに返した。
「わたしは、別にこのまま続けてもいいのですが……」
「それはダメだ!」と青山はいつになく真剣な表情で言った。
「……わかりました。では、これを作り終えたら、休憩に入ります」
その返答に、青山はニコッと笑い、そのまま作業に取りかかった。
青山は珍しく真剣な表情で料理を作り始めた。その姿は思わず見とれるほどで、もし彼の素性を知らない女性が見たなら、恋に落ちるかもしれない。メニューは、鮭の塩焼き定食。『色森』がモーニングで提供している和食メニューの一つだった。
翠はチャーハンを作り終えると、約束通り厨房を後にして、休憩室へ向かった。
休憩室に足を踏み入れた瞬間、翠はわずかな人の気配を感じ取った。だが、誰の姿も見えなかった。そのまま歩を進めながら、「お疲れ様です、チョコさん」と言い、椅子に腰を下ろした。直後、テーブルの上にふわりと一枚のメモ用紙が現れた。
メモにはこう記されていた。
『おつかれさまです、みどりちゃん』
その光景を見て、翠は目の前に同僚のチョコ・バレンタインがいるのを確信した。
チョコ・バレンタインは、喫茶『色森』のホール担当の一人。極度の恥ずかしがり屋で、いつも光学迷彩のマントをまとって接客している。その姿を見た人はほとんどおらず、まるで都市伝説のような存在だった。
現時点でチョコについて判明していることは、アメリカ出身の少女で色神学園に通っているということくらいだ。そのため、ファンの間では様々な噂が飛び交っている。『超お金持ちのお嬢様』『外国のスパイ』『実は幽霊』など、突飛な噂が広まっていた。
(多分、普通の女の子だと思いますけど……)
翠はそう思いつつも、チョコに少し興味があった。
「今日は忙しいですね」と翠はさりげなく話を切り出した。
数秒後、テーブルの上に新たなメモが舞い降りる。
『そうだね』
翠は視線を落として何もないテーブルを見つめ、ふと思い立った。
「あ、コーヒーを淹れますが、チョコさんもいかがですか?」
『ありがとう、おねがいします』
「ちょっと待っててください」
翠は棚の方へ向かい、二人分のコーヒーを丁寧に淹れると、席へ戻った。自分の分を置き、もう一つのカップを“見えない同僚”の方へそっと差し出した。
すると、すぐさま『ありがとう』のメモが現れた。次の瞬間、カップがふわりと宙に浮き、スッ……と音もなく消えた。
翠は自分のカップを持ち上げ、香りとほろ苦さを味わいながら、そっと口を開いた。
「休憩室でも、光学迷彩のままなのですね」
返答はコーヒーのカップ。量が半分になって再出現したかと思えば、メモが横にピトッと貼りついていた。
『うん、はずかしいから』
「そうですか……」
翠がコーヒーを一口含んだタイミングで、またメモ。
『ごめんね、めいわくだよね?』
「迷惑だなんて、とんでもありません。チョコさんは、よく頑張っておられると思います。それに――」
翠は少し口ごもったあと、苦笑を浮かべ、視線を逸らした。
「ここは……変な人が多いので」
数秒後、笑うように紙がふわりと二枚降ってきた。
『ふふ、そうだね』
『でも、みどりちゃんにそういってもらえてうれしい。ありがとう』
その言葉に、翠は自然と頬をゆるめた。優しい笑みを浮かべながら、素朴な疑問を投げかける。
「でも、チョコさんはどうして、こんなに人が多い場所で働こうと思ったのですか?」
テーブルに落ちたメモには、少したどたどしい文字でこう書かれていた。
『すこしでも ひとみしりを こくふくしようと おもって……』
健気な理由に翠は心打たれつつも、ふと思いつき、小さく微笑んだ。
「そうでしたか。では、このあと、光学迷彩を脱いで接客してみませんか?」
