茜の勧誘大作戦②
射撃場へ向かっている途中、姫島が茜の隣に並んで問いかけた。
「茜ちゃんたちは、誰かいい人見つけられた?」
「わりぃ、見つけられなかった」と茜は即答した。
「わたくしも同じく、見つけられませんでした。申し訳ありません」
茜の隣に並ぶ一色は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「そっか……」
姫島は残念そうに肩を落とした。
少し気まずい沈黙が流れたあと、一色が手を叩き、明るい声で場の空気を切り替えた。
「そんなに落ち込まなくても大丈夫ですわ。焦らず、一歩ずつ進みましょう」
その言葉に、姫島は元気を取り戻し、「うん!」と深く頷いた。
射撃場が近づくにつれ、乾いた銃声が一定のリズムで鳴り響き、空気が細かく震えていた。姫島と国東は慣れた様子で射撃場に足を踏み入れ、茜と一色がすぐ後に続いた。
射撃場では、部員たちが五十メートル先の的を狙い、真剣な表情で練習に励んでいた。
緊張感が漂う射撃場の中では、異様な存在感を放つ二人の姿が際立っていた。彼女たちの周囲だけ、さらに一段と張り詰めた空気が漂い、他の射撃部員とは明らかに異なる雰囲気をまとっていた。
一人は安心院朝霧だった。彼女は一切無駄のない動きで寸分の狂いもなく銃を構え、淡々と的の中心を撃ち抜いていた。
そしてもう一人は、〈フリーデン〉のナンバーエージェント『フュンフ』――五月皐月だった。彼女の動きも一つひとつが洗練され、銃口は迷うことなく的の中心を捉え、正確に撃ち抜いていた。
安心院とフュンフは隣り合わせで練習し、まるで無言の競い合いをしているかのような緊張感が漂っていた。
茜たちが安心院のもとへ行くには、フュンフの後ろを通らなければならなかった。
姫島たちは安心院を見つけると、彼女のもとへ歩みを進めた。茜もそれに続こうとしたが、フュンフがいるのに気づくと、思わず顔を背けた。イリスも茜の陰に身を潜めた。
茜はフュンフに気づかれないよう慎重にその背後を通り過ぎようとした。〈フリーデン〉のナンバーエージェントは総じて勘が鋭く、茜はできる限り接触を避けていた。
茜がフュンフの背後を通り過ぎようとしたその瞬間、隣を歩いていた一色が足を止めた。
一色はフュンフに気づくと、「あら、皐月さん!」と呼びかけた。
その声でフュンフは静かに振り返り、「あ、一色さん、おはよう」と返した。
「おはようございます」一色は微笑み返し、続けて尋ねた。
「今日は、お休みではありませんでしたか?」
フュンフは頷き、口を開いた。
「……家にいても特にすることないから、練習に来たの……」
「そうでしたの」
「一色さんは、何しにここへ?」
「射撃部の安心院朝霧さんに、ご用がありますの」
「安心院さんに……?」
一色とフュンフは、隣の安心院に目を向けた。
茜、姫島、国東の三人は、すでに安心院と向かい合って立っていた。
緊張感が包み込む中、安心院は鋭く冷たい視線で睨みつけていた。
茜は、一色とフュンフが会話している間に静かに通り過ぎ、安心院のもとへ辿り着いていた。無事、フュンフにバレることなく安心院の前に立つことができたのだが、新たな困難が茜を待ち構えていた。
こいつが安心院朝霧……なんとなく、玄に雰囲気が似てるな。
茜は心の中でそう思いながら、つい目つきが鋭くなっていた。
その光景を見たフュンフは、「なんか、重い空気が流れてるね……」と敏感に察知した。
「そうですか?」と一色はまったく気づいていなかった。
フュンフは一瞬ぽかんとした表情を浮かべた。
「では、皐月さん、失礼いたします」一色は軽くお辞儀をし、その場を後にした。
「うん、またね」とフュンフは笑顔で見送った。
一色は茜の隣に立ち、安心院の冷たい視線を受けて、ようやく事態を察した。顎に手を添え、「おかしいですわね……こんなはずでは……」と小さく呟いた。
茜は一色の発言にツッコんだあと、「明らかに警戒されてんじゃねぇか!」と小声で言った。
「いえ、まだわかりませんわ」と一色は返した。安心院と目を合わせ、やさしく微笑みながら「お久しぶりです、安心院さん」と柔らかい声で言った。
安心院は一色にじっと目を向けた。
「あなたはたしか……前に会った……」
「一色こがねです」
一色は軽くお辞儀をした。
安心院は茜たちを順に見回し、最後に一色に目を向け、ため息をついた。
「やっぱり、グルだったんですね」
「はい」一色はあっさり認めた。
その返答を聞いた瞬間、安心院の目つきがさらに鋭くなったが、一色はまるで動じることなく続けた。
「――以前もお伝えしましたが、わたくしたちは、廃部となったセレスティアボール部を復活させるため、部員を集めています。現在、姫島さん、国東さん、茜さんの三人が集まりましたが、あと二人足りません。そこで、安心院さんにぜひ、仲間になっていただきたいのですわ」
「三人……? あなたは部員じゃないの?」と安心院は問いかけた。
「わたくしはマネージャーです」
安心院は一瞬考えてから、鋭く指摘した。
「……わたしより先に、あなたが部員になるべきじゃないの?」
「わたくしには、安心院さんのような狙撃スキルがありません。適任ではありませんの」
「狙撃が上手くなくても、セレスティアボールはできるでしょ?」
「たしかに、人数さえ揃えば可能です……ですが、わたくしたちは、遊ぶためにセレスティアボール部を復活させるわけではありませんの」
「……何のため?」
一色はキリっとした目つきで安心院を見つめ、静かに、しかし力強い口調で言い放った。「わたくしたちの目標は、全国制覇です!」
安心院は一瞬目を見開き、言葉を失ったかのように驚きの表情を浮かべた。
一色はさらに続けた。
「――そのためには、安心院さんのようなスキルを持った選手が必要なのです! ですから……」
「そんな悠長なこと、言ってる場合じゃないでしょ?」
安心院は冷静に言葉を挟んだ。
「――部員がいないと、大会にも出られないのに……」とさらに詰め寄った。
「いいえ、大事なことですわ。大会に出られても、一回戦負けでは意味がありませんもの」
「勝つことだけが、すべてじゃないでしょ?」
「すべてです!」
一色は毅然とした声で断言した。その一言には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
一色の言葉に、安心院は目を丸くし、姫島と国東は圧倒されたように沈黙し、茜はほんの少し口角を上げた。
一色はさらに語気を強めて言った。
「――我が学園には様々な部活がありますが、皆、勝利を目指して日々努力を重ねています。勝つ意志がなければ、努力はただの自己満足で終わってしまう。『負けてもいい』なんて思いながら練習している生徒は、一人もいませんわ。安心院さんも、そうではありませんか?」
「ッ……!」安心院は言葉を詰まらせ、思わず視線を逸らした。
