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魂送の天①

四月二十日、水曜日の午前四時過ぎ。

暗い寝室のベッド上で天は目を覚ました。上体を起こして伸びをしていると、部屋のドアが静かに開き、イリスがふわりと現れた。

「おはよう、天ちゃん」とイリスは言った。

「おはよう、イリスちゃん」と天は笑顔で返した。

 イリスが指を鳴らすと、暖色の照明が点灯し、徐々に明るくなっていった。

「今日は早いね。どうしたの?」とイリスは問いかけた。

「えっとね……」天は視線を逸らし、少し恥ずかしそうに頬を染めた。「みんなの歌を早く聴きたくて……!」

「そっか」イリスは笑顔を浮かべた。

 天はベッドから足を下ろして立ち上がると、イリスと向かい合った。

イリスは目を光らせ、天の健康状態を素早くスキャンした。

「うん! 今日も問題ないよ!」

「ありがとう、イリスちゃん……」と天は返し、寝室を後にした。

洗顔や歯磨きを済ませ、空色のワンピースに着替えた天は、イリスとともに地下室へ向かい、録音したみんなの歌声を聴いた。

四人の歌声を聴き終わると、天は納得したようにイリスと笑顔を交わした。その後、イリスとともに細かい調整を重ねた。ミックス、マスタリング、そして、天が思い描いた絵をイリスが動かし、ついに――『白雪×シークレット』が完成した。

完成後、最後にもう一度聴いた。天は真剣な表情でリズムに合わせて指で机を叩いていた。一曲聴き終わると、静かにヘッドホンを外し、イリスに真っ直ぐな視線を向けた。二人の間に緊張感が漂い、イリスは固唾をのんだ。次の瞬間、天は満面の笑みを浮かべ、「うん、バッチリ!」と言った。

イリスはほっとした表情で肩の力を抜いた。ふわりと天のそばに寄ると、「お疲れ、天ちゃん!」と手のひらを差し出した。天は笑顔で応じ、二人は軽くタッチした。

「本当は、真白ちゃんにも歌ってほしたかったけど……」と天は少し残念そうに呟いた。

 イリスは眉をひそめつつ、黙々とアップロードの準備を進めた。

こうして、新曲『白雪×シークレット』は、『シエル』のアカウントを通じて世に送り出された。時刻は午前七時を回っていた。

 アップロードが完了した瞬間、天の腹の虫が鳴った。天はそっと腹に手を添え、少し恥ずかしそうにしながら笑った。

 天が静かな空間で朝食をとっている間、ネット上では凄まじい盛り上がりを見せていた。

新曲『白雪×シークレット』は、物凄い勢いでストリーミング数とダウンロード数を伸ばし、多くの人々に届いていた。今まで天が作ってきたどの曲よりも、初動の勢いが圧倒的だった。

 その理由の一つは、西奏音のとあるコメントがきっかけだった。」

奏音は『白雪×シークレット』がアップロードされた直後、自身のアカウントで「これを聴け!」と短くコメントし、URLも添付して紹介した。

その投稿を目にした彼のファンたちが、すぐに曲を聴き始めた。さらに、奏音の友人――人気ロックバンド『ヒルシカ』のコンポーザー『ナブ』が「不思議な魅力がある!」とコメントし、若者に人気のラッパー『NAGINATA』こと、霜月薙士しもつきなぎとも「最高にAmazingでCrazyな一曲だZE!」とコメントを残したことで、彼らのファンたちも『白雪×シークレット』を聴き始めた。

