西奏音の秘密
ロックミュージシャンの父と、バイオリニストである母・奏の間に、奏音は生まれた。
奏音は、生まれたときから音楽に包まれた環境で育った。
奏音が生まれて間もない頃、父は自ら海に身を投げ出し、命を落とした。父がそうするに至った理由は不明だが、奏が彼の遺品整理をしているときに、見覚えのない木箱を見つけた。
木箱の中には、父が生前に作った数十曲の音楽と直筆の手紙が入っていた。
その手紙には、こう記されていた。
「キミがこの手紙を読んでいるとき、ぼくはもうこの世にいないだろう。心配かけてすまない。でも、こうするしかなかったんだ……。ぼくの命と引き換えに、ぼくの音楽は完成する。そして、出来上がった音楽はすべてキミと奏音に捧げる。自由に使ってくれ。少しでもキミたちの生活の足しになれば嬉しく思う。キミたちのこれからが幸福に包まれることを、ぼくは天の上から祈っているよ」
奏は深い悲しみに暮れた。だが、奏音のために強くあろうとし、仕事と子育てに懸命に奔走した。彼の死の詳細は周囲に知らせず、不慮の事故という形で落ち着いた。
父の死からしばらくして、奏は彼の作った数十曲すべてを世に出した。すると、多くの人々から絶賛の声が上がり、瞬く間に広まっていった。そのおかげで、奏と奏音は生活に困ることはなくなった。
奏は、奏音に音楽を強いることなく、彼自身が心から夢中になれる道を応援しようと決めていた。だが、生まれたときから様々な音に囲まれていた奏音は、ごく自然に音楽に興味を持った。おもちゃのピアノや木琴を叩いて音を鳴らすたび、奏に向かって嬉しそうに微笑んだ。
三歳になると、自らの意思でピアノを習い始めた。奏音は楽しく真剣にコツコツと練習を積み重ね、着実に上達していった。奏もそんな奏音を微笑ましく見守り、元気をもらっていた。
奏音が五歳のとき、奏は過労で倒れ、そのまま病院に運ばれた。
その知らせを聞いた瞬間、奏音の胸は張り裂けそうになり、息が苦しくなった。幸い、そばにいた先生の適切な対応により、奏音はすぐに落ち着きを取り戻した。しかし、次の瞬間には勢いよく走り出していた。制止しようとする大人たちを避け、奏音は急いで病院に向かった。
病院に着くなり、奏音は迷うことなく病室へ駆け込んだ。扉を開けた瞬間、目に飛び込んできたのは、静かに横たわる奏の姿。胸が締め付けられ、気づけば大粒の涙が頬を伝った。
奏は奏音に気づくと、ゆっくりと上体を起こし、「奏音……」と小さく呟いた。
奏音は安堵と不安が入り混じる中、抑えきれずに奏の胸へ飛び込んだ。
「あらあら、奏音ったら……」
奏は柔らかく言い、奏音をやさしく包み込むと、頭をそっと撫でた。
「よかった……おかあさんが死ななくて……!」
奏音の声は震えていた。
奏は奏音の気持ちを察し、そっと微笑んで「心配かけてごめんね、奏音……」とやさしく囁いた。泣き喚く奏音が落ち着くまで、静かに抱き寄せた。
少しして、奏音は泣き止み、奏から離れた。袖で涙の痕を拭うと、キリっとした目で奏を見据えた。
(ぼくが強くならなきゃ……おかあさんを守るために――!)
奏音はそう決心した。
その日を境に、奏音は家事を手伝うようになった。音楽もより一層技術を高めるために、パーソナルAI『ショパン』とともに励んだ。奏音が音楽を心から楽しんでいると、奏も笑顔で応援してくれた。
ある日、奏音はバイオリン&ピアノデュオの映像を見て、目を輝かせた。美しく絡み合う旋律が、奏音の心を強く惹きつけた。
聴き終え、しばらく余韻に浸ったあと、奏音の胸に熱い想いが込み上げた。
「ぼくも、いつかおかあさんと一緒に演奏したい!」
奏音はその日のうちに奏に打ち明けた。
奏はやさしく微笑みながら応えた。
「楽しみにしているね!」
それから奏音は、家事や勉強の合間をすべてピアノに注ぎ、ひたすら練習に没頭した。もともと音楽の基礎が身についており、さらに奏とショパンの支えもあったため、奏音の技術は驚くほどの速さで向上していった。
出場する音楽コンクールでは、常に最優秀賞を獲得し、その名を轟かせた。気づけば、人々は奏音を『天才ピアニスト』と呼ぶようになっていた。
ライバルたちは、敵意と憧れが入り混じった視線を向けた。奏音を『AIピアニスト』と揶揄する声もあった。だが、奏音にとって彼らの妬みはどうでもよかった。ひたすら音楽を追求することだけが、彼の興味のすべてだった。そんな奏音のことを、奏は少し心配しながらも、余計な口を挟まず見守っていた。
ちょうどこの頃、奏音は色神学園からスカウトを受けた。
家に訪ねてきた一色こがねから、「色神学園には最高峰の教育環境があり、さらなる高みを目指すには最適な場所です。高レベルなライバルたちと切磋琢磨できますわ!」という謳い文句で誘われた。奏音は少し興味を惹かれつつも、「今でも十分」と判断し、はっきりと断った。そして自らの決断を証明するかのように、奏音は以前にも増して能力を高めていった。
十歳になっても奏音は特に変わらず、友達と呼べる人は一人もいなかった。むしろ、ピアノが友達と言っても過言ではない。他人にはほとんど興味を示さず、奏と音楽だけが彼の世界のすべてだった。
春の昼下がり、色神駅の構内を歩いていた奏音の耳に、不意に美しいピアノの旋律が飛び込んできた。足を止めた瞬間、その音が心をつかんだ。音色に引き寄せられるように歩を進めると、そこには青髪の少女が、まるで世界と対話するかのようにストリートピアノを奏でていた。
