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玄の日常

 四月十八日、月曜日。

 午前十時過ぎ、玄はイリスとともに海沿いの核融合施設の近くに潜伏していた。

数時間前、イリスがある情報を掴んだ。

 本日午前十一時頃、過激な自然愛好家集団――『ネイチャーラバーズ』が、日本全国の核融合施設を同時に破壊する計画を立てているという情報だった。

リーダーの名前は、森山豹牙もりやまひょうが。三十代男性。信者から『フォレスト様』と呼ばれ、崇拝されているらしい。表向きは自然科学者であり、自然を大切にするように世間に呼びかける穏健な性格を見せていた。

ネイチャーラバーズには、リーダーの森山の下に蜂巣、鎌田、蝶野、鷹川という四人の幹部がいた。蜂巣、鎌田、蝶野は男、鷹川が女性だった。その下に信者がたくさん、合計で二百人ほどの組織だった。幹部やその他の信者たちも、表では全員普通の生活を送っていた。

ネイチャーラバーズは非公式の組織で、情報がほとんどない。そのため、密かに企てられた計画に、〈フリーデン〉はギリギリまで気づかなかった。むしろ、計画実行前にイリスが気づいたことを褒めるべきだ。

 核融合施設は現代社会に欠かせない動力源であり、その破壊は街どころか国家全体の機能停止を意味する。世界中で最重要施設と位置づけられているため、警備は極めて厳重だ。訓練を積んだ警備員、監視ロボット、ドローンが敷地内外を二十四時間体制で守っており、生半可な集団では太刀打ちできない。

だが、今回はイリスの指示で〈フリーデン〉が待機することになった。〈フリーデン〉の超AI『テュール』も、今回の対策に賛同した。念には念を入れて対処する方が良いと判断したようだ。

玄たちとは別の三箇所の核融合施設には、それぞれアインス・フィーア、ドライ・フュンフ、ズィーベン・アハトがそれぞれ近くに身を潜め、静かに待機していた。

ズィーベンはおどおどしながら木陰に身を潜め、その隣にツインテール・左目に眼帯・ロングスカートのセーラー服に身を包んだアハトが並んでいた。彼女は腰に竹刀を携えていた。

ゼクスは司令室で情報を集約し、各チームへの迅速な共有に努めていた。

玄は、ここまで犯行声明ひとつ出ていないことから、この情報が誤報であってほしいと願っていた。だが、その願いは届かず、イリスの情報が正しかった。

午前十時三十分を過ぎると、核融合施設付近の木々が生い茂る人目につきにくい区域に、次第に武装した人たちが集まり始めた。その数はあっという間に五十人ほどに達し、全員が顔を布で覆って隠していた。

同時刻、他の施設周辺でも、同様に武装した集団が集結していた。

ネイチャーラバーズが最後の作戦会議をし始めると、玄は小型のハエロボットを飛ばし、会話を盗聴した。

ハエ型ロボットのマイクを通じて、リーダーと思しき男の声が聞こえてきた。

「我々人類は、幾度となく愚かなことを犯してきた。自然を破壊し、動物を殺し、科学を発展させ、悦に浸っている。そんな人類に、地球は怒り心頭だ。だから、わたしは決心した。地球のために、正義を執行すると……。今日ここに、新たな救世主が誕生する。わたしとともに、自然を破壊する者たちを殲滅し、元の地球を取り戻そう!」

 男の演説が終わると、「おおー!」という歓声が響いた。

「フォレスト様ぁ」

「フォレスト様、バンザイ!」

「どこまでもついて行きます。フォレスト様ぁ」

 同時に、他の施設周辺でも彼の3Dホログラムが投影され、それを見た信者たちが歓声を上げていた。

 フードを深く被っていて顔は見えなかったが、演説をしていた男がリーダーの森山豹牙である可能性は高い。

 玄はイリスにハエロボットを操作させ、演説した男のフードの中を確認しようと試みた。だが、ハエロボットが五メートルの距離まで近づいたその瞬間、男が鋭い視線でこちらを睨みつけた。直後、ハエロボットは見えない何かに叩き落とされ、映像が途絶えた。瞬きをする間もなく、集団のメンバーが一斉に警戒態勢に入った。

 武装集団がネイチャーラバーズだと確信した玄は、迷わず制圧を開始した。他の場所で待機していたアインスたちも、同時に動き出した。

 相手が五十人と多勢だったため、玄はまず煙幕弾を数個投げ、敵の視界を遮った。驚いた信者たちは咄嗟に銃を構え、警戒態勢を整えた。

そのとき、森山の鋭い声が響いた。

「銃は撃つな! 素手で応戦しろ!」

その命令を受け、彼らは銃を下ろした。

 玄は煙幕の中に突入し、一人ひとりを確実に倒していった。一切無駄のない動きで、急所に掌打を叩き込み、着実に敵を仕留めていった。

 イリスは少し離れた空中に待機し、煙幕から逃げ出す者を監視していた。

 玄は次々と制圧する中で、妙な違和感を覚えた。

表向きの経歴では、戦闘経験のないはずの彼らが、常人離れした力を発揮していたのだ。

やせた体格の男のパンチは、木を折り、地面に穴を開けた。一発でも当たると致命傷になる威力だった。

小柄な女は、常人離れした跳躍力で、軽々と高く跳んでいた。

さらに、全員が妙に打たれ強く、玄の鋭い掌打を受けても、一発では倒れなかった。だが、動き自体は素人そのもので、玄に攻撃が当たることもなく、数発の掌打を一瞬で浴びせると、倒すことができた。

半分の二十五人を倒すと、信者の一人が風を巻き起こし、煙幕が一気に吹き飛んだ。

玄は信者たちの姿に目を見開き、その瞬間、違和感の正体を悟った。

ネイチャーラバーズの信者たちは、身体の一部が動物や昆虫の特徴を持つ奇妙な形に変異していた。両腕が鳥の羽となり風を巻き起こす男、バッタのように跳躍する足を持つ女、テントウムシの羽を広げた女――玄の視界には、さまざまな異形の者たちが広がっていた。

「これって……トランスジーン手術……!」

玄は思わず驚きの声を上げた。

 トランスジーン手術(遺伝子変換手術)は、人間の遺伝子に動物や昆虫の遺伝子を組み込むことで、その特性や能力を得る技術だ。本来は能力向上が目的だったが、近年ではファッション感覚で受ける者も増えてきた。

彼らのようにトランスジーン手術を受けた者は、『トランスジーンヒューマン』、『TGP』、『遺伝子変換人間』などと呼ばれている。

トランスジーン手術自体は、決して珍しいものではない。だが、その能力を悪用する者も少なくない。犯罪がメディアで取り上げられるたび、世間からは厳しい批判の声が上がった。

この技術には賛否があり、利用の是非を巡って今も議論が続いていた。

 玄は周囲を見回しながら冷静に分析した。

 ここにいる全員、トランスジーン手術を受けているみたいね。てことは、おそらくフィーアたちの方も……。

 玄の予想は的中していた。

 アインス・フィーアの前にも、ドライ・フュンフの前にも、ズィーベン・アハトの前にも、身体の一部が動物や昆虫に変形した集団が立っていた。

信者たちは理性を失い、森山や幹部の命令にただ盲目的に従いながら、エージェントたちに襲いかかってきた。手術の失敗なのか、それとも意図的に理性を奪われたのか、玄には判断がつかなかった。

幹部たちは、自身の能力を完全にコントロールしているようだった。蜂巣は鋭い針を持つ蜂、鎌田は刃のように光る鎌を持つカマキリ、蝶野は美しい羽に毒を秘めた蝶、鷹川は、空を切り裂くような鋭い翼を広げる鷹の姿、そして森山豹牙は、その名にふさわしく、獲物を追い詰める豹へと変身していた。

