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玄の秘密

 西暦二〇五〇年、四月四日、月曜日の午前九時二十分。

玄はほうき型ドローンに跨り、切羽詰まった表情で色神の街を駆け抜けていた。冷や汗が額を伝い、普段の任務とは異なる切迫した焦燥感が彼女を包んでいた。彼女の肩には、相棒の妖精型ロボット『イリス』が腰を下ろし、ナビゲーションを担当していた。

「あとどれくらいで着く?」と玄は尋ねた。

「五分くらい……!」とイリスは即答し、続けて言った。「あ、彼がもう着いちゃった!」

「ッ! 急ぐわよ」

 玄は巧みな飛行技術で、空を行き交う飛行車やドローンを避けながら、猛スピードで現場まで向かった。

 

二十分前。自宅の一室で、玄は姿見の前で髪型や襟元を微調整していた。身だしなみを整えたあと、リビングへ移動し、「イリス、今日の予定は?」と声をかけた。

「うん、今日はね――」

イリスは予定表を空中に映し出し、それに目を通しながら確認し始めた。いつも通りの流れである。しかし次の瞬間、「あっ! 玄ちゃん、大変!」と、イリスが鋭い声で叫んだ。

「どうしたの?」と玄は冷静に尋ねた。

「今、街のカメラが不審な人物を捉えたんだけど……」とイリスは不安そうに呟いた。

「不審な人物?」玄は首を傾げた。

 イリスは説明するより見た方が早いと判断し、玄の目の前にある映像を投影した。

映像には、銀色のパワードスーツを身に纏った人物が、まるで空間を裂くように異常な速度で移動する姿が映っていた。さらに、そのスーツは、違法製品と酷似していた。

「これって、どういうこと? あのスーツは〈フリーデン〉が回収したんじゃなかったの?」と玄は問いかけた。

「そのはずだけど……ちょっと待って、確認する」とイリスは冷静に答え、すぐに〈フリーデン〉の保管記録にアクセスした。

「まさか……盗まれたの!?」と玄は声を震わせた。

「ううん、この前のスーツはちゃんと〈フリーデン〉の保管庫にあるよ」とイリスは返し、玄に証拠の映像を見せた。

玄はその映像を見たあと、例の人物の映像に視線を戻した。「じゃあ、これは……?」と呟いた玄の胸中に、不安がざわつき始めた。次の瞬間、玄はある推測を思いついた。

回収した違法パワードスーツが〈フリーデン〉の保管庫にあるのが事実だとすれば、今映っているスーツは別物……つまり、違法パワードスーツの製造と流通がいまだに続いているということ。しかも、わたしたちの目を完全にかいくぐって。

緊急事態であることは明白だった。

「イリス、急ぐわよ」と玄は声をかけた。

 玄は地下室へと急いだ。地下室に降りると、無言で壁に手を当てた。コンクリートの壁が低く唸るような音を立てて開き、整然と並ぶ武器が姿を現す。彼女は非殺傷力のハンドガンとワイヤーガンを手早く選び、レッグホルスターに装着した。早足で玄関まで向かい、靴箱の上に置いていた手のひらサイズの円柱型機器を手に取って家を出た。玄関先でボタンを押し、ほうき型ドローンを起動している間に、イリスが玄の肩に乗った。玄はほうき型ドローンに腰を下ろし、空高く舞い上がると、一気に加速して飛んでいった。

公道仕様のほうき型ドローンには、通常時速一〇キロ程度の制限があるが、玄のほうきは〈フリーデン〉の特注モデル。高性能エンジンで速度はその数倍、さらに伸縮自在の設計も施されている。いざというときに備えた最先端の秘密兵器だ。

玄が言及した〈フリーデン〉――それは、日本国内の犯罪やテロを未然に防ぐため、国家の裏側で活動する極秘の治安維持組織である。一般には存在すら知られておらず、影の中で国家の平穏を守り続けている。世界一安全な国と呼ばれるためには、〈フリーデン〉の存在が欠かせない。

イリスは玄の肩でナビゲーションしながら、周りの飛行車や飛行バス、飛行タクシーなどをハッキングし、衝突を未然に防ぐために制御を行っていた。そのたびに、宙に浮かぶビル群や街灯の影が高速で後方に流れていく。制御ミスひとつで大事故につながる状況だったが、玄はイリスを信じ、迷いなく前を見据えていた。

