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玄の秘密

西暦二〇五〇年、四月四日、月曜日。

皆が寝静まった未明――色神の街に佇むひとけのないビルの屋上に、黒い服を身にまとった少女が立っていた。

少女の名は『玄』。

ビルの屋上は風が強く、玄の艶やかな黒髪が激しくなびいていた。

玄は片手にハンドガンを握り、強い風を受けながら、そこから一キロほど離れた廃ビルを見下ろしていた。彼女の隣には、相棒の妖精型ロボット『イリス』が静かに宙に浮いていた。

「玄ちゃん、準備はいい?」イリスは言った。

「ええ、いつでもいけるわ」玄は答えた。

イリスは両手を額に当て、目を凝らし、廃ビルの三階の部屋を覗き込んだ。

部屋には黒いスーツを着た三人の男の姿があった。真ん中の男は、四十代くらいの見た目で、背が低く丸い体格をしていた。あとの二人は屈強な体格に黒いサングラスを掛け、手を後ろで組み、背筋を伸ばして立っていた。

この廃ビルは数年前から使われておらず、廃材があちこちに散乱し、割れた蛍光灯や窓ガラスが薄暗い光を反射していた。防犯カメラは無残にも壊れ、まるで時間が止まったような廃墟だった。当然人の気配はなく、悪事を働くにはうってつけの場所である。

玄の視界では捉えられてないが、廃ビルの前には小型の偵察ドローンが二台空中で見張っていた。静音機能が優れている機種で、黒い機体が風景に溶け込み、至近距離まで近づかないと気づかない。

しばらくすると、イリスは視線を少し下げ、「来た!」と言った。

玄はすぐに目を向けた。

二人の視線の先に、フードを深く被ったやせ型の男が現れた。

男は足早に廃ビルの前まで向かい、そこで立ち止まった。一度廃ビルを見上げてから用心深く左右を見渡し、廃ビルの中に足を踏み入れた。

静まり返った廃ビルの中に、男の足音だけがコツコツと響いていた。男は階段を上がり、三階の部屋の前で立ち止まる。ノックをしたあと「入れ」という低い声を聞き、ドアをゆっくりと開けて中に入った。

「よく来た、同士よ」背の低い男は歓迎するように言った。

「はっ、はい」やせ型の男は答えた。

「約束通り、一人で来たみたいだな」

「はい」

「スマートデバイスは身につけてないな?」

「はい」

 背の低い男はニヤリと笑った。

「合格だ」

そう言うと、背の低い男は振り向き、後ろに待機していた屈強な男に顎で指示を送った。

指示を受けた屈強な男は、持っていたスーツケースを背の低い男に渡し、すぐに下がった。

「ふっふっふっ……これできみも我らの同士だ。さあ、ともにこの国を破壊し、新たな国を築こう」

背の低い男はスーツケースをやせ型の男に差し出し、やせ型の男も手を伸ばしてそれを受け取ろうとしていた。

その瞬間、鋭い音とともに窓ガラスが粉々に砕け、玄が突入した。


数分前、玄はやせ型の男がビルに入った時点で、すでに行動を開始していた。ポケットから手のひらサイズの円柱型機器を取り出し、ボタンを押すと、それはグンッと勢いよく伸び、ほうき状になった。飛行する乗り物、ほうき型ドローンだ。

玄は起動したほうきに腰を下ろし、イリスがふわりと肩に乗ると、廃ビルに向かって一直線に飛んだ。

廃ビルまで残り五十メートルのところで、玄は目を凝らした。イリスの言っていた通り、二台の偵察ドローンが周辺を浮遊しているのが見えた。

玄はハンドガンで狙いを定め、素早く二発放った。弾丸は正確に命中し、二台のドローンは機能を停止して落ちていった。

「イリスは外で待機ね」

「了解!」

玄の指示に、イリスは即答し、軽やかに肩から飛び立った。

玄はほうきに立ち乗りし、巧みにバランスを保ちながら、勢いよく廃ビル三階の窓ガラスに向かって突き進んだ。目の前に迫ると、ほうきを足場にして跳び、蹴りで窓ガラスを突き破りながら、廃ビル三階の部屋に飛び込んだ。

玄が突入した瞬間、四人の男たちは驚いていた。

背の低い男は思わずスーツケースから手を離し、それが床を滑った。

一方、屈強な男二人はすぐに事態を察し、無言で胸元に手を伸ばした。素早く銃を引き抜くと、即座に玄に銃口を向け、迷わず数発の弾丸を放った。

玄は身を低くしながら横に跳ね、放たれた弾丸を巧みに躱すと、流れるような動きで屈強な男二人へと銃口を向け、素早く二発放った。

玄の放った非殺傷弾は、屈強な男の眉間に命中した。

二人は気を失い、地面に倒れた。

次に、玄は背の低い男を狙い、素早く視線を向けた。彼と目が合った瞬間、玄は動きを止め、鋭い目つきで睨みつけた。

背の低い男は目を見開き、至近距離で玄の額に銃口をぴたりと合わせていた。

息をのむような静寂が広がる。

それでも、玄は微動だにしなかった。

「死ね!」

背の低い男は笑みを浮かべながら、引き金を引いた。

弾丸が放たれた瞬間、玄はその軌道をはっきりと見切り、反射的に半歩身を引き、それを躱した。

「なに!?」

 男が驚愕する暇も与えず、玄は素早くハンドガンを構え、彼の眉間に非殺傷弾を撃ち込んだ。

背の低い男も屈強な男たちと同様、気を失って地面に崩れ落ちた。

その頃、やせ型の男は腰を抜かして狼狽えていた。

玄は一瞬ハンドガンを構えたが、すぐにその腕を下ろし、冷徹な眼差しをやせ型の男に向けた。静かに彼に歩み寄り、首の後ろに素早く手刀を当てると、男は無抵抗のままその場に崩れ落ちた。

一段落つくと、イリスが玄のそばに飛んできて、労いの言葉をかけた。

「玄ちゃん、お疲れ様」

玄はハンドガンをレッグホルスターに収め、ワイヤーガンを手に取った。ワイヤーガンを気絶した四人に放ち、彼らを拘束した。

「イリス、この四人の素性を調べて」

「了解」

 イリスは拘束された四人を横一列に並べ始めた。一人ずつ首根っこを掴み、雑に引きずって並べた。イリスの小さな体で懸命に動く姿は、どこか微笑ましいものだった。

四人を並べ終えると、イリスは順に上から下へ視線を動かし、彼らの顔や体格のデータから個人情報を調べ始めた。

その間、玄はスーツケースを開けた。

中身は金属的な光沢を放つ銀色のパワードスーツだった。戦闘用に特化したデザインが際立っていた。しかし、このパワードスーツは、違法に製造されたものだった。

半年ほど前、パワードスーツの開発企業が何者かにハッキングされ、開発データが盗まれたという事件があった。それからしばらく音沙汰なかったが、先日、違法に製造されたパワードスーツを配っている者がいるという情報をイリスが入手した。それで、玄は今回の任務に当たっていた。