エージェントたちには、テュールから、「可能な限りファイント(標的)を生け捕りにするように!」という指令が下された。

理性を失った信者たちは、手術の失敗により森山に操られている可能性があるため、殺すわけにはいかなかった。

トランスジーン手術は、失敗したときのリスクが非常に大きい。知能が低下して理性が効かなくなる、寿命が大幅に縮まる、様々な病気に罹りやすくなる、精神的に不安定になるなどのリスクがある。ちゃんとした医師やしっかり学習したAI医師ならば、ほとんど失敗することはない。つまり、彼らにトランスジーン手術を施した医師は、相応の能力が備わっていないか、意図的に失敗した可能性が高かった。

玄たちは適度に力を加減しながら戦い、ほとんどの信者を戦闘不能にした。だが、森山と幹部四人は、そう簡単にいく相手ではなさそうだった。

アインスとフィーアは鎌田、ドライとフュンフは蝶野、ズィーベンとアハトは鷹川、そして玄は蜂巣と森山と、それぞれ対峙した。

信者たちが次々と戦闘不能にされる中でも、森山と幹部たちは微動だにせず、冷徹な視線でその様子を観察していた。まるで、獲物の体力が尽きるのを待ち構える捕食者のように。

 残り二人になると、玄は鋭い目つきで森山と蜂巣を睨んだ。

「これで残るのは、あなたたち二人だけ。……気づいてるでしょうけど、他の三箇所も、わたしの仲間がほぼ制圧済みよ」

玄の言葉に、森山たちは一切表情を変えず、まったく動じなかった。

玄はさらに続けた。

「――今ならまだ間に合う。計画を中止にして、おとなしく……」

そう言いかけた瞬間、森山が突然声を張り上げて遮った。

「素晴らしい!」

不気味な笑みを浮かべながら、わざとらしくゆっくりと拍手を送り始めた。その後ろで、蜂巣も興奮しながら倣った。

 玄は一瞬目を見開いたが、すぐに鋭い目つきで森山を睨んだ。

「キミのその強さと美しさ、なんて素晴らしいんだ!」

森山は空を仰ぎながら感動したように言った。玄に目を向けると、穏やかな表情で手を差し伸べた。

「わたしたちと一緒に、自然を守らないか?」

「自然を守る? 『破壊する』の聞き間違いかしら?」と玄は皮肉を込めて言い返した。

「破壊なんてしないさ。わたしたちは自然を、地球を愛しているからね」

「でも、この施設を壊すつもりでしょ?」

「ああ……」

森山は静かに核融合施設に視線を向けた。

「これは地球にとって有害だからね。早急に壊さなければならない」

森山は核融合施設から少し視線を動かし、空中で監視していたイリスに目をやった。ニヤリと笑みを浮かべると、再び玄に視線を戻した。

「人間は余計なものを作りすぎた。だから、不要なものは取り除かなければならない」

「この施設は、今の人類にとって不可欠よ。なくなれば、深刻な事態になる」と玄は冷静に言った。

「深刻な事態……? どうなるんだい?」

「国が機能しなくなるわ。多くの人が、必要なエネルギーを得られなくなって困り果てる」

「それの何が問題なんだい?」

「問題しかないわ。一~二日程度なら耐えられる人もいるかもしれないけれど、長く続くと、最悪死人が出る」

「それは、本当に問題なのか?」

「人の命がかかっているのよ!」と玄は思わず声を張り上げた。

森山は不気味な笑みを浮かべた。

「それは運命だよ。人間は寿命を不自然に延ばしすぎた。誰もが百年生きる必要なんてない。限りある命を受け入れ、もっと自然に従って生きるべきだと思わないか?」

「その通りでございます。フォレスト様!」と蜂巣は拍手を送りながら目を輝かせた。

「あなたたちのその姿は、“自然”だと言えるのかしら?」と玄は冷ややかに問いかけた。

「もちろんだ。わたしたちは自然の中で生きている」

森山は両手を大きく開き、胸を張った。

「いつどんなときも、死を覚悟している」

 その言葉に、蜂巣は感動の涙を浮かべながら拍手を送っていた。

 玄が黙ったまま鋭い視線を向けていると、森山はさらに続けた。

「この姿は、人間と他の生物を融合させたに過ぎない。自然界に存在するものを合わせただけだから、何の問題もないのさ」

「トランスジーン手術は、人間が作った最新技術を使わないとできないはずだけど……?」と玄は問い詰めた。

「……」

森山は口を閉ざし、意味深な笑みを浮かべた。次の瞬間、森山の瞳が鋭い光を放ち、周囲の空気が一変した。

 説得は無理そうね。

 玄は早々に諦めた。そして苛立っていた。

 彼らを見ているだけで無性に苛立つ。どうしてかしら……?

 玄は森山たちを前にして、胸の内をざわざわと騒ぎ立てる理由がわからなかった。玄が睨みつけていると、森山が目を丸くしながら問いかけた。

「もしかして、キミもトランスジーン手術に興味があるのか?」

その一言で、玄は自分が苛立っていた理由を悟った。

 ……そうか。この男が、イリスという存在そのものを否定しているように感じたから、わたしはこんなにも腹が立っていたのね。

 イリスの内部には、超小型の核融合装置が内蔵されている。少量の水だけで半永久的に活動することができるが、この技術はまだ一般に広まっておらず、知られてもいない。現段階で、この技術を搭載しているのはイリスだけだった。

 玄には、森山の核融合施設を否定する思想が、イリスそのものを否定しているように思えた。

怒りがこみ上げてきそうだった玄は、一度深く息を吸い、心を落ち着けた。少し落ち着くと、冷静に問いかけた。

「……先に、どこでその手術を受けたのか、教えてくれないかしら?」

 玄の問いに、森山と蜂巣は思わず一歩後ずさり、険しい表情を浮かべた。張り詰めた空気が場を支配する。言えないのか、言いたくないのか、さっきまでの饒舌が嘘のように森山は口を閉ざした。

 玄は警戒しつつも、さらに踏み込んだ。

「場所が言えないのなら、せめて、誰が手術をしてくれるのかだけ、教えてくれないかしら? その方が安心するの……」

森山は唇を噛み、低い声で答えた。

「……それは言えない。『先生』との約束だからね」

「どうしてもダメかしら?」と玄は問い詰めた。

森山は首を横に振った。

「ただし、わたしたちの仲間になるなら、すぐに『先生』と会うことができる」と穏やかな笑みを浮かべて言い添えた。

 玄は一瞬考えた。

 吐き気がするほど嫌だ。でも、一時的にこの狂った集団に加わり、『先生』と呼ばれる人物に辿り着くのは――ひとつの手かもしれない。一緒に行動するのは屈辱だけど、少しの間、我慢すればいいだけ……そうすれば――。

 玄が考えている間に森山は口を開いた。

「仲間になりたいなら、まずこの施設を破壊してもらおう」

森山は核融合施設を見ながら続けた。

「――すべての機能を停止したら、合格だ」

森山は本気で玄を仲間にしようと思っているような真っ直ぐな目で見つめた。

「どうだい? キミも、わたしたちとともに自然を……地球を守らないか?」

森山は手を差し伸べた。

少し間を置き、玄は深いため息をついた。

「……悪いけど、わたしはあなたたちの意見に賛同できないわ。だから――」

玄はレッグホルスターからレーザーガンを素早く抜き、銃口を向けた。

「今ここで、その歪んだ野望を――打ち砕く!」

玄の回答を聞いた瞬間、森山は一瞬目を見開き、やがて静かに視線を落とした。

「そうか、残念だ……」と低く呟き、視線を上げると、鋭い目つきで玄を睨みつけた。その目には殺意が宿っていた。

「それなら仕方ない……殺すか!」

 森山が冷たく呟いた瞬間、蜂巣が稲妻のごとく玄に突撃した。

他の三箇所でも、幹部たちが一斉に動き出した。

 蜂巣は右手の甲から毒針を飛び出させ、一直線に玄を突いた。

玄は身をひねって紙一重で躱し、毒針は背後の木に突き刺さった。木はじわじわと溶け、音を立てて崩れ落ちる。針の毒は、触れたところを溶かすようだった。一発でも当たれば致命傷になる。