玄の飛行を目撃した市民たちは驚き、戸惑い、そして興奮していた。飛行車の中で女性が目を見開き、中年男性は眉をひそめた。高層ビルの縁にいた若者は、興奮したように目を輝かせた。そんな人々の目を気にする暇もないほど、玄は急いでいた。だが、しっかりと事前情報も集めていた。

イリスは街中のカメラをハッキングし、違法パワードスーツを着た人物の出現場所を調べていた。その結果、少し離れた住宅地にあるアパートの一室の窓から、突然飛び出したことがわかった。その部屋には、無職の二十代男性が一人で暮らしており、違法パワードスーツを着た人物は、この男で間違いなさそうだ。彼は過去にネット上で攻撃的な投稿を繰り返しており、特に社会や政府への不満を煽る内容が多かったという。

「彼はどこへ向かっているの?」と玄は尋ねた。

「まだわからない。……けど、色神駅の方に向かってる」とイリスは答えた。

「人が大勢いる場所ね。ただ自慢しに向かっているってことはないかしら?」

「うーん、その可能性は低いかな……力を得た今、それを発散させる可能性の方が高いかも……」

「誰か個人を狙っているのかしら? それとも……」

「どっちにしても被害者が出る。急がないと!」

「スーツをハッキングして、機能停止できないの?」

「やってるけど、防壁が何重もあってなかなか突破できない。無線だと厳しい」

「……なら、直接止めるしかないわね」

 玄は本気の目になった。

 もしイリスの推測が正しければ、最悪の状況を招きかねない。色神駅で違法パワードスーツを着た男が無差別に暴れ出せば、被害は甚大。数十人、いやそれ以上の命が危険に晒される。それだけは何としても阻止しなければならない。国の安全を守るため……そして何より――『真白』のために!

 

玄とイリスは、男の五分後に色神駅へと到着した。

駅に到着したとき、現場にはまだ異変の気配はなく、多くの人々が普段通り行き交っていた。玄は駅前広場で降下し、ほうき型ドローンを手のひらサイズに戻すと、そのまま握り締めた。イリスも玄の肩から飛び立ち、二人は辺りを見渡しながら、男を探した。

「いた!」とイリスが叫び、前方の上空を指差した。

 イリスが指差した方向に玄も視線を向けると、そこに違法パワードスーツを纏った男の姿があった。

男は無言で右手をゆっくりと広げた。その仕草からは、自信と余裕、そして邪悪な意図が滲み出ていた。周囲の誰もが気づかないうちに、破壊の準備が整えられていた。

玄は男を見つけた瞬間、迷うことなく地面を蹴り出した。疾走しながらほうき型ドローンのボタンを押して即座に起動。ドローンが形を変える間も無駄にせず、軽快に飛び乗り、風を切って男に迫った。右手でほうき型ドローンを強く握り、左手で左足のホルスターからワイヤーガンを抜いた。玄が空中の男を狙ってワイヤーガンを構えたその瞬間、男の手のひらから小型ミサイルが放たれた。

小型ミサイルは、赤い尾を引きながら、駅ビルのガラス張りの壁めがけて一直線に飛翔した。ビルの中で働く人々や、行き交う通勤客がその脅威に気づく間もなく、破壊と炎が迫りつつあった。

玄は瞬時に右手をほうき型ドローンから離し、右足のホルスターからハンドガンを引き抜いた。両手を放した状態でバランスを保ちながら、冷静にハンドガンを構え、飛び行く小型ミサイルを視界の中央に捉えた。わずかな誤差でも許されない状況。息を整え、瞬間的に引き金を引いた――銃声が鋭く空を裂き、弾丸はミサイルの側面に正確に命中した。直後、耳をつんざく爆発音とともに、閃光と黒煙が空を染めた。

爆発後、近くにいた人々は何が起きたのかわからない様子で一瞬、静寂に包まれた。その後、女性の悲鳴を皮切りに、広場の群衆は蜘蛛の子を散らすように四方八方へ走り出した。抱きかかえた荷物を取り落とす者、子どもの手を引いて必死に駆け抜ける親、恐怖のあまりその場に崩れ落ちて動けなくなる人もいた。人々の叫び声と足音が混ざり合い、広場は一瞬にしてカオスと化した。

