桜の秘密②
最後の描写を少し書き直しました。
桜の背後から、鋭い一閃が迫っていた。だが、桜は一切表情を崩さず、落ち着いていた。なぜなら、桜は人間の死角である首の後ろに、常に防御魔法を張り巡らせていた。この防御魔法は、よほどの強力な一撃でない限り、いかなる攻撃も防ぎきる。このまま剣で斬られても問題ないと桜は思っていた。しかし念のため、全身にまとう魔力を瞬時に首に集中し、万全の状態で構えていた。
新たな人形は、剣を振り下ろす寸前、刃を桜の首から数センチの位置でピタリと止めた。防御魔法が発動することもなく、静寂が場を包み込んだ。
完全に不意を突いたはずの人形は、剣を持つ手をゆっくりと下ろした。
「どうした!? ランスロット!?」とモードレッドが驚きの声を上げた。
「無理だ!」とランスロットは返した。
「はっ!? 何言ってんだ、お前!?」
「あたしには、斬ることができない!」
「は? 何で斬れねぇんだ!? 意味わかんねぇよ!」
「まさか、何かの魔法にかかっているの? 精神を操る魔法とか……?」とガウェインが問い詰めた。
「違う! あたしは正常だ!」とランスロットは即答した。
「SHIT! だったらどうして!?」とユーウェインが言い、「ガウ!」とローディーヌも吠えた。
「あたしにもわからない。でも、斬れないものは斬れない!」とランスロットははっきりと言い切った。
「わかんねぇってどういうことだ……!? まさか、裏切ったんじゃねぇだろうな?」モードレッドは鋭く問い詰めた。
「主を裏切るなどありえない!」
ランスロットは即座に否定したが、すぐに目を伏せ、低く呟いた。
「……だが、この子を斬るなんて、あたしの騎士道に反する」
「騎士道に反する? そいつと何かあったのか?」とモードレッドはさらに詰め寄る。
その問いかけに、ランスロットは口を噤んだ。
「お前……そいつと会ったことあんのか?」
モードレッドの問いかけに、ランスロットは戸惑いの表情を浮かべた。
「……いや、会ったことはない……はずだ。いや……あるのか……?」
頭の整理がつかないまま、ランスロットは剣を収めた。
「……すまない。あたしは引かせてもらう」
ランスロットがその場から立ち去ろうとした瞬間、「ちょっと待ったー!」という少女の声が響いた。
全員が一斉に声のした方へと顔を向けた。そこには、輝く金髪に青い瞳の小柄な少女が立っていた。小学生ほどの身長にとんがり帽子を被り、ユニオンジャック柄のローブを纏っている。腰には茶色のレザーポーチを掛けていた。
モードレッドは「アリス……」、ガウェインは「アリス様!」、ユーウェインは「アリスちゃん!」、ローディーヌは「ガウ!」と吠えた。
「ランちゃん、なにがあったの!? どうして戦わなかったの!?」とアリスは驚きを隠せずに尋ねた。
「すまない……主の期待には応えられない」
ランスロットは申し訳なさそうに視線を逸らし、拳を握りしめた。
「どうして!? 何か問題があるの? もしかして、ワタシのことが嫌いになっちゃった?」
「そんなことは絶対にない! 主はあたしにとって、何よりも大切な存在だ! だけど……」
ランスロットは言葉を詰まらせた。
桜は一連のやり取りに興味を示すことなく、冷ややかな眼差しを保ったまま、迷いもなく光の拘束魔法『グレイプニール』を一斉に放った。
光の輪がアリス、モードレッド、ガウェイン、ユーウェインとローディーヌ、ランスロットを瞬く間に拘束した。
人形たちは脱力したように地面に倒れ、アリスも驚きの表情を浮かべ、バランスを崩しながら尻もちをついた。
「捕まえた」と桜は満足げに小さく呟いた。
「ちょっとぉ! いきなりなんて、ズルいじゃないデスか!」
アリスは全身を使って拘束から抜け出そうとしたが、ビクともしなかった。「ウゥ、全然解けないじゃないデスか!」と不満の声を漏らした。
「強力な拘束魔法だから、力任せじゃ解けないよ」と桜は淡々と指摘した。
「そんなことわかってマス! ワタシだって、魔法使いなんデスから!」
「そのようだね。見たところ、ドールマスターかな?」
「そうデス!」
アリスは、桜を見据えて誇らしげに名乗った。
「ワタシはアリス・キャメロット。最強のドールマスターデス!」
せっかくの名乗りだったが、拘束されたままでは威厳も何もなかった。
「……初めて見た」と桜は呟いた。
「フン! 現代のドールマスターは、ワタシしかいないんデスよ!」
「へぇー、そうなんだ」
「フフン、驚きましたカ? すごいでしょ!」とアリスは胸を張った。
「そうだね……」
一瞬の静寂が訪れた。
「って、悠長に話してる場合じゃないデス! 早くこれを解いてくだサイ!」
アリスはもがきながら頼んだ。
「解いてもいいけど、もう襲わないって約束できる?」桜は冷静に確認した。
アリスは顔を背け、口笛を吹いたが、音が出ていなかった。
「じゃあ、このまま帰るね。まくろん、行こうか」
桜が背を向けて歩き出すと、まくろんもその隣に並んだ。
すぐにアリスの叫び声が飛んだ。
「ちょっと待ってくだサイ!」
だが、桜は振り返ることなく、静かに歩みを進めた。
その姿を見て、焦った表情を浮かべたアリスは必死に叫んだ。
「わかりました! もう絶対に襲いませんから! お願いデス、解いてくだサイ!」
その必死な声に、桜は足を止めた。
ゆっくりと振り返ると、アリスをじっと見つめたまま静かに歩み寄る。そして目の前で立ち止まると、無言で指を鳴らした。次の瞬間、光の輪が弾けるように消えた。