彼女の圧倒的な表現力に、奏音だけでなく、駅を行き交う人々までもが足を止め、聴き入った。
演奏が終わると、余韻をかき消すように拍手が鳴り響いた。その瞬間、少女の肩が小さく震えた。おずおずと周囲を見回し、譜面台に置いていた白猫のパペットを胸に抱き、俯きながら小走りでその場を離れた。
奏音は左手首のスマートウォッチに視線を落とし、問いかけた。
「ショパン、今の曲を教えて」
「Dobrze!」
スマートウォッチが淡く発光すると、宙にホログラムが浮かび上がった。「覆面アーティスト・シエル」のプロフィールと代表曲のリストがそこに映し出される。
ショパンは説明した。
「先ほどの一曲は、シエルの代表曲――『七色パーソナリティ』です」
奏音はホログラムに映る名前をじっと見つめた。
「シエル……七色パーソナリティ……」
その日の夜、いつも通りピアノの練習を終えた奏音は、ふとシエルのことを思い出した。
「ショパン……シエルの曲を流して」奏音は指示を出した。
「Dobrze!」
七色パーソナリティが室内に響いた。
奏音は、その旋律に心が満たされるのを感じた。駅で聴いた演奏とはまた異なる印象を受ける。美しいメロディーに寄り添う詩的な歌詞が、胸の奥深くへと染み込んでいった。
奏音は寝る間も惜しんでシエルの楽曲を聴き続けた。時折、まるで別人が作ったかのような曲――痛烈で中二病的な歌詞や、激しいヘヴィメタルが流れ、思わず戸惑うこともあった。
これまでは、既存の名曲を完璧に演奏することだけが目標だった。けれどこの日初めて、自分自身の音を生み出したいという強い衝動に駆られた。
奏にその想いを伝えると、彼女はすぐに微笑み、やさしく頷いた。
「曲が出来たら、一緒にデュエットしようね」
奏の提案に、奏音は一層やる気を高め、最高の一曲を作り始めた。
しかし、なかなか納得のいく一曲が生まれず、気がつけば二ヶ月が過ぎていた。
奏音は完璧主義なところがあり、少しでも気に入らない部分があると、何度も修正を繰り返した。たとえショパンが「いい曲です!」と評価しても、自分が納得できなければ、一から作り直した。
「かあさんと一緒に演奏するなら、絶対に妥協なんてできない」
その想いは、次第に執念へと変わっていった。思い通りに作れず苛立つこともあったが、不思議とその苦しささえ楽しさに感じられた。落ち込んだときは、シエルの曲を聴きながら気持ちを切り替え、再び鍵盤に向かった。
それから二週間が経過したある日の夜、奏音は自分の部屋に籠り、作曲していた。すると突然、ショパンの緊迫した声が響いた。
「奏音くん、大変だ! 奏さんが倒れた!」
奏音は勢いよく部屋を飛び出し、リビングへ向かうと、奏が意識を失って倒れていた。すぐに駆け寄り、「かあさん! かあさん!」と何度も呼びかけるが、返事はない。わずかに呼吸はしていたが、苦しげな表情を浮かべていた。
「ショパン! すぐに救急車を!」奏音は叫んだ。
「すでに手配済みです!」
奏音は震える手で奏の肩を支え、必死に声をかけ続けた。
「かあさん! しっかりして! もうすぐ助けが来るから……!」
奏の目は閉じられたままで、浅く弱い呼吸を繰り返している。胸の奥を締めつける不安に襲われながらも、奏音は自分に言い聞かせた。
「落ち着け……今は冷静にならなきゃ……」
そのとき、ショパンが冷静な声で告げた。
「救急車が到着しました。玄関前に着陸します」
奏音はすぐさま立ち上がり、玄関へ駆け出した。扉を開けると、夜の闇を切り裂くように、青白いサーチライトが地面を照らし、静寂を破る回転翼の音が響いた。機体の側面には救急医療機関のエンブレムが刻まれていた。
機体から、救急隊員が降りてくる。その先頭の男が、手際よく状況を確認しながら奏音に声をかけた。
「患者の状態は?」
「意識がありません……でも、呼吸はしています! ただ、すごく苦しそうで……」
「了解しました。すぐに搬送します」
隊員たちは素早く奏の体にスキャンデバイスをかざし、バイタルを確認した。すると、一人の隊員が短く頷いた。
「血圧低下、脳波は不安定。すぐに処置が必要です」
奏音が祈るように見つめる中、隊員たちは奏を担架に慎重に乗せ、救急飛行車の内部へ運んだ。
奏音が乗り込むと、救急飛行車のエンジンが唸りを上げ、機体はゆっくりと浮かび上がった。そして、光の軌跡を描きながら夜空へと飛び立った。
奏は一命をとりとめた。しかし、最先端医療をもってしても完治は難しく、長期の入院が必要だと診断された。
奏音はピアノの練習時間を削って、毎日病院へ通った。日に日にやせ細っていく奏の姿を見るたびに、胸が締めつけられ、自然と表情も曇っていった。そのことに気づいた奏は、奏音を心配させまいと、面会のたびにやさしく微笑んだ。
奏音は、奏との面会を最優先にしながらも、コンクールにも出場し続けた。多忙を極める毎日だったが、優勝を報告するたびに奏が笑顔で喜んでくれる。その笑顔が、奏音の支えになっていた。
ある日の面会中、奏は、奏音の手をやさしく見つめながら柔らかい声で言った。
「ずっと前から思ってたけど……奏音の指先には、きっと神様が住んでるね」
「え……?」奏音は目を丸くし、奏を見つめた。
「……奏音のピアノを聴くと、おかあさん、元気が出るの」
少し間を置いて、奏は静かに言葉を継いだ。
「……きっと、他にもたくさんいるよ。奏音のピアノに、力をもらってる人が……」