イリスは男たちのデータ照合を終えると、「よし!」と満足げに頷き、玄のそばにふわりと舞い上がった。

そのとき、イリスのもとに、仲間の任務完了の報告が次々と届いた。

玄はほっと息をつき、肩の力を抜いて言った。

「わたしたちも、これで任務完了ね。あとは回収班に任せましょう」

「うん!」イリスは頷き、玄の肩に乗った。

 玄たちがその場を立ち去ろうとした瞬間、背の低い男が「う、うう……」と意識を取り戻した。男はゆっくりと目を開き、顔を上げ、玄たちに視線を向けた。

「きっ、きさまら……まさか、〈フリーデン〉か!?」

 その言葉を聞いた瞬間、玄は素早くハンドガンを抜き、銃口を向けた。

 その様子を見て、男は確信したように高笑った。

「ふっ、ふはははは……! やはりそうか! 都市伝説かと思っていたが、どうやら本物のようだな!」

男が口にした〈フリーデン〉──それは、日本国内の犯罪やテロを未然に防ぐ極秘の治安維持組織の名だ。一般には存在すら知られておらず、影の中で国家の平穏を守り続けていた。

玄とイリスは〈フリーデン〉に所属しているエージェントだった。

「その名……どこで知ったの?」

玄は冷徹に尋ねた。彼女の目には鋭さが宿っていた。

 しかし、男は答えず、薄く笑みを浮かべるだけだった。その表情には、秘密を握った者だけが持つ不気味な余裕が滲んでいた。

玄は深いため息をつき、冷ややかな目を男に向けた。

「まあいいわ。どうせ、すぐに忘れるから」

「ふふ……おれを殺したとしても、同志たちが――」

男が言い終わる前に、玄は迷わず引き金を引き、残りの弾数をすべて撃ち込んだ。一発、二発、三発……冷酷なまでに容赦なく撃ち込み、弾倉が空になると静かに銃を下ろした。男は死んでいないが、激痛を伴う弾丸を一気に数発浴び、完全に意識を失って崩れ落ちた。

玄がハンドガンをレッグホルスターに収めたそのとき、〈フリーデン〉の回収班が到着し、続々と部屋の中に入ってきた。

その中の一人が玄に近づき、軽く敬礼してから声をかけた。

「お疲れ様でした、シュバルツさん」

「お疲れ様……それじゃあ、あとは頼むわね」

「はい」

玄は向き直り、窓に向かって歩いた。その途中でイリスが肩に座った。

 窓の外にはほうきが静かに待機していた。

玄は慣れた動作でほうきに腰を下ろし、夜の闇に溶け込むように飛び去っていった。月明かりに照らされた姿は、瞬く間に見えなくなった。


同日、午前九時二十分。

玄はほうきに跨り、切羽詰まった表情で、色神の街を駆け抜けていた。冷や汗が額を伝い、普段の冷静さを失うほどの焦燥が、彼女を包み込んでいた。彼女の肩にはイリスが腰を下ろし、ナビゲーションを担当していた。

「あとどれくらいで着く?」玄は尋ねた。

「五分くらい……!」イリスは即答し、続けて言った。「あ、彼がもう着いちゃった!」

「――ッ! 急ぐわよ」

 玄は巧みな飛行技術で、空を行き交う飛行車やドローンを避けながら、猛スピードで現場まで向かった。


二十分前――。

自宅の一室で、玄は姿見の前で髪型や襟元を微調整していた。身だしなみを整えたあと、リビングへ移動し、イリスに声をかけた。

「イリス、今日の予定は?」

「えーっと、今日はね――」

イリスは予定表を空中に映し出し、それに目を通しながら確認し始めた。いつも通りの流れである。

しかし次の瞬間、イリスが鋭い声を上げた。

「あっ! 玄ちゃん、大変!」

「どうしたの?」

「今、街のカメラが不審な人物を捉えたんだけど……」

「不審な人物?」玄は首を傾げた。

 イリスは説明するより見た方が早いと判断し、玄の目の前にある映像を投影した。

映像には、銀色のパワードスーツを身にまとった人物が、空間を裂くような異常な速度で移動する姿が映っていた。さらに、そのスーツは、先ほど回収した違法製品と酷似していた。

「これって、どういうこと? あのスーツは〈フリーデン〉が回収したんじゃなかったの?」

「そのはずだけど……ちょっと待って、確認する」

イリスは冷静に答え、すぐに〈フリーデン〉の保管記録にアクセスした。

「まさか……盗まれたの!?」

「ううん、さっきのスーツはちゃんと〈フリーデン〉の保管庫にあるよ」

イリスは答え、玄に証拠の映像を見せた。

玄はその映像を見たあと、映像に視線を戻した。

「じゃあ、これは……?」

玄の胸中に、不安がざわつき始めた。次の瞬間、玄はある推測を立てた。

回収した違法パワードスーツが〈フリーデン〉の保管庫にあるのが事実だとすれば、今映っているスーツは別物……つまり、取引はすでに成立していたってこと!?

緊急事態であることは明白だった。

「イリス、急ぐわよ」

 玄は地下室へと急いだ。

階段を降り、壁に手を当てると、コンクリートの壁が低く唸るような音を立てて開き、整然と並ぶ武器が現れた。

玄は非殺傷力のハンドガンとワイヤーガンを手早く選び、レッグホルスターに装着した。早足で玄関まで向かい、靴箱の上にある手のひらサイズの円柱型機器を手に取って家を出た。玄関先でボタンを押し、ほうきを起動すると、イリスが玄の肩に乗った。

玄はほうきに腰を下ろし、空高く舞い上がると、一気に加速して飛び立った。周囲の風を切る音が響き、地上が遠ざかる中で、彼女の視線は真っ直ぐ前を見据えていた。

公道仕様のほうき型ドローンには、通常時速一〇キロ程度の制限があるが、玄のほうきは〈フリーデン〉の特注モデル。高性能エンジンで速度はその数倍、さらに伸縮自在の設計も施されている。いざというときのための、最先端の秘密兵器だ。

イリスは玄の肩に乗りながら、周りの飛行車や飛行バス、飛行タクシーやドローンを巧妙にハッキングし、衝突を未然に防ぐために素早く制御を行っていた。制御ミスひとつで大事故につながる状況だったが、玄はイリスを信じ、迷いなく前を見据えて突き進んだ。

玄の飛行を目撃した一般人たちは驚き、戸惑い、そして興奮していた。飛行車の中で女性が目を見開き、中年男性は眉をひそめて空を見上げていた。高層ビルの縁にいた若者は、興奮した表情で目を輝かせた。

そんな人々の目を気にする暇もないほど、玄は急いでいた。だが、しっかりと事前情報も集めていた。

イリスは街中のカメラをハッキングし、違法パワードスーツを着た人物の出現場所を調べていた。その結果、少し離れた住宅地にあるアパートの一室の窓から、突然飛び出したことがわかった。その部屋には、無職の二十代男性が一人で暮らしており、違法パワードスーツの人物は、この男で間違いなさそうだった。彼は過去にネット上で攻撃的な発言を繰り返しており、特に社会や政府への不満を煽る内容が多かったようだ。

「彼はどこへ向かっているの?」玄は冷静に尋ねた。

「まだわからない。……けど、色神駅の方に向かってる」

「人が大勢いる場所ね。ただ自慢しに向かっている……ってことはないかしら?」

「その可能性は低いと思う。力を得た今、それを発散させる可能性の方が高いかも……」

「誰か個人を狙っているのかしら? それとも……」

「どっちにしても、被害は出る。急がないと!」

「スーツをハッキングして、止められないの?」

「やってるけど、防壁が何重もあってなかなか突破できない。無線だと厳しい」

「……なら、直接止めるしかないわね」

 玄は本気の目になった。

 もしイリスの推測が正しければ、最悪の状況を招きかねない。色神駅で違法パワードスーツを着た男が無差別に暴れ出せば、被害は甚大。数十人、いやそれ以上の命が危険に晒される。それだけは、何としても阻止しなければならない。国の安全を守るため……そして何より――『真白』のために!

