魂送の天③
天は時折、静かに頷きながら、真剣な表情で奏音の生い立ちに耳を傾けていた。
「あの子は今、苦しんでいます。これからAIとどう付き合うべきなのか……そして、弾けなくなったピアノとどう向き合うべきなのか……わからなくなっているんです」
奏は憂いを帯びた表情で語ったあと、一拍置いて続けた。
「――わたしのせいです。あの子を、ひとりにしてしまったから……」
奏は自責の念を滲ませながら呟き、静かに目を伏せた。
「そんなことニャいニャ!」ましろんは力強く否定した。
「え……?」奏は驚きに目を見開き、ましろんを見つめた。
「たしかに、かニャとくんは今、ニャやんでいるかもしれニャい。でもニャ、それは決して、かニャでさんのせいじゃニャいニャ!」
ましろんの言葉が終わると同時に、イリスが空中に情報を投影した。そこには、AIによって故人と再会した人々の様々な体験談が記されていた。喜びを感じる人もいれば、戸惑う人や、悲しみに打ちひしがれる人もいた。
ましろんは浮かび上がった記事を見つめながら、はっきりと言い切った。
「かニャとくんと同じニャやみを抱えている人が、こんニャにもいる! みんニャ、それぞれ違う環境で過ごしているのに、ニャ……。だから、かニャとくんがニャやんでいるのは、かニャでさんのせいじゃニャいニャ!」
しばしの沈黙が流れたあと、奏はわずかに表情を和らげ、小さく呟いた。
「……ありがとうございます」
そのとき、二人の前を歩く神楽が急に立ち止まり、手を横に伸ばして制した。真剣な表情で前を見据えていた。
天と奏は足を止め、神楽が見つめる先――奏音が食堂へと足を踏み入れるのが見えた。その瞬間、「グゥー」というお腹の音が静寂を破った。
ましろんは両手で腹を押さえ、恥ずかしそうに「ニャハハ……」と笑った。
「もうすぐお昼だし、わたしたちも何か食べましょう」と神楽は提案した。
「賛成ニャ!」ましろんは即座に同意し、天も頬を赤らめ、恥ずかしそうに小さく頷いた。
奏はそのやり取りに、自然と微笑みがこぼれた。
天たちは、奏音と同じ食堂に向かった。
食堂に足を踏み入れた瞬間、神楽は周囲を見渡した。長テーブルの端でうどんを啜る奏音を見つけると、ニヤリと笑い、すぐに歩を進めた。そのまま、彼の視線の先にあるテーブル席へ向かい、腰を下ろした。
天と奏は驚きの表情を浮かべつつ、神楽の後を追った。
「この席、かニャとくんから丸見えだけど……いいのかニャ?」とましろんは尋ねた。
「ええ、だから選んだの」神楽は自信満々に答えた。
天が不思議に思っていると、神楽は続けて言った。
「大丈夫。わたしに任せて」
天はその言葉を信じ、静かに神楽の向かいに座った。奏も天の隣に腰を下ろした。
奏音はしばらく気づかずにうどんを啜っていた。やがて、ふと視線を上げた瞬間、正面の席に座る天と神楽が目に入り、驚いてむせた。
神楽はホログラムメニューを宙に映し、サッと目を通した。
「わたしは……きつねうどんにしようかな」と呟き、指でメニューをタップした。
「あなたは何にする? 奢るわよ」と神楽は続けて言った。
「えっ!?」天が思わず声を上げると、ましろんも戸惑いながら「い、いや、自分で払うニャ……!」と口を挟んだ。
「遠慮しなくてもいいわ。こっちは手伝ってもらってるんだから、これくらいさせて」
天とましろんは顔を見合わせ、ゆっくりと神楽に視線を戻した。
「じゃ、じゃあ、えび天うどんで……」とましろんが控えめに答えた。
「了解」
神楽は指でホログラムをタップし、最後に完了ボタンを押した。両手を組み、テーブルに肘をつくと、真っ直ぐな目で天を見つめた。
「それにしても……今回の新曲もまた、一段と良い歌ね!」神楽はわざと奏音に聞こえるように言った。
「え……?」と天は返した。
奏音はうどんを啜りながら、二人の会話に聞き耳を立てた。
神楽は奏音を一瞥し、彼が耳を傾けていることを確信すると、話を続けた。
「再生数はもう五百万回を超えてる。さすが『シエル』!」
「ニャハハ……それほどでも……」ましろんは照れくさそうに後頭部を掻いた。
「六人の個性的な歌声がサビで重なり合うと、こんなにも美しいハーモニーが生まれるのね」
「そうニャ! それが一番魅力的ニャところニャ!」ましろんは得意げに言った。
「……ましろんは歌わないの?」
「ましろんと天ニャンは一心同体……つまり、天ニャンの歌声が、ましろんの歌声ニャ!」
「そう……」
その間、奏音はうどんをかき込むように食べ終えると、食器を片づけ、険しい表情のまま天たちのもとへまっすぐ歩いてきた。二人のそばで足を止め、鋭い視線を神楽に向けて問い詰めた。
「なんでお前が、シエルと一緒にいる?」
神楽は得意げな顔で答えた。
「あら? 言ってなかったかしら? わたしたち、友達なの」
「なっ!?」奏音は目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。
天も思わず声を上げそうになったが、咄嗟にましろんがその口を塞いだ。
「本当か!?」奏音は天に視線を向け、問いかけた。
天は答えに詰まり、気まずそうに視線を逸らした。視線の先で、神楽が目配せをした。天はそれに気づき、奏音に視線を戻すと、静かに頷いた。