投稿から一時間も経たないうちに、音楽配信サイトの再生回数はすでに百万回を超えていた。

 そんなこととはつゆ知らず、天は食パンを一口かじり、満足げに微笑んだ。

 シンクで食器を洗ったあと、天はタオルで手を拭きながらそばに浮かぶイリスに視線を向けた。

「イリスちゃん、ちょっと聞いてもいい……?」

「なに?」とイリスは返した。

「この前、色神学園で会った人の中に、気になる人がいるんだけど……」

「もしかして、この二人……?」

イリスはそう言いつつ、色神学園の学生名簿に即座にアクセスし、そこから那歩なぶ彗星すいせいの顔写真付きの情報を宙に浮かび上がらせた。

 天は二人の顔を見て、「うん、この二人!」と頷いた。

イリスは一呼吸置いてから言った。

「天ちゃんの推測通り……この二人は、『ヒルシカ』だよ」

天は目を見開き、胸の高鳴りが抑えきれなかった。驚きと嬉しさが入り混じる中、やがて静かに頷き、「やっぱり……そうなんだ……」と呟いた。

「また会いたい?」

天は即答せず、目を伏せて考え込んだ。

大好きなバンドだから、会いたい……! でも、覆面で活動してるってことは、あまり目立ちたくないってことだよね……? わたしもそうだから……。

天は決心して顔を上げると、静かに首を横に振った。

「そっか……」イリスは天の意向を尊重し、すぐに受け入れた。だが、天が少し寂しそうな表情を浮かべていることに気づくと、「天ちゃん!」と声をかけた。

「ん?」

「今日の予定はもう決まってる?」イリスは問いかけた。

「うーん……」天は少し考え込んでから、「まだ決めてない……」と小さく答えた。

「じゃあ、もし天ちゃんがよかったら、色神学園に行ってみない?」

「え、色神学園に……?」

「ほら、この前は図書館に行っただけだから、今度は講義を受けてみるのはどうかなって思って……」

「講義……!」

天は興味津々に目を輝かせたが、すぐに冷静さを取り戻すと、目を伏せた。

「きょっ、興味はあるけど、わたし……部外者だし……勝手に講義を受けるのは良くないんじゃ……」

「部外者じゃないよ」

「え……?」

「天ちゃんはもう色神学園の生徒だよ!」

イリスは、色神学園の学生名簿に登録された天の学生証をホログラムで宙に映し出した。

「あ、そっか……!」と天は思い出したように呟いた。「……じゃあ、わたしも講義を受けてもいいんだ」

 イリスは自信満々の表情で深く頷き、さらに言い添えた。

「それに、一色さんに返事をするいい機会じゃないかな?」

「……それって、恐竜島のこと?」と天が尋ねると、イリスは黙って頷いた。

 天は考え込み、沈黙が流れた。

 イリスちゃんの言う通り、恐竜島の件を早く返事しないと、一色さんに失礼だよね。みんなは快く許してくれたし、楽しみにしてるみたいだから、ちゃんと返事をしないと!

天は決心したように頷き、ゆっくりと口を開いた。

「……そうだね。じゃあ、行こっか」

 イリスは微笑みながら頷き、すぐに身支度を始めた。

天はゆっくりと朝食を終えてから、準備に取りかかった。櫛で髪をとかし、ましろんを入れた小さなバッグを肩にかけた。最後に姿見で全身を確認し、「よし!」と頷いた。

 玄関へ向かい、そこで靴を履いていると、イリスがふわりと肩に乗った。

 そのとき、天はふと思ったことを口にした。

「あ、でも、いきなり行って迷惑じゃないかな?」

「そんなことないよ」とイリスが即答したが、天は不安げに言った。

「一色さんって、すごく忙しいよね?」

「今日は、そうでもないって」

「え……?」

 イリスはすでに一色とメッセージのやり取りをして、確認を取っていた。

一色から送られてきたメッセージは、こう記されていた。

『天様、おはようございます。わたくしは今日一日空いておりますので、いつでもどこでも大丈夫ですわ。天様のご都合がよろしいときに、どこへでも駆けつけますわ。PS.ご連絡ありがとうございます。このメッセージは保存して、一生大切にしますわ!』

 イリスが送ったメッセージは、読まれたあと、二分で自動消去される設定になっている。一色の願いである『保存』は、仕組み上どうしても叶わない。

「いつでもどこでもいいんだって!」とイリスはメッセージを読み上げた。

「そっか……」

天は安心したように息をつき、顔を上げて立ち上がり、決意を込めた声で言った。

「じゃあ、行ってきます」

 天は色神学園に向けて足を踏み出した。

玄関を出ると、眩しい陽の光が差し込み、天は反射的に腕で日光を遮った。あまりの眩しさに耐えきれず、慌てて家の中に戻った。

イリスは、一度天の肩から飛び立ち、家の奥に進んだ。少しして、麦わら帽子を手に戻ってきた。

天はそれを受け取ると、感謝の笑みを浮かべながら深く被った。帽子のおかげで日差しが和らぎ、満足そうに一歩を踏み出した。

 イリスは遠隔で家の鍵すべてを掛けてから、再び天の右肩にそっと腰を下ろした。

 天はほうき型ドローンに静かに腰を下ろし、イリスの案内に従って、空へと舞い上がった。


 色神学園が見えてくると、天は胸の鼓動が速くなるのを感じ、拳を握り締めた。緊張で汗が滲み、徐々に不安感が増していた。

 こ、このまま色神学園の中に入ってもいいのかな……?

 天はそんな不安を抱えながら周囲を見渡した。その視線の先には、校門前に佇む二台の蜘蛛型警備ロボットがあった。蜘蛛型ロボットたちはアームを軽く上げ、生徒たちと次々に挨拶を交わしている。まるで友達同士のように、学園の入口には和やかな雰囲気が漂っていた。

 その光景を見た天は、こう思った。

 わたしが校門をくぐったら……あ、あのロボットに呼び止められて、誰もいない教室に連れて行かれて、尋問されるかも……! もし本当にそうなったら、どうしよう……!

天はそんな想像に怯えながらも、静かに着地し、足を前へと運んだ。前回、色神学園を訪れたときは、恐竜や図書館のことで頭がいっぱいでまったく気に留めなかった蜘蛛型ロボットが、天の不安を煽っていた。

だが、天の心配は杞憂に終わった。

蜘蛛型ロボットは天に気づくと、他の生徒たちを同じようにアームを掲げ、軽い挨拶をした。

 天も小さく会釈し、そそくさと校門をくぐり抜けた。少し進んだ並木道で天は足を止め、安堵の息をついた。落ち着きを取り戻すと、キリっとした目つきで前を見据え、歩を進めた。