 

玄とイリスは、男の五分後に色神駅へ到着した。

到着時、現場に異変の気配はまだなく、多くの人々が普段通り行き交っていた。

玄は駅前広場で降下し、ほうき型ドローンを手のひらサイズに戻すと、そのまま握り締めた。イリスも玄の肩から飛び立ち、二人は周辺を見渡しながら、男を探した。

「いた!」

イリスが叫び、前方の上空を指差した。玄もその方向を見た。そこには、違法パワードスーツの男の姿があった。

男は無言で、右手をゆっくりと広げた。その仕草からは、自信と余裕、そして邪悪な意図が滲み出ていた。周囲の誰もが気づかないうちに、破壊の準備が整えられていた。

玄は男を見つけた瞬間、迷うことなく地面を蹴り出した。疾走しながらほうきのボタンを押して即座に起動。ドローンが変形するや否や飛び乗り、風を切って男に迫った。右手でほうきを強く握り、左手で左足のホルスターからワイヤーガンを抜いた。

玄が空中の男を狙ってワイヤーガンを構えたその瞬間、男の手のひらから小型ミサイルが放たれた。

小型ミサイルは、赤い尾を引いて、駅ビルのガラス張りの壁めがけて一直線に飛翔した。ビルの中で働く人々や、行き交う通勤客がその脅威に気づく間もなく、破壊と炎が迫りつつあった。

玄は瞬時に右手をほうきから離し、右足のホルスターからハンドガンを引き抜いた。両手を放した状態で器用にバランスを保ちながら、冷静にハンドガンを構え、飛び行く小型ミサイルを視界の中央に捉えた。わずかな誤差も許されない。息を整え、瞬間的に引き金を引いた――銃声が鋭く空を裂き、弾丸はミサイルの側面に正確に命中した。直後、耳をつんざく爆発音とともに、閃光と黒煙が空を染めた。

近くにいた人々は何が起きたのかわからない様子で一瞬、静寂が訪れた。その後、女性の悲鳴を皮切りに、広場の群衆は蜘蛛の子を散らすように四方八方へ走り出した。抱きかかえた荷物を取り落とす者、子どもの手を引いて必死に駆け抜ける親、恐怖のあまりその場に崩れ落ちて動けなくなる者もいた。人々の叫び声と足音が混ざり合い、広場は一瞬で混乱に陥った。

一方、男は空中でミサイルが爆発したことに戸惑っている様子だった。

玄は冷静に隙を狙い、ワイヤーガンを上空の男に向けて放った。鋭いワイヤーが音もなく男の足首に絡みつくと、玄はワイヤーガンを一気に振り下ろした。

空中から引き下ろされた男は、重力に抗うこともできず背中から地面に激突した。その瞬間、鈍い衝撃音とともにコンクリートの地面が大きくひび割れ、細かい破片が四方に飛び散った。

男は一瞬動きを止めたが、その体からはなおもスーツの機械音が聞こえ、完全には無力化されていなかった。

その間に、玄は伸びていたワイヤーを切り離した。さらに、男が動き出す隙を与えぬよう、ワイヤーガンの引き金を次々と引いた。ワイヤーは正確に男の首、両手首、そして両足に絡みつき、その先端は鋭い音を立ててコンクリートに深々と突き刺さった。

それから、玄は素早く周囲を確認した。男との間、百メートル以内に人影は見当たらなかった。

街を管理する超AIが異常を即座に感知し、警備ロボットと見回りドローンが駅周辺の各通路に配備され、人々を安全なルートへと誘導していた。非常用アナウンスが複数のスピーカーから響き渡り、「落ち着いて避難してください」と繰り返す声が、パニック状態の群衆をわずかに沈静化させた。ドローンは赤い誘導光を発しながら避難ルートを示し、警備ロボットは両手を広げて人々を押し進めるように動いていた。

人々の中には、スマホで撮影しようとしている者やライブ放送をしようとしている者がいた。しかし、イリスは周囲の人々がスマホを掲げているのを確認すると、即座にその機能を妨害した。

「記録はさせないよ」

イリスは得意げに言った。

ネット上で事件が拡散すれば、〈フリーデン〉の活動が表沙汰になる恐れがある。それは、国家レベルの混乱を引き起こしかねない。

駅前交番の警察官数名もすぐに駆けつけていたが、イリスは彼らに避難誘導を任せた。警視庁上層部の指示と偽り、彼らを説得すると、すぐに納得した。

今回の件は〈フリーデン〉が極秘に対処していたので、当然警察は事情を知らない。そのため、警察の応援が到着する前に対処しなければならなかった。

玄は男の前に静かに降り立ち、ほうきを手のひらサイズに縮小し、ポケットに収めた。

しばらくの間、男は起き上がることができずに、もがいていた。拘束されていることに気づくと、腕と脚を力任せに動かし始めた。身体を軋ませるような鋭い音とともに、地面に亀裂が走り、ついにはコンクリートごと引きちぎって立ち上がった。その手でワイヤーを掴み、何度も激しく引っ張ると、金属が悲鳴を上げるような甲高い音を響かせ、断裂した。玄が準備した特製ワイヤーを軽々と破壊するその様子は、違法パワードスーツの異常な力を物語っていた。

しかし、それは玄にとって想定内だった。すでに回収された違法パワードスーツは〈フリーデン〉によって分析され、そのデータは全エージェントに共有されている。もちろん、玄もその情報を把握していた。

玄は静かにハンドガンをレッグホルスターに収めた。

「誰だ、お前……?」

男は玄に視線を向け、問いかけた。声には少しノイズが混ざっていた。マスク越しなので、彼がどんな目つきをしているかわからないが、殺気をひしひしと感じた。

「お前が邪魔をしたのか?」

「止めなければ、多くの命が失われていたわ」

「それでいい。より多くの人間を殺す。それがおれの目的だ」

「どうして、そんなことをするの?」

「この腐った国を正す……それがおれの使命だ!」

男は低く震えるような声で呟き、次第にその声を荒げた。

「おれこそが、この国の救世主だ!」

男は両手を広げ、叫んだ。

「救世主を名乗るなら、罪なき人々を殺してもいいの?」

「罪ならある。格差がある社会を変えようとしないこと。そして、弱者を平気で見捨てることだ!」

「……あなたも苦労したみたいね」

玄は少し間を置き、静かに語りかけた。その声には怒りや非難の色はなく、むしろ穏やかな響きがあった。彼女は、犯人を説得するときには、まず相手を理解する姿勢を見せることが効果的だと知っていた。特に、こういった自分の行為に正義を見出している者には、否定ではなく共感が有効だ。