「マジか……!」奏音は唖然と立ち尽くした。
静寂が訪れ、緊張感に包まれていたそのとき、配膳ロボットがきつねうどんとえび天うどんを運んできた。
「おまたせしました。きつねうどんと、えび天うどんです」
配膳ロボットは沈黙を破ると、器用にアームを動かし、トレーを二人の前にそっと並べた。
「ありがとう」と神楽は言い、天は軽くお辞儀をした。
「では、ごゆっくりお過ごしください」と配膳ロボットは言い、厨房へ戻っていった。
神楽は手を合わせ、落ち着いた声で「いただきます」と呟いた。割り箸を割り、麺を一口分つかむと、「ふぅー」と息を吹きかけ、啜った。
天とましろんは、神楽の優雅な仕草に思わず見惚れ、息をのんだ。
神楽は二人の視線に気づき、「どうしたの? 早く食べないと、麺が伸びるわよ」と促した。
天はハッと我に返り、ましろんをそっと外してテーブルに置いた。レンゲを手に取り、透き通る琥珀色のスープをすくうと、「ふぅ、ふぅ」と息を吹きかけて口に含んだ。出汁の豊かな風味が口いっぱいに広がり、天の目が輝いた。次に麺を啜った。
奏音は、夢中でうどんを味わう二人を前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
しばらくして、神楽は箸を止め、視線を奏音に向けた。
「そこに立っていられると食べにくいから……」
神楽は空いている席に目を向け、静かに促した。
「座ってくれないかしら?」
奏音はハッと我に返り、「あっ、悪い……」と気まずそうに呟き、流れに任せるように腰を下ろした。
神楽は作戦が上手くいったことを確信し、得意げに奏にウインクを送った。
奏は一瞬、目を見開いたが、神楽のウインクに気づくと、微笑んで静かに頷いた。
奏音は天に目をやり、話しかけようとしたものの、神楽が「今は話しかけない方がいいわよ」と訴えかけるような視線を向けていたため、咄嗟に言葉を飲み込んだ。そのままソワソワしながら落ち着かない様子で待ち続けた。
一方、天と神楽は黙々と箸を進めた。二人とも、食事中は無言で食べ進めるタイプだった。
同時に食べ終えると、手を合わせ、「ごちそうさまでした」と満足げに声を揃えた。
二人が食後の余韻に浸る間もなく、奏音はぼそりと呟いた。
「ようやく食べ終わったか……」
奏音は待ちくたびれた様子で、じっと天を見つめていた。
視線を感じた天の肩がビクッと跳ねた。恐る恐る顔を上げ、奏音と目が合った瞬間、天は反射的にましろんへ手を伸ばし、慌てて左手に装着した。
「か、かニャとくん……もしかして、天ニャンたちが食べ終わるのを待ってたニャ?」とましろんは尋ねた。
「ああ」奏音は頷いた。
「そ、そっか……待たせてごめんニャ」
「いや、勝手に待ってただけだ。あんたが謝る必要はない」
「そうね。天は何も悪くないわ」と神楽は即座に同意した。
奏音は神楽を鋭く睨み、短く舌打ちした。
二人の険悪な空気に、天は内心怯えた。
一方、神楽はまったく気にせず、奏音に問いかけた。
「それで、わたしたちに何か用?」
「お前に用はねぇ!」
奏音は即座に言い放ち、ゆっくりと天に視線を戻した。じっと天を見据え、間を置いてから低く言った。
「あんたに聞きたいことがある」
天は気まずそうに目を伏せた。代わりに、ましろんがまっすぐ奏音を見つめ返した。
少しの沈黙のあと、奏音は静かに口を開いた。
「あんたの作る音楽はカラフルだ。聴いてると、いろんな色が目の前に浮かぶ。今回の新曲は特にそうだ。赤が見えたかと思えば、次の瞬間には青に変わる。緑や紫、黒や桜色も見えた。そして、それらすべての色を包み込む純白も……!」
奏音は一呼吸置いて、低く問うた。
「こんなに多くの色が混在してるのに、なぜこんなに美しい? 一体、あんたの創造力の源はなんなんだ?」
奏音の真剣な様子を見て、天は内心驚いていた。
ここまで正確に『白雪×シークレット』の色を感じ取れるなんて……もしかして、わたしと感性が近いのかも……。
天の心に嬉しさが広がった。
そのとき、神楽が口を挟んだ。
「あなたって、意外とロマンチスト?」
「はっ!? 何でそうなる?」奏音は思わず問い返した。
「だって、色がどうとかって……わたしにはさっぱりわからないわ」神楽は肩をすくめた。
奏音は小さくため息をつき、静かに答えた。
「おれは見たままを言っただけだ。別にロマンチストじゃねぇ」
「ふーん……」
「音を聴くと色が見えるのは、“色聴”っていう共感覚の一種ニャ! どのくらいの割合かわからニャいけど、意外といるみたいニャ!」ましろんが代わりに説明した。
「共感覚……?」神楽は首を傾げた。
「共感覚っていうのは、ひとつの感覚が別の感覚を引き起こす現象ニャ。“色聴”のほかにも、文字に色がついて見える“色字”ってのもあるニャ!」
「へぇー、そうなんだ!」神楽は納得したように頷き、興味深げに尋ねた。「――天も見えるの?」
「もちろんニャ!」とましろんが即答し、天も小さく頷いた。
「その能力って、何か役に立つの?」
「創造性や芸術性を高めたり、他の人とは違う視点で物事を捉えられたりすると言われているニャ!」
ましろんが説明している隣で、奏は感心したように頷いていた。