一色は胸の前で拳を握り、スマートリングを起動した。リングから淡い光が伸びると、安心院の情報が載ったホログラムが宙に浮かび上がった。
「安心院さんは、数々の射撃大会で優勝を果たしていらっしゃいますね。本当に素晴らしい成績です。同じ学園の生徒として、誇りに思います」
一色が穏やかに称賛すると、安心院は驚きつつも少し照れた様子を見せた。
一色は続けた。
「――これほどのことを成し遂げるために、絶え間ぬ努力を重ねてきたことでしょう。そしてその原動力は、勝ちたいという気持ちだったはずです」
一色がそう言い切ると、安心院は図星をつかれたような反応を見せた。
一色は宙に浮かんだホログラムを指先で軽やかに操作し、さらなる情報を表示させながら続けた。
「それに、ROBでもトップランカーのようですね……このレベルの狙撃スキルを持った生徒は、安心院さんの他いません! 安心院さんは、わたくしたちのチームに足りないものを持っているのです。ですから、あなたに入っていただきたいのです!」
一色は手を差し出した。
安心院は一色の勢いに気圧され、視線を泳がせた。
「わたし、セレスティアボールなんてしたことないんだけど……」
「それは心配要りません。安心院さんなら、すぐに慣れると思います」一色はやさしく微笑みながら言った。
「いや、でもわたしは……」
「――では、勝負をしませんか?」
一色は安心院の言葉を遮り、微笑を浮かべつつも挑戦的な声で提案した。
わずかな沈黙のあと、安心院はため息まじりに呟いた。
「また、勝負ですか……」
「はい。わたくしたちと、射撃で勝負してください」
「もう何度も勝負して、全部わたしが勝ってるんだけど……」
安心院は飽き飽きした様子で姫島と国東に視線を向けた。
姫島と国東は気まずそうに顔を背けた。
「今までは、安心院さんのデータを集めるための前哨戦です。お二人のおかげで、貴重なデータが手に入りました」と一色は余裕な態度で言った。
姫島と国東は目を見開き、思わず「えっ、そうだったの!?」と声を揃えた。一色の意外な発言に、二人の驚きがそのまま表情に現れていた。二人に対して、一色は微笑みかけた。
「データを集めただけで、わたしに勝てるとでも?」と安心院は挑発的に言い返した。
「はい。そのつもりで来ましたの」
安心院は一色の返答が気に障ったようで、一瞬ムスッとした。
「今日は、ここにいる三人が相手です。安心院さんには三人と順番に戦っていただきます。安心院さんが全員に勝てば、安心院さんの勝利……こちらが一勝でも取れば、わたくしたちの勝利、というルールでいかがでしょう?」と一色は冷静に提案した。
安心院は目を細め、鋭い視線で一色を見据えたあと、腕を組んで黙り込んだ。一色の提案は、彼女にとって明らかにリスクしかない。だが、その挑発的な態度と言葉が、彼女の心に潜むプライドに火をつけたのは間違いなかった。
安心院の反応をうかがいながら、一色はさらに続けた。
「――もし、わたくしたちが勝ったら、安心院さんにはセレスティアボール部に入っていただきます。安心院さんが勝った場合は……今日を最後に、わたくしたちは諦めます」
安心院の返事を待っている間に、茜はそっと一色に体を寄せ、小声で問い詰めた。
「おい! いくらなんでも強引すぎじゃねぇか? そんな勝負、受けるわけねぇだろ!」
「大丈夫ですわ」
一色は笑顔を浮かべ、落ち着いた声で答えた。
沈黙のあと、安心院はようやく口を開き、冷静に指摘した。
「その勝負、わたしには受けるメリットがないけど……」
「たしかにその通りです。なので、安心院さんが勝ったら、あなたのお願い事を、わたくしが可能な限り叶えて差し上げますわ」と一色は穏やかに微笑みながら答えた。
「えっ……?」
「お金で叶えられることであれば、大抵のことは実現可能です。何か欲しいものや叶えたい願いがあれば、遠慮なくおっしゃってください」
「……本気で言ってるの?」
「はい。さらに、安心院さんが三連勝した場合は、三つのお願い事を叶えて差し上げますわ」
「三つも!?」
安心院は目を見開き、思わず息をのんだ。そのまま腕を組み、何かを考え込むような仕草を見せた。その表情には、何か叶えて欲しい願いが浮かんでいる様子があり、彼女の心が揺らいでいるのが明らかだった。
「お前、毎回こんな強引な勧誘をしてんのか?」茜は眉をひそめて問いかけた。
「いつもではありません。特別な場合だけですわ」一色は涼しげに微笑みながら答えた。
「負けたらどうすんだ?」
「負けるつもりなどありません」
「そう簡単に勝てる相手じゃねぇだろ!」
「そ、そうだよ、こがねちゃん! 安心院ちゃん相手に射撃で勝とうなんて、無理だよ!」
姫島が慌てて割り込んだ。国東も焦りの表情で深く頷く。二人はすでに何度も安心院に敗北しているため、彼女の凄さをよく理解していた。
「いくらデータを集めたからって、たった一週間の付け焼刃で、勝てるとは思えないけど……」国東は冷静に指摘した。
「大丈夫ですわ。皆さんなら、必ず勝てます!」
一色は自信満々にそう言い切った。そして、声を落としながら続けた。
「――それに、わたくしたちの目的は、安心院さんを仲間にすること。必ずしも勝つ必要はありません」
「は? それってどういう……」
茜が怪訝な表情で聞き返そうとしたその瞬間、「わかりました。その勝負、受けます!」という安心院の声で打ち消された。
安心院の予想外の答えに、一色以外の三人はぽかんとした表情で固まった。
「ふふ……決まりですわね」一色は不敵な笑みを浮かべて言った。
その怪しげな笑みを見た茜は、心の中で呟いた。
(こいつ、また何か裏で企んでやがるな……)
こうして、セレスティアボール部と安心院の間で、運命を懸けた決戦の幕が静かに上がった。
ルールは、五十メートル先の標的を狙うライフル射撃。立射三十発で合計三百点満点という、シンプルながらも実力が問われる形式に決まった。
一週間前の作戦会議で、一色は茜たちに射撃の練習を指示していた。“安心院さんの好きなことを知れば、心の距離を縮められるはずですわ”と説明していたが、それだけではないようだった。射撃技術がセレスティアボールに役立つという建前の裏には、一色の別の意図が隠されていた。
茜はアルカンシエルで玄に助言をもらいながら、集中して射撃の基礎を学び、毎日コツコツと練習に励んでいた。その努力の甲斐あって、射撃スキルは短期間ながらも目に見えて向上していた。だが、国東が指摘した通り、たった一週間の付け焼刃では、全国クラスの安心院に挑むには到底及ばなかった。
セレスティアボール部は、姫島、国東、茜の順で安心院に挑んだ。姫島と国東は、実力差を思い知らされる惨敗。そして、茜は二人の期待を背負い、緊張した面持ちで射撃台に立った。
茜は深呼吸をして心を落ち着かせると、慎重にライフルを構えた。
結果、三人の中で最高得点を記録するも、安心院はさらにその上を行き、圧倒的な技術を見せつけた。