「……そんな人、いるわけないよ」奏音は俯いて、小さく呟いた。
「ううん……」奏は首を横に振り、「絶対いる」と断言した。
「……どうして、そう言い切れるの?」
「だって、奏音はやさしいから」奏は微笑みながら言った。
「なにそれ……答えになってないじゃん」
「ふふ……」奏は微笑み、そっと奏音を見つめ、両手を広げた。奏音がそばに寄り添うと、ふわりと包み込むように抱きしめた。
「奏音……おかあさんは、これからもずっと、奏音を愛しているからね」
奏は穏やかに囁き、やさしく頭を撫でた。
その言葉に、ほんの少しだけ、奏音の心は軽くなった。しかし、奏の胸にそっと耳を当てると、聞こえてくる心音は、今にも消えてしまいそうなほど弱く、静かだった。
奏の入院生活が始まって二ヶ月ほど経ったある日。
奏音はついに、自分の音を一曲に結晶させた。胸の奥で何かが震え、込み上げるものを感じた。すぐにでも奏に聴いてほしくて、足早に病院へ向かった。
途中、奏の好きなプリンを買おうとコンビニに立ち寄ったそのとき、突然スマートウォッチが光った。
「奏音! 奏さんの容体が急変した!」とショパンから告げられ、奏音は慌ててコンビニを飛び出した。
急いで病室に駆け込むと、異様な静けさが満ちていた。奏が横たわるベッドのそばには、医師と看護師が立っている。皆、憂い顔で目を伏せていた。
医師は奏音に視線を向け、慎重に声をかけた。だが、奏音の耳に彼の声は届かなかった。
奏音は目を見開き、ゆっくりとベッドに歩み寄ると、静かに眠る奏をじっと見つめた。そっと手を伸ばし、指先が奏の頬に触れた瞬間、冷たい感触が伝い、思わず手を引いた。
しばしの沈黙のあと、奏音の瞳から藍色の光がこぼれ、頬を伝って落ちた。
その後の記憶は途切れ途切れで、奏音はほとんど覚えていなかった。
奏の葬儀や、その他すべての手続きは、ショパンが静かに引き受けていた。
奏音は精神的なショックから魂の抜け殻のように沈んでいた。何もやる気になれず、家に引き籠り、そして――音楽を辞めた。
しばらくの間、奏音は一度も外に出なかった。いや、出る気力がなかった。最低限の栄養補給だけで、生きている実感もないまま、ただぼんやりと時間を過ごしていた。寝ようとしても眠れず、動こうとしても全身が異様に重たく感じ、すべてが億劫だった。ただ、思考だけは妙に冴えていた。
どうしてぼくはこの世界に生まれたの? どうしてかあさんは死んでしまったの? どうしてこんなにも胸が苦しいの? どうして神様はこんな残酷なことをするの?
そんな疑問が次々と奏音の頭に押し寄せた。
この先どうなら楽に生きられるの? 生きてるだけで痛い。苦しさなんて欲しいわけない。何もしないで生きていたい。
奏音は心の奥にぽっかりと空いた穴を埋めようと、“生きる意味”を探し続けた。しかし、それが見つかるはずもなく、ただ胸の苦しみに耐え続けた。
考えたってわからない。生きてるだけで苦しい……。これからどうなるんだろう……。進め方がわからないよ……。もうどうでもいいや。
奏音の防衛本能が、彼に何もさせないように働いていた。
一方ショパンは、生きる気力を完全に失った奏音と、どう接すればいいのか頭を悩ませていた。タイミングを見計らい、何度も声をかけたが、ほとんど効果はなく、完全に手詰まりだった。AIであっても、人の心を癒すことは容易ではなかった。
奏音が家に引き籠って二週間が経過した。
奏音はソファに身を投げ出し、目の前に浮かぶネット情報をただぼんやりと眺めていた。指先でホログラムを無造作にスクロールしながら、内容も気にせず目を滑らせていた。だが、ある記事のタイトルが目に入った瞬間、奏音の指が止まり、目を大きく見開いた。次の瞬間、勢いよくソファから跳ね起きた。
「ショパン……!」奏音は息を詰まらせるように呼んだ。
すぐに、体長数十センチの若きショパンの3Dホログラムが浮かび上がった。
「お呼びですか?」とショパンは応じた。
「かあさんと話がしたい」
ショパンは息をのみ、短い沈黙が流れた。緊張が漂う中で、彼はすぐに奏音の意図を察し、躊躇いがちに問いかけた。
「……本当に、いいのですか?」
奏音は少し間を置き、覚悟を決めた目つきで「……ああ」と頷いた。
ショパンはちらりと視線を移し、奏音が見つめていたホログラムに目をとめた。そこには、「デジタルクローン」について書かれた記事が映し出されていた。
ショパンは渋い表情を浮かべ、深いため息をついたあと、「……わかりました」と低く呟いた。目を閉じ、少し顎を上げると、白い光が螺旋を描きながらショパンの周囲をゆっくりと巡った。やがて光が全身を包み込み、眩く輝いた刹那、四方に弾け飛び――その中心に、鮮明な奏の3Dホログラムが現れた。
あまりに精巧な再現に、奏音は息をのんで目を見開き、「かあさん……」と掠れた声で呟いた。同時に胸に込み上げてくるものがあり、自然と涙がこぼれた。
3Dホログラムの奏は、あまりにも本物そっくりだった。柔らかく微笑みながら、ただ黙って奏音を見つめる。その瞳には、まるで言葉を待っているかのような温もりが宿っていた。
奏音は袖で涙を拭い、静かに口を開いた。
「久しぶり……かあさん……」
「久しぶり、奏音……」ホログラムの奏は穏やかに答えた。
「急に呼び出してごめん」
奏音は戸惑いながらも、母の顔を見つめていた。どれだけ会いたかったか、どれだけこの声を求めていたか、自分でもわからないほどだった。