神楽は腕を組み、真剣な表情でぽつりと呟いた。
「色聴か……ちょっとカッコいいわね」
神楽の目が輝き、続けて問いかけた。
「――わたしも、見えるようになるかしら?」
ましろんは考え込むように腕を組んだ。
「うーん……後天的に身につけられるっていう研究もニャくはニャいけど、まだはっきりとしたことはわかってないニャ」
「そう……」神楽は少し残念そうに肩を落とした。
ましろんは慌てて言葉を継いだ。
「い、色が見えニャくても、音楽を感じることはできるニャ! それに、神楽ニャンには、ましろんたちにはニャい特別な才能があるニャ!」
言ってしまった直後、ましろんはハッとして口元を手で押さえた。恐る恐る神楽の方を見ると、彼女は目を閉じ、ましろんの言葉を静かに噛み締めていた。
「……たしかに、そうね」と神楽は呟き、静かに目を開け、奏に視線を向けた。目が合い、やさしい微笑みを向けられると、神楽も小さな笑みがこぼれた。
その様子を見たましろんが、ホッと胸を撫でおろしたそのとき――。
「おい、いい加減にしろ」
奏音が、苛立ちを隠さず割り込んだ。
「さっきから二人だけで話し込んでんじゃねぇ! おれの質問はどうなった?」
「ニャッ!」ましろんは思わず声を漏らし、耳をぴんと立てた。奏音の質問をすっかり忘れていたことに気づき、申し訳なさそうに目を泳がせた。
一方、神楽は平然とした様子で返した。
「そんなに怒らなくてもいいじゃない。質問なら、ちゃんと答えてあげるわよ」
「お前には聞いてねぇ! そもそも、話を逸らしたのはお前だろうが!」
「仕方ないでしょ。気になったんだから……。それに、あなただって興味ありそうに聞いてたじゃない」
奏音は図星を突かれ、一瞬言葉を詰まらせた。「……まあいい」と不機嫌そうに呟き、静かに天を見据えると、返答を待った。
一瞬、場が静まり返った。
天は緊張した面持ちで、隣の奏を一瞥した。
奏は真剣な表情で切願するように短く頷いた。
ここは、ちゃんと答えなきゃ。でも、わたしたちの“秘密”は守らなきゃ……!
天は覚悟を決め、小さく頷き返すと、奏音に視線を戻した。
少し間を置き、ましろんが口を開いた。
「まず、天ニャンの作った曲を褒めてくれて、ありがとニャ」
ましろんは素直に感謝を伝え、ぺこりと頭を下げた。
奏音は不意を突かれたように、目を見開いた。
顔を上げたましろんは、真剣な表情で奏音を見据えながら言った。
「『白雪×シークレット』は、天ニャンが一人で作ったわけじゃニャいニャ。いや、今までの曲だって、全部そうニャ」
「なに!?」奏音は思わず声を上げた。
「信頼できるニャ間がいるからこそ、天ニャンは音楽を生み出せるニャ。みんニャ個性的で魅力的だから、話しているだけで、いろんニャ音が頭のニャかに降ってくるニャ」
ましろんは一拍間を置き、こう締めくくった。
「天ニャンは、ただその音を、表現しているだけニャ」
奏音は目を見開いたまましばらく硬直した。ハッとして我に返ると、少し興奮気味に尋ねた。
「やっぱり……『シエル』は一人じゃなくて、グループなのか!?」
「それは、秘密ニャ……」ましろんは口元に手を添えて返した。
奏音はすぐに「これ以上踏み込むな」というましろんの無言の圧を察した。
「そ、そうか……。じゃあ、もう一つ聞いてもいいか?」
ましろんが頷くと、奏音は一呼吸置いて口を開いた。
「さっき、あんたのピアノの音色を聴いたとき、自然とここが熱くなった」
奏音は穏やかな表情で、そっと胸に手を当てた。
「いや、さっきだけじゃねぇ。前に聴いたときもそうだった……。あんたのピアノを聴くと、灰色に白んだ心に色が灯る。まるで、色とりどりの花嵐の中に溺れるみてぇに……」
奏音は胸を押さえ、まるで心を鷲掴みにされるように、ぎゅっと拳を握った。そして、真っ直ぐな目で天を見据え、問いかけた。
「どうして、あんな演奏ができる?」
奏音の真剣な様子に、天は思わず息をのんだ。場には緊張感が漂い、静寂が訪れた。
少しして、天が静かに沈黙を破った。
「……わたしは、ただ思うままにピアノを弾いているだけ……」天は囁くように答え、そっと奏音を見つめた。「……あなたは、違うの?」
「おれは……!」
奏音は言葉を詰まらせた。自分の手を見つめると、わずかに震えている。そのことに気づいた瞬間、悲しさと悔しさが胸を締めつけた。
天はハッとし、ましろんが慌てて言い添えた。
「ま、前に駅でかニャとくんのピアノを聴いたことがあるんだけど……そのとき、また聴きたいと思ったニャ!」
ましろんは勢いに任せて提案した。
「もし良かったら、もう一度聴かせてくれニャいかニャ?」
気まずい沈黙が流れ、その場の全員が口を噤んだ。
天、ましろん、神楽、奏の四人は、じっと奏音を見つめ、静かに返答を待った。
奏音は、思いがけない提案に戸惑い、すぐには言葉が出なかった。しばらく悩ましい表情を浮かべていたが、ふと視線を下ろし、震える自分の手を見た次の瞬間、拳をぎゅっと握り、覚悟を決めた顔になった。
奏音は静かに天を見つめ、「……わかった」と短く答えた。
その返答に、天とましろんはほっと息をついた。
「それじゃあ、行きましょう」