「わたしの勝ちですね」と安心院は自信に満ちた笑みを浮かべながら言った。
勝負に負けた三人は、何も言い返すことができず、ただ悔しさを噛みしめた。
安心院は得意げな顔で一色を見つめて言った。
「約束、覚えてる? わたしが勝ったら、どんな願いでも叶えてくれるんでしょ?」
「はい」と一色は笑顔で即答した。
安心院が満足げな表情を浮かべると、一色は「ですが……」と続け、「あと一勝負、していただけないでしょうか?」と提案した。
全員が驚きの表情を浮かべ、一斉に一色に目を向けた。
「何度しても、結果は変わらないと思うけど……」と安心院は冷静に指摘した。
「はい、射撃ではどうやっても勝てないことがわかりました。ですので……次は、ROBで勝負しませんか?」
「ROBで……?」と安心院は問い返し、「ROBで……!?」と姫島と国東も声を揃えて驚いた。
「セレスティアボールは動きながら相手と戦うスポーツなので、静止した状態で的を狙う射撃よりも、ROBの方が近いのです。つまり、ROBなら、さきほどよりもいい勝負ができますわ!」
「わたしは別に、いい勝負をしたいなんて思ってないんだけど……」と安心院は少し不満げに言った。
「そうですか……」一色は残念そうに目を伏せた。「では――」顔を上げ、穏やかな微笑みを浮かべながら、ゆっくりと安心院に歩み寄った。その動きに警戒心を抱く安心院だったが、一色の柔らかな仕草に一瞬気を緩めた。一色が手招きすると、安心院は慎重に顔を寄せた。
一色は低く甘い声で、そっと何かを囁いた。
その瞬間、安心院の表情がぱっと変わり、大きな瞳に驚きが浮かんだ。
「えっ……本当!?」安心院は思わず声を漏らした。
「はい、お約束しますわ」一色は笑顔で言った。
茜たちは、安心院の反応に驚きつつ、二人のやり取りに耳をそば立てて内容を聞き取ろうとしたが、囁き声のため何もわからなかった。
安心院は少し考えてから「……わかった」と了承した。
茜、姫島、国東の三人は「えっ!?」と驚きの声を揃え、それぞれの表情に戸惑いや疑念が浮かんだ。
「ありがとうございます」一色は微笑みながら言った。
「でも、一人ずつは面倒だし、全員まとめて相手してもいい?」と安心院は提案した。
「もちろんですわ」と一色は即答した。
「じゃあ、それでお願い」
こうして、急遽ROBで対戦することが決まったが……。
「おい、一色! 一体どういうつもりだ!」茜は声を張り上げ、慌てて一色に詰め寄った。その声につられるように、姫島と国東もすぐに一色のもとに駆け寄る。
「ROBで対戦するなんて、聞いてねぇぞ!」茜はさらに勢いを増して問い詰めた。
「はい、あえて言いませんでしたの」と一色は笑顔で答えた。
「安心院ちゃんって……ROBでもトップランカーだよね?」と姫島が恐る恐る尋ねた。
「ええ、そうですわ」と一色は頷いた。
「はっ!? マジかよ! なんでそんなヤツ相手に勝負を挑んだ? 勝てるわけねぇだろ!」と茜は言い切った。
姫島と国東も顔を見合わせながら、「あたしたちも、自信ないなぁ……」と弱々しく同調した。
「心配要りませんわ」と一色は涼しい顔で答え、意味ありげに茜を見つめた。イリスとも視線を交わし、小さく頷いた。
「……なんだよ?」と茜は問いかけた。
「いえ、なんでもありませんわ」
一色は意味ありげな笑みを浮かべ、切り替えた。
「――では、場所を移しましょう。皆さん、わたくしについて来てください」と促し、先導し始めた。
茜たちは疑心と不安を胸に、一色の後について行った。
一色と安心院は、廊下を並んで歩きながら静かに言葉を交わした。その表情はどこか穏やかで、親しげにも見えた。その後ろから、茜は一色を注意深く見つめ、彼女の読めない思考を推し量っていた。
こいつ、一体何を企んでやがる? いくら数的有利があっても、素人三人がトップランカーに勝てるなんて無理に決まってる。それでも自信満々でいるあの顔……絶対、何か企んでるな……。
茜は眉間にシワを寄せ、目を細めながら一色を見つめていた。すると、一色がふと茜の視線に気づき、ニコッと笑いかけた。茜は不意を突かれたように目を逸らしたが、すぐに表情を引き締めて視線を戻し、肩に座るイリスに小声で尋ねた。
「イリス……あいつ、何を企んでると思う?」
「うーん、さすがに思考までは読めないけど、勝負には勝つ気満々だね」とイリスは答えた。
「どうやったって勝てねぇだろ……何か勝算があんのか?」
「さあ……?」イリスは肩をすくめた。少しの沈黙のあと、「――でも、多分、玄ちゃんなら、安心院さんに勝てると思うよ」と意味ありげに言い添えた。
その言葉を聞いた瞬間、茜の頭にある推測が思い浮かんだ。
こいつ、まさか……玄がROBのトッププレイヤーだって知ってんのか?
茜は一色をじっと見つめた。彼女の微笑む横顔には、「もちろん、知っていますわ」と言わんばかりの自信が滲み出ているように見えた。
てことは、こいつの真の狙いは……。
茜が冷静に思考を巡らせていると、姫島が不意に問いかけた。
「茜ちゃん、どうしたの?」
「ん? あ、いや、なんでもない。少し考え事をしてただけだ」と茜は咄嗟に返した。
「考え事……? もしかして、ROBで勝つための作戦……?」
「えっ、あ~まぁ、そんな感じだ」
「そっか……あたしも考えてるんだけど、なかなかいい作戦が思いつかなくて……。何かいい案が浮かんだ?」
茜はとある作戦を思いついていたが、口に出さなかった。一つ気がかりなことがあったからだ。しばし間を置き、冷静に問いかけた。
「……やなぎ、お前、本気であいつを仲間にしたいと思ってるか?」
「えっ!?」姫島は一瞬戸惑いの色を見せたが、すぐに表情を引き締めて、力強く「うん、したい!」と頷いた。
「どうして?」
「安心院ちゃんが、あたしたちのチームにとって絶対に必要な人だと思うから!」
「それって、あたしたちの勝手な都合だろ? もし、あいつが本気で嫌がったら、その気持ちを無視して無理やり入部させるのは、間違ってるんじゃねぇのか?」
「たしかにそうだけど……」
姫島は安心院に視線を向け、茜も続いた。
「――安心院ちゃんは、本当にセレスティアボールが嫌いなのかな?」と姫島は呟いた。
「……あたしにはそう見えるけど、違うのか?」
「まだ確信はないけど……なんとなく、今の安心院ちゃんは、本心を隠してる気がする。表情や言葉に少し違和感があるっていうか……この勝負に勝ったら、それがわかる気がするの。だから、勝ちたい!」
「……もし勝っても、あいつが本気で入部を拒否したら、どうするつもりだ?」
「そのときは、安心院ちゃんの意志を尊重するよ!」
「そっか……わかった」
茜は姫島の強い意志を感じ取り、心の中のわだかまりが少しずつ解けていくのを感じた。そして、自然と一色の方に目を向ける。
あいつの策に乗るのは正直ムカつく……けど、部のためだ。やるしかねぇ。安心院を仲間にするためなら……!