「いいのよ、奏音……」奏は、まるで生きていた頃と変わらぬやさしさで微笑んだ。
奏音の胸がじんわりと温かくなった。本当に母がそこにいる気がした。声も仕草も、記憶の中にある母そのままだった。
「かあさん……会いたかった……!」
感情があふれ、奏音は奏の手を握ろうとした。だが、その瞬間、指先が空を切る。ホログラムは触れることができない。わかっているはずなのに、その事実がひどく悲しかった。
「奏音……大丈夫?」
奏がやさしく問いかける。まるで本当に心配しているかのような表情で。
「うん……ちょっと、変な感じがして」
「そうよね、久しぶりだから」奏は穏やかに笑った。
奏音は袖で目元を拭い、気を取り直すように小さく息をついた。
「……元気にしてた?」
奏は静かに頷き、少し間を置いて問いかけた。「奏音は? ちゃんとご飯、食べてる?」
奏音は気まずそうに目を逸らし、小さく呟いた。「……食べてるよ」
「本当……?」奏はくすっと笑った。「ちゃんと食べなきゃダメよ?」
「わかってるよ」奏音は照れくさそうに笑った。
奏音とホログラムの奏は、まるで昔のように他愛のない会話を交わした。そのひとときが、奏音の心をそっと癒し、彼の日常に微かな光を灯した。
最初は現実世界で3Dホログラムと会話するだけだったが、やがて「触れたい」という想いが募り、ついには量子デバイスを使って仮想世界で過ごすようになった。仮想世界での時間は、次第に現実を覆い隠すほどに増えていった。
奏音は、AI奏と長い時間を過ごすうちに、まるで本当に一緒に生きているような錯覚を覚えるようになった。仮想世界では笑顔で過ごし、幸せを感じていた。しかし、その一方で、毎日のように葛藤していた。
かあさんはもういない。それはわかってる。目の前にいるのは、かあさんの記憶を再現したAIに過ぎない。……でも、それでも、今こうして話せる。微笑んでくれる。心配してくれる。あの温もりを思い出させてくれる。だったら……それでいいんじゃないか?
そんな考えが奏音の頭の中で響き渡り、なかなか答えを出せずにいた。
一方、ショパンはこの状況を憂慮していた。奏音がAI奏に依存しすぎないよう、影で静かに見守り続けていた。会話の節々で、奏がAIであることを強調し、現実世界で生きるようにやさしく説得していた。そのたびに奏音は「うん、わかってる」と理解を示していたが、一向に変わらなかった。
ショパンは頭を悩ませた。
今の奏音にとって、AI奏の存在は欠かせない。無理に引き剥がそうとすると、再び心を閉ざしてしまう恐れがある。かといって、このままの状態を続けるわけにもいかない。そこで、とある作戦を決行することにした。
ある日、奏音とAI奏は、いつものように仮想世界の公園のベンチに並んで座っていた。
「ねぇ、奏音……」AI奏は真剣な表情で口を開いた。「ちょっと、提案があるんだけど、聞いてくれる?」
「うん、なに?」
AI奏は真っ直ぐな目で奏音を見つめると、慎重に、しかしはっきりと問いかけた。
「色神学園に、入学してみない?」
「え……?」奏音の目が大きく見開かれ、体がこわばった。
「ほら、前に声がかかってたでしょ?」AI奏は少し間を置き、尋ねた。「改めて、受けてみる気はない?」
「……どうして?」
「奏音も十二歳になったでしょ? そろそろ新しい環境に踏み出してみるのもいいと思うの」
奏音は視線を落とし、靴先で地面を軽くこすった。
「別に……今さら学校に行かなくても……かあさんと一緒にいられれば、それでいいし……」
「奏音」不意に、AI奏の声が少し強くなった。「わたしは、奏音に幸せになってほしいの」
「え……?」
「もちろん、わたしと過ごす時間が奏音にとって大事なのはわかってる。でも……それだけじゃ、ダメだと思うの」
「……どういうこと?」
「奏音は、現実の中でもちゃんと生きてる。仮想の中だけじゃなくて、外の世界にも目を向けてほしいの。きっと、かけがえのない出会いや出来事が待ってるから」
少し間を置き、AI奏はやさしく尋ねた。
「本当はあのとき、少し気になっていたんでしょ?」
奏音は驚きつつも、図星をつかれたと悟り、静かに頷いた。「でも、今さら言ったって……それに、もう音楽も辞めたし……」
AI奏はそっと奏音の手を包み込むように握った。
「奏音、大丈夫よ」AI奏はやさしく、しかし真剣な眼差しで言った。
しばしの沈黙が流れた。
奏音は表情をこわばらせながら、小さく「……わかったよ」と呟いた。
こうして、奏音は迷いながらも、色神学園への入学を決意した。
奏音が選んだ専攻は、音楽だった。戻るつもりはなかった。でも、他に学びたいものも思いつかなかった――だから、それを選んだ。
登校初日から、奏音は強い注目を浴びていた。良くも悪くも。
「あれが……西奏音……!」
「ついに天才ピアノストの復活か……!?」
「今さらここで何を学ぶんだ?」
以前にも感じたことのある、敵意や憧れ、妬み、尊敬が入り混じった視線を、奏音は向けられていた。
今まで他人と関わろうとしなかったせいで、距離感がわからず、自分から声をかけることもできなかった。さらに、『天才ピアニスト』という肩書や端正な容姿に惹かれた者たちが声をかけると、奏音は即座に察知し、鋭い目つきで睨みつけ、追い返した。やがて誰も声をかけなくなり、奏音は無意識のうちに近寄りがたい雰囲気をまとうようになった。