神楽の促しで、全員が席を立ち、グランドピアノがある音楽棟一階へ向かった。
奏音はグランドピアノの前で立ち止まり、一瞬躊躇ったが、やがて決意を込めて歩を進めた。額にじわりと冷や汗が滲み、緊張が伝わってくる。その姿を、天たちはただ静かに見守っていた。
奏音は椅子に腰を下ろし、静かに目を閉じた。深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。鼓動が落ち着いてくるのを感じながら、そっと目を開き、天に視線を向けた。
「何が聴きたい?」と奏音は問いかけた。
「任せるニャ!」とましろんは即答した。
奏音は視線を戻し、鋭い眼差しでピアノを見つめた。静寂の中、奏音の手がそっと鍵盤に触れた次の瞬間――軽快なピアノの旋律が鳴り響いた。
奏音が選んだ楽曲は、『白雪×シークレット』だった。天の演奏を一度聴いただけで、ほぼ完璧にコピーしていた。だが、彼の演奏は明らかに天と違った。
奏音のピアノからは、悲しみや寂しさ、焦燥、迷い、そして恐怖――様々な感情が波のように押し寄せてきた。奏音の表情にも、それらの感情が滲み出ていた。
奏音は必死の形相で鍵盤を打ち鳴らしていた。まるで、荒野を彷徨いながら、見えない恐怖に背を押されているようだった。
天と奏は、憂いに満ちた表情を浮かべ、神楽は真剣な眼差しでただ黙って耳を傾けていた。
一番のサビに差しかかった瞬間、突然奏音の手が強張り、音が止んだ。
奏音は苦悶の表情で手を見つめ、諦めたように俯くと、そっと両手を膝についた。その姿は、孤独に苦しむ少年そのものだった。
奏は、奏音の苦しげな姿を目の当たりにし、思わず涙をこぼした。彼の気持ちに痛いほど共感し、どうにもできない自分に悔しさを覚えていた。
一方、天はゆっくりと奏音のもとへ歩み寄り、気づけばそばに立っていた。手を伸ばし、彼の手にそっと触れた瞬間、緊張して硬直しているのが伝わってきた。
奏音は目を見開き、戸惑いながら天を見つめた。
天はその手をそっと包み込み、胸元に掲げると、目を閉じて祈るように囁いた。
「大丈夫……怖くないよ」
天の声に導かれるように、奏音の強張った手がわずかに解れた。だが、まだ震えは止まらない。まるで、寒さに身を縮める幼子のように。
天は柔らかい声で続けた。
「今はまだ、つらくて先の見えない道を歩いているかもしれない。でも、それはきっと、未来のあなたを強くするから……」
天は迷いなく言い切り、さらに続けた。
「それに、あなたは決して一人じゃない……。だって、あなたの指先には、神様が住んでるから……!」
気づけば、天の口から次々と言葉がこぼれていた。それは深く考えたものではなく、心の奥底から湧き上がった言葉だった。
天の言葉を聞いた瞬間、奏音は思わず「え……?」と驚きの声を漏らした。次第に手の強張りが緩み、やがて完全に解れた。
奏音は戸惑いつつ、無意識に安心感を覚えた自分に驚き、目を大きく見開いた。
しばしの沈黙のあと、ようやく気持ちを落ち着けた奏音は、ふと天に視線を向けた。目が合った瞬間――頬に熱が広がり、一気に顔が赤く染まった。
「なっ……!?」
奏音は思わず声を上げ、赤面しながら手を振り払って顔を背け、胸に手を当てた。動揺しながら、激しく波打つ鼓動を必死に抑えようとする。しかし、収まるどころか、呼吸は浅くなり、鼓動の速さはさらに増していった。
奏音の様子を見て、天は内心焦っていた。
ど、どど、どうしよう! 会ったばかりなのに、いきなり変なこと言ったせいで、怒らせちゃった? そもそも、わたしなんかが意見すること自体、おこがましいよね……。どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。
天は自分の行動を後悔し、その不安はましろんにも伝わった。
ましろんは戸惑いつつ、申し訳なさそうに呟いた。
「ご、ごめんニャ、かニャとくん。よく事情も知らニャいのに、余計ニャことを言っちゃって……」
奏音はハッとし、慌てて天に視線を向けた。
「いや、あんたが謝ることじゃ――」
そう言いかけたとき、不意に目が合い、奏音は言葉を失った。すぐに視線を逸らし、勢いよく立ち上がると、目を合わせようとしないまま、早口で口を開いた。
「悪い。用事を思い出したから、帰る」
「ニャ……!?」ましろんは目を丸くした。
「そう……」神楽はあっさりと受け入れた。
奏音は足早にその場を後にし、天たちはただ黙って彼の背中を見送った。
やがて、奏音の姿が見えなくなると、ましろんが浮かぬ顔で言った。
「どうしよう……かニャとくんを、怒らせちゃったニャ!?」
「え……? 彼が怒っているように見えたの?」と神楽は問い返した。
「だって、怖い顔で帰って行ったから……」
神楽はぽかんとした表情で奏に目を向けた。奏も同じような表情で見つめ返した。目が合うと、二人は思わず小さく微笑んだ。
神楽は天に視線を戻し、穏やかに言った。
「大丈夫、西奏音くんは怒ってないわ」
「……本当?」
ましろんが気弱な声で尋ねると、神楽は奏に視線を向けた。天とましろんが後を追うように目を向けると、奏は穏やかな笑顔で頷いた。
ましろんはそれを確認し、ほっと胸を撫でおろした。