茜は深く息を吸い込み、瞳を鋭く細め、自分の中に秘めていた作戦をついに実行する決意を固めた。
茜たちは静まり返った空き教室に足を踏み入れ、それぞれ気ままに席に着いた。
一色は教壇に立ち、全員の視線を引き寄せると、堂々とした口調でルール説明を始めた。
武器の使用はすべて可、バトルフィールドはランダム、制限時間なし。対戦形式は三対一となった。
一色がルール説明を続ける中、茜は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。心を落ち着かせるように数回呼吸を繰り返し、瞼を開けた瞬間、そこには『アルカンシエル』の広大な草原が広がっていた。
そこで玄の姿を思い浮かべると、目の前に黒いドアが現れた。
茜はドアをノックし、「あたしだ! お前に頼みがある。入るぞ!」と声をかけ、返事を待たずにドアを開けて足を踏み入れた。
部屋の中は、白、黒、グレーのモノトーンカラーで装飾され、綺麗に整理整頓されていた。床、壁、天井はすべて白で統一され、清潔感が漂っている。壁には黒い額縁に収められたモノクロの絵画が整然と飾られ、机、ソファ、本棚も黒一色で揃えられていた。本棚には最新の学術書や小説がぎっしりと並び、ソファの片側には白、黒、グレーの三色のクッションが端正に寄せられている。ベッドは純白で、まるで雲のようなふかふかの掛け布団に玄は包まれて眠っていた。
茜は迷わず玄が寝ているベッドへ向かい、見下ろしながら、「おい、まだ寝てんのか! いい加減起きろ!」と声をかけた。
「ん~、あと一日……」と玄は微かに呟き、布団を頭まで深く被りながら背を向けた。
「そんな悠長なこと言ってる場合じゃねぇ!」
茜は容赦なく布団を掴み、一気にはぎ取った。
パンダの着ぐるみパジャマを着た玄の姿が露わになった。
玄は一瞬、体を縮こまらせたが、次の瞬間、目を見開き、素早く起き上がると、茜に右拳を放った。
茜は冷静に玄の拳を手のひらで正確に受け止めた。衝撃が空気を震わせ、周囲の家具や壁にかけられた絵画までも微かに揺らした。
玄は鋭い目つきで茜を睨みつけながら問いかけた。
「どうしてあんたがここにいるの? 今日は火曜日でしょ……?」
「お前に頼みたいことがある」と茜は真剣な眼差しで言った。
「頼みたいこと……? 何かしら?」
玄は問い返しつつ、まるで頼みを拒絶するかのように拳に力を込めて押し込んだ。
茜も対抗し、受け止めた拳を押し返しながら「まずは拳を下げろ」と怒り混じりに言い返した。
二人の力が激しくぶつかり合う中、茜の真剣な眼差しが玄の心にわずかな迷いを生じさせた。やがて、玄は静かに拳を引き、肩を軽く上下させながら、ゆっくりとその手を下ろした。改めて茜に視線を合わせると、冷静に問いかけた。
「で、わたしに頼みたいことって、なに?」
茜は一呼吸置き、気持ちを落ち着かせてから口を開いた。
「今から安心院朝霧ってヤツとROBで対戦することになったんだ。でも、あたしじゃ勝てねぇ。だから、代わりに戦ってくれ」
「は……? どうしてわたしが?」
「お前なら勝てるからだ!」茜は玄の目を真っ直ぐ見つめた。
玄は少し間を置き、「……断るわ」と静かに返した。「それはあなたの問題でしょ? 自分で解決しなければ意味がないわ」と冷静に言い放った。
「それができねぇから、頼んでんだよ!」
玄は呆れたようにため息をついた。
「そもそも、わたしたちはお互いの生活には極力干渉しないって決めてたでしょ?」
「基本はそうだけど、例外もあるだろ! 緊急のときや“シャッフルウィーク”のときとか……今回は緊急なんだよ!」
「ROBで対戦することが緊急なの?」
「あたしにとっては大事なことなんだ!」
茜の真剣な想いが、玄にはあまり伝わっていなかった。そのため、茜はとっておきの作戦を決行することにした。
「お前、本当にあたしの頼みを断るつもりか?」茜は挑発するように言った。
「……どういう意味?」と玄は聞き返した。
「あたしに一つ、借りがあるだろ?」
「借り……?」玄は眉をひそめた。
「忘れたのか? 三ヶ月前、お前が“おばけ”を見たって怯えてた……あの夜のことだよ」
その瞬間、玄は「ちょっと!」と声を上げ、顔を赤くしながら素早く彼女に飛びかかった。両手で茜の口を塞ぐと、すぐさま周囲を見渡した。聞いた者がいないか慌てて確認し、近くに誰もいないとわかると、安堵の息をつき、茜に鋭い視線を向けた。
「それは誰にも言わない約束でしょ!」玄は冷や汗を流しながら小声で詰め寄った。
茜は玄の手首を掴み、口からゆっくり離すと、「ああ、誰にも言うつもりはねぇよ」と返した。さらに続けて、「――でも、あの日は大変だったなぁ。いきなり入れ替わったと思ったら、目の前に武器を持った男がいたから。あれは、さすがのあたしもどうすればいいか……」とわざとらしくに言った。
「あーもう、わかったわよ! 代わればいいんでしょ!」と玄は声を上げ、やむなく受け入れた。「今回だけだからね! これで貸し借りはなしよ!」と念を押した。
「ああ……」茜はニヤリと笑い、頷いた。
茜は細かい事情の説明は省き、「ROBで安心院朝霧に勝ってくれ」ということだけを簡潔に伝えた。
玄はソファに腰を下ろし、静かに目を閉じた。茜の「頼んだぞ!」という信頼のこもった声が、玄の耳に強く響いた。
数秒後、玄がゆっくり目を開けると、姫島と国東の顔が至近距離に迫っていた。驚くほど近く、二人の目がじっと玄を見つめていた。玄が思わず、「うわぁ!」と驚きの声を上げると、二人も同じように驚き、後ろにのけ反った。
姫島は慌てて姿勢を正し、「あ、茜ちゃん、大丈夫?」と心配そうに尋ねた。国東も、「具合でも悪いの?」と柔らかい声で続いた。
玄は素早く視線を動かし、周囲を確認した。姫島と国東の背後には、一色と安心院の姿が見えた。
玄は一瞬で現状を把握すると、「ううん、大丈夫。ちょっと集中力を高めてただけだから、心配しないで」と冷静に答えた。
「そっか、よかった」姫島は安心したように息をついた。
「何度呼びかけても気づかないから、驚いたよ」国東も安堵の表情を浮かべた。
「ごめんね」と玄は短く返した。
この短いやり取りを目にした一色は、はっと何かに気づいた様子で玄を見つめた。
「それより、早く始めましょう」
玄は急かすように促した。中身が代っていることに気づかれないうちに、この場を切り抜けなければならないからだ。だが、姫島と国東はぽかんとした顔で玄を見つめた。
「ん? どうしたの?」と玄は尋ねた。
「あ、いや……なんか茜ちゃん、いつもと喋り方が違うから……」姫島は少し困惑しながら言った。
玄ははっとした。
しまった! 今は茜だったわね。わたしとしたことが、油断していたわ。口調も気をつけないと……。
玄は一度咳払いし、「す、すまない。少し気分転換しようと思って……」と、ぎこちなく弁解した。
気まずい沈黙が漂う中、一色が突然、軽やかに手を叩いた。その音が静寂を破り、全員の注意を引きつけた。
「皆さんの準備も整ったようですし、試合を始めましょう!」
一色が明るい声で言うと、自然と空気が和らいだ。