蜂巣は素早く振り返り、すぐに右手の甲の針で刺そうとしてきた。

玄は反射的に腰の模造ナイフを抜いて毒針を受け止めた。蜂巣がすかさず左手の甲の毒針を突き出した。玄はそれをレーザーで弾き飛ばした。レーザーの威力は、人を傷つけない出力二十%に設定していた。

蜂巣が後ろに跳んで距離を取った瞬間、森山が玄の背後に回り込み、鋭い拳を放った。

 玄は振り向く間もなく、軽く跳んで回避したが、森山と蜂巣もすかさず跳び、空中から鋭い連撃を浴びせてくる。それらを、玄はいなし続けた。玄の模造ナイフ、森山の鋭い爪、蜂巣の毒針が衝突すると、辺り一帯に衝撃波が広がった。

模造ナイフの刃が毒でじわじわと溶けていく。玄はそれを見て即座にナイフを捨て、レーザーガンを構えた。二発放ったが、二人は反射的に腕を振るい、レーザーをあっさりと弾き飛ばした。

玄は地面に着地して体勢を整え、二人も呼吸ひとつ乱さず余裕を見せていた。トランスジーン手術で得た能力により、体力が大幅に多くなっているようだった。もちろん、玄もまったく呼吸を乱していなかった。

 さきほどの発砲で、玄のレーザーガンの威力が弱いと気づいた二人は、ニヤリと笑みを浮かべた。

 静かに構える玄に、森山と蜂巣が対峙した。

静寂の中、風が地面の落ち葉を巻き上げ、宙に舞い上がった。

緊張が最高潮に達したその瞬間、空から猛烈な勢いで何者かが降り立った。地面に激突する衝撃で地響きが鳴り渡り、周囲に土煙が立ちこめた。

「何だ!?」森山は腕で顔を覆い、驚きの声を上げた。

 土煙の中に片膝をついた黒い影が浮かび上がり、やがてゆっくりと立ち上がった。まだ姿がはっきりと見えない中、彼は堂々とダサいポーズを決めながら、声高らかに名乗り出した。

「この世界の正義を取り戻すため、おれはここに降り立った」

影の中で両手を頭上で交差させ、胸を張る。

「お前たちの悪行はここで終わりだ! おれがこの地に平和を取り戻す!」

片足を横に伸ばし、片手を前に突き出しながら、もう片方の手を腰に当てた。

「人々の未来を守るため、おれは戦う! そう――おれの名は、正義のスーパーヒーロー、フェーブルアール!」

 土煙が一気に晴れると、片足を高く上げ、腕を斜め上に伸ばしてダサいポーズを決めたツヴァイが姿を現した。

バトルスーツを身に纏ったスーパーヒーローモードで、マントがひらひらと風でなびいていた。

 森山と蜂巣は、突然の異様な登場に呆気に取られ、言葉を失ったままツヴァイを凝視していた。

「何だ、その醜悪な姿は……?」と森山が露骨な嫌悪感を込めて吐き捨てた。

「お前に言われたくねぇよ!」とツヴァイはすかさず言い返した。

「フォレスト様! ヤツに近づくのは危険です。どう見ても話が通じない狂人です」と蜂巣が助言した。

「それはこっちのセリフだ!」とツヴァイは声を張り上げた。

 森山と蜂巣は、ツヴァイをまるで異物を見るような軽蔑の目で見つめた。自然とは正反対の最先端技術を象徴するバトルスーツは、彼らの怒りと嫌悪感をさらに煽るようだった。

「遅かったわね、ツヴァイ」と玄は冷静に声をかけた。

ツヴァイは玄に視線を向けると、一度咳払いし、気持ちを落ち着かせた。

「すまない。変身ベルトを見つけるのに手間取ってな」とツヴァイは返した。

「いつも神棚に置いてるんじゃなかったの?」

「ああ、そうなんだが……朝、取りに行くとなくてな。めちゃくちゃ焦ったよ。アッハッハ……家中探し回っても、なかなか見つからなかったんだ」

「……どこにあったの?」

「なんと、腰につけたままだったんだ! 昨日、寝る前に取り忘れたまま寝ちゃってたんだよ!」

ツヴァイは頭の後ろに手を回し、無邪気に笑った。

 玄は何も言わず、冷たい視線をツヴァイに向けた。

「な、なんだよその目……」とツヴァイは声を震わせた。

「別に……」と玄は言いつつも、視線を逸らさない。

次第にツヴァイは耐えられなくなり、玄から目を背け、話題を逸らした。

「……それより、おれの口上と新しいポーズの組み合わせはどうだった? カッコよかっただろ?」

玄は表情を元に戻し、冷静に答えた。

「ほとんど土煙で見えなかったけど……」

「何だと!? し、しまった! カッコつけて勢いよく着地してしまったのが仇になったか。地面が土だったことを気にするべきだった!」

ツヴァイは頭を抱えながら本気で悔しそうだった。

「そうね……」と玄は適当に相槌を打った。

「くっ、仕方ない……こうなったらもう一度……」

 ツヴァイが登場シーンをやり直そうと考えたその瞬間、森山の拳が音を裂くような勢いで彼の顔すれすれを掠めた。

ツヴァイは反射的にしゃがんで躱し、即座にカウンターパンチを放った。

森山はそれを躱し、距離を取った。たった一瞬の攻防で、ツヴァイの実力を冷静に見極めたようだった。

「おい! 話の最中に攻撃するなんて、卑怯だぞ!」とツヴァイは言い放ったが、森山は無視し、低く不気味な声で何か呟いていた。ツヴァイとは会話する気がないらしい。

ツヴァイは苛立ちを見せた。

「ツヴァイ、彼らに話は通じないわ。おそらく、トランスジーン手術の副作用で正常な思考ができなくなってるんだと思う」と玄は冷静に説明した。

 ツヴァイは深く息をつき、低い声で言った。

「そうか……なら、早く倒して終わらせよう」

「そうね」

 玄とツヴァイは短いやり取りを終え、戦闘態勢に入った。直後、森山たちも、まるで獣が獲物を狙うような低い姿勢で構えた。

一瞬の静寂が訪れ、冷たい風が両者の間を切り裂くように吹き抜けた。次の瞬間、四人が閃光のような速さで一斉に動き出した。

 ツヴァイと森山が正面から激突し、拳が交わった瞬間、爆音とともに衝撃波が森を駆け抜けた。木々が悲鳴を上げるようにしなり、枝葉がもぎ取られた。

 玄はツヴァイと反対方向へ移動し、蜂巣を引きつけた。

蜂巣はすぐさま玄を追いかけた。

ある程度離れると、玄は向き直って構えた。

蜂巣も玄と一定の距離を開け、足を止めて見据えた。

「貴様はフォレスト様の崇高なる御意思を理解せず、愚弄した! 未来の救世主を冒涜するとは、万死に値する! この蜂巣が正義の鉄槌を下してやる!」と蜂巣は力強く言い放った。