「そっか……よかったニャ……」
神楽は天を見つめながら、小さく呟いた。
「あれは怒ってるというよりも、むしろ――」
言いかけてやめると、奏に視線を向けた。
二人は目を合わせ、示し合わせるかのように頷き合った。
「むしろ?」ましろんは首を傾げた。
「なんでもないわ。気にしないで」と神楽は誤魔化し、続けて、「天を仲間にして、正解だったわね」と満足げに呟いた。
奏も静かに頷き、「そうですね」と微笑んだ。
天とましろんは、二人のやり取りを怪訝そうに見守っていた。すると天が、何かに気づいたように表情を変え――ましろんが「ニャ! そういえば……」と声を上げた。
神楽と奏の視線がましろんに向いた。
「どうしたの?」と神楽は問いかけた。
ましろんはゆっくりと口を開いた。
「神楽ニャンの霊符を使うと、かニャでさんの姿が見えるようにニャるけど――」
神楽は、その時点でましろんの意図に気づいていた。だが、あえて言葉を挟まず、ただ静かに続きを待った。
ましろんは控えめに、しかしはっきりと問いかけた。
「どうして、かニャとくんには使わニャいのニャ?」
神楽と奏は目を伏せ、口を噤んだ。
わずかな沈黙のあと、神楽は視線を上げ、「それは……」と言いかけた――その瞬間、奏が「奏音に使うと、危険だからです」と重ねるように答えた。
神楽が目を向けると、奏は静かに頷き、一歩前に踏み出した。
「……どういうことニャ?」ましろんはさらに尋ねた。
奏は眉をひそめ、ゆっくりと口を開いた。
「今、奏音はわたしを再現したAIと会うことで、寂しさを紛らわせています。最初はそれも仕方のないことだと思っていました。幼い奏音を独りにしてしまったわたしの責任です……。でも――」奏は言いづらそうに目を伏せたが、すぐに天へと視線を戻した。
「奏音は、AIのわたしに依存することで、現実のわたしの“死”をいまだに受け入れられずにいます。……そのせいで、心の成長が止まり、前に進むことができなくなっているんです」
奏は悔しさに唇を噛みしめ、どうすることもできない自分の無力さに、ただ胸を詰まらせた。
「それに、現実と仮想の区別が曖昧になっているみたいで……そんな状態のまま会ってしまうと、さらに混乱させてしまいます。もうこれ以上、奏音を苦しめたくないんです!」
奏は感情を込めた声を張り上げたが、すぐに落ち着き、静かに結論を出した。
「だから……今は、会うわけにはいかないんです」
ましろんは腕を組み、真剣な表情で納得したように呟いた。
「ニャるほどニャ……」
天は頷いて共感を示しつつ、奏が成仏できない理由をぼんやりと察した。
奏さんは、奏音くんを残して逝ってしまったことに責任を感じてるんだ。つまり、奏さんを成仏させるには、奏音くんの心の問題を解決しなきゃいけない。神楽さんは、きっとそう考えてるんだ……。
天が視線を向けると、神楽は静かに頷き、さらに言い添えた。
「これは、その人の死生観に関わる問題だから、慎重になりすぎるくらいでちょうどいいのよ」
「たしかに、そうかもニャ……」
ましろんは頷いて納得したようだったが、それでも言いたいことがあり、真剣な眼差しで奏を見つめた。
「でも……かニャでさん、一つ大きニャ勘違いをしてるニャ」
「勘違い……ですか?」
「かニャとくんが悩んでいるのは、かニャでさんのせいじゃニャいニャ。むしろ、かニャでさんが大切だからこそ、かニャとくんは今もかニャでさんを忘れられニャいニャ」
奏は唇を噛みしめた。
「でも……わたしがいなくなったせいで、奏音は――」
ましろんは首を横に振った。
「本当に大切ニャ人をうしニャったら、誰だって簡単には受け入れられニャい。時間がかかるのは当たり前ニャ」
奏はましろんの言葉をじっと聞いていた。
「だから、そんニャに自分を責めニャいでほしいニャ。かニャでさんが『もうこれ以上、苦しめたくニャい』って思う気持ちは大事だけど……でも、それが全部“自分のせい”って思うのは、違うニャ」
奏の瞳が、わずかに震えた。
「かニャでさんは、かニャとくんのことをすごく大事に思ってる。それが一番大切なことだと、ましろんは思うニャ。だから、あんまり自分を責めすぎニャいでほしいニャ」
「わたしもそう思うわ」と神楽もすぐに言い添えた。
奏はしばらく黙っていたが、やがてふっと微笑み、目に涙を浮かべた。
「……ありがとうございます」
「ましろんと天ニャンがいれば、百人力ニャ! 泥船に乗ったつもりで、任せてほしいニャ!」とましろんは胸を張って言った。
「泥船だと、すぐに沈んでしまうんじゃないの?」
神楽がすかさず半笑いでツッコミ、奏もクスっと小さく笑った。
「ニャっ!? 言い間違えたニャ~!」ましろんは頬を真っ赤にして、耳まで熱くなっていた。
場の雰囲気が少し和むと、神楽は軽く手を叩き、切り替えた。
「それじゃあ、今後の作戦を――」
そう言いかけた瞬間、神楽の表情が一変し、鋭い視線を遠くへ向けた。「この気配……」と小さく呟き、うんざりした様子でため息をついた。
「どうしたニャ?」とましろんは尋ねた。
「……ごめん。緊急の用事ができたから、作戦会議は、また後日でいいかしら?」
神楽の様子を見て、天はすぐに察した。
あっ! 多分、天使が現れたんだ!