ある日の講義中、奏音は教室後方の席で無意識に机を弾いていた。音楽を辞めて久しいが、机を弾く癖は抜けていなかった。
AI教師『バッハ』は、奏音を指名した。
「Herr 西……ここで、一曲弾いてもらえますか?」
教室に緊張感が漂った。
「は? なんでおれが?」
「この場であなた以上に弾ける人はいません。ぜひ、皆さんに聴かせてください」
奏音は一瞬考えたあと、静かに答えた。
「……断る」
「どうしてですか?」
「おれはもう長くピアノに触れてない。腕はとっくに落ちてる」
「そんなことありません! 今も机を弾いているではありませんか!」
AIバッハの言葉を聞いた瞬間、奏音はハッとして癖を自覚し、すぐに手を止めた。
AIバッハは続けて言った。
「それに、もし落ちていたとしても、あなたならすぐに勘を取り戻せるはずです!」
「買い被り過ぎだ。おれはそんなに器用じゃない」
「いえ、あなたならできるはずです。お願いします!」
AIバッハが妙に食い下がることに違和感を覚えつつ、「いや、おれは……」と奏音が断ろうとしたそのとき、左腕のスマートウォッチが光り、「受けてみたらどうですか?」というショパンの声が遮った。
奏音がスマートウォッチに視線を向けると、ショパンは続けて言った。
「奏音くんの音楽が、彼らにどう響くのか……確かめてみませんか?」
ショパンの言葉を聞いた刹那、奏音の頭に奏の言葉が浮かんだ。
「……きっと、他にもたくさんいるよ。奏音のピアノに、力をもらってる人が……」
あのときの笑顔が、脳裏に蘇る。
沈黙が落ちたあと、奏音は低く「……わかった」と呟き、席を立った。
「ありがとうございます」AIバッハは丁寧に言った。
奏音は教壇の横に佇むグランドピアノまでゆっくりと歩いた。教室の中が少しざわついた。様々な感情のこもった視線が奏音に向けられたが、彼は一切気にも留めず、歩を進め、静かに椅子に腰を下ろした。
久しぶりにグランドピアノと向き合った奏音は、わずかな懐かしさを覚えた。椅子の高さを調整し、深く息を吸う。静かに鍵盤へと手を伸ばした刹那――力強く、澄み渡る音が教室を満たした。正確無比な奏音の演奏に、誰もが息をのんだ。
奏音の指は迷いなく鍵盤を駆けた。音の波に身を委ね、わずかな安堵を覚えた――だが、その刹那。指先に違和感が走った。突如、筋肉が強張り、まるで自分の手ではないかのように動かない。奏音の意思とは無関係に、音が唐突に途切れた。
奏音は目を見開き、手を握ろうとしたが力が入らない。動け……そう念じても、指は言うことを聞かなかった。ただ、強張った手を、恐怖にも似た感情で見つめることしかできなかった。
急に演奏が止んだため、生徒たちは怪訝な顔で奏音を見つめた。
そのとき、奏音の異変にハッと気づいたAIバッハが、場の空気を切り替えるように声を上げた。
「はっはっは……! 見事な演奏だったよ。ありがとう」
AIバッハは拍手を送りながら、感謝を述べた。しかし、奏音の耳に彼の言葉や拍手、生徒たちの囁き声すらも届いていなかった。
動かない手を見つめながら、奏音はただ呆然としていた。やがて、立ち上がると、そのまま足早に教室を後にした。
AIバッハは奏音を呼び止めようとしたが、かける言葉が見つからず、心配そうな顔で見つめることしかできなかった。
ほとんどの生徒たちは状況がまったくわからない様子で、教室が少しざわついた。一部の生徒は「今のって、もしかして……」と奏音の異変になんとなく気づいていた。
家に帰るなり、奏音は迷わずグランドピアノの前に座り、鍵盤に指を滑らせた。美しい旋律が部屋の中に響き渡る。
よかった……ちゃんと弾ける……。
奏音がほっと息をついたそのとき、突然両手の筋肉が異常に緊張し、指が動かなくなった。すぐに鍵盤に手を添えた。だが、指はまるで凍りついたかのように動かなかった。先ほどとまったく同じ状況に、奏音は呆然と立ち尽くした。周囲を慌てて見渡し、近くの本棚に手を伸ばした。本を掴み取ると、指が動いたことに安堵し、ようやく息をついた。静かに本をもとに戻し、グランドピアノに目を向けた。
今日はたまたま調子が悪いだけ。明日になれば、きっと戻る――。
奏音は必死に自分に言い聞かせた。
しかし――。
次の日になっても、ピアノの前に座ると、指は再び固まった。日常生活では何の問題もなく指は動く。だが、ピアノの鍵盤に触れた瞬間、まるで呪いにかけられたかのように固まるのだった。そして、それは何日経っても、何度試しても変わることはなかった。
奏音は、ショパンに尋ねるまでもなく、自らの異変を悟っていた。だが、それを認めることができず、焦燥感に駆られながら何度もピアノに向かった。
何度試しても指は応じなかった。試すたびに苛立ちは募る。それでも諦めきれず、奏音は何度でも鍵盤に指を伸ばした。だが――それは無情にも沈黙を返すばかりだった。やがて、焦燥は静かに心を侵食し、彼の内側を蝕んでいった。
奏音の異変は、瞬く間に色神学園に広まった。
「あの西奏音が弾けなくなったらしい」
「まさか、そんな……」
「いや、むしろチャンスじゃないか?」
生徒たちの反応はさまざまだった。驚き、同情、あるいは密かに喜ぶ者もいた。
そんな周囲の雑音が、奏音の苛立ちをさらに煽り、頭の中をかき乱した。鬱陶しくて、耳を塞ぎたくなるほどだった。状況は悪くなるばかりだった。やさしく励ますAI奏に、苛立ちをぶつけてしまうこともあった。そして、ぶつけた直後に後悔し、そんな自分がますます嫌になった。