一色は柔らかく微笑みながら、玄に意味深なウインクを送った。その表情には、中身が代わっていることを見抜いているかのような確信があり、余裕すら感じさせた。
静かな教室の中、全員がそれぞれの量子デバイスを起動し、一斉に「コネクト・オン」と呟いてROBの世界に飛び込んだ。
一色が専用の部屋を用意したため、ロビーには五人だけだった。全員、現実世界とほぼ同じ見た目のアバターだった。
玄は自分のアカウントを使うわけにはいかないため、新たに茜のアカウントを作成してログインした。見た目は茜そのもので、違和感を覚えつつもすぐに気を引き締めた。
玄(茜)は『AKA』、姫島は『HIME』、国東は『KUNI』、安心院は『リリーフ』、そして一色は『ドール』というプレイヤーネームを使っていた。
一色がルールの設定をしている間に、四人は装備品を選んだ。姫島、国東、安心院はアサルトライフル、玄はハンドガンとナイフを装備した。
「えっ、そんな装備でいいの?」と安心院は驚いた様子で玄に問いかけた。
「ええ……じゃなくて、ああ!」と玄はあっさり答えた。
設定を終えると、一色は四人に視線を向けた。四人と視線を交わしたあと、目の前に浮かぶホログラムに視線を戻し、転移ボタンを押した。
四人の足元に白い光の円が静かに浮かび上がった。その光はゆらめきながら徐々に明るさを増し、やがて四人の輪郭をぼやけさせるほどに広がり、瞬く間に全身を飲み込んだ。
一色は四人に優雅な微笑みを向け、軽やかな声で言った。
「ではみなさん、健闘を祈っていますわ」
四人は白い光に包まれ、ロビーから跡形もなく消え去った。
一色は静かに椅子に腰を下ろし、壁にかかった巨大スクリーンを見つめながら、口元に薄く微笑みを浮かべた。その眼差しには、試合以上に何かを期待しているかのような鋭さが宿っていた。
今回のバトルフィールドは、大小さまざまな箱型コンテナが密集する、半径約二百メートルのエリアだった。コンテナは無造作に積み上げられ、狭い通路や死角をいくつも作り出している。まるで巨大な迷路のように入り組んでおり、どこから敵が現れるかまったく予測がつかない。
玄、姫島、国東はエリアの南側、安心院は北側に転送された。
AIアナウンスがルールを読み上げ始めた。
姫島と国東は、緊張した様子で手に汗が滲んでいた。
一方、玄は……。
(さっさと終わらせよう)
心の中でそう呟いた。
試合開始の合図が響いた瞬間、玄と安心院が同時に動き出した。玄の軽快な動きに、姫島と国東は驚き、しばらくその場に硬直した。瞬く間に、二人の視界から玄は消え去った。
安心院は慣れた様子で迷うことなくルートを選択しながら突き進んだ。
玄は疾風のごとくコンテナを越え、隙間の広い箇所も軽やかに跳び越えては、すぐに加速した。その動きには一切の無駄がなく、まるで戦場に慣れた狩人のようだった。
一方、口を開けて固まっていた二人は、しばらくしてはっと我に返った。
「わたしたちも行こう!」と姫島が声を上げ、二人はようやく進み出した。
安心院はある程度距離を詰めると、コンテナに身を隠しながら先を見通し、慎重に進み始めた。
「相手は三人……おそらく三方向に分かれて挟み込んでくるはず……挟まれる前に、まずは二人を倒す」と安心院は小さく呟いた。その表情には余裕の笑みが見られる。
しかし次の瞬間、安心院は突然気配を感じ取り、足を止めた。目を閉じて耳を澄ますと、遠くから鉄を踏みしめる音が聞こえ、それが物凄いスピードで近づいていることに気づいた。
「この音……まさか!?」
安心院は目を開け、素早く視線を上げた。その瞬間、玄(茜)の姿を捉えた。
玄はコンテナを跳び移る一瞬の間に、下にいる安心院の姿を捉えた。
「見っけ!」
小さく呟き、空中で素早くハンドガンを構えると、迷いなく引き金を引いた。
安心院は反射的に横に転がって玄の放った弾を避けた。その勢いのまますぐに体勢を立て直し、走って近くのコンテナに身を潜めた。あまりの驚きで、鼓動が速くなった。
「あ、危なかった……ほんの一瞬でも遅れていたら、終わってた……」
安心院は息を整えながら冷や汗を拭った。玄の圧倒的な動きに、安心院の脳裏に「あの人、初めてじゃないの?」という疑念が浮かんだ。焦りと疑念が渦巻く中、胸に手を当てて深呼吸し、無理やり落ち着かせようとした。そのとき、人の気配を察知し、コンテナから少し顔を出して慎重に周囲を見渡した。
身を隠す物が一切ない開けた場所に、玄(茜)がゆっくりと姿を現した。
玄は開けた場所の中心で立ち止まると、安心院が潜んでいるコンテナを真っ直ぐに見つめた。すでに安心院の居場所を特定していた。
しばらくして、警戒した様子の安心院も姿を現し、玄と対峙した。ライフルを構え、すぐにでも引き金を引くことができる状態だった。
一方、玄は右手にハンドガン、左手にナイフを握り、両腕をゆったりと下げていた。隙だらけに見えるが、その眼差しは冷静で鋭く、挑発的な気配すら漂わせていた。
静寂の中、緊張した空気が辺りを包み込む。乾いた冷たい風が、二人に間に吹き抜けた。
安心院は深く息を吸い、緊張を抑えながらじっくりと照準を合わせた。引き金を引く瞬間、頭の中で「この一撃で仕留める」と確信した。放たれた弾丸は、真っ直ぐ玄の眉間を狙って飛び出した。
玄は安心院のわずかな視線の変化と銃口の動きから、弾丸の軌道を正確に読み取った。放たれた瞬間、まるで弾道が見えているかのように、首を軽く横に傾けて弾丸を紙一重で躱した。
「なっ!?」
安心院は思わず驚きの声を漏らし、目を見開いた。すかさず次の弾丸を数発放った。
玄はそれもすべて見切り、わずかな動きで難なく避けた。次の瞬間、地面を強く蹴り、安心院に向かって一気に突撃した。
安心院は冷静に玄に照準を合わせた。次の一発で確実に仕留めるつもりで、玄が躱せない距離まで近づくのをギリギリまで待った。そして「今だ!」と判断した瞬間、迷わず引き金を引いた。
玄は安心院の指の動きから発射の瞬間を見極め、弾が放たれると同時にナイフを振り上げ、鋭い軌道で弾を弾き返した。その一瞬の動きは、精密機械のような正確さだった。
玄は一気に距離を詰めると、回し蹴りでライフルを弾き飛ばし、そのままハンドガンを胸元に突きつけた。「これで終わりね」——冷静に呟くと同時に、引き金を引いた。
安心院は胸を撃ち抜かれ、静かにその場に倒れた。彼女の視界は暗くなり、目の前に「YOU DIED」と表示された。
試合終了の合図がフィールド全体に鳴り響いた。
「リリーフ、死亡……。よって、セレスティアボールチームの勝利」とAIアナウンスが宣言した。
姫島と国東は足を止め、ぽかんとした表情で空を見上げた。すぐに状況を飲み込めず、「えっ!?」と驚きの声を漏らした。
玄は一足先にロビーに戻った。
「悪いけど、疲れたから、先にログアウトするわね」と一色に一言伝え、メニュー画面を開き、すぐさまログアウトボタンを押した。
「お疲れ様でした、玄さん」一色は微笑を浮かべながら見送った。
玄は光に包まれながら「えっ!?」と驚き、一色に視線を向けた。次の瞬間、視界が真っ白に包まれ、現実世界の教室へと戻った。