 玄は続けて言った。

「たしかに、今の社会が理想的だとは、わたしも思わないわ」

「……お前、まさかおれたちの同志か?」

「考えは似ているかもしれないわね。だから、あなたの話をもう少し詳しく聞かせてくれないかしら?」

玄は一歩、男に近づいた。その歩みはゆっくりとしたものだったが、迷いのない毅然としたものだった。

男は視線を少し落とし、手を握りしめた。数秒間沈黙し、「そうか……わかった」と静かに呟いた。視線を鋭く上げ、ゆっくりと歩み寄り、玄の前で立ち止まった。差し出された右手は、一見すれば和解の意志を示すようにも見えた。

しかし、微かな殺気を玄は見逃さなかった。

男の右手は握手の位置を越え、そのまま玄の顔前まで上がった。男の指が玄を指した瞬間、その先端が機械音を立てて開いた。

「死ね!」

男が低く呟くや否や、発砲音のような鋭い音とともに弾丸が放たれた。

玄は反射的に身を屈め、その弾道を紙一重で躱した。無駄のない動きで素早く男の右腕を両手で掴み、そのまま回転するように体重をかけた。重力と技術を組み合わせた力強い動作により、男の巨体を担ぎ上げると、一気に地面へ叩きつけた。硬いコンクリートが粉砕音を立てて砕け、男のパワードスーツが火花を散らした。

玄はすぐに後ろへ跳び、距離を取った。

そのとき、イリスが静かに玄の耳元へと舞い降り、囁いた。

「あいつ、スーツ内のAIと会話してるみたいだから、説得は難しいかも」

「そうみたいね」

洗脳を解くには時間がかかる……でも、今はその猶予がない。

この時点で、玄は説得を諦めた。

「――なら、やっぱりスーツの機能を止めるしかないわね!」

「そうだね」とイリスも同意した。

「少し離れてて……」

玄が指示を出すと、イリスは即座に距離を取り、安全な場所から見守った。

男は当然のように無傷で立ち上がった。

「まさか、あれを避けるとは。お前、ただ者じゃないな?」

「あなた、殺気が隠せてないから、避けるのは簡単よ」

「そうか……」

男は納得したように低く呟き、ゆっくりと右腕を突き出した。先ほどと同じように玄を指差すと、指先が開き、連続で三発の弾丸を放った。

玄はすべての弾道を見切り、無駄のない最小限の動きで躱した。

「全部避けるのか!? どんな反射神経をしている!?」男は驚愕した。

「そんな攻撃、当たらないわ」

「ふん……なら、これならどうだ?」

男は胸の前で腕を組み、力を込めながら前傾姿勢になった。次の瞬間、肩甲骨の四角い装備が飛び出し、中から小型ミサイル六発が一斉に発射された。

ミサイルは空中で軌道を変えながら玄を追尾し、その挙動は蛇のように不規則だった。

玄はハンドガンを素早く抜き、迷いなく発砲する。乾いた銃声が六回鳴り響き、放たれた弾丸は正確にミサイルの胴体へと命中した。爆発音とともに火花が散り、破片が空中に舞った。

弾切れを確認した玄は、一切の無駄なくマガジンを交換し、瞬時に次の構えへと移った。

「そうか……さっきのもそれで撃ち落としたんだな……?」

男はスーツの中で狂気じみた笑みを浮かべた。玄がどれだけ対応力を見せようとも、自分が完全に優位だという確信は揺らいでいない。

「――弾は避けられ、ミサイルも撃ち落とされる……だが、おれの力を前にして、お前がどこまで耐えられるか、見ものだな!」

その声には確かな自信と、スーツの力に陶酔する危険な雰囲気が滲み出ていた。

男の背部から青白い炎が噴き出し、轟音とともに身体が宙へと浮き上がった。そして、獣のような勢いで突撃する。拳を固めた右手には異常なほどの力が宿っており、その一撃が当たれば、ただでは済まないのは明らかだった。

玄は冷静に体を捻り、拳の風圧を感じながらギリギリで避けた。だが、男の攻撃は止まらない。繰り出される拳は、地面や壁を砕きながら玄を追い詰めていく。

玄は男の攻撃を避けながら、逆に間合いを詰め、ハンドガンで急所を狙う。それは見事な連携動作だったが、放たれた非殺傷弾は、男のパワードスーツの装甲に軽い音を立てて弾かれ、かすり傷一つつけられなかった。玄は一瞬眉をひそめると、すぐに銃口を下げ、非殺傷弾が効果を発揮しないことを悟り、ハンドガンをレッグホルスターに収めた。

しばらく息の詰まる攻防が続く。

男がイライラしたように舌打ちし、大きく振り下ろした拳が玄の髪をかすめる。

しかし、玄は軽やかに身を翻しながらその攻撃を避け、瞬時に男との間合いを詰めた。その動きはまるで雷光が走るかのように鋭く、素早かった。

「はっ!」

気合とともに、玄の両手が男の胸を突く。その瞬間、周囲の空気が震え、爆ぜるような衝撃波が男を貫いた。

男の動きが一瞬止まり、その隙に玄は、鋭い回し蹴りを彼の横顔に叩き込んだ。

男は勢いよく吹き飛び、駅前広間にある人型モニュメントに激突した。

その衝撃で、モニュメントが粉々に砕けた。

「あっ……」玄は思わず声を漏らした。

そのとき、イリスが静かに玄のもとへ飛んできた。

「玄ちゃん、物壊すと、あとで〈フリーデン〉に怒られるよ」

「ごめん、つい……」玄は苦笑いを浮かべた。

 任務では極力周りの物を壊さないようにしなければならない。でなければ、あとあと誤魔化すのが大変になるからだ。

 しばらくして、男が静かに立ち上がった。

玄の攻撃は、常人であれば一撃で骨が粉砕されるほどの威力だった。しかし、男の身体を覆う違法パワードスーツはそのすべてを無効化し、表面にわずかな傷すら残らなかった。それはただの装甲ではなく、異常な耐久性を持つ防御機構だった。

男は再び腕を組み、力を込めると、六発の小型ミサイルを一斉に発射した。先ほどと同じように、小型ミサイルは上空に舞い上がり、玄に狙いを定めて襲いかかった。

玄は素早くレッグホルスターに手を伸ばし、ハンドガンを抜こうとした。しかし、その瞬間、男が超スピードで迫り、玄に拳を繰り出した。

男は違法パワードスーツの装甲なら、小型ミサイルに当たって爆発に巻き込まれても防げると判断したようだ。おそらく、スーツに搭載されたAIの助言だろう。〈フリーデン〉の分析結果も同じだった。