直後、バサバサバサッとメモが三枚も飛来。
『それはムリ!!』
『むりむりむりむりむり!!』
『しぬ』
「ふふ、冗談です」
翠が手をひらひらと振ると、その目の前に、メモが一枚だけそっと降りてきた。
『びっくりした……』
「でも、わたしにできることがあれば、協力しますので、いつでも声をかけてください」
『うん、ありがとう』
気づけば、休憩時間も終わっていた。
二人は静かに席を立ち、その場を後にした。
ホールに戻った瞬間、翠の目の前に自然豊かな景色が広がった。もともとあったテーブル席やカウンターはそのままで、通路や壁がジャングルに変わり、たくさんいた猫たちも、獰猛なトラやライオン、ヒョウ、チーターへと姿を変えていた。これらはすべて3Dホログラムで、ネコ科の猛獣たちは、まるで獲物を狙うかのような鋭い眼差しで、通路を悠然と行き交っていた。
新しく訪れた客は、ドアを開けた瞬間、動物たちに鋭く睨みつけられ、無言のままそっとドアを閉め、足早にその場を去っていった。
翠はその光景に思わず息をのみ、やがて驚きの声を上げた。
「な、なな……なんでこんなことになってるんですか!?」
その声に気づいた流香とメルが、笑顔で歩み寄ってきた。
「おつかれ、翠ちゃん」と流香は気さくに言った。
「おかえりなさい、流香さん……じゃなくて! メルさん、猫が猛獣になってるんですけど!?」
「ああ、それはね――」
メルが答えようとした瞬間、流香が手を伸ばして制し、代わりに説明し始めた。
「ふっふっふ……それはね――」
遡ること十分前。
流香は帰宅してすぐ、店内の猫たちを見て、目を輝かせた。猫たちとじゃれながらメルから事情を聞いた。そのとき、流香はふと呟いた。
「それって、他のネコ科動物じゃダメなの? 虎とか、ライオンとか……」
「うーん、どうだったかな……ちょっと、試してみる?」
「うん!」と流香は即答した。
「せっかくだし、いろんなネコ科動物で試してみよっか!」
流香は激しく頷いた。
メルは視線を上げて言った。
「ラーゼスくん、お願い」
「承知しました」
ラーゼスが応じると、猫のホログラムが一斉に消え去り、直後、黄色い粒子が降り注いだ。粒子は次第にトラ、ライオン、ヒョウ、チーターなどのネコ科動物に姿を変え、やがて3Dホログラムとして現れた。同時に店内の風景もジャングルへと変更した。
こうして、今に至る。
「っていうことなんだよね。すごいでしょ?」と流香は得意げに言った。
「“すごいでしょ?”じゃありません! お店の中が大変なことになってるじゃないですか!?」
「みんな、自然の中で癒されてるね」
「いや、どう見ても怯えてます!」
「きっと、運もものすごく上がってるよ!」とメルが言った。
「今まさに怖い目に遭ってるようにしか見えませんが!? 早く消してください!」
翠の言葉に、流香は不満げな表情で「え~、せっかくカッコいいのに……」と言った。
「え~、じゃありません! このままでは仕事に――」
翠はふと店内を見渡し、言葉を途中で止めた。視線の先には、猛獣たちと戯れるオマールの姿があった。
オマールは、まるで無邪気な子どものように猛獣たちと笑顔で遊び、客はそれを引きつった表情で眺めていた。
翠はオマールのもとへ無言で歩み寄り、目にも留まらぬ速さでその頭を鷲掴みにした。頭を持ち上げるようにして、鋭い眼差しを向けた。
「オマールさん、あなたはコーヒー豆の妖精のはず……ここへ遊びに来たのですか?」
翠の威圧感のある問いかけに、オマールは思わず視線を逸らし、冷や汗を流しながら気まずそうに答えた。
「い、いえ……違います」
「では、あなたの役目はなんですか?」
「……い、色森を訪れるお客様を、え、笑顔にすることです」