静寂の中、玄だけが先に目を覚ました。姫島、国東、安心院、一色はまだ机に突っ伏している。
「バレてたのね……」と玄は小さく呟き、一色に目を向けた。
「まあ、彼女なら気にする必要もないわね。あとは茜に任せましょう」と自分自身に言い聞かせ、納得した玄は、静かに目を閉じた。そして次の瞬間、意識はアルカンシエルの草原へと飛んだ。そこには、茜が立っていた。
茜は玄に歩み寄り、「お疲れ!」と明るい声で言った。
玄はため息をつき、「約束は守ったわよ。これで貸し借りはなしだからね」と言った。
「ああ、サンキュー!」茜は微笑んだ。
戻った茜は、ゆっくりと教室を見渡した。他のみんなはまだ机に突っ伏し、VRゲームの中だったが、次の瞬間、一斉に戻り、静かに顔を上げた。
姫島は目覚めた瞬間、慌てて茜のもとへ駆け寄った。
「茜ちゃん、どういうこと!? ROBはしたことないんじゃなかったの? 一体どうやって勝ったの!?」と姫島は興奮気味に詰め寄った。
国東も身を乗り出す勢いで茜に迫り、一色は得意げな表情を浮かべていた。
「ん~、まぁそうなんだけど……勢いに任せてやったら、たまたま勝てた」と茜は軽い調子で答えた。
「えっ、それだけ……?」姫島は拍子抜けしたような表情を浮かべた。
「そんな理由で勝てるとは思えないけど……?」国東は疑念を抱いた。
「まあ、勝ったんだから良いじゃねぇか! そんなことより、大事なのはここからだろ?」
茜は強引に話題を逸らし、安心院に視線を向け、姫島と国東も後に続いた。
安心院は静かに俯いていた。負けたのが悔しいのか、体をわずかに震わせていた。
姫島は気まずそうな表情を浮かべたが、顔を横に振って気持ちを切り替えると、穏やかな表情で気遣うように声をかけた。
「安心院ちゃん……勝負を受けてくれて、本当にありがとう。……ごめんね、無理やりあたしたちの都合に巻き込んでしまって……安心院ちゃんが嫌なら、無理にセレスティアボ―ル部に入らなくてもいいから」と口惜しそうに言った。
しばし、気まずい沈黙が流れたあと、安心院がようやく口を開いた。
「……いえ、約束は守ります」
「え……?」姫島は思わず声を漏らした。
安心院は顔を上げ、姫島に目を向けて宣言した。
「……わたし、セレスティアボール部に入部します!」
姫島は一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、少しの静寂が流れたあと、「えぇぇぇぇ!? いいの!?」と驚きの声を上げた。
茜と国東も予想外の展開に驚愕の表情を浮かべたが、一色だけは得意げな顔をしていた。
「約束は約束です」と安心院はあっさりと言った。
「そんなことより……」と切り出し、茜に鋭い視線を送ったかと思うと、一瞬のうちに間合いを詰めた。
「あ、あなたは、ま、ま、まさか……ノワール様ですか!?」と安心院は目を輝かせながら茜に問い詰めた。
「は……?」茜は困惑の表情を浮かべた。
「ノワール?」と姫島は首を傾げ、国東も怪訝な表情を浮かべた。
「ノワール様は、わたしが尊敬するROB界のトッププレイヤーです! 皆さん、本当に知らないんですか!?」と安心院は驚きと興奮の混じった声で言った。
突然の安心院の変わりように、茜、姫島、国東の三人は呆然としていたが、一色だけは、すべてを見通しているかのような目で、静かに微笑んでいた。
「それって、前に安心院ちゃんが言ってた、尊敬してる人のこと?」と姫島が尋ねると、安心院は深く頷いた。
茜は静かに考え込んだ。
ノワール? どこかで聞いたことあるような……。
少しして、はっとし、『ノワール』が玄のプレイヤーネームであることを、茜は思い出した。
ノワールって玄のことじゃねぇか! まさか、さっきのプレイでバレたのか? チッ、どうにかして誤魔化せねぇと……。
茜が考えていると、一色が横から割って入った。
「安心院さん。茜さんは、ノワール様ではありませんわ」と一色ははっきりと言い切った。
安心院は一色に視線を向けた。
「えっ……でも、さっきの動きは明らかにノワール様の……」
「茜さんには、他人の戦闘スタイルを完璧にコピーする特技があるんです」
一色の言葉に、誰もが驚きを隠せなかった。
「コピー?」安心院は眉をひそめた。
「安心院さんに勝つために、ノワール様の戦闘データを徹底的に研究して、そっくりそのまま再現したというわけです」と一色は言い、茜を一瞥してウインクした。
「ノワール様の動きを、あんな忠実に再現できるものなの……?」と安心院は呟きながら、疑念の目を茜に向けた。
「ま、まあ、一週間もあれば、あれくらい楽勝だ!」と茜は咄嗟に一色の話に合わせた。
安心院はじっと茜を見つめた。その視線に耐えられず、茜は目を逸らした。
「そ、そんな特技が……!?」と姫島は驚きの声を上げた。
「そんなの、初耳だよ……」と国東は呟いた。
やがて、安心院は深い息をつき、ようやく受け入れた。
「まあ、今日のところはそれでいいわ。どうせこれからチームメイトになるんだし、いずれわかること…」
そう言って、茜を見つめた。
「は、はは……そうだな……」茜は作り笑いで返すことしかできなかった。
一色が手をパンッと鳴らして場の空気を切り替えると、全員の視線が一斉に集まった。
「では皆さん、話もまとまったことですし……行きましょうか」と一色は微笑みながら、背を向けた。
「え、行くって、どこへ?」
姫島が尋ねると、一色は微笑みながら「ふふ、内緒です」と答え、教室を後にした。
茜たちはどこへ向かうかもわからないまま、一色の後をついて行った。
数分後、茜たちは食堂の六人掛けの丸テーブル席に座っていた。
茜は一色と安心院の間に挟まれ、向かいの席に、姫島と国東が座っていた。
「では、色神学園セレスティアボール部に安心院朝霧さんが加わったことを祝して――」
一色がそう言うと、姫島と国東が「カンパーイ!」と声を揃え、ジュースやお茶の入ったグラスを「コツン」と合わせた。安心院も控えめにグラスを掲げた。
テーブルには色とりどりの料理が所狭しと並び、皆それぞれに箸を伸ばしていた。
しばらくして、茜は思わずツッコんだ。
「……って、おい! また歓迎会かよ!」
「はい。チームメイトと親睦を深めるのは大事なことですわ!」と一色は笑顔で答えた。
「そんなこと言って、お前が一番楽しんでんじゃねぇか!」
「マネージャーとして、場を盛り上げるのは当然の務めです」
一色が誇らしげに胸を張ると、茜はすかさず「胸を張るな!」と鋭くツッコんだ。
「うふふ……」と一色は微笑み、周囲に視線を向け、茜も続いた。
茜の視界に飛び込んできたのは、食事や会話を楽しむ姫島、国東、そして安心院の姿だった。姫島と国東は、大皿に盛られた唐揚げを分け合いながら笑顔を交わし、安心院はブドウを一房ずつ摘みながら、どこか控えめにその場の雰囲気を味わっていた。
「ねぇねぇ、これから安心院ちゃんのこと、“朝霧ちゃん”って呼んでもいい?」と姫島が尋ねた。
安心院は手を止め、一瞬目を見開いたあと、照れくさそうに顔を背けた。頬を赤らめ、「べ、別に……いいですけど」と小さな声で呟いた。