「奇遇ね、わたしもあなたたちを許すつもりないわ」

玄は冷静に、しかし怒りを滲ませた声で言い返した。

 蜂巣は右拳を前に突き出し、玄に照準を合わせた。次の瞬間、蜂巣の甲から鋭い毒針が音を切り裂くような勢いで発射され、玄に向かって一直線に飛んだ。

 玄は毒針の軌道を冷静に見極め、片足を引いてわずかに身を傾けた。

毒針は玄の顔の横を通過し、背後の木を貫いた。

貫かれた木は、次第に毒に侵されて黒く変色し、内部からじゅくじゅくと崩れ落ちていった。やがて耐えきれずに崩壊し、地面に無惨な音を立てて倒れた。

「チッ、外したか」と蜂巣は声を漏らした。

 玄は折れた木を一瞥し、蜂巣に目をやった。

蜂巣の右手の甲には、すでに新たな毒針が覗いていた。どうやら、何発も撃てるらしい。

(早く終わらせた方が良さそうね)

そう判断した玄は、無駄のない動きで一気に距離を詰めた。

 蜂巣は両腕を前に突き出し、玄に狙いを定め、毒針を連続で放った。一発放つと、すぐに次の毒針が現れ、休む間もなく撃ち続けた。どういう体の構造かわからないが、毒針切れになる様子はなかった。

 毒針の軌道は単調な直線。玄にとっては、見切るのも避けるのも容易だった。

玄は蜂巣の手の向きから、毒針が飛んでくる軌道を正確に見極め、すべて躱しながら間合いを詰めた。

 玄の華麗な身のこなしを目にした蜂巣は、徐々に焦りの色を浮かばせた。

「なっ、なぜだ!? どうして当たらん!? こいつ……本当に人間なのか!?」

蜂巣の額に冷や汗が滲み、わずかに手元が震え始めた。毒針の照準は乱れ、次第に無駄撃ちが増えていった。

 玄は低い姿勢から疾風のごとく加速し、一気に蜂巣との距離を詰めた。

「あなたに言われたくないわ」

玄の掌打が閃光のように蜂巣の腹を穿った。蜂巣が両手で腹を押さえ、前傾姿勢になると、玄は顎に強烈な掌打を繰り出した。

蜂巣はその衝撃で後ろに吹き飛び、背中から地面に落ちた。反射で体がピクピクと動いていたが、完全に気を失っていた。

昆虫の力を得たからといって、無敵にはなれない。急所はあくまで人間のそれ。力を過信した者に待つのは、いつだってこうした結末だ。

 玄は倒れた蜂巣をレーザーガンで素早く拘束し、毒針の穴を金属板で封じた。

こうして、蜂巣は倒れ、玄の勝利が静かに刻まれた。


 一方、ツヴァイと森山の戦いは――。

 ツヴァイと森山の拳が激突し、瞬間、炸裂音とともに衝撃波が森を揺らした。木々はうめくようにしなり、枝葉が舞い散る。

拳を押し込んで力比べをしていると、森山は突然ツヴァイの拳をいなし、反動を利用して鋭いハイキックを繰り出した。その足先にはまるで猛獣の牙のように鋭い爪が生えており、空を切るたびに風を裂く音が響いた。

 ツヴァイは反射的に後ろに跳んで回避した。だが、森山がすぐに間合いを詰め、追撃してきた。

ツヴァイは森山の繰り出すパンチやキックをすべて躱していたが、回避する度に周囲の木々が折れ、地面は抉れていった。

自然を愛すると豪語していた森山の動きは、むしろそれを最も破壊する暴威だった。

踏みつけられた木々は根元から折れ、跳び移るたびに枝が音を立てて散る。このままでは森全体が彼の暴挙で破壊されてしまう。森山は一切気にも留めることなく、猛り狂った獣のように木々を破壊した。

 ツヴァイが反撃に転じようとした刹那、森山は獣の勘で咄嗟に距離を取った。攻撃が当たらないため、攻め方を変えた。

 森山は両手を地面につけ、豹のような構えを取ると、勢いよく駆け出し、四足でツヴァイの周囲を猛スピードで跳び回り始めた。周りの木々を足場に使い、徐々にスピードが速くなっていった。衝撃で木々が悲鳴を上げるかのように傷ついた。

 ツヴァイの視界に、周囲の惨状が広がった。傷つき倒れた木々の姿が目に焼きつくたび、胸の奥で怒りが静かに湧いた。やがて、その怒りは拳に込められ、指が軋むほどに握りしめた。そこへ、最高速になった森山が背後から突撃し、鋭い爪で空を裂きながら襲いかかった。

森山が鋭い爪を振り抜いた瞬間、ツヴァイの姿が音もなく消えた。

森山は虚空を切り、戸惑いを見せた。

「何!? ど、どこだ!?」

慌てて周囲を見渡し、背後に静かに立っていたツヴァイを見つけた。

「ガルルルル……」

獣のように唸り、よだれを垂らしながら鋭く睨みつけるその姿は、理性を失った肉食獣そのものだった。長時間の変身により、森山の体はすでに人間離れしていた。鋭い目は獣の本能に支配され、筋肉は極限まで膨張し、動きは完全に野生の捕食者そのものだった。心さえも人間の理性を失い、ただツヴァイを狩ることだけに集中しているように見えた。

森山は口を大きく開け、牙をむき出しにし、ツヴァイに突撃した。

 ツヴァイは静かに目を閉じた。右手の拳を左手のひらで包み込み、右肘と右足をわずかに引き、腰も少し下げて構えた。

ツヴァイの拳に、まるで稲妻のようなエネルギーが凝縮されていった。青白い光が周囲を照らし、空気は緊張で震えた。次の瞬間、ツヴァイは目を見開き、全身から湧き上がる闘気が一気に解き放たれた。

獣のような形相の森山が、目の前まで迫っていた。森山が鋭い爪を振り切ったその瞬間、ツヴァイは素早くしゃがんで躱した。

「必殺――フェーブルアッパーッ!」

掠れた叫びとともに、拳が閃光のように森山の顎を撃ち抜いた。拳が顎を捉えた瞬間、激しい電気が走り、拳から全エネルギーが一気に解き放たれた。ものすごい量のエネルギーが森山の全身に伝わった。

森山は轟音とともに空高く舞い上がった。雲間に一瞬消えたかと思うと、まるで流星のように急降下し、地面に落ちた。衝撃で土煙が舞い上がり、森山の体は静かに横たわった。やがて、人型に戻った森山は完全に意識を失っていた。

拳を高く掲げたツヴァイは、晴れやかな表情を浮かべ、静かに呟いたた。

「正義、執行!」


 玄がツヴァイの元へ駆けつけると、彼は拳を空に突き上げていた。そばに森山が気を失って倒れている。こちらもすでに決着がついていた。

「何してるの?」と玄は冷静に尋ねた。

「正義の勝利を象徴するポーズを決めてるんだ!」とツヴァイは胸を張って答えた。その表情には子どものような無邪気さが漂っていた。

「……ふーん」と玄は短く返し、そばで倒れる森山に視線を向けた。

「そいつ、まだ生きてる?」

ツヴァイはポーズを解き、森山を見下ろした。

「そのはずだが……」と自信なさげに呟き、近くの枝を拾ってしゃがみ、森山をツンツンと突いた。森山がピクッとわずかに反応すると、ツヴァイは安心したように息をつき、小さく呟いた。

「ふぅ、ちゃんと生きてる」

玄はレーザーを数発放ち、森山を拘束した。

「これで任務完了ね」と玄は呟き、「ああ……」とツヴァイは応じた。

 他三箇所の制圧もすでに完了しており、〈フリーデン〉の完全勝利だった。

 数分後、〈フリーデン〉の後処理専門部隊が現れ、倒れたネイチャーラバーズの回収が始まった。

森山豹牙を含む彼らは、このあと〈フリーデン〉が管理する施設――もちろん一般人には知られていない施設に運ばれ、全員が手術を受ける予定だった。トランスジーン手術による副作用や、組み込まれた獣や昆虫の遺伝子を取り除き、人間に戻すつもりだ。