 玄は男の鋭い拳や蹴りを躱しながら、次々と襲いかかる小型ミサイルも巧みに避けた。

小型ミサイルは着弾しない限り爆発しない。だが、回避されるとすぐに方向転換し、玄をしつこく追い続けた。

玄は小型ミサイルの執拗な追尾を冷静に見極めながら、一発ずつ正確に撃ち落としていった。彼女の射撃技術に死角はなかった。だが、男の肩部ランチャーは止まることなく新たなミサイルを次々と発射し続けた。何度撃ち落としても減らないその数に、玄は内心嫌気がさしながらも、足を止めることなく攻撃を躱し続けた。次第に玄は、攻め入る隙を見つけられず、防戦一方に追い込まれていく。

「このままじゃ、キリがないわね……」玄はつい愚痴をこぼした。

次の瞬間、小型ミサイル一発が突然向きを変え、周囲の人々に向かって飛んでいった。男の操作で狙いを変更したようだ。

玄はすぐに気づき、男を睨みつけた。マスク越しに、男がニヤリと笑ったように見えた。

男が新たなミサイルを発射しようとしたが、玄はその一瞬の隙を逃さず、ワイヤーガンを素早く引き抜き、迷わず引き金を引いた。

ワイヤーは音速で伸び、正確に男の胴体と両腕を絡め取った。男が引きちぎろうとする間もなく、玄はそのワイヤーを力強く引き寄せた。

男は体勢を崩し、頭から勢いよく玄に向かって飛んだ。玄は迫る男の頭に鋭い踵落としを叩き込み、地面に激しく叩きつけた。その衝撃で、男の体はコンクリートの地面にめり込んだ。

その隙に、玄は一般人を狙った小型ミサイルを追いかけた。走りながらハンドガンを構え、正確な一発を放つ。その鋭い一撃は、真っ直ぐにミサイルの中心を貫き、爆発音とともに残骸が空中で散った。

「ふぅ……」

玄は短く息をついたそのとき――背筋を這い上がるような悪寒が、彼女を襲った。視線を上げると、いつの間にか無数の小型ミサイルが彼女の周囲を取り囲み、狙いを定めるように静止していた。

玄は男を睨む。そのマスクの奥で、彼がニヤリと笑ったような気がした。

「終わりだ……」

男が低く告げると、数十発の小型ミサイルが一斉に玄へと襲いかかった。

 逃げ場がなく、玄はその場から一切動かなかった。

万事休す――誰もがそう思った。

しかし次の瞬間、小型ミサイルは玄に着弾する寸前、空中でピタリと止まった。

「なに!?」男が驚きの声を上げた。

「助かったわ、イリス」玄は静かに呟いた。

「ごめんね、ちょっと時間かかっちゃった」イリスは返した。

玄が時間を稼いでいる間、イリスはその間にミサイルの通信を解析し、制御を奪っていた。

「これ、お返しするね」

イリスはそう言い放ち、指先を軽く動かすと、ミサイルが一斉に男へと向きを変え、彼に向かって飛んでいった。

男は咄嗟に胸の前で腕を交差し、防御態勢を取った。

ミサイルは男に全弾命中し、凄まじい爆発を巻き起こした。その爆風の衝撃で、周囲の人々は体勢を崩し、近くの窓ガラスは激しく割れた。

「あっ……」イリスは思わず声を漏らした。

「イリス、物壊すと、あとで叱られるわよ」

玄は少しからかうように言い返した。

「あははは、ごめんなさい」

 周囲には濃密な爆煙が広がり、視界が完全に遮られた。瓦礫の崩れる音や、焦げた金属の匂いが充満する中、玄とイリスは警戒を緩めなかった。

やがて、煙の中からぼんやりとしたシルエットが浮かび上がり、視界が広がると、ふらつく男の姿が現れた。さすがの違法パワードスーツも、ダメージは受けているようだ。しかし、中の男は無傷で、スーツの機能もまだ完全に停止していなかった。

「まだ動けるの?」

玄は呆れたように呟いた。

「でも、もう――」

 玄が続けて言おうとしたその瞬間、男はジェット噴射で生み出した驚異的なスピードで一気に間合いを詰め、強烈な蹴りを繰り出した。

玄は反射的に体を反らし、ギリギリで男の蹴りを躱した。イリスも瞬時にその場を離れ、距離を取った。

男の動きは一変していた。それまで素人じみた力任せの攻撃が、まるで訓練を積んだ武闘家のような鋭さを帯びていた。無駄のないステップと、予測困難な攻撃が繰り出される。

玄が男の動きの変化に驚いている間、イリスは即座に分析を行い、すぐにその理由を突きとめて告げた。

「玄ちゃん、気をつけて。AIの自動操縦に切り替わってる!」

「そういうことか……」

 玄は納得したように頷き、容赦なく繰り出される男の連続攻撃を避け続けた。しかし、玄がこれまでの戦いで見せた回避動作や間合いの取り方が、スーツのAIによって徹底的に分析されているのがわかる。男の動きは、まるで玄の次の動きを先読みしているかのように精密で、攻撃の隙すら与えなかった。

 だが、玄は一わずかな隙を見逃さなかった。

 鋭い一撃を躱したその刹那、玄は男の懐に滑り込み、一瞬で数発の掌打を胸部に叩き込んだ。違法パワードスーツの胸部には深い亀裂が走り、火花を散らすその様は、ショート寸前の機械そのものだった。さらに、男がよろめいた隙に、玄はこめかみに強烈な蹴りを繰り出した。

強烈な蹴りが直撃し、男が地面に崩れ落ちると、すかさずイリスが駆け寄った。

イリスは男の額に手を当て、ハッキングを仕掛けた。目を閉じ、体の周囲に微かな光のラインが走った。スーツ内のAIが必死に抵抗を試みたが、イリスの高度なアルゴリズムによって、わずか数秒で突破された。

「システム制御、完了……」

イリスは静かに呟きながら目を開けた。

違法パワードスーツは完全に機能を停止し、沈黙した。

「ふう……これでもう大丈夫」イリスは額の汗を静かに拭った。

「お疲れ様」

玄はねぎらいの言葉をかけ、男に視線を向けた。一瞬、悲しげな表情を浮かべ、すぐに冷静な表情に戻った。

「急いで回収するわよ」

玄は気持ちを切り替え、指示を出した。

 決着が着いた頃、現場にはすでに〈フリーデン〉の掃除部隊が到着し、一般人の対応や後処理をしていた。もみ消しには、迅速な対応が求められる。


玄は、捕らえた男を〈フリーデン〉本部へ連行し、仲間に引き渡した。その後、本部内の射撃場に足を運び、射撃の腕を磨いた。次に、道場で人型ロボットを相手に格闘訓練に打ち込んだ。帰る頃には、空はスカイブルーから、徐々にオレンジへと染まり始めていた。