「やったー! よろしくね! 朝霧ちゃん!」姫島は満面の笑みを向けた。
「よ、よろしく……」安心院は恥ずかしそうに目を逸らしたまま言った。
その光景を見た茜は、思わず微笑み、自然と笑顔がこぼれた。隣で一色も柔らかな目を向けていた。穏やかな雰囲気のまま、安心院の歓迎会が進むと誰もが思っていたその矢先、次の話題で空気が一変した。
「でもよかった。朝霧ちゃんが入ってくれて! 本当にありがとう!」と姫島は改めて感謝を伝えた。
「入部しただけでそんなに喜ばないでください。まだ戦力になるかわからないのに……」と安心院は自信なさげに言った。
「朝霧ちゃんなら大丈夫だよ! あの狙撃力は、絶対セレスティアでも活かせるから!」と姫島は自信満々に断言した。
「いえ、そうじゃなくて……」
安心院は気まずそうに目を泳がせた。姫島が目を丸くして見つめる中、安心院はゆっくりと口を開いた。
「……実は、わたし、ほうきに乗れないんです」
安心院が目を伏せたまま告げると、姫島が「えっ……?」と声を漏らした。国東と茜も思わず手を止め、場の空気が一瞬で凍りついた。
安心院は続けて言った。
「小さい頃、初めてほうきに乗ったとき、高いところから落ちてしまったことがあって……幸い大きな怪我はしなかったんですけど、そのときの恐怖が、どうしても消えなくて……」
茜たちは言葉を失った。
しばらくして、沈黙を破ったのは、一色の明るい声だった。
「心配要りません。安心院さんなら、すぐに飛べるようになりますわ!」一色は屈託のない笑顔ではっきりと言い切った。
姫島もはっと我に返り、「そ、そうだよ! 朝霧ちゃんなら、きっと克服できるよ!」と前向きな言葉をかけた。
「わたしたちも協力するから、大丈夫だよ」と国東もやさしく言った。
安心院は少しだけ表情を和らげたが、まだ不安の色が消えず、そっと茜に視線を向けた。その目には、茜からの言葉を求めるような切実さが宿っていた。
茜は安心院の気持ちを汲み、真っ直ぐな視線で見つめ返した。
「怖いのは無理もねぇ。でも、朝霧ならきっと乗り越えられる。これからは仲間なんだ。みんなで力を合わせりゃ、きっとどうにかなる!」と茜は力強く言った。
その言葉を聞いて、安心院の表情に浮かんでいた不安の色が、スッと消えていき、純粋な笑顔がこぼれた。
歓迎会のあと、セレスティアボール部一同は、グラウンドへと向かった。一色以外の四人は専用スーツに着替え、ほうきを握りしめて立っていた。
一色は軽く手を叩き、全員の注目を集めると、場を仕切り始めた。
「では、ほうきに乗る練習を始めましょう!」
全員が真剣な表情で頷くと、一色は茜に目を向けた。
「茜さん、一度、お手本を見せていただいてもよろしいですか?」
茜は軽く頷くと、すぐにほうきに跨った。両手で柄をしっかりと握りながら、ボタンを押して起動した。心地よい振動とともに、ほうきが静かに浮き上がる。茜は手の力をほどよく抜き、地面を軽く蹴ると、ふわりと宙に浮いた。徐々に高度を上げ、空中で優雅に旋回し始めると、地上から見上げる姫島たちが「おぉー!」と感心したように声を上げた。
しばらくしてグランドに降り立つと、茜は安心院に言った。
「じゃあ、早速乗ってみるか!」
「えっ……!? もう?」安心院は困惑の表情を浮かべた。「何かコツは……?」
「コツか……」茜は一瞬考え込んだ。「サッと乗って、スーッと飛ぶだけだ!」とジェスチャーを交えながら説明した。
「サッと乗って、スーッと……?」安心院は繰り返した。
「もう一回やってみせようか?」
茜はそう提案したが、一色が素早く間に割り込んだ。
「茜さんは感性で話すタイプなので、ここはわたくしが、理論的にサポートいたしますわ」と一色はにこやかに言葉を挟んだ。
「おい、一色! お前、何を――」
茜がそう言いかけた瞬間、今度は姫島と国東が慌てて寄ってきた。
「茜ちゃんはROBで活躍したから、少し休んでていいよ!」と姫島が言い、「ここはわたしたちに任せて、ね!」と国東が言い添えた。
「えっ、でも……」
茜は納得できずにいたが、安心院が「よろしく」とあっさりと了承し、やむなく引き下がった。
茜が不満そうにしていると、イリスが無言でそっと飛んできて、肩に手を置いた。静かに首を横に振るだけで、茜に気持ちを伝えた。
「では、改めて説明しますね」一色は切り替え、説明を始めた。
「まず、怖いという気持ちはとても自然なことです。実を言うと、わたくしも初めてほうきに乗った時は何度も落ちてしまい、そのたびに地面に叩きつけられる恐怖でほうきに触れるのさえ躊躇したものです」
「あなたも?」と安心院は尋ねた。
一色は頷き、さらに続けた。
「ですが、その怖さを知っているということは、それだけ慎重に行動できるということ。実は、それが一番の強みになるんです。急がず無茶をしなければ、ほうきは必ずあなたの味方になってくれますわ」
一色は安心院に歩み寄り、彼女の肩にやさしく手を乗せた。
「では、安心院さん。まずほうきに跨がってみましょうか」とやさしく促す。
安心院は緊張と恐怖が入り混じった顔で、目を細めながらほうきを握り締めた。手はわずかに震え、逃げ出したい気持ちを必死に押し込めているようだった。
「……大丈夫ですか?」
一色がそっと尋ねると、安心院はこわばった笑顔を浮かべ、ぎこちなく頷いた。その瞳には隠しきれない不安の色が宿っていた。
姫島がそれに気づき、心配そうな表情で声をかけた。
「朝霧ちゃん……今日はここまでに――」
「いや、大丈夫……」
安心院は姫島の言葉を遮り、無理にほうきを握り締めた。
その様子を見た姫島が寄り添いかけたが、そのとき、一色が静かに手を挙げて制した。
安心院は深呼吸を繰り返し、覚悟を決めた表情を浮かべながら、慎重にほうきに跨った。だが、彼女の動きはぎこちなく、肩には緊張が張り詰めていた。
「大丈夫ですわ」
一色はやさしく声をかけ、安心院の手元を確認しながら指導を始めた。
「両手で柄を握り、しっかりと支えを感じてください。ただし、力を入れすぎると逆にバランスが崩れますので、軽く握るくらいがちょうどいいですわ」
安心院は一色の指示通りに握り直し、少しずつ姿勢を整えた。だが、心の中の不安は完全には消えない。一色はそんな安心院に、さらにやさしく声をかけた。
「重心は真ん中。左右に偏らないように意識してください。あと、視線も大事です。下を見ると怖くなるので、できるだけ遠くを見ましょう」
「下を見ないで……遠くを見る……」
安心院は一色の言葉を繰り返しながら、少しずつ視線を前方へ移した。その顔にはまだ緊張が残っていたが、少しずつ変わる安心院の表情を、一色は見逃さなかった。
「次に、軽く地面を蹴りましょう」
一色が続けると、安心院は再び深呼吸をして、恐る恐る地面を蹴った。ほうきはわずかに浮き上がり、ふわりとした感覚が安心院を包んだ。
「浮いた……」安心院は驚きとともに呟いた。
指導役から外されて少し不満げだった茜も、安心院がほうきで浮いた瞬間、自分のことのように喜び、自然と笑顔がこぼれた。姫島と国東も手を取り合って喜び合った。