「ましろんたちは大丈夫ニャ!」とましろんが即座に答えた。
「……ありがとう」
神楽は申し訳なさそうに言ったが、すぐに気持ちを切り替え、冷静に尋ねた。
「明日とかどうかしら? 空いてる?」
「あっ、明日は……空いてニャいニャ……」ましろんは申し訳なさそうに返した。
「そう……じゃあ、次はいつなら空いてる? わたしが予定を合わせるから」
「えーっと……来週の、水曜日……ニャら、大丈夫ニャ……」
「来週の水曜日ね。了解」
天とましろんは、神楽の淡泊さに目を丸くした。
「午前と午後は、どっちがいい?」と神楽は尋ねた。
「ど、どっちでもいいニャ」
神楽は少し考え込んでから提案した。
「なら、来週の水曜日、午前十時にここで待ち合わせはどうかしら?」
天とましろんは頷いた。
「決まりね」と神楽は頷き、「じゃあ、また来週の水曜日ね」と言い残し、足早にその場を後にした。
奏は天たちに一礼し、神楽の後を追った。
神楽が音楽棟の扉を出たその瞬間、待っていたかのように白鳩――『ひみこ』が、静かに舞い降りて肩に止まった。
ひみこは翼を嘴に添え、まるでヒソヒソ話をしているかのように、神楽の耳元に何かを告げた。――おそらく、天使に関する情報だ。
その後すぐに、神楽たちはどこかへ向かった。
神楽たちを見送ったあと、天、ましろん、イリスは、緊張が解けた途端、一斉に深いため息をついた。
天が気を取り直して前を見据えた瞬間、心配そうに眉をひそめるイリスに気づいた。イリスが何を心配しているのかも、天はすぐに察した。
きっと、神楽ちゃんに正体がバレる可能性を心配してるんだ。イリスちゃんがあんな顔をするなんて、やっぱりリスクは高い……! でも、一度引き受けたことを途中で投げ出したくない。それに、奏さんたちのことも気になるし……。
天はイリスを安心させるように、穏やかな声で言った。
「大丈夫だよ、イリスちゃん」
イリスは言葉を詰まらせ、少し間を置いてから言った。
「……天ちゃん、ごめんなさい」
イリスは頭を下げ、申し訳なさそうに続けた。
「わたしの思慮が浅かったせいで、大変なことに巻き込んでしまって……」
天は首を横に振った。
「イリスちゃんのせいじゃないよ。わたしが自分で決めたことだから」
イリスは顔を上げ、天を見つめた。
「でも、わたし一人じゃ大変だから、イリスちゃんにも手伝ってほしいな!」と天はお茶目にお願いした。
「……うん! 全力でサポートするから、何でも聞いて!」
イリスはやる気に満ち溢れていた。
「よろしくね!」と天も微笑んだ。
帰る途中、天の視界に校門が広がった。校門のそばでは、二体の蜘蛛型警備ロボットが向かい合って遊んでいた。四本の脚と四本の腕、そして八つの視覚センサーを備えたそれらは、まるで人間のように――いや、人間以上に器用に動いていた。
二体の蜘蛛型警備ロボットは仕事の合間に、『叩いて被ってジャンケンポン』で遊んでいた。前腕の五本指の右手を器用に動かし、互いにジャンケンを繰り返していた。
片方の蜘蛛型警備ロボットがグーを出し、もう一方がパーを出した。勝った方は素早く搭載されたハンマーを取り出し、相手の頭を狙う。一方、負けた方は即座に搭載された盾を構え、頭を守った。
一回戦目は、守る方が一瞬、早かった。お互い装備を戻すと、またジャンケンを始めた。
しばらくは、互角の応酬が続いた。
二体の蜘蛛型警備ロボットは、まるで人間の子どものように楽しそうに遊んでいた。
天たちが蜘蛛型警備ロボットの隣を通りかかると、ロボットはジャンケンを中断し、天たちに視線を向け、「気をつけて帰るんだよー」と軽快な声で手を振った。
天たちは軽いお辞儀で返した。
蜘蛛型警備ロボットはすぐに向き直り、再び遊び出した。
天が校門に背を向けて歩き出したその瞬間、遊んでいた蜘蛛型警備ロボットに異変が起きた。
ジャンケンで勝った警備ロボットが、力を入れすぎてしまい、ハンマーで相手の頭部を盾ごと叩いてしまったのだ。
叩いた警備ロボットは「あっ、ごめん」とすぐに謝った。
しかし、叩かれたロボットの頭部が少しへこみ、ビリビリと火花が走った。動きがカクカクになり、「ダ、ダダ……ダ、ダイジョウブ……」と、音声が不自然に歪んでいた。最後に「ジャナイ!」と叫ぶや否や、頭から煙を吹き上げ、突如として暴走を始めた。