ショパンは心理学や精神医療の知識を駆使し、手を尽くして奏音を支えようとした。だが、どの手も効果を発揮せず、それがショパン自身の無力感を募らせるばかりだった。
ある日、奏音は色神学園のグランドピアノに力なく項垂れていた。何もかも上手くいかず、人生に嫌気がさしていたとき、ふと聴き馴染みのある曲が彼の耳に飛び込んできた。シエルの代表曲――『七色パーソナリティ』だった。
奏音は俯いたまま微かに聴こえる曲に耳を傾けた。最近は自分のことで手一杯で、他人の曲などまったく耳に入ってこなかった。久しぶりにシエルの曲を聴くと、次第に心が温かくなった。
静かに顔を上げた奏音は、深く息を吸い込み、吐き出した。頬を軽く叩くと、迷いの色が消え、目つきが変わった。その瞳には、「絶対に諦めない」という強い意志が、確かに宿っていた。沈んでいた気持ちを切り替えると、再びピアノに向かった。
それから奏音は、シエルの曲を支えにしながら、自分の問題と向き合った。すぐに解決するはずもなく、もどかしい日々が続く。それでも、無理のない範囲で努力を重ねた。
そんな奏音に、気にかけてくれる者たちがいた。
那歩、彗星、霜月、長月――彼らは不愛想で近寄りがたいが、ひたむきに努力を重ねる奏音の姿に、次第に惹かれていった。「天才ピアニスト」ではなく、奏音という一人の人間を見ていた。奏音がそっけなく振る舞っても、彼らは気にする様子もなく、何度でも声をかけてきた。次第に、奏音もわずかに心を開き、彼らと言葉を交わすようになった。
時は流れ、奏音は十六歳になった。
依然として、ピアノの前に座ると指が強張り、思うように動かせなかった。時が経つにつれ、「絶対に諦めない」という気持ちは次第に薄れ、一年前からピアノに触れることすらなくなっていた。それでも、以前のような焦燥感に駆られることはなく、穏やかな日々を送っていた。その支えになっているのが、シエルとAI奏だった。だが、成長とともに少しずつAI奏に違和感を覚えるようになった。
奏音は、AI奏と過ごすことで母を失った悲しみが和らぐ一方で、現実の母の死を受け入れられないまま成長してしまうのではないかと悩んでいた。これまで、「もう、かあさんとは会わない」と何度も決意した。しかし、意志の力だけで「会いたい」という気持ちを抑えられるはずもなく、悶々とした日々が続いた。
さらに最近になって、奏音の夢に奏が現れるようになった。まるで幽霊のように儚い姿の奏は、心配そうに奏音を見つめ、何かを伝えようとしている。だが、その声はどれだけ耳を澄ませても届かなかった。
人間関係も相変わらずで、那歩、彗星、霜月、長月以外と関わることはなかった。
「青春なんて、つまらないしバカバカしい……」
そう自分に言い聞かせて、心に線を引いた。それでも、胸の奥に残る満たされなさは、消えることはなかった。
ある日、奏音は色神駅構内を歩いていた。ふと設置されているストリートピアノに目が留まった。その瞬間、数年前に見かけた青髪の少女の演奏が、不意に脳裏をよぎった。同時に、彼女のそばに立ってリズミカルに体を揺らす奏の幻影が見えた。奏の幻が、まるで導くように手を差し伸べる。気づけば、奏音の足は無意識のうちにストリートピアノへと向かい、椅子に座っていた。自分の意思とは関係なく動いていたことに驚いたが、奏音は抗わず、その流れに身を任せた。深く息を吸い、真剣な表情を浮かべ、鍵盤にそっと手を伸ばした。
数秒の沈黙のあと、美しく力強い旋律が駅構内に響き渡った。その音色には、どこか寂しさと切なさが滲んでいた。一分もしないうちに、足を止める人がぽつりぽつりと現れた。
不安も緊張もなく、驚くほど心が静かだった。約一年ぶりに触れたピアノの感触に少し懐かしさを覚えていた。
よし、悪くない……。
奏音は鍵盤に指を滑らせた。しかし――突然、指が止まった。強張った手が、まるで見えない鎖に絡め取られたように動かない。音が消えた瞬間、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。目を見開き、震える手をじっと見つめた。落ち着いていた心も一気に乱れ、思わず自分の手を呪いたくなった。悔しさを滲ませたまま、ストリートピアノを一瞥する。再び鍵盤に触れる勇気はなかった。奏音は唇を噛みしめ、足早にその場を去った。
昼下がり。色神学園音楽棟の近く、奏音は静かにベンチに腰を下ろした。さっきの演奏が頭の中で繰り返される。空を仰ぎ、掲げた右手をじっと見つめた。
やっぱり……おれには、もう無理なのか……。
落ち込んでいた奏音の耳に、『七色パーソナリティ』の美しいピアノの旋律が響いた。しばらく聴いていると、不思議と胸の奥が温かくなる。気づけば、音色に引かれるように歩き出していた。
音楽棟一階に足を踏み入れ、グランドピアノに視線を向けた瞬間、奏音は目を見開き、その場で立ち尽くした。そこには、心から音楽を楽しみながらピアノを奏でる青髪少女の姿があった。彼女の旋律は奏音のものとは正反対で、聴く人々の心をやさしく照らしていた。
奏音の脳裏に、無機質な空間に色とりどりの花々が咲く光景が浮かんだ。彼女の作り出した空間に完全に引き込まれ、思わず「すげぇ……」と声を漏らした。これまで他人の演奏に興味を示さなかった奏音は、初めて感動を覚えていた。