天は前回の記憶を頼りに、迷うことなく音楽棟へ辿り着いた。

一階の広間には、黒光りするグランドピアノが静かに佇んでいる。ピアノの奥に伸びる通路を進むと、教室が続いていた。

天は壁の巨大ディスプレイの前で足を止め、教室の場所と講義内容を調べた。そして、『音楽史』の講義がある二階の201教室を確認すると、そちらへ向かった。

音楽棟の教室は、すべて防音が施されていた。

教室のドアを開けた瞬間、天の視界いっぱいに百人以上の生徒たちの姿が広がった。男女比はほぼ半々。小学生から大学生まで、年齢層も実に幅広い。

デジタル教科書で真剣に予習する小学部の眼鏡の少年、イヤホンで音楽を聴きながら机に伏せている高等部の少女、複数人で楽しそうに会話している中学部の少女たち、皆それぞれ自由に過ごしていた。

201教室は、教壇から後方へ行くにつれて段々と高くなる、いわゆる階段教室の造りだった。

天は最後方から教室全体を見渡し、那歩と彗星の姿を見つけて小さく微笑んだ。だが、そのすぐ横に視線を移した途端、西奏音の姿が目に入り――前回の出来事が一瞬、脳裏をかすめる。天の中に、自然と警戒の感情が芽生えた。

さらに、201教室にはひときわ目を引く生徒たちの姿もあった。アフロヘアとサングラスが際立つ少年――霜月薙士、淡い紫色の縦ロールが特徴的な少女――長月九音ながつきくおん、そして、アルカナ・オースの呉橋神楽の姿もあった。

霜月と長月は、〈フリーデン〉のナンバーエージェントだった。霜月が『エルフ』、長月が『ノイン』というコードネームだった。

天は彼らの存在に気づかぬまま、出口に近い最後列の端の席へと静かに腰を下ろした。

一方、イリスは彼らをじっと見据え、警戒しながら天のそばにふわりと降り立った。

講義時間になると、教壇の上から下へ向かって光が差し、その光が徐々に人型を形成していった。そして、モーツァルトの3Dホログラムが現れた。

「では、始めましょう!」

モーツァルトが陽気な声で呼びかけると、生徒たちの視線が一斉に教壇に集まった。そこに立つのは、時代を超えて蘇った音楽の天才――AIモーツァルト。貴族風の赤いコートを身に纏っているが、彼の口調は気取ったものではなく、まるで劇場の舞台に立つエンターテイナーのようだった。

「音楽史と聞いて、“退屈そう”と思った人、手を挙げて!」

ちらほらと手が挙がる。

「おお、正直でよろしい! でも安心してくれ。ぼくの授業で退屈することは絶対にない! なぜなら……」

 モーツァルトは教壇を軽やかに一回転し、手を広げる。

「ぼく自身が音楽史の登場人物だからね!」

教室がクスクスと笑いに包まれる。

「では、まずバロック時代から始めようか。この時代の音楽は、まるで宇宙に打ち上げられた人工衛星のように、規則正しく、装飾が美しく、緻密に作られていた。バッハ、ヴィヴァルディ、ヘンデル……彼らの音楽はまさに精巧な時計仕掛けのように組み上げられていたんだ」

モーツァルトは手をひらひらと動かしながら言う。

「バッハ先生はとにかく働いた! そう、まるでブラックホールのように仕事を吸い込み続けたのだ!」

教室はまたもや笑いに包まれた。天はAIモーツァルトの話しぶりに興味を持ち始めた。

「ちなみに、ぼくはバロックの終盤に生まれた。つまり、バロック音楽はぼくが生まれた瞬間、華麗に幕を閉じたと言ってもいいね!」

「いや、それは言い過ぎでは……?」と誰かが小声で突っ込む。

「さて、次はぼくの時代――古典派! この時代の音楽は、バロックの緻密な構造から解き放たれ、もっとシンプルに、もっと人の心に響くものへと進化した。美しく流れるメロディ、均整のとれた形式……つまり、聴いていて『おお、これは気持ちがいい!』と思える音楽さ!」

モーツァルトは指を鳴らすと、教室のスピーカーから軽やかなピアノソナタが流れ出した。

「ね? バロック時代の音楽は知的に楽しむものだけど、古典派の音楽はもっと感覚的に楽しめる。ぼくも、退屈なルールに縛られるのが嫌でね。自由に作曲していたら、いつの間にか『天才だ!』なんて言われるようになったよ。ふふ……」

生徒たちは次第にモーツァルトの話に引き込まれていった。

「でも、ぼくの死後、音楽はさらに感情的になっていく。そう、ロマン派の時代へ突入するのさ! ベートーヴェン、シューベルト、ショパン……彼らは、まるで超新星爆発のように、感情を音楽にぶつけた! ベートーヴェンなんて、ぼくの後を追いかけてきて、『モーツァルトの音楽に追いついてやる!』なんて言いながら、最終的にはぼく以上に革命的な音楽を作り上げたんだ。やれやれ、嫉妬しちゃうね!」

 天は、気づけば夢中で話を聞いていた。

「そして現代音楽……もはや何がルールで、何が音楽なのかすらわからなくなる時代だ! シェーンベルクは『調性なんてもう古い!』と叫び、ジョン・ケージは『沈黙すら音楽になりうる!』なんて言い出す。まるで、宇宙の物理法則が書き換えられる瞬間のようだね!」