「そうですよね?」
翠が威圧的な笑顔を浮かべると、オマールは口を閉ざして目を伏せた。流香とメルも冷や汗を滲ませながら、その様子を黙って見つめていた。
「それと、ラーゼスさん――」
そう言いつつ、翠が鋭い視線を上げた瞬間、ホールを満たしていた3Dホログラムが一斉に消え去り、もとの店内に戻った。さすがのラーゼスも、これ以上翠を怒らせてはならないと瞬時に判断したようだ。
翠は店内を見渡したあと、ため息をつき、笑顔で口を開いた。
「これで、落ち着いて働けますね」
その言葉に、流香、メル、オマールは無言で頷いた。
夕方になると、次第に翠と同年代の人が増え始め、特に色神学園の生徒たちが訪れるようになった。
ルカは常連客の呉橋神楽と楽しげに話し、メルは占いの館から姿を現し、ホールで接客していた。チョコは勤務を終え、すでに帰宅していた。帰り際、『おつかれさまでした』とふわりと浮かぶメモを残したという。
四人掛けのテーブル席には、一色こがねの姿があり、向かい側に青山が腰を下ろしていた。二人は楽しそうに会話していた。
青山はいつの間にか厨房を抜け出し、ホールで堂々とサボっていた。流香とメルは、ツッコミ属性ではないため、青山の行動を一切気にしていなかった。
こういうときは、翠が注意する役割を担う。
「て・ん・ちょ・う! こんなところで、堂々とサボらないでください!」翠は鋭い声で青山に詰め寄った。
「おお、翠くん! ちょうどいいタイミングだ。今ね、彼女とキミの話題で盛り上がってたところなんだ」と青山は軽い調子で答えた。
「わたしの話はどうでもいいですから、しっかり働いてください!」
「ちゃんと働いてるさ。ほら、これを見てくれ!」
青山はカップを翠に見せた。そのカップにはラテアートが描かれていた。
翠が覗き込むと、青山は続けて言った。
「……これ、キミを描いてみたんだ。なかなかの出来栄えじゃないか?」
翠は一瞬だけラテアートを見たあと、すぐに青山に冷たい視線を送りながら短く言い放った。
「……気持ち悪いので、早く混ぜてください」
「え~、まだ混ぜたくないなー」
わがままを言う青山に、翠は目を伏せ、ため息をつきながら問いかけた。
「……どうして、ご自身じゃないんですか?」
「これは練習で描いたんだよ」
「練習……?」
「翠さん、こちらをご覧になって。わたくしのカフェラテは、さらに素晴らしい出来ですのよ」
一色が会話に割り込み、持っていたカップを見せるように差し出した。
翠はカップに視線を移した。そのカップには、翠と一色が仲良さそうにニコニコ笑顔で顔を寄せ合っているラテアートが描かれていた。
「なっ!?」翠は驚きで思わず声を漏らした。
「これもぼくが描いたんだ。彼女の希望通りにね。なかなかの傑作だよ」青山は誇らしげに鼻の下を人差し指で擦った。
そのとき、いまだに居座っていた百鬼夜行が「翠ちゃん、こっち、こっち」と言って、翠を手招きした。
翠は嫌な予感を胸に抱きながらも、一応お客様に呼ばれたため、渋々歩を進めた。
翠がそばに歩み寄ると、夜行は嬉しそうな笑顔でカップを見せた。
「ほら、これを見てみ!」
そのカップには、翠と夜行が仲良さそうに手でハートマークを作っているラテアートが描かれていた。
翠はそのラテアートを見るなり、無言で夜行のカップを素早く奪い取った。
「あっ! あぁぁぁぁ!!」
夜行が抗議の声を上げる間もなく、翠はカフェラテを一気に飲み干し、「ふんっ!」と勢いよくテーブルに叩きつけた。同時に、夜行を鋭く睨みつけた。
夜行は空になったカップ手に取り、悲しそうな表情を浮かべ、空っぽの中身を見つめた。そして、肩をガクンと落とした。
翠はすぐさま振り返り、鬼のような形相で青山を睨みつけた。