解放されると、アリスはすぐさま立ち上がり、服の汚れを軽く払った。倒れた人形たちに手をかざすと、ランスロットたちがゆっくりと立ち上がった。遮断された魔力供給が再開したようだ。
人形たちは起き上がると、すぐにアリスのもとへ駆け寄った。少し遅れてトリスタンも駆けつけた。皆、視線を落とし、悔しそうな表情を浮かべていた。
「わりぃ、アリス。おれの力が足りないせいで……」とモードレッドが申し訳なさそうに言った。
「いえ、わたしが中途半端な覚悟で挑んだせいです」ガウェインは言った。
「HOLY、SHIT! わたしたちがもっと早く動けていれば……!」とユーウェインが言い、「ガウ!」とローディーヌも吠えた。
「いや、ぼくの狙いが甘かったせいだ……」トリスタンは肩を落とした。
「お前たちのせいじゃない。責任はすべてあたしにある」ランスロットは仲間をフォローするように言った。
「みんな、悪くないデス! だから、自分を責めちゃダメ!」
アリスははっきりと言った。
「連携はしっかり取れてたし、本当にすごかったデス。ただ……」
アリスが桜に視線を向けると、ランスロットたちも後に続いた。
「――ただ、相手がすごく強かっただけデス……」
アリスが悔しそうに言うと、人形たちも深く頷いた。
「みんな、よく頑張ったね。ありがとう……」
アリスは労いの言葉をかけながら、腰のレザーポーチに手を伸ばした。
「少し休んで……」
レザーポーチが開いた瞬間、真っ先にモードレッドが飛び込んだ。ユーウェインとローディーヌ、トリスタン、ガウェインがすぐ後に続いた。
人形一人がやっと入るかというサイズのレザーポーチの中は、広大な異空間が広がっているようだった。
最後に残ったランスロットは、ポーチの前で一瞬立ち止まり、桜をじっと見つめた。そして、意味ありげな微笑みを浮かべると、無言でポーチの中に飛び込んだ。
人形たちがポーチに収まり、アリスはそれを丁寧に閉じた。そして、深呼吸を一つしてから指を鳴らし、人払いの結界を解いた。
「ゴメンナサイ、いきなりこんなことして……」アリスは申し訳なさそうに言った。
「別に……気にしてないよ」と桜は即答した。
「ホントデスか……?」
「うん……好奇心旺盛な子なら、こういうことも仕方ないよね……」
桜が気遣いの言葉をかけた瞬間、アリスは眉をひそめ、怒りの表情に変わった。
「ワタシは十六歳デス!」
「あ……そうなんだ。てっきり、小学生かと思ってた……」
「ウゥ……そんな……ひどいデス……」
アリスは目にうっすらと涙を浮かべた。
(あっ、多分この話は地雷だ。話題を変えよう)
桜はすぐに察すると、話題を変えた。
「それにしても強いね。四人同時に動かせるなんて……!」
「アナタには全然通用しなかったデスけど……」アリスは悔しそうに返した。
「それは、あなたが全然本気じゃなかったから……」
桜がそう答えると、アリスは口を閉ざした。
桜は続けて尋ねた。
「――本当は、もっと操れるんだよね?」
「……アナタも、全然本気じゃなかったでしょ?」とアリスは問い返した。
「……殺気を感じない相手に、本気を出すわけにはいかないよ」
「……そうデスね」
「わたしは桜……“ただの魔法使い”だよ」
桜はやさしく微笑みながら、手を差し出した。
アリスは一瞬だけためらったが、やがてその手をしっかりと握り返した。
「アリス・キャメロット……デス」
小さな声で名乗りつつ、恥ずかしそうに視線を逸らした。アリスの頬はほんのりと赤く染まっていた。
「よろしくね、アリス」
「ヨロシクデス、桜」
そこへ、まくろんが颯爽と間に入り、名乗りを上げた。
「まくろんは、桜の相棒であり、最強の使い魔――まくろんニャ!」
アリスは軽く一礼して応じた。
お互いの自己紹介を終えると、そこに阿修羅が現れた。
「桜! 大丈夫か!? ってあれ? 何してんだ?」
阿修羅は焦りの表情から一瞬で緊張感のない顔に変わった。
「阿修羅、この子はアリス。これから一緒に戦ってくれる、頼もしい仲間だよ」と桜は紹介した。
「えっ、ああ、そうか。よろしくな! アリス」阿修羅は気さくに言った。
「エッ、ア、ウン……ヨ、ヨロシクデス……」
アリスは言葉を詰まらせつつ、恥ずかしそうに視線を落とした。桜に仲間と紹介されたことが嬉しかったようだ。だが、アリスは気づいていなかった。阿修羅がアリスのことを小学生だと思っていることに……。
桜は二人の様子を見てそう確信したが、敢えて言うことではないと判断し、口を噤んだ。そのとき、隣にいるまくろんが怪訝な表情で口を開いた。
「あしゅらん……もしかして、アリスニャンのこと――」
余計な一言を言いかけた瞬間、桜は素早くまくろんの頬を鷲掴みした。
まくろんの頬はぐにゃりと変形し、「ニャ、ニャー……」と情けない声を漏らしながらジタバタしていた。
その様子を見たアリスは「どうしたのデスか?」と桜に尋ねた。
「何でもないよ」と桜は冷静に答えた。
阿修羅も不思議そうな表情を浮かべ、その光景を見つめていた。
「それじゃあ、またね」
桜はそう言い残し、まくろんを鷲掴みしたまま、その場を後にした。
四月十七日、日曜日の午後。
一仕事終えた桜は、家でひと息ついていた。
リビングのソファに腰を下ろし、リラックスした状態で、大好きなさくらラテを飲んでいると、イリスがふわりと現れ、先日の件の進捗状況を報告し始めた。