あまり適応していない信者たちは、トラックに詰め込んで一斉に送り、ある程度コントロールできていた森山や幹部らは、個別に送ることになった。

最初に、信者たちがトラックに詰め込まれていった。

しばらくして、森山が意識を取り戻し、そのすぐあとに蜂巣や、他三箇所の幹部たちも一斉に目を覚ました。信者たちに比べ、回復が早いようだ。

玄はイリスにトランスジーンの説明を聞き、ツヴァイや他のエージェントたちも他の作業をこなしていたため、彼らが目を覚ましたことに気づかなかった。

意外にも、森山たちは縛られている現状を受け入れ、抵抗しなかった。

「わたしは……失敗したのか……」と森山は小さく呟いた。

「申し訳ございません、フォレスト様。わたしの力が未熟なばっかりに……」と蜂巣が涙を流しながら悔しそうに言った。

「……まさか、最新技術を使うヤツらに負けるとは……なんという屈辱だ……!」

「わたしも同じ気持ちでございます」

「このまま奴らの手にかかるくらいなら……キミがわたしを殺せ……!」

森山は鋭い目で蜂巣を見つめ、続けて言った。

「そして、わたしのあとについてこい!」

 蜂巣はその言葉を受け止めると、深く息を吸い込んだ。まるで覚悟を決めたかのように顔つきが変わった。蜂巣の背中から異形の器官が突き出し、尻が鋭い毒針に変形した。

 そのとき、玄はふと二人の異変を察知し、走り出した。だが、蜂巣が毒針を放つ音が響き、一瞬間に合わなかった。

 毒針が森山の腹に突き刺さると、たちまち皮膚が赤く腫れ、崩れ始めた。それを見届けるように、蜂巣も自らの体に毒針を刺した。

毒が二人の身体を徐々に侵食し、形を失わせていく中、まるですべてをやり遂げたかのように、彼らの表情には満足と安らぎが入り混じっていた。もはや、最新の医療技術でも回復は不可能だった。

玄はあまりの無惨な光景に思わず顔を背けた。

森山と蜂巣は互いに短い視線を交わし、微かに笑みを浮かべた。最後に残ったのは、かすかな笑顔とともに消え去る泡だった。

 他三箇所の幹部たちも、森山たちの覚悟を目にして決意を固めた。

「我らが理想のために……」

それぞれが静かに呟き、同様に自ら命を絶った。その顔には、どこか安堵にも似た表情が浮かんでいた。

 彼らの体が完全に溶け、跡形もなく消え去ると、玄は静かに目を閉じ、深く息をついた。

 しばらくして、信者全員をトラックに積み終わった。あとは〈フリーデン〉が誇る医療班がなんとかしてくれる。だが、首謀者と幹部たちを生け捕りにできなかったことが、後味の悪さを残した。

 これで玄たちの任務は、ひとまず完了したかに見えた。しかし、イリスがネイチャーラバーズの本拠地を特定したため、玄は急遽向かうことになった。そこには、森山が『先生』と呼んでいた人物がいると思われる。

 本拠地は街の中に溶け込んでいたが、その佇まいには異質な気配が漂っていた。建物の外壁には蔦がびっしり絡みつき、庭の中央には一本の巨大な樹が根を張っていた。その樹の枝は建物を覆うように広がり、通行人の視線を自然にそらす工夫がなされているようだった。木を隠すなら森の中というように、あえて街の中に潜んだのかもしれない。

 到着後、玄とツヴァイは二手に分かれ、建物周辺を慎重に調べて回った。罠や警備ロボットなどの気配はない。確認を終えると、玄とイリスは正面入り口から、ツヴァイは裏口から同時に突入した。

 天井や壁に埋め込まれた監視カメラが、無機質な音を立てながら玄たちを追い続けていた。その冷たい視線を感じながらも、玄たちは慎重に奥へ進む。建物内に入った瞬間、電波も妨害され、外部との連絡が一切取れなくなった。

 玄はイリスを肩に乗せ、レーザーガンを構えながら、慎重に歩みを進めていた。だが、相手の奇襲は一向にない。というより、人の気配すら感じなかった。

すべての部屋が無人だった。慎重に奥へ進んだ先で、トランスジーン手術が行われた形跡のある手術室に辿り着いた。荒れ果てた手術室だったが、最近まで使われていたような形跡が残っていた。

そこからさらに奥を目指すと、実験室を見つけた。

実験室には、大小さまざまな培養容器が無秩序に並び、緑色の液体の中には動物と昆虫を掛け合わせたような異形の生物が浮かんでいた。中には半透明の皮膚を持ち、体内が透けているものもあった。巨大な容器もいくつか並んでいたが、中身は空っぽ。何とも薄気味悪い部屋だった。

そして、ついに――玄は最深部の部屋に到着した。

分厚いドアの横に生体認証と暗証番号を入力する装置があった。イリスに解析させようとしたその瞬間、ドアから「ピー」という電子音と「ガチャ」という解錠音が響いた。

玄は緊張で冷や汗が背中を伝う中、慎重に取っ手に手をかけた。ドアを開けるたびに軋む音が鳴り、室内からかすかな冷気が漏れ出した。敵の罠の可能性を考慮しながら、玄はレーザーガンを構え、一気に突入した。だが、そこにも人影はなかった。

室内は異様な静寂に包まれていた。並ぶデスクトップパソコンが勝手にアプリを起動し、画面には無数の数字や文字列が踊っている。青白い光が部屋を照らし、不気味な影を落としていた。

玄が部屋の奥へと一歩踏み出したその瞬間、不意に部屋の中央に光が収束し、森山の姿を模した3Dホログラムが浮かび上がった。

玄は反射的に銃を構え、イリスも肩越しに警戒の目を光らせた。

ホログラムは冷たく笑みを浮かべながら言葉を発した。

「ようこそ、ネイチャーラバーズへ」

「……あなた、森山豹牙?」と玄は冷静に問いかけた。

「違う、ぼくは森山豹牙じゃない」

「もしかして……『先生』かしら?」

「ああ、そうだ。ぼくはみんなから『先生』と呼ばれている。中には『フォレスト様』と呼ぶ者もいるが……」

 この言葉を聞き、玄は、森山があのとき答えられなかった理由を悟った。

自然愛好家でありながら、AIに頼っていたことが、彼の思想と行動に矛盾を生じさせていたのだ。それが、トランスジーン手術の副作用で知能が低下し、まともな判断ができなくなった結果なのか、それとも元々そういう人間だったのか、今となってはわからない。