一方、男は空中でミサイルが爆発したことに戸惑っている様子だった。

玄は冷静に隙を狙い、ワイヤーガンを上空の男に向けて放った。鋭いワイヤーが音もなく男の足首に絡みつくと、玄はワイヤーガンを力強く振り下ろした。

空中から引き下ろされた男は、重力に抗うこともできず背中から地面に激突した。その瞬間、鈍い衝撃音とともにコンクリートの地面が大きくひび割れ、細かい破片が四方に飛び散った。男は一瞬動きを止めたが、その体からはなおもスーツの機械音が聞こえ、完全には無力化されていない様子だった。その間に、玄は伸びていたワイヤーを切り離した。さらに、男が動き出す隙を与えないよう、ワイヤーガンの引き金を次々と引いた。ワイヤーは正確に男の首、両手、そして両足に絡みつき、その先端は鋭い音を立ててコンクリートに深々と突き刺さった。

その隙に玄は素早く周囲を確認した。男との間、百メートル以内に人影は見当たらなかった。

街を管理する超AIが異常を即座に感知すると、警備ロボットと見回りドローンが駅周辺の各通路に配備され、人々を安全なルートへ誘導していた。非常用アナウンスが複数のスピーカーから響き渡り、「落ち着いて避難してください」と繰り返す声がパニック状態の群衆をわずかに沈静化させた。ドローンは赤い誘導光を発しながら避難ルートを示し、警備ロボットは両手を広げて人々を押し進めるように動いていた。

人々の中には、スマホで撮影しようとしている者やライブ放送をしようとしている者がいた。しかし、イリスは周囲の人々がスマホを掲げているのを確認すると、即座にその機能を妨害した。「記録はさせないよ」と彼女は低く呟いた。ネット上で事件が拡散すれば、〈フリーデン〉の活動が表沙汰になる恐れがある。それは、国家レベルの混乱を引き起こしかねない。

駅前交番の警察官数名もすぐに駆けつけていたが、イリスは彼らに避難誘導を任せた。警視庁の上層部からの指示だと偽り、彼らを説得すると、すぐに納得したようだ。

今回の件は〈フリーデン〉が極秘に対処していたので、当然警察は事情を知らない。そのため、警察の応援が到着する前に対処しなければならなかった。

玄は男の前に静かに降り立ち、ほうき型ドローンを手のひらサイズに縮小させてポケットに収めた。

しばらくの間、男は起き上がることができずに、もがいていた。拘束されていることに気づくと、腕と脚を力任せに動かし始めた。筋肉を軋ませるような鈍い音とともに、地面が徐々に砕け、ついにはコンクリートごと引きちぎって立ち上がった。その手でワイヤーを掴み、何度か激しく引っ張ると、金属が悲鳴を上げるような甲高い音を響かせ、無残に断裂した。玄が準備した特製ワイヤーを軽々と破壊するその様子は、違法パワードスーツの異常な力を物語っていた。

しかし、それは玄にとって想定内だった。すでに回収された違法パワードスーツは〈フリーデン〉によって分析され、そのデータは全エージェントに共有されている。もちろん、玄もその情報を把握していた。

玄は静かにハンドガンをレッグホルスターに収めた。

「誰だ、お前……?」男は玄に視線を向け、問いかけた。声には少しノイズが混ざっていた。マスク越しなので、彼がどんな目つきをしているかわからないが、殺気をひしひしと感じた。「お前が邪魔したのか?」

「邪魔しなければ、多くの命が失われていたわ」と玄は答えた。

「それでいい。より多くの人間を殺すのが、おれの目的だ」

「なぜ、そんなことをするの?」

「この腐った国を正す……それがおれの使命だ」男は低く震えるような声で呟き、次第にその声を荒げた。「おれこそが、この国の救世主だ!」と両手を広げ、叫んだ。

「救世主を名乗るなら、罪なき人々を殺してもいいの?」と玄は静かに問いかけた。

「罪ならある。格差がある社会を変えようとしないこと。そして、弱者を平気で見捨てることだ!」

「……あなたも苦労したみたいね」玄は少し間を置き、静かに語りかけた。その声には怒りや非難の色はなく、むしろ穏やかな響きがあった。彼女は、犯人を説得するときにはまず相手を理解する姿勢を見せることが効果的だと知っていた。特に、こういった自分の行為に正義を見出している者には、否定ではなく共感が必要だ。