桜は耳を傾け、さくらラテをひと口含んだ。
イリスによれば、あの日から一週間、玄たちの防壁を意図的に薄くし、身体データの収集が可能になるよう仕掛けたらしい。その結果、一色こがねのパーソナルAI『オーロラ』が、玄、茜、天、翠の四人の身体データを解析し、秘密の真相に近づいているということだった。明日の月曜日、一色こがねが玄に問い詰めるだろう、という予測だった。そして最後に、それぞれの一色に対する現在の好感度を告げた。
「今のところ、一色こがねさんへの好感度は、玄ちゃんが二十%、茜ちゃんが二%、天ちゃんが三十%、翠さんが五十%って感じかな」とイリスは軽快に報告した。
「茜が随分低いね」と桜は返した。
「うん、あまり相性が良くないみたい。茜ちゃん、ああ見えて警戒心が一番強いから……」
「そうだね」
「他のみんなもまだ警戒してるけど、たぶん、彼女の記憶を消さないで様子を見る方向に進むと思う。最後は、桜ちゃんに判断が委ねられるはず……」
「そっか……」
桜はソファの背もたれにゆっくりと体を預け、少し目を細めながら天井を見上げた。しばらくボーっとした表情で見つめていたそのとき、ふと思った。
記憶を消すべきかどうか決める前に、本人をこの目で見てみたい。
桜はイリスに視線を戻し、口を開いた。
「ねぇ、会議の前に、一色こがねを直接見ておきたいんだけど、ダメかな?」
「ううん、いいよ! ちょっと待ってね。今、どこにいるか調べるから……」
イリスは街中のカメラを瞬時にハッキングし、一色の居場所を調べ始めた。もちろん一般人がやれば犯罪だが、イリスの天才的な技術にかかれば痕跡すら残らない。
「――あっ、いた! 見つけたよ。今、『色神の森』にいるみたい」とイリスは言った。
「色神の森……翠が働いてる喫茶店だね」
「どうする? 今日はやめとく?」
「いや、ちょうどよかった。どんな喫茶店か気になってたし、今から行ってみるよ」
桜は立ち上がり、隣で気持ちよさそうに寝ているまくろんに視線を向けた。
「まくろんも、一緒に行く?」
まくろんは目をパッと開いて飛び起き、「もちろんニャ!」と即答した。すぐさま桜の右肩に跳び乗った。
桜はイリスに目を向けて言った。
「イリス、道案内お願いね」
「えっ!? いいの?」とイリスは驚いた。
「うん」
「で、でも……わたしがいたら、もしものとき足手まといになるんじゃ……?」
「大丈夫だよ。わたしが守るから」
イリスは手のひらをそっと胸に当てた。桜の言葉が響いたようだった。
「ありがとう、桜ちゃん」と笑顔を向け、桜の左肩にそっと乗った。
「じゃあ、行こうか」
桜が声をかけると、「うん!」とイリスが頷き、「ニャー!」とまくろんが応じた。
「あっ、まくろんはここから歩きね」と桜はすかさず言い添えた。
「ニャ!?」
こうして、三人は家を出発した。
イリスは桜の肩にしっかりと掴まり、身を乗り出すようにして道案内をしていた。
イリスの案内に従って喫茶『色神の森』に向かっていると、桜は誰かに尾行されている気配を感じた。相手の姿は見えないが、確かに見られている感じがする。勘違いではない。
周囲がじわじわと霧に覆われ、景色がぼんやりと歪み始めていた。
桜は気づいていない振りをしながら歩き続け、「まくろん……気づいてる?」と、静かに小声で尋ねた。
まくろんも歩き続けながら「ニャー、まくろんたちを誰かが見ている気配がするニャ」と小声で返した。
「え!?」
イリスは驚きの声を上げたが、すぐに両手で口を覆った。咄嗟に桜たちに合わせ、気づいていない振りをしながら、視線だけを動かし、周囲を見渡した。瞬時に状況に適応するあたり、イリスの優秀さは健在だった。
「イリス、わたしの肩にしっかりと掴まって案内を続けて……大丈夫、敵意はないから」と桜はやさしく声をかけた。
「……うん、わかった」
イリスは両手で桜の肩をしっかり掴んだ。
「次の信号を左……」と、声を少し落としながら慎重に道案内を続けた。
桜は警戒を続けていたが、その後も尾行者の姿を捉えることができないまま、『色神の森』に到着した。
喫茶店の前に着いた途端、突然、桜たちの目の前が、まるで蜃気楼のように揺らめいた。やがて、色神の森が、視界からすっかり消え失せた。
「あれ!? 消えた!?」とイリスは目を丸くし、驚きの声を漏らした。
気づけば、桜たちの周辺一帯を濃い霧が包み込み、数メートル先も見えなくなっていた。
桜とまくろんは、鋭い目つきで周囲を見渡した。
「固有結界か……」と桜は冷静に呟き、状況を把握していた。
「誘い込まれたみたいだニャ……」まくろんは耳をピンッと立て、警戒を怠らなかった。
「え!?」
イリスは何度も左右に顔を振りながら、明らかに戸惑いの色を濃くしていった。
「大丈夫だよ、イリス」
桜は右肩のイリスにそっと手を伸ばした。
イリスはその手を両手で強く握りしめ、小さく頷いた。キリっとした目つきに変わり、不安を払拭したようだった。
「ありがとう、桜ちゃん」とイリスは呟いた。
そのとき、桜たちの背後の霧の中にぼんやりと陽炎のような黒い影が揺れた。二つの赤い瞳が、桜たちの背中を鋭く見つめていた。
「そこかニャ!」
まくろんは素早く振り返り、地面を蹴って突進しながら突き蹴りを放った。だが、そこにはすでに何もなく、ただ空を蹴るだけだった。
「まくろん、焦らないで」と桜は冷静に声をかけた。
「ご、ごめんニャ」まくろんはすぐに桜のそばに戻った。