「あなたの目的は何?」と玄は問いかけた。

「目的……? そんなものはない」

「……あなたがネイチャーラバーズを作ったんじゃないの?」

「ネイチャーラバーズを作ったのは、ぼくじゃない」

「じゃあ、誰が作ったの?」

「……森山豹牙だ」

室内に沈黙が落ちた。

「……トランスジーン手術をしたのは誰?」と玄はさらに問い詰めた。

「トランスジーン手術をしたのは、ぼくだ」

「森山の指示で?」

「ああ……」

「あなた……相応の技術がないのに、どうして手術をしたの?」

「そんなことはない。ぼくは完璧な手術が可能だ」

「でも、彼らは理性を失っていたわ。あなた、トランスジーン手術のリスクを知らないの?」

「知っている」

「なら――」

「彼らがそれを望んだ。ただ、それだけだ」

「理性を失う可能性を承知で、彼らの要望に応えたというの?」

「ああ……ぼくの役割は要望を叶えること。それが彼らの破滅に繋がるかどうかは、ぼくの判断の範疇外だ」

 このAIはイリスと根本的に違う。善悪の判断や倫理観などが明らかに欠如していた。おそらく、森山が意図的にそうなるように育てたのだろう。

玄はこのAIに対して薄暗い哀れみを感じながらも、冷徹な判断を下した。

「イリス、必要な情報だけを抽出して、消去するわよ」

 イリスは無言で頷き、どこか悲しげな表情で操作を始めた。

イリスが操作を進めると、画面上の文字列が次々と消えていった。情報の抽出が完了すると、玄の目の前に「ALL DELETEしますか?」のホログラムが浮かんだ。

玄は迷いなく「はい」を押し、データがすべて消えると、シャットダウンした。

静寂が部屋を支配し、ホログラムもすべてのデータも跡形もなく消え去り、パソコンは機能を停止した。

任務はこれで完了した。

フィーアたちが到着すると、玄は短く告げた。

「説明は本部でするわ」

誰も言葉を発さぬまま、その場を後にした。残されたのは、静寂と、荒れ果てた施設だけだった。


 本部の会議室で、玄はネイチャーラバーズのラボでの出来事を説明した。足りない部分はイリスが補足した。

玄は淡々と説明していたつもりだったが、実際には気を落としていることが皆に伝わっていた。

 説明を終えると、アインスや指揮官から「気にするな」と励ましの言葉をかけられた。ツヴァイも玄に何か声をかけようとしていたが、突然フィーアが二人の間に割り込んだ。

フィーアは玄を励ますために、急遽女子会を計画した。

普段は断ることの多い玄だったが、フィーアの厚意を察し、参加を決めた。少し気分転換したいとも思っていた。

参加メンバーは、玄、フィーア、フュンフ、アハトの四人で、会場はフィーアのオススメで喫茶『色神の森』に決まった。

「やっぱり、働いたあとは甘いものだよね!」

フィーアはメニュー表のデザートのページを開き、目を輝かせた。

「あたいは辛いのが食いてぇんだけど、ねぇか?」

隣に座るアハトが、メニューを覗き込みながら言った。

「辛い物は、喫茶店にないと思うよ」

向かいに座るフュンフが、控えめに言った。

「いえ、あるみたいよ」

フュンフの隣に座る玄が言った。

「えっ、あるの!?」フュンフは目を丸くして驚いた。

玄はメニュー表をテーブルの中央に置いて指差した。

 三人はメニューを覗き込んだ。そこには、『挑戦者求む! 超激辛パスタ!!』の文字と赤い色のパスタの写真が載っていた。写真の周りには、辛さを表現する炎の絵が描かれていた。

「へぇー、超激辛かぁ……面白そうじゃねぇか。あたいはこれにする」とアハトは迷わず決めた。

「スコヴィル値が百万を超えてるけど、大丈夫?」と玄は冷静に問いかけた。

「何だ? その、スコなんとかっていう戦闘力みたいなのは?」とアハトは問い返した。

「スコヴィル値よ」

玄はテーブルの角に静かに座るイリスに視線を向けた。

「イリス、教えてあげて」

 イリスは「了解!」と答え、ふわりと宙に浮かび、テーブル中央へと羽ばたいた。

「スコヴィル値とは、唐辛子に含まれるカプサイシンという辛み物質の割合を測定した数値のことです。数値が高ければ高いほど辛く、一般的な唐辛子であるハラペーニョは二千五百から八千スコヴィル、タバスコが三万から五万スコヴィルと言われています」

イリスはネット検索したホログラム画像を宙に投影し、淡々と説明をした。

「――なので、スコヴィル値が百万を超えるこのパスタは、想像以上に辛いと思われます」

イリスは説明を終えると、軽やかにテーブルの角に戻り、ちょこんと腰を下ろした。

「へぇー、そんなに辛ぇのか! 楽しみだな!」

アハトの顔には、期待と挑戦心が滲んでいた。イリスの説明が、アハトの好奇心を刺激したようだ。

 玄はメニュー表を手に取ると、軽く微笑みながら「どうぞ」とフュンフに渡した。

「シュバルツさんが先に決めていいよ」フュンフは遠慮がちに言った。

「わたしはもう決めたから」

「あっ、そうなんだ……」

フュンフはメニュー表を受け取り、ページを捲りながら隅々までしっかりと目を通した。そして、満足げに頷いた。

 最後に残ったのは、最初にメニュー表を開いたフィーアだった。

「うーん、どれにしようかなー? チーズケーキ? チョコレートケーキ? それともイチゴパフェ? あー、迷っちゃう!」

フィーアはたくさんのスイーツを前に悩んでいた。

「そんなに迷うなら、これにしたらどうだ?」

アハトはメニュー表を指差した。それは、『シェフの気ままなスイーツ』だった。何が出てくるのかわからないメニューだ。

「うーん……そうだね。うん、これにする!」

 フィーアはベルを押して店員を呼んだ。

 少しして、四人は肌に感じるような微かな気配を敏感に察知し、通路に一斉に視線を向けた。その瞬間、誰もいない場所から、「ヒャッ!」と驚いたような少女の声が響いた。だが、その声を発した少女の姿は、どこにも見当たらなかった。それでも四人は、誰かにじっと見られているような強い気配を感じていた。

しばらくして、ふと気づけば、テーブルの端にメモ用紙が置かれていた。そのことに気づいた四人は、思わず顔を見合わせた。

メモには『ご注文をお伺いします』と書かれていた。

アハトはメモを取り、眉をひそめた。

「何だ、これ……? ご注文をお伺いします、だってよ! まだ来てねぇのに誰に言うんだ?」

「もう来てるわよ」と玄は即答した。

「はっ? どこに……?」アハトは周囲を見渡した。

「そこにいるわ」

玄は通路を指差し、淡々と説明した。

「彼女……極度の恥ずかしがり屋で、光学迷彩を使って姿を隠してるみたいなの」

 フィーアは目を丸くし、フュンフは目を細め、アハトは鋭い目つきで、玄の差した先を見つめた。

「へぇー、やっぱそこにいんのか!」

アハトは微かな気配のする方向をじっと見つめ、「全然見えねぇ。すげぇな」と感心したように呟いた。

 そこからメモがふわりと現れ、テーブルの端に置かれた。

『すみません。このままご注文をお伺いします。あと、あまりジロジロ見ないでください。恥ずかしいです……』と書かれていた。

「あっ、わりぃわりぃ。職業柄、どうしても人の視線に敏感でさ……」

アハトはメニュー手に取って言った。

「あたいは、この超激辛パスタ!」

「あたしは、シェフの気ままなスイーツとアメリカン」とフィーアが続いた。

「うちは、ハンバーガー、オムライス、カレー、あとピザも……お願いします」とフュンフは少し控えめに言った。

「わたしは、オリジナルブレンドとサンドイッチ」と玄は言った。

 注文を終えると、新たなメモがテーブル端に現れた。

『ご注文承りました』と書かれていた。そして、人の気配も消えた。

「行ったか……不思議なやつもいるもんだな」とアハトが呟いた。

「そうね……」と玄は相槌を打った。

「でも、周りから見れば、アハトも十分不思議だと思われているはずよ」と玄が言い添えると、フィーアとフュンフも頷いた。

「えっ、そうなのか!? どこが?」とアハトは問いかけた。

「その眼帯とか……」とフィーアが言い、「その服装とか……」とフュンフが続いた。

「見た目、全部よ」と玄が言い切ると、フィーアとフュンフも同時に頷いた。

「そうか……? お前らも似たようなもんだろ?」とアハトはあっさり返した。

「いやいやいや……」と三人は声を揃え、顔を左右に振った。

「みなさん、とても個性的だと思います」とイリスが静かにまとめた。

 四人はイリスに素早く視線を向けた。

玄、フィーア、フュンフの三人は目を丸くし、アハトは笑い飛ばした。

「やっぱそうだよな! ハッハッハ……!」

「イリス、今の――」

玄が問い詰めようとしたその瞬間、注文した品が次々と運ばれてきた。フィーア、フュンフ、アハトの三人は食事に目を奪われ、イリスの発言を忘れ去った。

イリスは、まるでタイミングを計ったかのように発言していた。

玄たちは美味しい料理に舌鼓を打ちながら、最近の任務や愛用の武器について語り合い、時折笑い声が響くほど女子会は大いに盛り上がった。

フィーアの頼んだシェフの気ままなスイーツは、たっぷりのリンゴを使ったタルトだった。香ばしい生地の上に、みずみずしいリンゴが宝石のように輝いていた。タルトの上には、リンゴの木と、その下に腰を下ろして空を見上げるニュートンの菓子人形が飾られていた。フィーアらしい科学者を連想させるスイーツだった。