モーツァルトは軽やかに宙を舞いながら、現代の音楽について語り始めた。無数のスピーカーが空中に浮かび、ビートが重低音を響かせていた。AIが作曲し、AIヴァーチャルシンガーがステージで踊っている。

「ほうほう、今ではAIが音楽を作るのが普通なんだね! いやあ、ぼくもAIになった甲斐があったよ。ついに時代がぼくに追いついたってわけさ!」

教室が笑いに包まれる。

「でもね、最近の音楽を聴いていると、ついこう思ってしまうんだ……“これは作曲じゃなくて、作業じゃないか?” ってね」

生徒たちは顔を見合わせる。たしかに、アルゴリズムが大量生産する音楽には、どこか“工場生産”のような感覚がある。

「昔は一音一音に魂を込めていたものさ。けれど今や、ボタン一つで“いい感じの曲”ができてしまう。うーん、もしぼくが現代に生まれていたら、果たして“天才”なんて呼ばれただろうか? それともただの“プリセット職人”かな?」

教室のあちこちから吹き出す笑い声。

「あと最近のポップソング、どれも似ているように聞こえるのは気のせいかい? まるで、同じケーキに違う名前のプレートを載せただけのようだ! いや、もちろん美味しいんだけどね?」

 生徒の一人が勇気を出して手を挙げた。

「でも先生、現代の音楽にも独創的なものはたくさんありますよ!」

 モーツァルトはにこりと笑って頷いた。

「もちろん! それは素晴らしいことだ! ただ……」

 モーツァルトは目を細め、どこか懐かしそうな表情を浮かべた。

「ぼくが生きた時代では、音楽は人間が生み出すものだった。でも今や、AIが作り、AIが演奏し、AIが評価する時代になった。音楽とは、人間のためにあるのか? それとも、存在そのものが目的なのか? ……いやあ、哲学的になってきたね!」

 彼は楽しそうに笑う。

「でも、音楽がどう進化しようとも、変わらないものがある。それは、人が音を楽しむ心だ! それさえあれば、どんな時代でも音楽は生き続ける。だからキミたちも、音楽の歴史を学ぶだけじゃなく、自分の音楽を作り、未来へ繋げていくんだ!」

その言葉に、天は強く心を打たれた。

モーツァルトの講義は、単なる歴史の授業ではなく、生きた音楽の物語そのものだったのだ。

モーツァルトは再びバロック時代に話を戻し、ジョークを交えながら、その音楽をより深く掘り下げていった。彼の話があまりにも面白く、さらに生徒を飽きさせない工夫を凝らしているため、あっという間に五十分が経過した。教室にチャイムが鳴り響くと、モーツァルトは最後にこう締めくくった。

「未来の音楽がどんな形になろうとも、新たな時代のアーティストが生まれることを、ぼくは楽しみにしているよ!」

そう言い残すと、3Dホログラムのモーツァルトは笑顔で教壇から消え去った。

 天を含め、生徒たちの顔には満足げな笑みが浮かんでいた。

独学で本を読み、イリスに教わりながら学んできた天は、講義の面白さと奥深さに、心が躍るのを感じていた。

天は講義の余韻に浸りながら、ぼんやりと教室に座り続けていた。気づけば、生徒たちは次々と入れ替わり、教室には新たな面々が並んでいた。

ハッと我に返った天は、黒板に浮かぶ「音響学」の文字を見つめた。興味を引かれたものの、長時間の集中で少し疲労を感じ、静かに席を立った。

教室を出た瞬間、一階からグランドピアノの美しい音色が響いてきた。天は音を聴くと、胸が弾むのを感じ、軽い足取りで階段を下りた。

一階の広間に出ると、ちょうど一曲弾き終えた少女が静かに立ち上がり、そばで聴いていた友人と一緒にその場を後にした。

広間は静寂に包まれ、先ほどまでの音楽の余韻だけが漂っていた。そこに佇むグランドピアノは、スポットライトを浴びた舞台の主役のように、ひっそりと天を待っているように見えた。

天は無意識のうちに歩を進め、グランドピアノの前に立った。指先が鍵盤に触れると、まるで待ち望んでいたかのように、ピアノが静かに応えた。深く息を吸い込み、椅子に腰を下ろす。バッグをそっと足元に置き、高さを調整した。

イリスは天の肩からふわりと飛び、そばに浮いて静かに見守った。

次の瞬間――美しい旋律が広間に溢れ出した。天は周囲のことが一切目に入らないほど、笑顔で楽しそうに『白雪×シークレット』と奏でた。

天の旋律は音楽棟の外にまで響き、ベンチに座っていた那歩、彗星、霜月の耳を捉えた。三人は思わず顔を見合わせる。これまで聴いたどの演奏とも異なる、別格の音だった。三人は思わず立ち上がり、速足で音楽棟に戻った。そこで優雅に演奏する天に思わず目を奪われたように立ち尽くした。

那歩が「この曲……」と呟き、彗星は静かに目を閉じ、リズムに合わせて軽く体を揺らした。直後、奏音が息を弾ませながら駆けつけた。その視線はまっすぐ天へと向けられ、那歩たちの背後で足を止めた。瞳に鋭い光を宿したまま、じっと天を見据えた。

天が演奏を終え、数秒の余韻が流れたあと、小さな拍手が響いた。天は少し驚いて恐る恐る視線を向けた。そこには、憧れのロックバンド『ヒルシカ』の二人――彗星と那歩の姿があった。