桜は魔力探知を試みたが、濃い霧がそれを阻み、魔力の流れを正確に捉えられなかった。それでも集中して続けていると、微かに魔力の流れを感じ取った。魔法の杖を召喚し、素早く構えてその方向に光弾を放った。
狙いは正確だったが、寸前のところで相手に躱された。
桜の光弾が霧を裂いたその先、銀色の髪がゆらりと揺れた。赤い瞳がこちらを射抜くように輝き、不気味な微笑みを浮かべた少女がそこに立っていた。
ゴスロリ風の黒い衣装に身を包み、その上から身の丈ほどの黒いローブを羽織っている。両手には白い革手袋が光沢を放っていた。
「上手く霧に隠れていたつもりだったが、よく余の位置がわかったものだ」とゴスロリ少女は静かに言い放った。
「たまたまだよ」と桜は静かに返した。
「クックック、そうか……」
ゴスロリ少女はゆっくりと浮かび上がり、冷ややかな視線を桜たちに向けた。
「では、ここからが本番だ!」
そう告げると、ゴスロリ少女は手を広げ、ローブをはためかせた。
桜は首元に軽く手を当て、「イリス、ここに隠れて!」と落ち着いた声で指示を出した。
イリスは桜の首元に慌てて足を突っ込み、顔だけをひょっこり出した。
桜はまくろんに視線を向け、「まくろんは、ここで待機ね」と指示を出した。
「ニャ!」とまくろんは即答した。
桜はゴスロリ少女を見据え、同じ高さまでゆっくりと浮上した。
「では、ゆくぞ」
ゴスロリ少女は冷たい笑みを浮かべ、両手を大きく広げた。その瞬間、辺り一帯を覆っていた霧がまるで押し流されるように一気に晴れた。
まだ明るい時間帯のはずなのに、空はすっかり暗くなり、街中の風景は、一瞬で荒涼とした荒野へと変貌していた。どこまでも続く無機質な大地には、建物どころか生命の痕跡すら見当たらなかった。
「――大魔法使いの力、余に見せてみよ」
ゴスロリ少女がそう言い放った瞬間、彼女を中心に色鮮やかな光弾が広がった。
夜空に咲き乱れる無数の光弾が、まるで花火のように次々と広がっていく。鮮やかな赤、青、緑、黄、白。色とりどりの光弾が音もなく四方八方に飛び交った。それぞれが複雑な軌道を描き、空間を埋め尽くす光弾が桜を襲う。
桜は弾幕の嵐の中、風に乗る蝶のように軽やかに舞い進んだ。その動きは滑らかで、見る者にはあたかも一人の舞踏家が華麗な舞を披露しているかのように映った。
ゴスロリ少女の放つ光弾は、一つ一つが緻密で美しく、それでいて恐ろしいほど正確だった。
「綺麗な弾幕だね」と桜は思わず呟いた。
戦場でこれほどまでに芸術的な弾幕を見るのは予想外だった。
「クックック、これはまだ序の口だ」
ゴスロリ少女は不敵な笑みを浮かべ、新たな弾幕を展開した。
深紅の光弾が空中にばら撒かれ、それが一斉に開花するように、薔薇の花を模した弾幕が広がった。光の薔薇は血を吸い上げたかのように艶やかで、舞い散る花びらは妖艶そのものだった。薔薇の花弁は宙に漂い、まるで命を持つかのように次々と花を咲かせていく。その美しさに引き込まれた瞬間、命を奪われるかのような危険な魅力があった。
桜はその中で、目を凝らし、全身の感覚を研ぎ澄ませていた。光弾が迫るたび、桜の身体は本能的に反応し、まるで風を纏うかのような動きでそれらを優雅に躱していく。魔法の杖を握りしめ、ゴスロリ少女に狙いを定めて光弾を放ち、反撃した。
桜の光弾がゴスロリ少女に命中した。と思われたが、寸前のところで防がれていた。
「クッ、やりおる……」とゴスロリ少女は言葉を漏らした。
「これならどうだ!」と叫び、新たな弾幕を展開した。
漆黒の闇からコウモリのシルエットが浮かび上がり、その姿を模した赤い光弾が、無数に飛び交い始める。光弾はまるで生きたコウモリのように素早く不規則な軌道を描きながら桜を包囲するように迫ってくる。コウモリたちは闇夜の中で一斉に舞い上がり、羽音を立てながら空間を埋め尽くす。複雑に絡み合い、波のように押し寄せる光弾の群れは、まさに悪夢の具現だった。
桜は次々と襲い来るコウモリの光弾を紙一重で躱していく。寸分の狂いもなく避け続け、反撃の機会を狙っていた。
一瞬の隙を見逃さず、桜は杖を構え、ゴスロリ少女に光弾を放った。だが、途中でコウモリの光弾と衝突し、消えてしまった。
桜は連続で光弾を放ち続けた。光弾が衝突するたび、眩い閃光が空を照らし、花火のように弾けて消えた。
その中で、桜は一歩も引かずに前進を続けた。着実に距離を詰める桜に、ゴスロリ少女の表情が初めて揺らいだ。
彼女は身を翻し、空間を不規則に駆け巡り始めた。
桜は逃げ回るゴスロリ少女の背中を執拗に追い続け、隙を逃さず光弾を容赦なく放った。だが、ゴスロリ少女はその一撃一撃を冷静に見極め、滑るように身を翻してすべてを躱していく。一瞬、桜が攻撃の手を緩めると、その隙を突かれた。
突如、ゴスロリ少女は鋭く振り返り、桜の方へ両手を素早く突き出した。次の瞬間、彼女の背後にいくつもの巨大な魔法陣が浮かび上がり、青白い輝きを放ちながら新たな弾幕を生み出した。
大きな青い十字型の光弾が、時計の針のようにゆっくりと回転しながら空を切り裂いて飛び交う。時計回りのものと反時計回りのものがあった。それに加え、槍の先端を模した鋭利な形の無数の光弾が桜に襲いかかった。
桜は弾幕を躱しながら、わずかな隙間を鋭く見極め、その一点に集中して正確に光弾を放ち続けた。お互いが一歩も引かない激しい弾幕合戦になった。