「たしかに、今の社会が理想的だとは、わたしも思わないわ」と玄は続けた。

「……お前、まさかおれたちの同志か?」

「考えは似ているかもしれないわね。だから、あなたの話をもう少し詳しく聞かせてくれないかしら?」玄は一歩、男に近づいた。その歩みはゆっくりとしたものだったが、迷いのない毅然としたものだった。

男は視線を少し落とし、手を握り締めた。数秒間沈黙し、「そうか……わかった」と静かに呟いた。視線を鋭く上げると、ゆっくりと歩み寄り、玄の前で立ち止まった。差し出された右手は、一見すれば和解の意志を示すようにも見えた。

しかし、微かな殺気を玄は見逃さなかった。

男の右手は握手の位置を越え、そのまま玄の顔前まで上がった。男の指が玄を指差した瞬間、その先端が機械音を立てて開いた。「死ね」と低く呟くや否や、爆発音のような鋭い音とともに弾丸が放たれた。

玄は反射的に身を屈め、その弾道を紙一重で躱した。無駄のない動きで素早く男の右腕を両手で捉え、そのまま回転するような動きで体重をかけた。重力と技術を組み合わせた力強い動作により、男の巨体を担ぎ上げると、一気に地面へと叩きつけた。硬いコンクリートが粉砕音を立てて砕け、男のパワードスーツが火花を散らした。その後、玄はすぐに後ろへ跳び、距離を取った。

そのとき、イリスが音もなく現れ、玄の耳元へと舞い降りた。

「あいつ、スーツの中でAIと会話しているみたいだから、説得は難しいかも」とイリスは囁いた。

「そうみたいね」と玄は返した。

洗脳を解くには時間がかかる……でも、今はその猶予がない。

この時点で、玄は男を説得することを諦めた。

「――なら、やっぱりスーツの機能を止めるしかないわね」と玄は静かに言った。

「そうだね」とイリスも同意した。

「少し離れてて……」玄が指示を出すと、イリスは即座に距離を取り、安全な場所から見守った。

男は当然のように無傷で立ち上がった。

「まさか、あれを避けるとはな。お前、ただ者じゃないな?」

「あなた、殺気が隠せてないから、避けるのは簡単よ」と玄は冷静に返した。

「そうか……」男は納得したように低く呟き、ゆっくりと右腕を突き出した。先程と同じように玄を指差すと、指先が開き、連続で三発の弾丸を放った。

玄はすべての弾道を見切り、無駄のない最小限の動きで躱した。

「全部避けるのか!? どんな反射神経をしている!?」と男は驚愕した。

「そんな攻撃、わたしには当たらないわ」玄は少し挑発的に返した。

「ふん……なら、これならどうだ?」

男は胸の前で腕を組み、力を込めながら前傾姿勢になった。次の瞬間、肩甲骨の四角い装備が飛び出し、中から小型ミサイル六発が一斉に発射された。

ミサイルは肩部から噴き出すように発射され、空中で軌道を変えながら玄を追尾した。その挙動は蛇のように不規則だったが、玄の視線は一瞬たりとも逸れなかった。

玄はハンドガンを素早く抜き、迷いのない動作で発砲する。乾いた銃声が六回鳴り響き、放たれた弾丸は正確にミサイルの胴体へと命中した。爆発音とともに次々と火花が散り、破片が空中に舞った。弾切れを確認した玄は、一切の無駄なくマガジンを交換し、瞬時に次の構えへと移った。

「そうか……さっきのもそれで撃ち落としたんだな……?」男はスーツの中で狂気じみた笑みを浮かべた。玄がどれだけ対応力を見せようとも、自分が完全に優位だという確信は揺らいでいない。「――弾は避けられ、ミサイルも撃ち落とされる……だが、おれの力を前にして、お前がどれだけ耐えられるか見ものだな!」その声には確かな自信と、スーツの力に陶酔する危険な雰囲気が漂っていた。