天は嬉しさと困惑が同時に胸に押し寄せ、慌てて足元のバッグに手を伸ばし、ましろんを探した。

彗星は笑顔で歩み寄り、拍手を送りながら感嘆したように言った。

「人を惹きつける素敵な演奏だった……!」

 その感想を聞いた瞬間、天は思わず手を止め、目を丸くして彗星を見つめた。

「おれの心に響くビート、明日は世界に轟くきっと!」と霜月は韻を踏んだ。

「今の、今日の朝に投稿されたばかりの“シエル”の新曲だよな? もう耳コピしたのか!?」と那歩が驚きの声を上げた。

「いや、違う!」

奏音が鋭く言うと、那歩、彗星、霜月の三人は一斉に振り返った。

奏音はゆっくりと前進しながら続けた。

「こいつは耳コピしたわけじゃない」

奏音は三人の一歩前に出たところで足を止め、天を鋭い目つきで見つめた。

「こいつこそ、『シエル』本人だ!」と言い放ち、天を指差した。

 天はその言葉に驚き、思わず目を伏せた。バッグからましろんを取り出し、慌てて左手に装着した。

 一方、那歩は「マジか……!」と驚きを滲ませ、霜月は呆気に取られたように「オーマイガー」と口に出した。

 彗星は「そうだったんだ……!」と目を見開いたが、すぐに興味深げな表情へと変わり、天を見つめた。

「はじめまして、シエルさん!」と彗星は明るい声で言った。

 天は一瞬、身体を震わせ、困惑した。思考がまとまらず、言葉が出てこなかった。ましろんとイリスは、天の肩にやさしく手を置いて慰めていた。

 その光景を見た彗星はハッと気づき、同様に声をかけようとしていた那歩を制止すると、やさしい声で言った。

「ごめんなさい、シエルさん。いきなりでビックリさせちゃったよね?」

天はまだ緊張して目を伏せていたが、彗星は落ち着いた声で続けた。

「わたし、シエルさんの大ファンなんです! いつかお会いしたいって、ずっと思ってたの!」

 予想外の言葉に、天は驚きで目を見開き、ゆっくりと顔を上げ、彗星を見つめた。

「わたし、彗星。ロックバンド『ヒルシカ』のボーカルをやってます」と彗星は笑顔で名乗った。

「なっ!? バラしていいのかよ!?」と那歩が焦り気味に言うと、彗星はすぐに頷いた。

「だって、シエルさんの秘密を知ってしまったから、わたしたちも名乗らないと、フェアじゃないよね?」

「……まぁ、そうだな」

那歩も意外とあっさり納得し、天に目を向け、名乗った。

「おれは那歩。『ヒルシカ』のコンポーザーをしている」

 天が思考を整理する間もなく、霜月が続けて名乗り始めた。

「おれの名前は霜月薙士! 最強ラッパー『NAGINATA』、マジの! YEAH!」

 天がぽかんとした表情を浮かべていると、彗星、那歩、霜月の三人は、一斉に奏音に視線を向けた。その目には、「次はお前の番だ」と言わんばかりの圧が込められていた。

「な、なんだよ……?」と奏音はわずかに身を引いたが、三人の視線に込められた思いを察すると、ため息をつき、天に目をやった。そして、「……西奏音」と不愛想に名乗った。

 四人の視線が再び天に集まった。

天は反射的に俯き、視線を逸らした。「今すぐここから逃げ出したい!」という衝動がこみ上げたが、必死に深呼吸を繰り返し、高鳴る鼓動を押さえ込んだ。

彗星たちは決して天を急かすことなく、静かに見守っていた。

 天の心臓はまだ激しい音を奏でていたが、彼女は精一杯の勇気を振り絞り、顔を上げて四人を見据えた。口を開こうとしたましろんを制し、天は自分の口で静かに答えた。

「わ、わたしは、そ、天……です……」

名乗った直後、天は瞬時に目を伏せた。今の彼女にとって、ここまでが限界だった。

しかし、彗星は満面の笑みを浮かべ、那歩と霜月は小さく微笑み、奏音は真剣な表情を崩さなかった。

限界を超えた天の代わりに、ましろんが前に出た。

「ちなみに天ニャンは、キミたちの言ったとおり“シエル”だけど、それはヒミツニャ! 絶対、誰にも言っちゃダメニャ!」

ましろんは口元に手を当て「シーッ」というジェスチャーを見せた。

 その光景を見た四人が目を丸くして見つめた。

ましろんは構わず自己紹介をした。

「あっ、ましろんは、ましろん! 天ニャンの一番の相棒ニャ!」

 まるで時間が止まったかのような静寂が訪れ、ましろんは「あ、あれ……?」と戸惑った。その沈黙を破るように、「天様!」という大きな声が響いた。広間に一色が現れたのだった。