激しさを増す弾幕の嵐がとても綺麗で、その美しさに一瞬、意識を奪われそうになるが、桜は即座にその危険に気づき、決して気を抜かなかった。
「ここだ!」
そう判断した瞬間、杖を素早く構えた。杖の先端に集まった魔力が、まるで数千もの星の輝きを一つに凝縮したかのように、圧倒的な光を放ち始めた。魔力の輝きは膨れ上がり、やがて眩い光球となった。
桜は全力を込め、光球を力強く放った。光球は放たれた瞬間に膨れ上がり、やがて無数の小さな光弾へと分裂した。それらの光弾はまるで流星の雨のように降り注ぎ、ゴスロリ少女の弾幕を次々に打ち破っていく。無数の光の筋が夜空を駆け抜け、その輝きがまるで白昼のごとく辺りを染め上げた。
ゴスロリ少女は光の雨から逃れようと躍起になったが、その美しさすら感じさせる精緻な光の軌跡に捕らえられ、逃げ場を失った。
決着かと思われた刹那、ゴスロリ少女がニヤリと笑った。突然、ゴスロリ少女の身体が無数の黒いコウモリに分裂し、夜空に溶け込むように消え去った。それは分身体に過ぎなかった。
桜がゆっくり振り返ると、そこにゴスロリ少女の姿があった。
「やるね、全然気づかなかった」と桜は素直に感心した。
「ぬしも……見事だ。噂通り……いや、それ以上だ!」とゴスロリ少女は口元に笑みを浮かべながら、敬意を込めて言った。
「まだ続ける?」
「当然だ」
桜は、相手がまだ戦う気でいることを確認すると、静かに身構えた。
ゴスロリ少女が構えたその瞬間、空間を切り裂くようなガラスの割れる音が突然響いた。それは、ゴスロリ少女が張り巡らせていた固有結界が崩壊する音だった。
ゴスロリ少女は慌てて周りを見渡した。
割れた空間の隙間から、街の風景がじわじわと滲み出すように現れ始めた。
その光景に、桜とゴスロリ少女は思わず「……あっ!」と声を揃え、慌てて地上へと降り立った。
あっという間に固有結界が消滅すると、喫茶『色神の森』が現れ、元の場所に戻ったのだった。
景色が戻るや否や、ゴスロリ少女はまるで何事もなかったかのように振る舞い始めた。
桜は冷たい視線をゴスロリ少女に向け、じっと様子をうかがった。イリスとまくろんも無言でそれに倣った。
「なっ、なんだ、その目は!?」ゴスロリ少女の声がわずかに震えた。
「別に……」桜は冷たく返した。
「二人とも! こんなところで何をやってるんデスか!」という少女の声が鋭く響いた。
声のした方に視線を向けると、そこには険しい顔のアリスが立っていた。
アリスの姿を目にした瞬間、ゴスロリ少女の顔が青ざめた。
「いきなりこの子に襲われたから、相手をしてただけ……」
桜はゴスロリ少女を指差しながら正直に答えた。
アリスの鋭い眼光が、ゴスロリ少女に突き刺さるように向けられた。
「ヴラド、どういうことデスか!?」
「ア、アリス、落ち着け。これには、ふ、深い事情があるんだ……」
ヴラドは身を縮めるようにして恐る恐る言った。
「深い事情って、何デスか……?」アリスはさらに問い詰める。
「そ、それは、だな……」
ヴラドは目を逸らし、冷や汗を流した。視線を泳がせながら、「ちょっと……大魔法使いの力を……試したくて……」と気まずそうに呟いた。
「こんな街中でやることじゃないデショ!」
「す、すまない……」
ヴラドは叱られ、しゅんと肩を落とした。
その光景を見た桜は、(アリスも似たようなことをしたよね?)と思ったが、心の中に留めた。
だが、まくろんがまったく空気を読まずに、口を開いた。
「アリスニャンも、この前に同じことしたニャ!」
「なっ!?」とアリスは思わず声を漏らし、一瞬硬直した。
ヴラドは視線を上げ、「え……?」と呟いた。
「そっ、そ、そんなことより! 早く『色森』に行きマスよ! ここのスイーツ、絶品なんデスから!」
アリスは慌てて話題を逸らし、ヴラドの腕を引っ張った。
「あ、うん……」
ヴラドは頷き、アリスに引っ張られながらついて行った。二人の目的地も『色神の森』だったようだ。
あ、誤魔化した。
桜は内心で少し呆れたが、それ以上は何も言わなかった。まくろんとイリスも微妙な表情で、黙って二人の背中を見送った。
「わたしたちも行こうか……」
桜が声をかけると、イリスが「うん」、まくろんが「ニャ!」と応じた。
桜は店に入る前に、まくろんの足の裏を魔法でさっときれいにし、そのまま軽々と持ち上げて肩に乗せた。
店内に足を踏み入れた瞬間、まず一色こがねの姿を探した。一番端のカウンター席で、彼女は静かに読書を楽しんでいた。
先に入ったアリスとヴラドは、青山流香の独特な接客を受けていた。
アリスは流香の独特な接客に完全にたじろぎ、「だ・か・ら! ワタシは七歳じゃないデス! これはギャグじゃないデス!」と必死に抗議していた。
その隣で、ヴラドはぽかんとした表情を浮かべていた。
彼女たちの隣を、桜は一切気にせず通り過ぎた。
桜の前に、にこやかな笑顔の茉田莉モカが現れた。
桜はモカの案内で、落ち着いた雰囲気の二人掛けテーブル席へと向かった。その途中、一人で食事中の禿げた爺さん――百鬼夜行と目が合った。
「おお、桜ちゃんじゃないか! 久しいのう、元気じゃったか?」と夜行は気さくに声をかけた。
「元気だよ。夜行じいさんも、相変わらず元気そうだね」と桜は静かに返した。
「わし、そんなに若く見えるかの?」
夜行は顎に手を当て、決め顔を作った。
「うーん……若くは見えないかな」