帰り道、通りには制服姿の学生たちが姿を見せ始めた。近くの『色神学園』から帰宅途中の生徒たちだ。

玄は無意識のうちに、生徒たちへと視線を向けていた。もし普通の生活をしていたら、自分も同じ制服を着ていたかもしれない。玄の頭の中に一瞬、制服に身を包んだ自分の姿が浮かんだ。しかし、すぐに頭を左右に振って、そのイメージを掻き消した。そんな生活は、自分には縁のないものだと思った。

やがて、校門が視界に入る。夕方の帰宅ラッシュで、生徒たちがにぎやかに行き交っていた。

そのとき、玄は異変に気づいた。

校門の少し先、空中に不自然に浮かぶ飛行車が目に入った。

飛行車は駐車位置ではない場所に停まっており、車内に人の気配はなかった。街を走る自動車や飛行車は、超AIによる完全自動運転で効率的に制御されている。そのため、何もない場所に停まっている飛行車に、玄は強い違和感を覚えた。

その飛行車は、まるで何かを待っているようだった。

「イリス……あの車、調べてくれないかしら?」玄はイリスに指示を出した。

イリスは視線を上げ、飛行車を見つめた。その瞬間、飛行車が急発進し、猛スピードで色神学園の校門に向かい始めた。誰かにハッキングされ、遠隔操作されているような動きだった。狙いは、校門から出てきた金髪の少女のようだった。

飛行車が急発進したのを見て、玄は即座に駆け出した。

「イリス、あの車を止められる?」

「ちょっと……間に合わない……」

「そう……なら、止めるしかないわね」

玄は覚悟を決めて駆け抜けた。

 周囲に人がいる以上、できるだけ目立ちたくはなかったが、今はそんなことを言っていられなかった。

玄は周囲の状況を瞬時に把握し、最善の手段を考えた。

 彼女を抱えて避けるのは簡単……でも、もし車が暴走を続けたら、周りの人にも被害が及ぶかもしれない。……なら、壊して止めるしかない。

 玄は一瞬で判断を下し、地面を強く蹴った。

金髪の少女は突進してくる飛行車に気づいたが、驚愕のあまりその場に立ち尽くしていた。その目には恐怖の色が浮かんでいた。

そこへ、玄が横から割って入った。

玄は右足を振り上げ、その踵を勢いよく飛行車のフロントへ叩きつけた。「ガンッ!」という鈍い衝撃音とともに、飛行車は地面へ墜落した。前部が大破し、煙が立ち上る。エアバッグが作動し、部品が周囲に散乱した。飛行車は完全に動きを止めたが、その破壊音に周囲の人々が一瞬凍りついた。

イリスはすぐさま玄の肩から飛び立ち、飛行車に触れ、ハッキングを開始し、遠隔操作していた人物を探した。

 玄が振り返ると、金髪の少女は腰を抜かし、その場にへたり込んでいた。震える手で胸元を押さえている。

「大丈夫? 怪我はない?」

玄は落ち着いた声で尋ねながら、そっと手を差し伸べた。

「あ、は、はい……」

少女はかすれた声で答え、玄の手を支えにして立ち上がった。彼女の視線は壊れた飛行車に釘付けとなり、まだ現実を受け入れきれていない様子だった。

周囲の生徒たちも足を止め、ざわめきが広がっていった。「何が起こったの?」と声を上げる者や、スマートフォンで壊れた飛行車を撮影する者もいた。中には、驚きのあまり言葉を失っている生徒もいた。

「ごめんなさい。驚かせてしまって……」玄は申し訳なさそうに言った。

「い、いえ。助けていただき、ありがとうございました。何かお礼を……」

「気にしなくていいわ。たまたま通りかかっただけだから」

「ですが……!」

 玄たちのもとへ、イリスがふわりと飛んできた。

「どうだった?」

 玄の問いかけに、イリスは肩をすくめて首を横に振った。

「まあ、これだけ派手に壊したから、仕方ないわね」と玄は言った。

 周辺に金髪少女を狙う気配や異常も感じなかったため、玄はもう心配する必要はない、と判断した。さらに、彼女のもとには、黒いスーツ姿のSPらしき人物が駆け寄って来ていた。

「ここに長居する意味はないわね」

玄は即座に判断し、速やかにその場を立ち去ろうとした。

その瞬間、「あの!」と金髪の少女が震える声で呼び止めた。

玄が振り向くと、彼女は一歩前に踏み出し、何かを言おうとして口を開きかけた。しかし、躊躇いがちに視線を逸らし、言葉を飲み込む。その表情には、玄への感謝と不安が入り混じっていた。

「さようなら」

玄はそっけなく返し、その場を立ち去った。詮索される前に動く――それが、玄にとっての最善策だった。


日はすっかり沈み、街はオフィスビルの灯りで輝いていた。スーツ姿の大人たちが一日の仕事を終えて帰宅するなか、玄もその流れに紛れるように歩いていた。

「イリス、さっきの事故のことだけど……」

「大丈夫、全部終わってるよ」

「そう、ありがとう」

 色神学園の校門前で起こった事故は、イリスが情報操作していた。現場近くの防犯カメラに映っていた玄とイリスの姿は、すでに消されていた。映像は、二人が一切関与していないように巧妙に改ざんされた。このような情報操作は、今まで何度もしてきた。

 歩を進めていると、玄は小さくため息をつき、面倒そうに眉をひそめた。色神学園の校門前から尾行されていることに気づいていたが、殺気がなかったため、しばし様子を見ていた。その間も、玄は尾行者の動きや気配から、その人物の特徴を冷静に分析していた。

尾行者は一人。玄が歩幅を変えるたび、相手もそれに合わせて速度を調整している。時にはビルの陰に隠れ、時にはすれ違う人々の背後に紛れ込む巧妙さを見せていた。その動きには、経験の浅さゆえの緊張と、それを覆い隠すような慎重さが入り混じっていた。さらに、一台の小型ドローンが一定の距離を保ったまま、ずっと玄のあとをついてきていた。おそらく、尾行者の私物ドローンだ。静音機能に優れた機種のようだが、街の見回りドローンと明らかに機種が違うため、玄はすぐに気づいた。イリスも気づいているようだったが、何も言わなかった。

「イリス、わたしたちを尾行しているのは誰?」

「もう気づいたの!? まだ五十メートルも距離があるのに!」

「ずっと視線を感じてたからね」

「さすが玄ちゃん!」

イリスは感心しつつ、とっくに調べていた尾行者の写真付きのプロフィールを玄の前に浮かび上がらせた。

「この人だよ」

そこに映っていたのは、先ほど玄が助けた金髪の少女だった。名前は『一色こがね』。色神学園高等部一年生で、学園理事長の孫娘――いわゆる超お嬢様だ。

「彼女の目的は、何だと思う?」玄は尋ねた。

「うーん……たぶん、さっき助けたお礼がしたいんじゃないかな?」

「お礼? いらないって言ったけど……」

「それでも納得できなかったのかもしれないよ」

「はあ~」

玄は深くため息をつき、続けて言った。

「かかわるのは面倒だけど、これ以上あとをつけられても迷惑ね。……もう一度、はっきりと断りましょう」

「了解」

イリスは瞬時に一色のドローンの信号を解析し、強固なセキュリティを軽々と突破した。その直後、ドローンが突然ピタリと停止し、操作不能となった。

一色は明らかに動揺した様子で、手元の端末を何度も操作していた。その隙に玄が早足で歩くと、一色は慌てて追いかけた。もはや一定の距離を保ったり隠れたりする余裕はなさそうだった。