彼女の演奏が終わった瞬間、拍手喝采が巻き起こった。その場にいる誰もが奏音と同じ感動を味わっていた。
奏音はスマートウォッチに口を寄せ、小声で問いかけた。
「ショパン、あいつは誰だ!?」
「……生徒名簿にデータがありません。色神学園の生徒ではないようです」とショパンは答えた。
「そうか……なら――」
奏音が続けて尋ねようとした瞬間、ショパンは内容を先読みして制した。
「ネットにも一切情報がなく、プロフィールも非公開のため、彼女については何もわかりません」
「なに……!?」
「……もし気になるのであれば、直接話しかけてみてはいかがでしょう?」
「……そうだな」
奏音は、彼女を取り囲む生徒たちが散るのを待ち、タイミングを見計らって歩み寄った。そして、抑えきれない好奇心に突き動かされ、つい矢継ぎ早に質問を浴びせてしまった。困惑する彼女に声をかけた矢先、一色や那歩が割って入り、奏音は結局まともに会話することすらできなかった。
それから数日間、奏音の頭の中には青髪の少女の姿が焼き付いて離れなかった。彼女の演奏を思い出すたびに、『シエル』の楽曲を聴いたときのような穏やかな気持ちになっていた。
まさか、あいつが『シエル』なのか……!? いや、まだ確証はない。ただのファンという可能性も十分ある。
その考えが、何度も奏音の脳裏をよぎった。
月曜日、奏音が校内を歩いていると、背後から「ねぇ、ちょっと待って!」と呼び止める少女の声が響いた。
奏音は足を止め、ゆっくりと振り返った。そこには、紅白の衣装をまとった少女――呉橋神楽が、真っ直ぐこちらを見つめて立っていた。
「あなたが、西奏音ね……?」神楽は確認するように尋ねた。
「……おれに何か用か?」奏音は警戒しながら聞き返した。
「あなた……今、深刻な悩みを抱えているでしょ? わたしで良ければ、話を聞いてあげるわ」
「は……?」
「わたし、呉橋神楽。こう見えて巫女なの」
「いや、どう見ても巫女だろ!」奏音は思わずツッコんだ。
神楽は気にせず続けた。
「巫女の仕事はいろいろあるけど、そのひとつに、困っている人に寄り添い、手助けをするっていうのがあるの。だから、そんなに警戒しないで。わたしはあなたの味方よ……」
奏音は直感で神楽が悪い人ではないと思ったが、警戒心を解かなかった。
「……いきなりそんなこと言われて、おれが信じると思うのか?」と奏音は冷静に問い返した。
「えっ、巫女の言うことが信じられないの!?」
「当たり前だ!」
神楽は戸惑いながら、一瞬、隣の虚空に視線を走らせた。まるでそこに誰かが立っているかのような素振りだった。
奏音はさらに言い放った。
「そもそも、おれは手助けなんか求めてねぇ。ありがた迷惑だ。助けが必要な奴なら、他にもたくさんいるだろ!」
神楽は奏音に視線を戻し、「たしかに、そうかもしれないわね……」と呟いたあと、ふと虚空を気にするように視線を逸らした。
「話はそれだけか……? なら、おれはもう行く」
奏音は背を向け、歩き出した。
神楽は奏音の背中をただ黙って見送った。
もう二度と会うことはない。
奏音は、そう思った。
翌日、色神学園に足を踏み入れた瞬間、奏音は視線を感じた。警戒して周囲を見渡すと、視線の主はすぐに判明した。――神楽だった。
神楽は一定の距離を保って物陰に身を潜めていたが、紅白の衣装は周囲にまったく馴染まず、むしろ悪目立ちしていた。本人はそのことに気づいていない様子だった。
奏音は最初、無視していたが、講義中も、食事中も、休憩時間も、移動時間も——どこへ行っても神楽の姿があり、ついに我慢の限界を迎えた。
帰り際、奏音は突然足を止め、振り返った。神楽が素早く木陰に身を隠すと、そこへ向かって真っすぐ走った。次第に奏音が迫ると、神楽は焦ったように体を小さくした。
奏音は木の前で足を止め、口を開いた。
「今さら隠れても無駄だ。最初からバレてる」
少しの静寂後、神楽は観念したように姿を現し、奏音を見つめた。
「あら? 偶然ね。こんなところで何をしてるの?」と神楽はとぼけたよう言った。
「いや、さすがに無理があるだろ!」
「何のことかしら……?」神楽は目を逸らし、冷や汗を滲ませた。
奏音は深く息をつき、鋭い目で神楽を見据えた。
「お前が、朝からおれを尾行していたのは気づいていた」
「そんな……まさか……!?」神楽は大げさに目を見開いた。
「そんな目立つ格好で、気づかねぇわけねぇだろ!」
神楽は自分の衣装を見つめ、ため息混じりに肩をすくめた。
奏音は呆れたように息をつき、「まあいい……それより、なんでおれを尾行していた?」と尋ねた。
神楽は真剣な表情で答えた。
「……昨日も言ったでしょ。わたしの仕事は、困っている人に寄り添うことだって……」
「必要ねぇって言ったはずだが……?」
「本当にそうかしら……?」
「……おれとお前は、昨日初めて会ったばかりだ。お互いまだ何も知らねぇのに、なぜ構う? 噂を聞いて、同情でもしたか?」奏音は挑発的に問いかけた。
「別に同情なんてしてないわ。わたしはただ、自分の責務を全うするだけ……」
「……その責務って、具体的になんだ?」
神楽は一瞬、虚空を一瞥した。すぐに奏音へと視線を戻し、真っ直ぐな瞳で言い切った。
「――あなたの笑顔を、取り戻すこと」
奏音は目を見開き、思わず「は……?」と声を漏らした。
こいつ……何言ってんだ? おれの笑顔を取り戻す? ……意味がわかんねぇ。
戸惑う奏音をよそに、神楽はさらに問いかけてきた。