暴走警備ロボットは、右へ左へと不規則に動き回り、時折ぴょんぴょん跳ねたあと、不意に動きを止めた。やがて、センサーが天の背中を捉え、じっと彼女を見つめた。次の瞬間、暴走警備ロボットは、突然高速で走り出し、天に向かって突進した。
イリスは異常事態にいち早く気づき、素早く振り返ると、天の前に浮いた。即座に手を突き出し、暴走警備ロボットをハッキングしようと試みたが、制御装置が壊れていたため、動きを止められなかった。
イリスは瞬時に周囲を見渡し、飛行中の警備ドローンを探した。もし近くにいれば、それをハッキングして暴走警備ロボットにぶつけ、動きを止めるつもりだった。だが、運悪く周囲には警備ドローンが一機も見当たらなかった。
次に、叩いた方の蜘蛛型警備ロボットをハッキングして、暴走警備ロボットにぶつけて止めようと考えた。だが、すでに間に合いそうになかった。
このままでは、天と暴走警備ロボットが衝突してしまう。そうなれば、最悪の場合、大きな怪我を負う危険があった。
イリスは天の前で小さな体を精一杯広げて盾のように立ち塞がった。
天は目前に迫るロボットを見て、反射的に目をつぶった。ましろんは天の前に出て、両手を開き、守る態勢をとった。
暴走警備ロボットが天たちの目の前に迫ったその瞬間、突如として大きな黒い影が空間を遮るように現れた。
その影は天、ましろん、イリスを包み込むように覆い隠した。次の瞬間、「ガシャン!」という金属が砕けるような音が鳴り響いた。それは暴走警備ロボットが大きな黒い影に衝突した衝撃音だった。
しばしの沈黙のあと、「大丈夫か……?」という野太い男の声が聞こえた。
天は恐る恐る顔を上げた。目の前に広がったのは、まるでゴリラのように迫力ある男の顔だった。その圧倒的な存在感に、天は思わず視線を逸らしてしまった。
その黒い影の正体は――なんと、人間だった。
角刈り頭に極太の眉、丸い目に大きな鼻の穴、たらこ唇――どれもこれも、ひと目で忘れられないインパクトだった。さらに、身長は二メートルを優に超え、がっしりとした体格。
人間離れしたその迫力に、天は圧倒されるばかりだった。
彼は太くてたくましい腕をゆっくりと広げ、天たちを包み込んでいた保護を解いた。その背後には、見るも無残に壊れた暴走警備ロボットが完全に沈黙していた。彼の背中は服が少し破ける程度で、身体には傷一つついていなかった。
怯えながらも、天は勇気を振り絞った。
(は、早く……顔を上げて、お礼を言わなきゃ……)
天は覚悟を決め、視線をゆっくりと上げて彼の目を見つめた。彼も天の視線に気づき、目を合わせた。お互いの目が合った瞬間、天は無意識に上目遣いで、目を少し潤ませながら「ありがとう」と小声で言った。
「ウッ……!」と呻きながら胸を押さえると、彼はそのまま石像のように固まった。瞬き一つせず、完全に停止していた。
その間に、イリスは彼のプロフィール情報を天の前に投影した。そこには、南剛健。恵まれた体格と持ち前の運動能力を活かし、柔道、空手、相撲、テコンドー、レスリングなど、幅広いスポーツで活躍してる情報が記されていた。
こ、この人、いろんなスポーツをしてるんだ。少し、茜ちゃんと似てるかも……。
天がそう思った瞬間、頭の中に「似てねぇ!」と茜の怒りを滲ませた声が響いた。彼と同類にされるのが嫌だったのかもしれない。
天が目を通していると、騒ぎを聞きつけた一色が現場に駆けつけた。
一色は天を見つけると、急いで駆け寄ってきた。
「天様、大丈夫ですか!? お怪我はありませんか!?」と一色は心配そうに尋ねた。
「大丈夫、どこも怪我してニャいニャ」とましろんは答え、続けて言い添えた。「この人が、守ってくれたニャ」
「そうですか……」一色は安心したように息をつき、剛健に目をやると、「南さん……天様を助けていただき、ありがとうございました」と丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」とイリスも頭を下げ、天とましろんも続いた。
剛健はハッと我に返り、「無事でよかった!」と太い親指を立て、決め顔で返した。
一色は顔を上げると、向き直り、天に剛健の紹介をした。
「彼は、南剛健さん。こう見えて、まだ高等部の一年生……つまり、天様やわたくしたちと同じ年ですわ」
天は目を見開き、思わす硬直した。
えっ……!? お、同じ!? わたしたちと……この人が……!?