 一色の登場で、場の空気は一瞬にして張りつめた。

一色は慌てて天のそばに駆け寄り、迷いなく間に割って入ると、守るように立ちはだかった。奏音を鋭い目で睨みつけ、低く呟いた。

「西さん……また、天様を困らせていたのですね?」

「は?」奏音は思わず眉をひそめた。「何のことだ?」

「とぼけないでください!」一色は一歩前に出た。「あなたが天様を指差し、強く追及していましたね!」

一色はスマートリングを胸の前で構えた。それに応じ、リングから光が伸び、少し前の映像が浮かび上がった。音声は一切聞こえず、映像だけを見ると、奏音が天を脅しているように見えた。

「いや、これは……!」

奏音が困惑しつつ口を開いた瞬間、一色が鋭く割って入った。

「言い訳は聞きませんわ! 一度ならず二度までも……このまま黙って見過ごすわけにはいきません!」

 一色の勢いに、奏音は少し押され気味で、彗星、那歩、霜月の三人も呆然と立ち尽くしていた。

 そのとき、ましろんがそっと一色の袖を引いた。

「い、一色ニャン……違うニャ……」

「え……?」一色は目を丸くして振り返った。

「この人たちは、ただ天ニャンと話していただけニャ!」

 一色は一瞬硬直した。だが、すぐに状況を理解すると、向き直り、四人を見据えた。咳払いをして頭を切り替えると、姿勢を正し、ゆっくりと口を開いた。

「大変失礼いたしました」

一色は先ほどまでの鋭い眼差しはすっかり影を潜め、いつもの上品で優雅な雰囲気を取り戻した。スカートの裾を軽く摘み、優雅に一礼すると、涼やかな微笑みを浮かべた。

「少し早とちりをしてしまったようですわ。西さん、そして皆さま、不快な思いをさせてしまい申し訳ありません」

その場にいた全員が、一色の急激な変化に一瞬呆気に取られた。つい先ほどまで騎士のように天を守ろうとしていたかと思えば、今はまるで社交界の令嬢のような気品に満ちた佇まいだった。

「その威圧感におれ、畏縮! いずれ世界も皆、服従!」霜月は場を和ませるように軽口を叩いた。

一色は口元こそ笑っていたが、その目には笑みの欠片もなく、「うふふ、それはどういう意味でしょうか? 霜月さん……」と静かに問い返した。

「ウッ……!」霜月は言葉を詰まらせた。額には冷や汗が滲んでいる。

 那歩は自分に矛先が向かないよう口を閉ざしていた。

「そんなことより、あんたは知ってたのか?」奏音は話題を切り替え、一色に尋ねた。

「何のことですか?」と一色は問い返した。

奏音は一色の背後に隠れる天を指差して言った。

「そいつが、覆面アーティスト“シエル”だってことだ!」

「もちろん……」一色は言いかけたが、突然口を閉じ、動きが止まった。まるで時間が凍りついたかのように静止し、目を見開いたまま絶句した。やがて、ハッと我に返り、勢いよく振り返ると、「えぇぇぇぇ!? 天様があの“シエル様”でしたのぉぉぉぉ!?」と驚愕の声を上げ、その声は広間にこだました。

驚愕のあまり硬直していた一色は、咳払いで気を取り直し、声を震わせながらも平静を装った。「ま、まあ、知っていましたけれど……」。

「いや、その反応、どう考えても知らなかったヤツのリアクションだろ!」奏音がすかさずツッコんだ。

「余計なことは言わないでくださる?」

一色は優雅に微笑みつつも、目だけは鋭く光らせながら言い返した。

「さて――」と一色は話題を強引に切り替え、天の前で膝をつき、姿勢を低くして視線を合わせた。

「お出迎えが遅れてしまい、申し訳ありません」と一色は言い、頭を下げた。

「ニャ……!?」

ましろんは戸惑いつつも、素直に返した。

「一色ニャンが謝ることニャいニャ! それに、お出迎えニャんて、いらニャいニャ!」

 その言葉を聞いた一色は、絶望的な表情を浮かべ、ガクンと肩を落とした。

「そう……ですの……」と一色がうなだれると、ましろんはすぐにその落ち込みを察して、気遣うように口を開いた。

「で、でも、一色ニャンと久しぶりに会えて、ちょっと嬉しかったニャ……」

 ましろんが恥ずかしそうに言うと、一色はまるで花が咲いたかのようにパッと明るい表情を浮かべた。

「大変光栄でございます。ましろん様!」

 場の空気が少し和らいだ。

 そのやり取りを、奏音、那歩、霜月の三人はぽかんとした表情で見つめていたが、彗星は一歩前に出て一色の隣に並び、ましろんを見据えた。

「あ、あのー、もしよかったら、わたしとも友達になってくれませんか?」と彗星は控えめに提案した。

「え……!?」と天は思わず声を漏らし、キョトンとした表情で彗星を見つめた。彗星が微笑み返すと、天は照れたように目を逸らし、ましろんを盾にして顔を隠した。

 ま、まさか……あの『ヒルシカ』さんに、友達になってほしいなんて言われるなんて……う、嬉しすぎて、心臓が破裂しそう……!