人通りの少ない裏通りに差しかかると、玄は角を曲がり、すぐにほうき型ドローンを起動。静かに宙へと舞い上がった。そのタイミングで、玄は制御下に置いた彼女のドローンを素早く回収した。

玄が空から見下ろしていると、少し遅れて一色が角を曲がった。玄を見失った一色は、辺りを見回しながら不安げに立ち止まった。

「あれ……? どこに……? まさか、消えてしまいましたの?」

焦ったように周囲を歩き回った。街灯の光に照らされた金色の髪は滑らかに揺れ、夜の中でも一際目を引いていた。その端正な顔立ちには、困惑の色が浮かび、まるで迷子になった子猫のようだった。

玄は一色の背後へ滑るように降下し、夜の闇に紛れるように無音で着地した。夜の喧騒さえ息を潜めたようだった。そして間を置かず、低く澄んだ声で問いかけた。

「一色こがねさん、わたしに何か用かしら?」

一色は目を見開いて驚き、金色の髪を揺らしながら素早く振り返った。

「まあっ、いつの間にわたくしの背後に……!? 驚きましたわ!」

その声には驚きだけでなく、尊敬のような感嘆も滲んでいた。

玄が回収したドローンを差し出すと、一色は視線を少し落とし、状況を察したような表情を浮かべた。

「気づいていらしたのですね。さすがですわ」

「どうしてわたしを尾行していたのかしら? 目的はなに?」

「あなた様に助けていただいたお礼を、どうしてもお伝えしたくて……。ですが、どんなに調べてもあなた様の情報が見つからず、直接お会いするしかないと思いましたの」

 この街のほとんどの住人は、自分たちで個人情報を管理している。プロフィールにいろいろ書き込んで経歴を公開している者もいれば、名前だけという者もいる。

一色は誇らしい経歴を公開しているが、玄はすべてを非公開にしている。立場上、公開するわけにはいかないからだ。

「お礼なんていらないわ」

玄は冷静に言い切った。その声には、どこか拒絶の響きがある。

「それはいけませんわ!」

一色は語気を強めた。その瞳には揺るぎない意志が宿り、続けて言った。

「一色家の名にかけて、命を救っていただいたご恩は、必ずお返しせねばなりません。どうか、お受け取りください!」

「その気持ちだけで十分よ」

「いいえ、全然足りませんわ」

一色は一切譲る気がない目で玄を見つめた。このような性格の人物は、おそらく断り続けても一歩も引かないだろう。

玄は肩のイリスを横目で見る。イリスも小さく微笑み、頷いた。それだけで同じ結論に達していることが伝わった。それを確認した玄は、説得を早々に諦めることにした。

「説得しても無駄みたいね……」

玄は小さくため息をつき、一瞬考え込んだあとで提案した。

「それじゃあ、一緒に食事でもどうかしら?」

「光栄ですわ。今すぐ手配いたします!」

一色は左手のスマートリングに軽く触れ、AIに予約を命じた。準備を進めながら、ふと玄を見つめて問いかけた。

「あの……差し支えなければ、お名前を教えていただけませんか?」

 玄はわずかに間を置き、「……玄」と小さく答えた。

「玄様……ですね」

「様はいらない」

「では、“玄さん”とお呼びしてもよろしいですか?」

「構わないわ」

「ありがとうございます。わたくしのことは“一色”でも“こがね”でも、お好きなようにお呼びください」

「じゃあ、一色さんで……」

「はい」一色は満面の笑みを浮かべた。

 玄は、一色に名を告げても問題はないと判断した。個人情報はイリスが厳重に管理しているため、外部に漏れる心配はない。

 やがて、夜空から静かな低音を響かせながら、リムジンタイプの高級飛行車が降下してきた。流線型の漆黒のボディは、防弾ガラスとともに街灯の光を鈍く反射していた。自然と威圧感を漂わせるその飛行車を見て、玄は心の中で、(さすがは一色財閥ね……)と呟いた。

玄たちは高級飛行車に乗り込み、一色が予約した店に向かった。

「玄さん、お好きな曲はございますか?」と一色は尋ねた。

「何でも構わないわ」

「そうですか……では、わたくしの好きな曲を掛けてもよろしいですか?」

「ええ」

「ありがとうございます。では、『七色パーソナリティ』をお願いします」

一色は飛行車のAIに言った。

 その瞬間、玄の瞳がわずかに揺れた。思わず一色を見つめる。偶然にも、その曲は玄の好きな曲と一致しており、まさかこんな場所で聴くことになるとは思いもしなかったからだ。

「かしこまりました」

AIは丁寧に答え、車内にポップな曲が流れ始めた。

一色は目を閉じ、リズムに合わせて軽く体を揺らしながら言った。

「わたくしの大好きな一曲、『七色パーソナリティ』ですの」

玄も耳を傾け、微かに頭を振ってリズムに乗り、「いい曲ね」と呟いた。

「はい」


飛行車が静かに着地したのは、色神駅近くの高級料亭の入口だった。

穏やかな外観に安堵を覚えつつ、玄は足を踏み入れた。

二人は個室に案内され、コース料理を堪能した。

食事の間、玄は一色の話に耳を傾けた。

一色の話題は多岐にわたっていた。学園生活の話から始まり、やがて最新技術や財界、政治の話へと広がる。その知識量と視点の鋭さは、玄の予想を遥かに超えていた。

話を聞きながら、玄は一色のプロフィールに『色神学園で優秀な成績を収めている』と記されていたことを思い出した。

時折、彼女から質問されることがあったが、玄はあまり自分のことは話さないようにして、一色が話すように誘導していた。玄の巧みな話術により、食事は日常会話のまま終わろうとしていた。