「そ、そうか……」夜行はガッカリしたように肩を落とした。すぐに気を取り直すと、「それより、今から食事かの?」と尋ねた。
「うん」
「そうかそうか」
夜行は桜の全身を舐めまわすように眺めたあと、口元を緩めて言った。
「せっかくじゃし、わしと一緒にどうじゃ? 好きなだけ奢るぞ!」
桜はモカに視線を向け、夜行を指差して言った。
「店員さん、わたしの会計はすべてこの人にお願いします」
その言葉を聞いた瞬間、夜行の目が一瞬で輝いたが、桜は淡々と続けた。
「――でも、一緒は嫌だから、別の席でお願いします」
「かしこましましたぁ」とモカは微笑み、案内を続けた。
「そ、そんな〜……」と夜行は肩を落とし、しょんぼりと呟いた。
桜は夜行の隣をあっさりと通り過ぎ、二人掛けのテーブル席に腰を下ろした。その席は、一色こがねの後ろ姿がよく見える絶好の観察ポイントだった。
向かいにイリスとまくろんが座った。
桜はさくらラテと、興味本位でシェフの気ままなスイーツを注文した。
イリスとまくろんはお冷を頼んだが、あとでスイーツを一緒に食べるつもりだ。
ほどなくしてさくらラテが運ばれてきた。
さくらラテを口に運びながら、桜は視線を動かした。
アリスとヴラドは、まだ流香と立ち話をしている最中だった。
一口含み、香りと甘さを楽しみながら二人の様子を眺めていた桜は、不意にアリスと目が合った。
その瞬間、アリスは桜を指差しながら、小走りでこちらにやってきた。隣の空いている二人掛けテーブルを勢いよく持ち上げると、そのまま桜のテーブルにくっつけた。
「ここでいいデスか?」とアリスは流香に尋ねた。
「いいけど、お客様はいいの?」流香は桜に尋ねた。
「別にいいよ」と桜はあっさり答えた。
今回は一色こがねの観察が目的なので、二人が加わっても特に問題なかった。
「ヴラドもいい?」とアリスは尋ねた。
ヴラドは小さく頷いたが、さきほど無理やり戦いを挑んだことが頭をよぎり、どこか居心地悪そうに視線を落とした。
こうして、桜のテーブル席に、アリスとヴラドが加わった。
イリスとまくろんは桜の隣に移動した。アリスが桜の正面、ヴラドが彼女の隣に腰を下ろした。
アリスはメニュー表を大きく広げ、ヴラドは覗き込んだ。少しして、アリスはミルクティー、ヴラドはベリーティーを注文した。
「承りました、少々お待ちください」と流香は注文を受け、カウンターに戻っていった。
「急にゴメンナサイ」とアリスは申し訳なさそうに言った。
「別に……気にしないで」と桜は返した。
アリスはまくろんとイリスに視線を向けると、「二人とも、アリガトウ」と微笑んだ。
少し遅れて、ヴラドも少し気まずそうにしながら小さく一礼した。
「どういたしましてニャ!」とまくろんは返した。
しばらくして、流香がミルクティーとベリーティーを運んできた。
流香はキリッとした目つきで妙に力の入った決め顔を作り、芝居がかった低い声で言った。
「お待たせしました。ミルクティーとベリーティーでございます」
「アリガトウ」とアリスは返し、ミルクティーを受け取った。
ヴラドは小さく一礼し、ベリーティーを受け取った。
「では、ごゆっくり……」
流香はなぜか決め顔のまま、無言でカウンターに戻っていった。
アリスがミルクティーを一口飲み、「うん、美味しいデス!」と満足げに呟いた。
ヴラドも隣で恐る恐るベリーティーを口にした。一口含むと、その表情がぱっと明るくなった。張り詰めた緊張がほどけるように、甘酸っぱい味が心を静かに癒していく。
「そういえばヴラド、桜と手合わせしてみてどうだった?」とアリスは唐突に尋ねた。
ヴラドは思わずむせた。
「ゲホッ、ゲホッ!」と咳き込むヴラドを見て、桜はすぐさまテーブルの紙ナプキンをそっと差し出した。
「あ、ありがと……」
ヴラドは恥ずかしそうに顔を赤く染め、紙ナプキンでそっと口元を拭った。
「大丈夫? ヴラド……」アリスは心配そうに言った。
ヴラド頷きながら、「……もう大丈夫。ありがと」と返した。
桜はアリスに視線を向け、口を開いた。
「ねぇ、アリス……ちょっといい……?」
「ん? なに?」とアリスは返した。
「わたし、その子のこと、まだ何も知らないんだけど……」
その言葉に、アリスは「え!?」と驚き、ヴラドに目を向けた。
ヴラドは気まずそうに目を伏せ、口を噤んだ。
桜はさらに言い添えた。
「――まあ、その子はわたしのこと、知ってるみたいだけど……」
「もしかして、まだ名乗ってないのデスか?」とアリスは目を丸くして尋ねた。
ヴラドは黙ったままコクリと頷いた。
アリスはため息をつき、額に手を当てた。
「じゃあ、今からしよっか!」とアリスは提案し、身体を少し斜めに傾けた。
「――桜、この子はヴラド。ワタシたちと同じ……」
アリスが言いかけたその瞬間、ヴラドは手をすっと伸ばし、彼女の言葉を遮った。その仕草には「自分で名乗りたい」という強い意志が込められていた。
アリスはその意思を汲み、口を閉じた。
一瞬の沈黙が流れた。ヴラドの赤く鋭い瞳が桜をまっすぐに射抜いた。
ヴラドは静かに息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。
「余の名は、ヴラド・トランシルヴァニア……気高きヴァンパイアである!」
ヴラドは胸を張り、手を突き出して名乗った。
その光景に、桜、イリス、まくろんの三人は心の中で声を揃えた。
(あっ! この子、やっぱり柴乃と同じタイプだ!)