 天は高鳴る鼓動を必死に抑えた。やがて、落ち着きを取り戻すと、ましろんがゆっくりと口を開いた。

「そ、天ニャンも、スイニャンと、友達にニャりたいニャ……」

「やった!」彗星は小さく拳を握りしめ、満面の笑みを浮かべた。「これからよろしくね! シエル……じゃなくて、天ちゃん……と、ましろん!」

「よろしくニャ! スイニャン!」

ましろんは朗らかに答えた。一方、天は胸の奥で緊張と喜びが入り混じるのを感じ、ぎゅっと手を握りしめた。

「あ、そうだ!」

彗星は思いついたように呟き、左手を顔の前に掲げ、スマートブレスレットにそっと指を触れた。ブレスレットから光が伸び、『ヒルシカ』のホームページが宙に浮かび上がった。そこには、ライブの日時と場所が載っていた。

全員の視線が、自然とホームページに向いた。

「来週の水曜日、色神スーパーアリーナでライブをやるんだけど、観に来ませんか?」と彗星は慎重に問いかけた。

「ニャ!? いいのかニャ!?」

「もちろん!」と彗星は笑顔で即答し、那歩に視線を向けた。その目には「いいでしょ?」と言っているような圧が込められていた。

 那歩には受け入れる以外の選択肢がなく、静かに頷くことしかできなかった。

 彗星は満足げに頷き、天に笑顔を向けた。

その光景を見ていた霜月は、「Oh……Yeah……」と同情したように小さく呟いた。

「じゃ、じゃあ、遠慮なくもらうニャ……!」とましろんは控えめに言った。

「チケットを送るね!」

彗星はホログラムをタップし、デジタルチケットを表示させた。

 天はイリスに視線を向けた。イリスは無言で頷き、天の前に浮かんだ。

「その子が、天ちゃんのパーソナルAI?」と彗星は尋ねた。

ましろんが静かに頷くと、彗星は笑顔で「かわいいね!」と言い、デジタルチケットをふわりと投げかけ、イリスに渡した。

 イリスはチケットを受け取ると、そっと胸元に当てた。チケットは細かい粒子となり、光の波紋を描きながらイリスの体内へと吸い込まれていった。

「ありがとうございます、彗星様。たしかに受け取りました」

イリスは丁寧に感謝を伝え、すぐに天の横に身を引いた。

「ありがとニャ!」とましろんが元気よく言い、天も「あ、ありがとう……」と小さく呟いた。

 彗星は微笑みながら満足気に頷いた。

そのとき、奏音が一歩前に出て、天を見据えた。

「おいっ! おれもあんたに話が――」

奏音がそう言いかけた瞬間、一色がそれを遮るように声を上げた。

「天様。このあとのご予定はお決まりでしょうか?」

「えっ、うーん……あ、図書館に行こうかニャ!」

「そうですか。では、わたくしがご案内いたしますわ」

「別に案ニャいはいらニャ……」

ましろんはそう言いかけたが、目を輝かせながら見つめてくる一色を見て、言葉を飲み込んだ。

(恐竜島の返事をしないといけないし、ま、いっか)

 天は心の中でそう呟き、ましろんが口を開いた。

「じゃ、じゃあ、お願いするニャ!」

「はい!」

一色は晴れやかな笑顔を浮かべ、天に手を差し伸べた。天は一色の手を軽く握った。

「では、皆さま、失礼いたしますわ」

一色が丁寧に一礼すると、彗星は「またね!」と笑顔で応じ、那歩と霜月も穏やかな表情で見送った。

だが、奏音だけは不満げな表情を浮かべていた。

天と一色が音楽棟の出口に差しかかったところで、奏音は声を上げた。

「おい! ちょっと待て!」

一色はふっと奏音を一瞥し、口元に微かな笑みを浮かべた。まるで「わたくしたちの邪魔は許しませんわ」とでも言いたげな、冷ややかで優雅な笑みだった。

奏音はその場に立ち尽くし、悔しげな表情を浮かべたまま、ただ静かに背中を見送った。天と一色の姿が見えなくなると、「チッ!」と舌打ちし、拳を握りしめた。

 その様子を、少し離れた場所から呉橋神楽がじっと見つめていた。彼女は壁に身を寄せ、唇にかすかな笑みを浮かべていた。その目は、まるですべてを見通しているかのように、静かに光っていた。そして、何もなかったかのように踵を返し、神楽はその場を後にした。


 図書館へ向かう途中、ましろんが恐竜島の返事を切り出した。

「一色ニャン、恐竜島のことだけど……」

「はい……」と一色は少し緊張した面持ちでましろんの返事を待ち構えた。

「みんニャに相談したら……」

少し溜めてから、ましろんはキリっとした目つきで一色を見つめ、明るい言葉で続けた。「行ってもいいってことにニャったから、ありがたく頂戴するニャ!」

一色は目を見開き、一瞬硬直したが、すぐに感極まったように両手で口を覆い、声を震わせた。

「ほっ、本当によろしいのですか?」

「ニャ!」

「あ、ありがとうございます」

「お礼を言うのは、ましろんたちの方ニャ……」

 一色は3Dホログラムのオーロラを呼び出し、恐竜島の電子チケットを宙に浮かび上がらせるよう頼んだ。オーロラがそれをイリスにそっと投げかけると、イリスは慎重に受け取り、胸の中に吸い込んだ。