「あなた、最後に心から笑ったの、いつ?」
その質問を投げかけられた瞬間、奏音は過去を振り返り、そしてハッと気づいた。母が亡くなってから、一度も心から笑っていない自分に……。
「……うるせー、お前には、関係ねぇだろ……」奏音は声を押し殺すように呟き、拳をぎゅっと握りしめた。神楽に心を見透かされたことが気に食わなかった。「もう、おれに構うな……」と言い残すと、背を向け、その場を立ち去った。
おれの選択は、間違ってなんかない……そう、間違ってないはずだ! 救いも、やさしさも、気味が悪い。そんなもの、必要ねぇ……。
奏音はそう言い聞かせた。
その夜、奏音は早めにベッドに潜り込んだ。だが、神楽の言葉が頭の中で何度も反響し、まるで眠れなかった。気づけば、夜はすでに明けかけていた。窓の外には、淡い朝の光が滲んでいた。
午前六時。奏音は起き上がる気力もなく、寝転んだまま手を伸ばし、ホログラムで音楽関連のネット記事を次々と表示した。特に読みたい記事があるわけでもなく、ただ時間を潰すために無心でページをめくる。
あっという間に一時間が経過し、そろそろページをめくるだけの作業に嫌気がさしていた。
次で最後にしよう。
そう決心し、指でホログラムを横にスライドすると、新たなホログラムが目の前に表示された。奏音は目を見開き、思わず飛び起きた。そこには、シエルが新曲『白雪×シークレット』をアップロードしたという最新情報が載っていた。
「ショパン、『白雪×シークレット』を流して!」
「Dobrze!」――ショパンが即座に応じた。
曲が流れ始めると、奏音は一瞬で作品の世界へと引き込まれた。自分では決して思いつかないような音楽性に畏怖の念を抱いた。
聴き終わった瞬間、自然と指が動き、自身のアカウントで「これを聴け!」とコメントしていた。
そのコメントを見た那歩や霜月が、『白雪×シークレット』を聴き、同じく好意的な感想を残した。彼らのコメントを見た人たちが、一斉に『白雪×シークレット』を聴き始め、物凄い勢いで再生回数を伸ばしていった。
奏音の気力はすっかり回復し、いつも通り色神学園へ向かった。その間、ワイヤレスイヤホンを装着し、『白雪×シークレット』を何度も繰り返し聴いた。
音楽史の講義を終えたあと、奏音は自動販売機でコーヒーを買った。その場で飲み干し、空き缶をリサイクルボックスに捨てると、音楽棟近くのベンチに腰を下ろした。ポケットからイヤホンを取り出し、耳につけようとしたとき、音楽棟一階からグランドピアノの美しい旋律が聞こえた。曲の冒頭を聴いた瞬間、それが『白雪×シークレット』だと直感した。そして気づけば、足が勝手に音楽棟へ向かっていた。
そこには、心から楽しそうにピアノを弾く、華麗な青髪少女の姿があった。さらに、那歩、彗星、霜月がすでに彼女の演奏に没頭していた。
奏音は、彼女の演奏に心を奪われた。音が、旋律が、心の奥深くまで染み渡ってくる。
なんだ、この感覚は……? どうして、こんなにも魅了される? それに、投稿されたばかりの曲をここまで完璧にアレンジするなんて、並大抵の技術じゃできない。
奏音はハッと目を見開いた。
まさか……こいつが、『シエル』……!?
奏音はその可能性を考慮しながら、彼女の演奏に耳を傾けた。音色の隅々に、シエルらしさが滲んでいた。気づけば、その考えは確信に変わっていた。
演奏が終わると、奏音は彼女に歩み寄り、じっと見つめた。そして確信を込めた声で言い放った。
「こいつこそ、『シエル』本人だ!」
すると、少女――正確には彼女が左手に装着した白猫のパペットが認めた。
まさか、シエルの正体が同世代の少女だったなんて――。
その衝撃に、その場の空気が凍りついた。誰もが言葉を失い、ただ彼女を見つめるしかなかった。
こいつが……本物のシエル……!
奏音は、ついに憧れの『シエル』と対面した。驚きと喜びが交錯し、胸がざわついた。話しかけたい――けれど、言葉が出てこなかった。そこへまたしても、一色こがねが突如現れ、奏音の一歩を奪った。そのまま、言葉を交わせないまま、シエルは去っていった。
その後、奏音は噴水広場のベンチに座り、『白雪×シークレット』を聴いていた。するとそこへ、長月が現れ、隣に腰を下ろした。
長月は『白雪×シークレット』を聴き終わると、感想を言った。
「六人とも声の個性が強いのに、合わさると一人で歌ってるみたいに聴こえる。不思議ですね!」
「……そうだな」
少し間を置き、長月は話題を変えた。
「……ところで、少し離れた木陰から、西さんを見つめる人たちがいますが……お友達ですか? それともファンの方……?」と長月は小声で尋ねた。
「違う。ただの、お節介女だ」
「お節介女……?」
「一昨日急に話しかけてきて、意味不明なことを言うから、無視してる。特に害はないし、このまましていれば、いずれ飽きるはずだ」
「たしかに、敵意は感じません。むしろ――」
長月はそこで言葉を切り、奏音をまっすぐ見つめた。
「なんだ……?」と奏音は尋ねた。
「いえ、なんでもありません」
チャイムが鳴り響いた。
長月は立ち上がって言った。
「では、次の講義がありますので、失礼いたします」
「ああ……」
奏音は、しばし長月の背中を見送ったあと、立ち上がり、彼女と反対方向へ静かに歩き出した。
読んでいただき、ありがとうございます。
次回もお楽しみに。
感想、お待ちしています。