「ヴァンパイア……」と桜は小さく呟いた。
「ぬしのことは知っている。最近、アルカナ・オースで魔法使いが活躍していると噂になっておるからな」
「そうなんだ」
「ぬっ!? そんなあっさり……嬉しくないのか?」
「うーん……あまり興味ないかな」
「むぅ……そうか……」
「あ、でも、あなたみたいにかわいい人が知ってくれているのは、ちょっと嬉しいかな」
「なっ!? か、かわいい……? 余が……!?」
「うん」
「……ッ!」
ヴラドは顔を赤らめながら困惑した表情を浮かべ、アリスに視線を向けた。
「ア、アリス! 余は……本当にカワイイのか?」と縋るように尋ねた。
「うん、カワイイよ」とアリスは即答した。
(アリスもかわいいけど……)
桜は心の中でそう思った。
ヴラドは目を見開き、信じられないといった表情で頬に手を当てた。戸惑いと喜びがない交ぜになった複雑な思いが滲んでいた。
そこへ、桜の注文していたシェフの気ままなスイーツが届いた。
今日の“シェフの気ままなスイーツ”は、たっぷりの生クリームに、さくらんぼ・いちご・ブルーベリーなどの色鮮やかなベリーを贅沢にあしらった、ふわふわでとろけるパンケーキだった。
アリス、ヴラド、そしてまくろんが目を輝かせながらパンケーキを見つめた。
桜はナイフとフォークを手に取り、ふわふわのパンケーキにそっと刃を入れた。丁寧に切り分けるその所作は、どこか儀式のようでもあった。取り皿に盛り付けると、それぞれの前に差し出した。
「え、いいんデスか!?」とアリスは驚き、ヴラドも目を丸くして桜を見つめた。
「うん、一人じゃ食べきれないしね」と桜は微笑んだ。
「アリガトウゴザイマス!」とアリスは言い、ヴラドは微笑んだ。
アリスとヴラドは目を輝かせ、パンケーキをフォークですくい上げて口に運び、大きな一口を頬張った。その瞬間、頬が溶けるほど緩くなり、二人とも満面の笑みを浮かべ、しっかりと噛みしめた。
まくろんには、周囲に気づかれないようサッと一口分を渡した。まくろんも満面の笑みでしっかりと味わっていた。
少し遅れて、桜もようやく自分の分を口に運んだ。口に入れた瞬間、甘味とほどよい酸味が広がり、とても美味しかった。だが、桜は他の三人ほど大きなリアクションを見せることはなく、ただ静かに口角を少し上げただけだった。
もし足りなければ、追加で注文しよう。どうせ夜行じいさんの奢りだし……遠慮なく楽しもう。
桜は密かにそう思った。
「そういえば、最近、海外の子を多く見かけるけど、どうして?」と桜は唐突に尋ねた。
その問いかけに、アリスとヴラドはスイーツを食べる手を止めた。フォークを静かに置くと、ゆっくりと桜に視線を向けた。
「桜、知らないのデスか?」とアリスは真剣な表情で言った。
「何のこと……?」
アリスとヴラドは一度視線を交わし、すぐに戻した。
「最近、アルカナ・オースの本部内で……とある情報が出回っていマス」とアリスは少し声を潜めながら言った。
「とある情報……?」
桜が首を傾げると、ヴラドが鋭く言い放った。
「七代天使が……この国に潜んでいるという情報だ!」
その言葉を聞いた瞬間、桜は一瞬目を大きく見開いた。
「七代天使が……!?」と呟き、持っていたフォークを静かに置いた。すぐに表情を戻すと、「どこからそんな情報が……? 信ぴょう性はあるの?」と冷静に問いかけた。
「余の先輩が、上級天使に催眠術をかけて聞き出したのだ。嘘をつけぬ状況ゆえ、情報の信憑性は高い」とヴラドが答えた。
「たしかに、嘘はつけなさそうだね……」
桜は顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
「――でも、その天使の情報が間違っている可能性もあるよね?」と続けて問いかけた。
「ああ……」とヴラドは頷く。「だが、今までまったく得られなかった七代天使の情報だ。調べてみる価値はある」
「……天使の罠ってことはない? わたしたちを一ヶ所に集めて、その隙に手薄な場所を襲うとか?」
「そこは心配しなくても大丈夫デスよ。ちゃんと対策を練ってるから……」とアリスが答えた。
「そう……」と桜は呟き、真剣な顔で目を伏せた。
しばしの間、沈黙が流れたが、ヴラドがそれを破った。
「心配するな。七代天使は、余が必ず倒す!」
ヴラドは拳を固く握りしめ、目を鋭く光らせながら力強く宣言した。直後、フォークを手に取ると、ふわふわパンケーキに突き刺した。フォークがパンケーキに突き刺さると、ふんわりとベリーソースが溢れ出した。その鮮やかな赤は、まるで血のように妖しく輝いて見えた。
それを食べるヴラドの表情は一瞬でほころんだ。頬に手を当て、「んー、ウマッ!」と感想を漏らした。
アリスも食事を再開し、パンケーキを口に含んだ瞬間、ヴラドと同じように一瞬で表情が緩んだ。
桜たちはたった数分で、生クリームとフルーツがたっぷり盛られたふわふわとろとろのパンケーキを夢中になって食べ終えた。
桜は満足げだったが、アリスとヴラド、そしてまくろんの三人はまだ物足りなさそうな表情を浮かべていた。そのとき、まるで三人の期待に応えるかのように、同じ品を流香が軽やかに運んできた。
「お待たせ!」
流香は得意げな笑顔を浮かべながら、軽やかな足取りで桜たちのテーブルにパンケーキを置いた。
アリス、ヴラド、そしてまくろんの三人は、思わず身を乗り出し、目を輝かせながらパンケーキを見つめた。
「あれ? 注文は一つだけだったよね?」と桜は冷静に尋ねた。
「あのおじいちゃんからだよ」
流香は夜行を指差した。
視線を向けると、夜行はテーブルの向こうで、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら、ピースサインをひょいと送ってきた。
桜は夜行のピースサインには目もくれず、「じゃあ、取り分けようか」とパンケーキを均等に切り分けて、それぞれの皿に配った。
二つ目のパンケーキを食べていると、不意にイリスがふわりと桜の耳元に飛び、小声で囁いた。
「桜ちゃん、一色こがねさんがもうすぐ帰るよ」
桜は思わず「えっ!?」と声を上げ、急いでカウンター席に目を向けた。
一色は立ち上がって、今にも帰り出そうとしていた。
「どんな人か、なんとなくでもわかった?」とイリスは小声で尋ねた。
「う、うん……ばっちり」と桜は少し口ごもりつつも頷いた。
「そっか、よかった」
イリスは疑う素振りもなく微笑んだが、桜は内心こう思っていた。
しまった! 彼女のことを観察するつもりだったのに、すっかり忘れてた。アリスとヴラドがいたし、パンケーキも美味しかったから……。まあ、いっか。一瞬だけでも見られたし……。彼女のオーラ……純粋そうだし、きっと、良いサポートをしてくれる……はず……たぶん……。