「まだ行く日を決めてニャいけど、一色ニャンはいつがいいニャ?」とましろんは尋ねた。

「わたくしはいつでも構いませんわ。天様のご都合が第一です。何より大切な予定ですもの……!」と一色は満面の笑みで返した。

「そっか、わかったニャ!」

ましろんは楽しげに敬礼し、尻尾をぴょこんと動かした。

 会話が一段落したそのとき、天たちの背後で、突然「おう! こがね!」という少女の声が響いた。振り返ると、〈フリーデン〉のナンバーエージェント――『アハト』こと八月朔日葉月ほづみはづきが歩み寄ってきた。

天は一色の背後に素早く身を隠し、気配を薄めた。

 八月朔日は、色神学園の指定制服とは異なるセーラー服を身に纏い、スクールバッグを縦に背負っていた。バッグには、ハローミティやユーメロディ、シラモンロール、だいかわといった世代を超えて愛されるキャラクターのストラップがびっしりと並んでいた。

 それを見た瞬間、天は一瞬で目を奪われ、一色の背後から顔を出した。

「ごきげんよう、葉月さん」一色は落ち着いた声で返した。視線をストラップに向け、「あら? また少し増えましたか?」と尋ねた。

「おっ、気づいたか!」

八月朔日はバッグを胸の前に抱え、双子のキャラクターストラップを誇らしげに掲げた。「これが新入りだ!」

「ココ&ルル……」と天は思わずキャラクターの名前を呟いた。

 直後、八月朔日は素早く天に視線を向け、じっと見つめた。

天は慌てて一色を盾にして隠れたが、「……お前も、こいつら好きなのか?」という八月朔日の問いかけを聞いて、少しだけ顔を覗かせた。八月朔日の目が鋭く光り、興味深げに天を見つめた。

天は視線を逸らし、代わりにましろんをそっと前に出した。

「そのバッグ、とってもかわいくて、イカしてるニャ!」

 ましろんが答えると、八月朔日は一瞬驚いたように目を丸くしたが、「だろー!」と深く相槌を打ち、ストラップを見せながら早口でキャラクター愛を語り始めた。

「ココ&ルルは、キュートでファンシーなかわいさが魅力的だし、ミティちゃんは親しみやすくて普遍的なかわいさだろ! ユーメロディはこの大きなフードがオシャレでめちゃかわだし、シラモンロールはクルクルの尻尾がチャームポイント! しかも料理上手! そしてだいかわは、とにかく大きくてかわいいんだ! んで、こいつは――」

 八月朔日の話は止まる気配を見せず、このまま永遠に続きそうだった。

天とましろんは、ぽかんとした表情で見つめていたが、一色がわざと大きく咳払いをして場の空気を切り替えた。

八月朔日はハッと我に返り、静かに一色と視線を交わしてから、天とましろんに目を向けた。

「わりぃわりぃ。つい我を忘れて熱く語っちまった!」八月朔日はお茶目に笑った。

「ううん。キミのキャラクター愛がすっごく伝わってきたニャ! ちょっと感動したニャ!」

「サンキュー! 白猫!」と八月朔日は笑顔で言った。

「ましろんは、ましろんニャ!」

ましろんが訂正すると、「そっか……」と八月朔日は頷き、「サンキュー、ましろん!」と言い直した。

 ましろんは胸を張り、満足げに親指を立てた。

「あたいは八月朔日葉月! よろしくな!」と八月朔日は笑顔で名乗った。

「よろしくニャ!」ましろんは手を掲げて答えた。

 そのやり取りを、一色は穏やかに微笑みながら見守っていた。

 話が一段落すると、八月朔日は一呼吸置き、真剣な表情で一色に目を向けた。

「今、ちょっといいか?」

八月朔日がそう尋ねると、一色は天を一瞥し、確認を取った。

 天が小さく頷くと、一色は視線を戻し、「はい、何でしょうか?」と答えた。

 八月朔日と一色は、その場から少し離れ、天に背を向けて静かに言葉を交わし始めた。どうやら重要な話らしく、一色の「それは本当ですか?」「わたくしは特に……」といった断片的な声が時折漏れ聞こえた。

 話が終わると、一色は肩を落とし、名残惜しげに振り返った。

「天様……大変申し訳ありませんが、急用ができてしまいました。案内はここまででよろしいでしょうか?」と一色は心苦しげに問いかけた。

「あ、うん、全然大丈夫ニャ!」とましろんはあっさり答えた。

「ありがとうございます」一色は深く一礼した。「では、参りましょう」

「ああ」と八月朔日は返し、天を一瞥すると、「またな!」と声をかけ、二人はその場を後にした。

 天は二人が見えなくなるまで見送った。

(返事はできたし、あとは図書館を満喫しよう)

 天は心を弾ませながら、図書館へ向かおうと一歩踏み出した。その瞬間、横から「ねぇ、ちょっといいかしら?」という少女の声が飛び込んできた。

 天は自分が呼ばれているとは思わず、そのまま歩き続けた。だが、次の瞬間、「ねぇ、ちょっと待ってってば!」と声がさらに強く追いかけてきた。天はそれでも気にせず歩を進めた――が、ついに横から人影が割り込んできた。両手を広げ、天の進路を塞いだのは――呉橋神楽だった。

 天は反射的に、顔の前にましろんを構えた。

 神楽は鋭い眼差しで天を見据え、「あなたに話があるの……」と静かに告げた。



読んでいただき、ありがとうございます。

次回もお楽しみに。

感想お待ちしております。

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