その後も一色の丁寧な指導が続き、安心院は少しずつ浮かび上がる感覚を掴み始めた。彼女の顔にはわずかな笑顔が浮かび、ほうきに対する恐怖が少しだけ薄れているように見えた。
一方、暇を持て余した茜は、ほうきに乗ってグラウンド上空からその光景を見つめていた。すると、イリスがふわりと飛んできて、声をかけた。
「茜ちゃん、ちょっといい?」
「ん? どうした? イリス」と茜は返した。
「そこから左斜め下を見てみて」
イリスの促しで、茜は言われた方向に目を向けた。視線の先には、木陰に身を潜め、一色たちの様子をじっと見つめる淡い水色髪の少女の姿があった。
彼女は、まるで木と同化するように存在感を消していた。
「女の子がいるの、見える?」とイリスは問いかけた。
茜は目を細め、「ああ……」と答えた。
「あの子、一週間前の試合も観に来てたよ」
「なに!? 本当か!?」
「うん……そのときも目を輝かせながら茜ちゃんたちを見てたし、今日もここにいるってことは……」
「セレスティアに興味があるってことだな!」茜は確信した。
「おそらく……」イリスは控えめに答えたが、その表情には自信が溢れていた。
「サンキュー、イリス!」
茜はそう言うと、少女のいる方へ向かい。彼女の頭上から見下ろしながら、軽い調子で声をかけた。
「なあ、ちょっといいか?」
少女はビクッと驚いて慌てて周囲を見渡し、茜に気づくと目を見開いたまま硬直した。
「少し話があるんだが、もしかして、セレスティアに興味があるのか?」
茜が真剣な表情で尋ねると、少女ははっと我に返り、次の瞬間には、目にも留まらぬ速さでその場から走り去っていった。
「おい、ちょっと待て!」
茜が呼び止めたときにはすでに、彼女の姿は遠く彼方へと消え去った。
「逃げられちゃったね……」イリスは静かに言った。
「しまった……人見知りだったか。いきなり距離を詰めすぎたな。もっと慎重に声をかけるべきだった」
茜は頭を掻きながら反省し、すぐに切り替えると、イリスに指示を出した。
「イリス、彼女のことを少し調べておいてくれ」
「了解」とイリスは短く応じた。
その後、安心院は一色の指導を受けながら飛行練習を続け、茜、姫島、国東の三人は、対戦形式で練習に励んだ。
日が暮れる頃には、安心院はほうきに跨り、わずかに足を離して浮くことができるようになっていた。気を抜くとすぐにバランスを崩して地に足をつけてしまうが、初めてにしては上出来だった。
「今日はここまでにしましょう」
一色が声をかけると、安心院はゆっくりと地面に降り立った。深く息をつき、緊張が解けると、肩の力がふっと抜けた。
茜、姫島、国東の三人も、安心院たちが練習を終えると同時に地上に降り立った。
姫島は満面の笑みで全員を見回しながら言った。
「みんな、お疲れさま!」と明るい声をかけ、間髪入れずに「それじゃあ、朝霧ちゃんの歓迎会、もう一回やろう!」と勢いよく言った。
「おー!」国東と一色は笑顔で賛同した。
「えっ……?」安心院は驚きの声を上げた。
「いや、さっきやったばっかりじゃねぇか!」茜は思わずツッコんだ。
「さっきはちょっと気まずい感じになったでしょ? だから、もう一度やるべきだと思うんだ!」
姫島が真剣に言うと、国東も「うんうん!」と深く頷いた。
「先ほどのはただの食事会……これからが、本当の歓迎会ですわ!」一色も目を輝かせて言った。
「いや、でも……」
茜が安心院に目を向けると、彼女は少し嬉しそうな表情を浮かべていた。その様子を見て、茜はため息をつき、「しょうがねぇなぁ」とやむなく受け入れた。
茜たちは再び食堂へ向かい、二度目の歓迎会を開いた。
終始、姫島と一色のテンションが高く、安心院は落ち着いていた。国東は時折、安心院に声をかけ、気遣いを見せていた。
茜はその和やかな光景を眺めながら、口元に小さな微笑みを浮かべた。
「でも、朝霧ちゃんが入部してくれて、本当に良かった。これで、あと一人集めれば、部に昇格だ!」姫島は意気揚々と言った。
「そうだね」と国東も笑顔で頷いた。
その言葉を聞き、茜はふと先ほどの人見知り少女のことを思い出し、「そのことなんだが……」と言いかけた。その瞬間、一色が同じタイミングで「そのことなのですが……」と言葉を重ねた。二人は咄嗟に見合い、茜は苦い表情、一色は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
そのとき、姫島が不意に何かに気づき、「あ……!」と声を上げた。全員が姫島の見つめる先に目を向けた。そこには、一人の少女――前回、茜たちとセレスティアボールで対決した1番選手、九重みやの姿があった。
九重は落ち込んだ様子で目を伏せ、静かに席を立ち、とぼとぼとした足取りで食堂を後にした。
「あいつは、たしか……」と茜が呟くと、一色が「九重みやさんですわ」と説明した。
「みやちゃん、元気がなさそうだね。何かあったのかな?」国東は心配そうに呟いた。
「……」姫島は無言のまま気がかりな様子で見つめた。
一色は九重の背中を見送りながら、目を細めた。そして、次の瞬間には、口元に不敵な笑みを浮かべた。その瞳には、まるで新たな獲物を見つけた猛禽類のように鋭く光った。
二回目の歓迎会を終え、解散する際、一色はイリスに小声で感謝を伝えた。
「イリス様、本日もいろいろと教えてくださり、本当にありがとうございました」
「どういたしまして」とイリスは笑顔で返した。
「これからも、どうかよろしくお願いします」
一色が丁寧に言うと、イリスは満足げに親指を立てた。
その光景を見て、茜は問いかけた。
「ん? 二人でコソコソと、何話してんだ?」
「いえ、何でもありませんわ。オホホホ……!」と一色は笑いながら誤魔化した。
家に帰った茜は、そのままリビングへ向かった。ソファに腰を下ろして一息ついたあと、シャワーで汗を流し、スッキリとした表情で出てきた。その後、身体を柔軟にほぐしていると、イリスがふわりと現れた。
「茜ちゃん、このあと新曲のレコーディングできる?」とイリスは問いかけた。
「そういえば、そうだったな」
茜は立ち上がり、背伸びをした。手を下ろし、イリスに視線を向け、「よし! じゃあ、行くか」と言った。
「うん」とイリスは頷き、二人は地下室へ移動した。
茜の力強く澄んだ歌声が、地下室にまっすぐ響き渡った。音程がわずかにズレるたびに、茜は即座に中断し、わずかに眉をひそめながら最初から歌い直した。一曲歌い終わっても、納得いかないときは撮り直した。数十回と撮り直して、茜はようやく納得したように頷き、イリスもオーケーサインを出した。
レコーディングを終えると、茜はリビングのソファにドサッと腰を下ろした。白い天井を見つめながら、一日の出来事を振り返る。セレスティアボール部に新たに加わった安心院のことを嬉しく思いながら、「あと一人か……」と小さく呟き、茜は目を閉じた。静かに握りしめた拳には、揺るぎない決意の熱が宿っていた。
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