「あの、最後に一つ、お聞きしたいことがあるのですが……」と一色は静かに言った。

「何かしら?」

一色は左手を顔の前に掲げ、人差し指のスマートリングに向かって声をかけた。

「オーロラ、お願いします」

その声に応じ、スマートリングのエメラルドが光った。

「了解、お嬢」

その応答とともに、エメラルドから放たれた緑色の微細な粒子が、ブワッと部屋全体に広がった。

「完了だ、お嬢」とスマートリングから声が響いた。

「ありがとう」

 少し間を置き、玄は冷静に尋ねた。

「……何をしたの?」

「今から大切なお話をいたしますので、外に聞こえないようにしましたの」

玄は部屋を見回したが、目に見える変化はなかった。イリスに目をやると、即座に頷き返した。イリスの検知能力から見ても、一色の言葉に嘘はないらしい。

玄は一色に視線を戻し、真剣な表情で尋ねた。

「わたしに聞きたいことって何かしら?」

 一色は真剣な眼差しで玄をじっと見つめ、一呼吸置いてから口を開いた。

「単刀直入にお伺いします。玄さん……あなたは、〈フリーデン〉の一員ではありませんか?」

「……〈フリーデン〉? ドイツ語で『平和』っていう意味よね? それが何か?」

「そうですが、わたくしが言っているのはそれではなく……この国の治安を守っている秘密組織のことです」

「秘密組織……? 本当にそんなものがあるの?」

「隠さなくてもいいですわ」

一色は顔の前で左手を握った。直後、人差し指のスマートリングのエメラルドから光が伸び、ある映像が宙に映し出された。それは、玄が一色を助けた瞬間の録画映像だった。

「これを見て、確信しましたの。こんなことができるのは、〈フリーデン〉しかいないと」

「小さい頃から鍛えてるから、身体能力には自信があるの。これくらい、誰にでもできるわ」

「そうですか。では、こちらをご覧ください」

一色はそう言って映像を切り替えた。次に映し出されたのは、玄が違法パワードスーツの男と戦っている映像だった。その映像の中にはっきりと映り込む玄を指差しながら、一色は問いかけた。

「これは、今日の午前九時頃に、色神駅で起きた事件の映像です。ここに映っている人は、玄さんではありませんか?」

「その映像なら、わたしも見たことがあるわ」

玄は会話の主導権を渡すまいと冷静に返した。

「――ただ、わたしが見たものとは、少し違うようだけど……」

そう続け、玄は隣に座るイリスに視線を送り、無言で指示を伝えた。

イリスはすぐに玄の意図を察して頷き、立ち上がった。手のひらを広げ、指先を軽く動かし、空中にある映像を投影した。それは、玄の姿を別人にすり替えた、巧妙な偽造映像だった。

「わたしが見た動画では、男が戦っているように見えるけど……」

玄はフェイク動画を見せながら冷静に言い返した。

「それは偽物です。わたくしの映像こそが本物ですわ」

「わたしの映像が本物で、そっちがフェイクの可能性もあるんじゃないかしら?」

「それはありえません」

「どうしてそう言い切れるの?」

「この映像は、わたくしが自前のビデオカメラで撮影したものですの。スマートデバイスは何者かに妨害されていましたが、オフラインの機器なら問題なく使えましたわ」

一色はイリスを一瞥し、軽く微笑んだ。

イリスはサッと目を逸らした。

玄は冷静に次の作戦を考えた。

 まずい……主導権を奪われた。優秀だという情報は本当ね。さて、どう誤魔化すか……。

 玄が考え込んでいると、一色はさらに問いかけた。

「玄さんは……もしかして、“シュバルツ様”ではございませんか?」

 その言葉を聞いた瞬間、玄は片膝をつき、流れるような動作でハンドガンを抜いた。次の瞬間には、一色の額に銃口が突きつけられていた。

 シュバルツというのは、玄のコードネームだった。

「その呼び名……どうして知っているの?」

玄は冷徹な眼差しで一色を睨み、低い声で問い詰めた。

一色は銃口を突きつけられているにもかかわらず、まるで気にしていない様子で、わずかに口元を緩めた。玄が引き金を引かないと、確信しているかのようだった。

「これ以上深入りするのはやめなさい。命が惜しいなら……。これは脅しじゃない」

玄は真剣に警告した。

「うふふ、玄さんっておやさしいのですね。〈フリーデン〉の任務には、暗殺も含まれていると伺いましたけれど……」

「世の中には、知らない方が幸せなこともある。今日のことは、聞かなかったことにするから、今すぐ忘れなさい」

「わたくしのこと、心配してくださるのですね。嬉しいですわ。ますます、玄さんのことが好きになってしまいます」

一色は頬を赤らめたが、すぐにキリっとした目つきで玄を見つめた。

「でも、ご心配には及びません。わたくしには、〈フリーデン〉の護衛がついていますので」

「……は? 護衛……?」玄は眉をひそめた。

 一色は指を軽く動かし、宙に画像を映し出した。そこには、一色と〈フリーデン〉の仲間の姿が映っていた。

一色の説明によれば、彼らは『色神学園』の生徒として潜入しており、任務は彼女の護衛と学園の安全管理だという。

まったく知らない玄にとって、これは驚きの情報だった。

イリスに情報の信憑性を確認させたところ、一色の説明に嘘や誇張はなかった。

それを聞き、玄は構えていたハンドガンを静かにホルスターに収めた。

一色は微笑みながら、さらに言った。

「……やはり、“シュバルツ様”でお間違いないのですね?」

玄は一瞬だけ迷ったが、もう隠しても意味がないと悟った。「……ええ」と短く答え、観念した。

「……やっと出会えましたわ!」

一色は、まるで憧れの人に会ったかのように目を輝かせ、声を弾ませた。

「ずっとお会いしたいと思っておりましたの!」

「……どうして?」

「フィーアさんから、シュバルツ様のお話を何度も伺っておりましたの。話を聞いているうちに、ぜひ一度、お目にかかりたいと思いまして……!」

「そう……」

 玄は適当に答えつつ、心の中で呟いた。

 次にフィーアに会ったら、たっぷり説教してやらないといけないわね。

「シュバルツ様は、月曜日だけお仕事をされていると伺いました。それは、なぜですの?」

「答えられないわ」

「そうですか……では、質問を変えます」

一色は真っ直ぐな瞳で、玄を見つめた。

空気が一変し、緊張感が部屋の中を包み込んだ。

玄は心を引き締め、一色の言葉を待った。

そして、一色は静かに口を開いた。

「……わたくしと、お友達になっていただけませんか?」

「……は?」玄は一瞬、思考が止まった。

「シュバルツ様の凛々しいお姿を拝見し、わたくしは心を奪われましたの! なんて美しくて魅力的な方なんでしょう、と……」

 一色は恍惚な表情を浮かべた。

 玄は即答できず、少し間を置き、冷静になってから答えた。

「……友達には、なれない」

「どうしてですの?」

「わたしは〈フリーデン〉の一員。危険な任務がいっぱいあるの。関わると、あなたの命が危ないわ」

「……そうですか」

一色は残念そうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻り、続けた。

「今日はたくさんお話できて、本当に楽しかったです。ありがとうございました」

一色の瞳の奥には、まだ何かを画策しているような光が潜んでいた。

 料亭を出ると、高級飛行車が静かに待機していた。

一色は車内に乗り込み、「よろしければ、お送りいたしますわ」と提案した。

しかし、玄は自宅を知られることを避けたかったため、丁重に断った。

一色は去り際に高級飛行車の窓を開け、「またお会いできる日を、心よりお待ちしておりますわー!」と明るく叫びながら、夜空へと消えていった。

 玄は心の中で(どうせ、もう会うことはないでしょうけど……)と呟きながら、軽く手を振り、一色の飛行車が見えなくなるまで静かに見送った。

車が夜空の彼方に消えると、玄は周囲を一瞥し、足早にその場を後にした。



読んでいただきありがとうございます。

次回もお楽しみに。

感想お待ちしています。

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