桜は心の中で自分を正当化しながら、一色の背中を静かに横目で見送った。
「桜……? どうかしたのデスか?」とアリスが不意に尋ねた。
「何でもないよ」と桜は即答し、手元のパンケーキを口に運んだ。
家に帰って玄関を開けた瞬間、イリスが「あっ!」と思い出したように声を上げた。
「どうしたの?」と桜は尋ねた。
「天ちゃんに、新曲のレコーディングを頼まれてるの、忘れてた!」
「そういえば、今回は全員で歌うんだったね」
「うん」
「じゃあ、今から録ろうか」
桜とイリスは地下室へ向かい、まくろんはリビングのソファで寝転んだ。
桜は決して歌が上手いわけではない。音程を外すことはないものの、声色には抑揚がほとんどなく、どこか無機質だった。それでも彼女の歌声には、不思議と心に残る何かがあった。
準備が整い、桜が歌い始めると、地下室には、桜の淡々とした歌声が静かに広がった。その響きは、まるで冷たく透き通ったガラス細工が奏でる音楽のようだった。
一曲歌い終わると、イリスは「うん、バッチリ!」と力強く頷き、満面の笑みで桜にオーケーサインを出した。
「桜ちゃんらしい、素直でまっすぐな歌声だったよ! きっと天ちゃんも喜ぶと思う!」と言い添えた。
「ありがとう」と桜も満足そうに言った。
その後、桜は地下室の端へ向かい、無言で壁の前に立った。彼女がそっと壁に手を触れると、淡い青白い光を放ち始め、やがてゆっくりと木製のドアが現れた。その幻想的な光景に、イリスは思わず目を見張った。
桜はドアを開けると、振り返って言った。
「じゃあ、ちょっと魔法の練習をしてくるね」
「いってらっしゃい!」とイリスは笑顔で見送った。
桜は小さく微笑むと、向き直り、その先に広がる異空間へと一歩足を踏み入れた。
その頃、日本のとある場所――人知れず、誰も近づけない雷鳴轟く山奥に、一つの神社がひっそりと佇んでいた。その名は――『月姫竹取神社』。
朱色の鳥居を潜り参道を進むと、手水舎や石で作られた兎の像、社務所、授与所などがあった。
今宵、月明かりも届かぬ本殿の奥深く――そこに、七人の天使たちが静かに集っていた。
本殿の中心に木の長机があり、その周りに優曇華の花が刺繍された座布団がある。
六人の天使が向かい合う形で座布団に腰を下ろし、上座には一人が堂々と構えていた。
同じ姿をした二足歩行の兎の天使たちが、様々な国の料理を長机へ次々と運び、並べていた。
七人の天使は、酒を酌み交わしながら料理を楽しんでいた。
「ふん、こうして顔を揃えるのは何年ぶりだ?」と上座に座る好青年の天使が言った。
「わいの記憶だと……たしか、四百年ぶりや!」どっしり構えた力士のような天使が答えた。
「そんなに最近のことでござったか!? もっと昔のことかと思ったでござる……」一寸サイズの男天使が驚いたように言った。
「ウフフ……四百年ぶりに、わらわの美しさを拝めるのじゃ。さあ、存分に目に焼き付けて崇め奉るがよい!」着物をまとった女天使が言い放った。
「相変わらず押しつけがましいでありんすね、あなたは……。ああ、鬱陶しいでありんす」輝くドレスを身にまとった金髪の女天使が言った。
着物の天使とドレスの女天使は睨み合った。視線が交錯し、その間には激しい火花が散るかのようだった。
「うーん……お前ら、うるさいんだけど……」気だるげな男天使は眠たげに目を擦りながら言った。
「ガハハッ! 相変わらず威勢がいいのう。わしもそろそろ引退か……?」年老いた男天使が酒をガブガブ飲みながら冗談っぽく言った。
「まだ冗談を飛ばす元気はあるようだな、じじい……」好青年天使は薄ら笑った。
七人の天使たちは、それぞれ会話や食事を楽しんでいた。四百年ぶりの集まりということで思いのほか盛り上がり、給仕の兎たちは大忙しだった。
しばらくして、盛り上がりも落ち着き始めた。
「ところで、今日はどうして集まったんでござるか?」一寸サイズの男天使が問いかけた。
「そういえば、召集をかけたのはおぬしであったな?」着物の女天使が言うと、全員が上座に視線を向けた。
「ああ、そうだな……」好青年天使はそう答え、手に持ったワイングラスの残りを一気に飲み干し、テーブルに置いた。
「わいらを全員呼び出すっちゅーことは、よほど重要なことなんだな?」力士のような天使が言った。
「一体何でありんす?」ドレスの女天使が問いかけた。
好青年天使に注目が集まる中、年老いた男天使は、酒をガバガバと飲み続けていた。
緊張感が漂う中、好青年天使は静かに口を開いた。
「もうすぐ、人間の数が百億を超える」
好青年天使の低い声が響いた瞬間、六人の天使が一斉に目を見開き、動きを止めた。まるで時間が凍ったかのような静寂が、場を支配する。好青年天使は続けて言った。
「ようやく始められそうだ。『神昇の祭典』を……」
少しの沈黙のあと、着物の女天使は嬉しそうに笑った。
「フフフ……ついにわらわの美しさを永遠のものにできるのじゃな!」
「長かったのう……」年老いた天使はしみじみと呟き、酒を飲んだ。
「どんな結果になるのか、楽しみでありんす!」ドレスの女天使は胸を弾ませた。
「わいが一番早く“神”になっちゃる!」力士の天使は強気に宣言し、一寸天使も「拙者も負けぬでござる!」と対抗心を燃やした。
気だるげな男天使はやる気なさげに、「めんどくせ」と呟いた。
少し浮き足立った空気が漂ったが、好青年天使の冷静な一言で、場の雰囲気が一変した。
「おれたちの悲願が叶うのも、あと少しだ。だが、その前に考えなければならないことがある」
「……アルカナ・オース」年老いた天使は険しい表情で呟き、他六人も表情を引き締めた。
好青年天使は静かに頷き、続けて言った。
「奴らは必ずおれたちの前に立ちはだかる……が、過度に恐れる必要はない。所詮、奴らは落ちこぼれ集団……群れなければ何もできない弱者どもだ」
好青年天使が堂々と言い放つと、着物の女天使が続けて口を開いた。
「フフ、そんな奴ら、わらわが軽くあしらってやるのじゃ」
「拙者も然りでござる」と一寸天使が続き、「わいもな」と力士の天使が短く頷いた。
「ガハハッ! まったく頼もしいのう、小童ども!」年老いた男天使は再び杯を掲げ、豪快に酒を煽った。
「『神昇の祭典』の前に、早く見つけないとでありんす……」ドレスの女天使は独り言のように小さく呟いた。
「めんどくせ」気だるげな男天使は不満を漏らし、机に突っ伏した。
「話はここまでだ! さあ、今夜は四百年ぶりの宴だ――酒と飯を、存分に持ってこい!」
好青年天使が高らかに号令をかけると、兎天使たちは再び慌ただしく動き出した。
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