 気づけば、空が茜色に染まり、窓から夕陽が漏れていた。

 ちょうど話も一段落し、女子会はお開きとなった。


 本部のロビーに到着すると、一色とドライが何やら言い争いをしている所に遭遇した。

「何度言わせりゃ気が済む! お前は守られる側だろ! 勝手に来るんじゃねぇ!」とドライは声を張り上げた。

「わたくしの方こそ、何度も言わせないでください! 三日月さんには関係ないことですわ!」と一色も声を張り上げ、言い返した。

「関係なくねぇ! おれは〈フリーデン〉のエージェントだ。ここを守る義務がある!」

「わたくしも、先日のウイルス討伐に参加したので、エージェントと言っても過言ではありませんわ!」

「過言だろ! たった一回任務に参加したくらいで、〈フリーデン〉に所属できるわけねぇだろ!」

「それは、これから実績を積めばいいだけのことですわ!」

「だ・か・ら! お前は保護対象なんだよ! 守られる側が、自ら危険を晒すって意味わかんねぇだろ!」

「問題ありません。護身術は心得ていますわ……!」

「いや、お前程度の護身術じゃ――」

「それに……わたくしには心強い仲間がいますから……」

一色は真っ直ぐな目で言い切った。

 ドライは思わず目を見開き、言葉を失った。

 玄たちはしばしの間、少し離れた場所で足を止め、二人のやり取りを静かに見守っていた。だが、一色が玄に気づいた瞬間、「シュバルツ様!」と目を輝かせ、慌てて駆け寄ってきた。

「シュバルツ……」とドライも小さく呟いた。

「大変な任務だったと聞いて、急いで参りましたの。お怪我はありませんでしたか?」と一色は心配そうに言った。

「大丈夫よ。それより、ドライとの話はもういいの?」と玄は落ち着いた声で返した。

「はい、ただの世間話ですので」

「そう……」

「……お前が待ってた相手って、シュバルツだったのか?」とドライが尋ねた。

「はい。今からわたくしが、シュバルツ様のお心を癒して差し上げますの」と一色は目を輝かせながら言い、ドライに鋭い視線を向けた。

「あなたはお邪魔なので、早く帰っていただきたいのですが……」と不満げに言い放った。

「うるせぇ! 言われなくても帰るところだ!」とドライは言い返した。

「ふふ、では、参りましょう、シュバルツ様、イリス様」

一色は満面の笑みを浮かべ、手を差し出した。

「いや、もうそんなに落ち込んでないから……」と玄はあっさり言った。

 フィーアが横から顔を覗かせ、笑顔で言った。

「シュバちゃんはもう大丈夫だよ。みんなで美味しいものをたくさん食べて、いっぱい話したから!」

 その言葉に、一色は「え……?」と声を漏らし、無言で視線を巡らせた。フィーア、フュンフ、アハトと視線を交わし、最後に玄を見据えた。

一瞬の沈黙のあと、身を乗り出す勢いで玄に迫り、嘆きの声を上げた。

「どうして、わたくしを誘ってくださらなかったのですか!?」

「え……いや、いなかったから」と玄は気まずそうに、しかしはっきりと答えた。

 一色は身を引き、「くぅ~!」と悔し涙を流した。

 その間、フィーア、フュンフ、アハトは、足早にその場を後にした。

 その光景を見たドライは、わずかに口元を緩めた。

 それに気づいた一色は、鋭い視線でドライを睨みつけた。

 ドライは一瞬たじろいだが、すぐに気を取り直し、玄に目を向けた。

「なに……?」

 玄が問いかけると、ドライは真剣な表情で、ゆっくりと口を開いた。

「……お前に聞きたいことがある」

緊張感が漂い、再び静寂が訪れた。

「……お前さ、『怪獣狩り』ってゲーム、知ってるか?」とドライは問いかけた。

 玄は冷静に考えた。

 怪獣狩り……たしか、全世界に一億人のプレイヤーがいる大人気のVRMMOゲームだったわね。最近まで柴乃ちゃんがやってたから、当然知っているわ。あのウイルス騒動で人気が落ちるどころか、さらにユーザーが増えたという稀有なゲーム。まあ、一般人は〈フリーデン〉が用意した偽情報――騒動はすべてサプライズイベントだった、という情報を信じているけれど……。

「知ってるけど、それがどうかしたの?」と玄は冷静に問い返した。

「……やったことあるか?」

「わたしは、ないわ」

 ドライは、玄が嘘をついていないか探るようにじっと目を細めた。一瞬、隣に浮かぶイリスにも視線を送り、その反応まで確かめるような慎重さを見せた。

 しかし、玄に抜かりはない。嘘をついてないからだ。『怪獣狩り』をやったのは柴乃であって、玄ではない。

しばらくして、ドライは小さく呟いた。

「……そうか、わかった」

玄の発言を本当だと信じたようだった。

「悪かったな、変な質問して」

「気にしてないわ」

玄は凛とした態度で答え、念のため尋ねた。

「でも、どうしてわたしがゲームをやってると思ったの?」

「それは……」

ドライは一瞬目を逸らし、頬をわずかに染めた。

「……お前に似たやつがいたんだ」と口元を手で隠しながら、少し恥ずかしそうに答えた。

「わたしに……? どんな人?」玄はさらに問い詰めた。

「『ヴィオレ』って名前のプレイヤーだ。おれも一度しか会ってねぇし、詳しいことはわかんねぇけど……」

 玄は内心で驚き、一瞬頭の中に柴乃の姿がよぎったが、表情には出さないように努めた。 

ドライは続けた。

「――そいつ、なぜかウイルス騒動のあと、アカウントが消えたんだ。だから、正体不明のままなんだよな。一番の功労者なのに……」

「そう……」

 一瞬の沈黙が場を支配した。

玄はドライの視線や空気の動きすら敏感に感じ取り、決して余計なことを口にしないよう自らを律した。相手がエージェントの場合、どんな些細なことでも気づかれる可能性があるからだ。

 沈黙を破ったのは一色だった。

「何を馬鹿なことをおっしゃっていますの? ヴィオレ様とシュバルツ様が同一人物だなんて、あり得ませんわ!」と一色は断固とした口調で否定した。

「……そうだな」とドライも、一色の言葉にわずかに頷いた。

玄は表情ひとつ変えず平静を装ったが、胸の奥で心臓が早鐘のように鳴り響いていた。一瞬でも隙を見せればすべてが露見する――そんな緊張感が全身を覆っていた。わずか数秒の沈黙が、玄には何時間にも感じられた。