天は心の中で驚きつつ、剛健をじっと見つめた。
剛健の圧倒的な迫力を目にした天は、(この人なら、天使も倒せるかも……?)と冗談半分に思った。
天にまじまじと見つめられると、剛健は頬を赤らめ、またしても全身硬直した。
その間、イリスは機能停止した警備ロボットのもとへ向かい、説教を始めた。その様子は、まるでいたずらをした子どもを叱る親のようで、どこか微笑ましかった。説教を終えると、天のもとへふわりと戻ってきた。剛健を一瞥すると、ためらうことなくその頬を両手で強く叩いた。
天は思わず驚いて「イリスちゃん!」と声を上げた。
イリスの叩きで剛健は「はっ!」と意識を取り戻した。
「おれは……一体……?」
剛健は困惑した表情で周囲を見回し、視線をゆっくりと天へ向けた。その目が天と交わった瞬間――「ウッ……女神様……!」と呟き、頭の中で何かが「ボンッ」と弾ける音が響いた。やがて、彼の頭から煙が立ち上り、再び微動だにしなくなった。
「あれ……? また動かニャくニャったニャ!」とましろんが言った。
「……南さん、もしかして……?」一色は真剣な表情で剛健を見つめ、天に視線を移した。
「ニャ? どうかしたニャ?」ましろんは首を傾げた。
「いえ、なんでもありませんわ」と一色は答えたものの、明らかに何かに気づいた様子で、しばし考え込んだ。やがて、ましろんに視線を戻して言った。「ましろん様……南さんはわたくしが引き取りますので、あとはお任せください」
「えっ、でも……」
ましろんが返す間もなく、一色はスマートリングで応援を呼んだ。すぐに黒スーツ集団が次々と現れた。
黒スーツの男たちは手際よく剛健を担ぎ上げると、一糸乱れぬ動きでその場を後にした。
「では、天様、ましろん様、イリス様……またお会いできる日を、楽しみにしておりますわ」と一色は笑顔で言い残し、黒スーツの男たちを追いかけて行った。
「あ、うん……またニャ」
一色たちを見送ったあと、場には静けさが戻ってきた。
少しして、天はほうき型ドローンを起動し、そっと腰を下ろした。イリスが肩に乗ると、ふわりと天へ舞い上がり、その場を後にした。
家の上空にたどり着いた天は、玄関前へとゆっくり降下していった。ほうきから足を地面に降ろしたその瞬間、天の全身から力が抜け、ぐらりと前に倒れそうになった。
肩に乗っていたイリスが素早く飛び出し、天の胸を支えた。
一日を通して多くの人々と関わったことで、天の心の容量はすでに限界を超えていた。その結果、溜まっていた疲れが一気に押し寄せたのだ。
「ありがと……イリスちゃん……」天はかすれた声で呟いた。
「ううん……」イリスは首を横に振った。「ごめんね、無理させちゃったよね……」と申し訳なさそうに目を伏せた。
「謝らないで。わたしが自分で選んだことだから……」
天はイリスに支えられながら、一歩一歩ゆっくりと歩き出した。
イリスが玄関のドアを遠隔操作で開け、天は重い足取りで家の中に入った。
天はイリスに支えられたまま靴を脱ぎ、そのままリビングへ向かった。ソファに腰を下ろし、力尽きるようにそのまま横たわった。額に腕を乗せ、目を閉じながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
その間、イリスはキッチンで水を汲み、グラスに注いで天のもとへ運んできた。
天はわずかに上体を起こし、イリスから手渡されたグラスを受け取ると、そっと水を一口含んだ。グラスをイリスに返すと、再び横になり、やがて静かに眠りについた。
目をゆっくり開けると、天は広大な草原の中心に立っていた。そこは、天たちの頭の中にある世界『アルカンシエル』。
天はまぶたが重たそうな顔をしながら、足を引きずるようにトボトボと歩き出した。
しばらく歩いていると、不意に目の前に青いドアが現れた。
天は視線を落としたまま、青いドアをほとんど見ることなく、ドアノブを掴んでゆっくりと開けた。
部屋の広さは十二畳ほど。中にはアトリエのように画材道具が並び、ベッドやクローゼットなどの家具も揃っていた。正面には大きな窓があり、その向こうには透き通るように美しい湖が広がっていた。
天は重い足取りでベッドに向かうと、そのまま力尽きるように倒れ込み、そのまま深い眠りに落ちた。
一方、現実世界では、天が眠りについたわずか数秒後、別の人格が目を開けた。
近くで見守っていたイリスは、彼女の顔を覗き込みながら、「おはよう、翠さん」と声をかけた。
「おはよう、イリスさん」翠はゆっくりと上体を起こした。「今日はずいぶんいろいろなことがあったようですね。天さん、とてもお疲れの様子でした」
「ごめんなさい、わたしが無理をさせちゃったから……」
「いえ……イリスさんのせいではありませんし、責めているわけでもありません。ただ、一日を終える前に交代するのが、久しぶりだったので……」
「そういえば、そうだね」
「前はもっと頻繁に交代していましたから、少し懐かしい気がします」
「そっか……」
「今日の夕食は、まだ用意していませんね?」
「うん」
「では、せっかくですし、天さんの好きなものを作って一緒に食べませんか?」
「いいね!」
翠は天の姿のままキッチンに立ち、イリスとともに手際よく料理を作り始めた。
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