青山は翠の視線に射抜かれたように、全身を震わせた。
「そ、そろそろ仕事に戻らないとな!」
青山は慌てた声を上げ、カフェラテを一気に飲み干し、蜘蛛の子を散らすようにカウンターの奥へと退散した。
翠はゆっくりと夜行に視線を戻した。
「夜行さん……この料金は店長につけておきますので、ご安心を」
翠はにこやかに微笑んだが、その笑顔から漂う得体の知れない威圧感に、夜行は冷や汗を滲ませ、喉が引きつったように声を失った。
「――それと……もし、今後また同じことをなさったときは……」と翠は続け、一瞬笑顔を深めたあと、静かに右手を喉元に添えて横に引いた。その仕草には、妙に生々しい迫力があった。
「は、はい……」夜行は翠の圧力に押され、静かに頷くことしかできなかった。
「では、失礼します」
翠は一色のもとへ戻った。
そのときには、すでに一色のカップが空になっていた。翠と夜行がやり取りしている間に、全部飲み干したようだった。
翠はにこやかに「一色さん」と声をかけた。
「は、はい!」一色は両手を膝につき、背筋をピンッと伸ばした。
「ドリンクのおかわりはいかがですか?」
「えっ、あ……は、はい。ぜひいただきたいですわ……」
「承りました。では、少々お待ちください……」
翠は注文を受けると、青山のいるカウンターへ向かった。怯える青山の隣に立つと、カフェラテのラテアートを作り始めた。
エスプレッソの上にミルクを注ぎ、右手に持ったラテアートペンを構え、豪快に突き刺し、ササササッと素早く手を動かした。瞬く間にラテアートが完成した。
隣で覗き込んでいた青山は、翠のあまりに素早い動作と完成度に目を丸くし、思わず「すっ、すごい……!」と呟いた。
翠はラテアートを一色のもとへ運んだ。
「お待たせしました」
カップを一色の前にそっと置く。
「あ、ありがとうございます……」
一色はぎこちなく返し、ラテアートに視線を向けた。ラテアートを見た瞬間、目を大きく開いた。
「これは……わたくし、ですの?」
「はい」と翠は笑顔で頷いた。
翠が描いたラテアートは、一色の肖像だった。ただし、そのタッチは独特で、まるでピカソの作品のようにデフォルメが効いていた。顔のパーツがやや誇張されているが、不思議と彼女の特徴を的確に捉えていた。
翠は天に絵の描き方を習ったことがある。天のようにオリジナルの作品を描くのは苦手だったが、模写には自信があった。今までいろんな画家の描き方や絵の特徴などを天に教えてもらい、何度も練習しているうちに上達していた。その結果、ラテアートも得意になっていた。
一色は目を輝かせながらラテアートを見つめていた。翠に目をやると、「ありがとうございます、翠さん!」と満面の笑みを浮かべた。
しばらくの間、一色はカフェラテを飲まず、ずっとラテアートを眺めていた。崩すのをもったいないと思っているようだった。
正直なところ、翠は「早く飲んでほしい」と思っていたが、一色の気が済むまで静かに待った。
その光景を見ていた他の客たちが、次々とラテアートを注文し始め、翠は忙しく働いた。作業に没頭するうちに、流香とメルが客に紛れていることに気づかず、そのまま流れるように彼女らのラテアートまで作ってしまった。さすがに青山から注文が入ると、手を止め、睨みつけた。
日付が変わる少し前、ベッドに入った翠は、今日の出来事を思い返していた。いろんなことがあって大変な一日だったが、不思議と満足感が胸にじんわりと広がり、笑顔を浮かべた。やがて、静かに眠りに落ちた。
こうして、翠の賑やかな一日は幕を閉じた。
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