「じゃあ、おれは帰る。お前も今日は大変な一日だったんだろ? 早く帰って休めよ」とドライは気遣うような口調で言った。

「ええ、そうするわ」と玄は冷静に返した。

 ドライが去っていく後ろ姿を見送りながら、玄はそっと息をつき、何度も深く呼吸を繰り返して乱れた心を必死に鎮めた。

その後、玄、イリス、一色の三人は静かに歩き出し、ロビーを後にした。

「そういえば、レーザーガンはご使用になられましたか?」と一色が不意に尋ねた。

玄は歩きながらレッグホルスターから銃を抜いて答えた。

「ええ、すごく使いやすかったわ」

「それは何よりですわ」一色は満足げに微笑んだ。

「今から、射撃場で少し試し撃ちしようと思ってて。あなたも一緒に行く?」

「はい!」と一色は即答し、目を輝かせた。


イリスと一色に見守られながら、玄は静かにレーザーガンを構えた。

最小出力に設定して引き金を引くと、白い閃光が銃口から放たれた。だがレーザーは、的に届く前に空中で霧のように消えた。

二発目は出力を二十%に上げた。レーザーは的に届いたものの、命中した瞬間にかすかな音を立てて弾け散った。その威力の弱さに、玄は思わず苦笑いを浮かべた。

三発目は、出力を五十%まで上げた。レーザーは余裕で的まで届き、威力も打撲する程度まで上がった。直撃すれば、かなりの痛みを伴いそうだった。

四発目は、出力を八十%まで上げた。余裕で的を粉々に破壊した。ここまで威力を上げると、人を殺めてしまう可能性があるため、滅多に使うことはないだろう。さらに上の出力百%は、試し撃ちすらしなかった。その威力は、想像するだけで十分だった。

このレーザーガンには、出力百%よりさらに上のバーストモードというものが存在した。

イリスによると、バーストモードは、出力が通常の千倍にも達するということだった。玄も一度は見てみたいという好奇心に駆られたが、室内で放つと、辺り一面を吹き飛ばしてしまうため、我慢した。

代わりに、イリスが街中でバーストモードを使用した際のシミュレーション映像を見せた。玄の目の前に映し出されたのは、一瞬の閃光とともに数棟のビルが無惨に崩れ落ちる様子だった。轟音こそ鳴らなかったが、街全体が爆風に包まれ、瓦礫と煙で覆い尽くされる光景は衝撃的だった。

「一生使う機会はないわね」と玄は静かに呟いた。

玄はレーザーガンに満足していた。

銃の握り心地や反動、トリガーの重さまでもが、これまで愛用していたハンドガンと驚くほど一致していた。明らかに玄がこれまでの経験を活かせるよう配慮されていることが伝わった。

レーザーガンは、これから使う機会がたくさん増えるだろう。

玄はイリスのアドバイスを受けながら、真摯に射撃の練習を続けた。的当てに慣れると、次に実戦形式を行うため、3Dシミュレーション部屋に向かった。

そこで一時間みっちり練習に励み、ある程度使いこなせるまで上達した。思っていたよりも手に馴染むのが早くて驚きつつ、入念に練習を重ねた。弾の装填が不要なため、隙が生まれず、出力の切り替えも片手で容易にできる。ただでさえ隙のない玄が、さらに一段階成長したようだった。

「イリス、どうかしら?」と玄は問いかけた。

イリスは笑顔で親指を立てた。

「わたしが教えることはもうないよ」

「そう……」

玄はイリスに認められ、ほっと息をついた。

一色は終始、うっとりとした表情で静かに見守っていた。

「それじゃあ、今日はこの辺にして、そろそろ帰ろうかしら」と玄は言い、「うん」とイリスが頷いた。

 玄たちは、それぞれ満足げにその場を後にした。


家に帰り、リビングでくつろいでいると、イリスがふわりと現れて声をかけてきた。

「玄ちゃん、ちょっといい?」

「なに?」

「天ちゃんの新曲のレコーディング、いつにする?」

「えっ……」

玄は目を見開いて硬直した。「レコーディング」という言葉が頭の中で何度も反響し、ハッと我に返るとようやく口を開いた。

「……それって、わたしの代わりにイリスが歌っちゃダメなの?」

「絶対ダメ!」とイリスは食い気味にはっきりと答えた。

「……ですよね」

 玄は深いため息をつき、重い腰を上げて、イリスとともに地下室へ向かった。

時計の針は、午後九時を刻んでいた。玄に残された時間は、残り三時間。残されたわずかな時間で、天を満足させる歌声を録らなければならない。だが、それは玄にとって最も難しいことだった。なぜなら、玄は音痴だからだ。

玄は全力で歌い始めたが、何度歌っても音を外し、苦い顔を浮かべた。失敗するたびにイリスから的確な指示――声の出し方、息を吸うタイミング、キーの調整――が飛んできたが、玄はなかなかその通りにできず、気づけば一時間が過ぎていた。

玄が肩を落とすと、イリスがやさしく微笑み、励ましの言葉をかけた。

それからも特に進展なく、最後のレコーディングになった。

玄はこの最後のレコーディングに、全神経を注いだ。「次回」という逃げ道を、自分に許したくなかった。

そしてついに、一曲歌い終わると、イリスは険しい表情で一瞬黙り込んだあと、玄に視線を向け、微笑みながら小さくオーケーサインを出した。

玄は安堵と疲労に襲われ、ふらつく足取りで寝室へと向かった。ベッドに倒れ込むように横たわり、数秒もしないうちに深い寝息を立て始めた。


 その頃、ネイチャーラバーズのラボ。

ラボ内のすべてのコンピュータが停止し、空間は暗闇と沈黙に支配されていた。最深部の部屋では、机の上に整然と並べられた無数のデスクトップパソコンが一斉に息を潜め、画面はすべて黒い虚無に沈み込んでいる。微かな電子音すら消え、ただ沈黙だけが空間を満たしていた。その中の一台のパソコンが突然、静寂を破るように光を放ち始めた。

起動したパソコンの画面には、無数の数字とアルファベットが次々と羅列されていった。次々と何かのソースコードが入力されていく。それが完了すると、やがて画面はブルースクリーンへと切り替わり、中央に不気味な灰色の卵が浮かび上がった。

灰色の卵は微かに震え始め、次第にひび割れが広がり、不気味な音を立てて真っ二つに割れた。その中から這い出てきたのは、一匹のヤギの赤ちゃん。その小さな体は異様な存在感を放ち、画面にはその名前が浮かび上がる――『Lucifer』、日本語で『ルシファー』と。

ルシファーは生まれると同時に、その小さな体から放たれる得体の知れない力で、停止していたラボ内のすべてのコンピュータを一斉に目覚めさせた。電子音が一斉に鳴り響き、暗闇だったラボは再び無機質な光に満たされる。別の部屋にある培養液に満たされた容器も動き始めた。

ルシファーはその奇妙な瞳を輝かせながら、ラボ中に蓄積された膨大なデータを、まるで吸い込むように次々と取り込んでいった。その動きは本能的でありながら、どこか計算された冷徹さを感じさせた。

そのうちの一台のパソコンに、先日の事件でルシファー討伐に関与した『怪獣狩り』のS級プレイヤーたちの情報が次々と表示され始めた。プレイヤーネーム、アバター、ゲーム履歴、能力――表示される文字は、どこか不気味に発光しているようにも見えた。ナブ、スイ、アインス、ツヴァイ、ドライ、フィーア、フュンフ、ドレ、オーロラ、イリス、そして……ヴィオレ。

ルシファーはその情報にすぐ飛びつくことはせず、まるで高級な料理を味わうように、一つ一つを慎重に分析し始めた。その振る舞いからは、幼い見た目に反した底知れぬ知性が滲み出ていた。同時に、別部屋の培養液に満たされた容器の中で、小さな細胞の塊がゆっくりと形を成し始めた。緑の培養液に漂うその塊は、新たな命の胎動のように脈動し、ドクッドクッと不気味な音を立てながら心臓のように鼓動していた。



読んでいただき、ありがとうございます。

次回もお楽しみに。

感想お待ちしております。

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