男の背部から青白い炎が噴き出し、轟音とともに彼の身体が宙へと浮き上がった。そのまま獣のような勢いで玄に向かって突撃する。拳を固めた右手には異常なほどの力が宿っており、その一撃が当たればただでは済まないのは明らかだった。

玄は冷静に体を捻り、パンチの風圧を感じながら紙一重で避けた。だが、男の攻撃は止まらない。次々と繰り出されるパンチは、地面や壁を砕きながら玄を追い詰めた。

玄は男の攻撃を避けながら、逆に間合いを詰め、ハンドガンで急所を狙う。それは見事な連携動作だったが、放たれた非殺傷弾は、男のパワードスーツの装甲に軽い音を立てて弾かれ、かすり傷一つつけられなかった。玄は一瞬眉をひそめると、すぐに銃口を下げ、非殺傷弾が効果を発揮しないことを悟り、ハンドガンをレッグホルスターに収めた。

男がイライラしたように舌打ちをし、大きく振り下ろした拳が玄の頭上をかすめる。しかし、玄は身を翻しながら軽やかにその攻撃を避け、逆に男との間合いを一気に詰めた。その動きはまるで雷光が走るかのように鋭く、素早かった。「はっ!」という気合とともに、彼女の両手が男の胸を突く。その瞬間、周囲の空気が震え、小さな爆発音のような衝撃波が男を包み込む。男の動きが一瞬止まり、その隙に玄は鋭い回し蹴りを男の横顔に叩き込んだ。

男は後方に勢いよく吹き飛び、駅前広間にある人型モニュメントに激突し、それを粉々に砕いた。

「あっ……」と玄は思わず声を漏らした。

そのとき、イリスが静かに玄のもとへ飛んできた。「玄ちゃん、物を壊すと、あとで〈フリーデン〉に怒られるよ」

「ごめん、つい……」と玄は後頭部を掻きながら、苦笑した。

 任務では極力周りの物を壊さないようにしなければならない。でなければ、あとあと誤魔化すのが大変になるからだ。

 しばらくして男が立ち上がった。

玄の攻撃は、常人であれば一撃で骨が粉砕されるほどの威力だった。しかし、男の身体を覆う違法パワードスーツはそのすべてを無効化し、表面にわずかな焦げ跡すら残らなかった。それはただの装甲ではなく、異常な耐久性を持つ防御システムの賜物だった。

男は再び腕を組み、力を込めると、小型ミサイルを六発発射した。先程と同じように、小型ミサイル六発は上空に舞い、玄に狙いを定めて襲いかかった。

玄は素早くレッグホルスターに手を伸ばし、ハンドガンを抜こうとした。しかし、その瞬間、男が超スピードで迫り、玄にパンチを繰り出した。

男は違法パワードスーツの装甲なら、小型ミサイルに当たって爆発に巻き込まれても防げると判断したようだ。おそらく、スーツに搭載されたAIの助言だろう。〈フリーデン〉の分析結果も同じだった。

 玄は男の鋭いパンチやキックを躱しながら、次々と襲いかかる小型ミサイルも避けていた。小型ミサイルは着弾しない限り爆発せず、回避されるとすぐに方向転換して玄をしつこく追い続けた。

玄は小型ミサイルの執拗な追尾を冷静に見極めながら、一発ずつ正確に撃ち落としていった。彼女の射撃技術に死角はなかったが、男の肩部ランチャーは止まることなく新たなミサイルを次々と発射し続けた。何度撃ち落としても減らないその数に、玄は内心嫌気がさしながらも、足を止めることなく攻撃を躱し続けた。次第に玄は、攻め入る隙を見つけられず、防戦一方に追い込まれていった。

「このままじゃ、キリがないわね……」と玄はつい愚痴をこぼした。

その瞬間、小型ミサイル一発が突然向きを変え、周囲の人々に向かって飛んでいった。男の操作で狙いを変更したようだ。玄はすぐに気づき、男を睨みつけた。マスク越しに、男がニヤリと笑ったように見えた。

男が新たなミサイルを発射しようとしたその瞬間、玄はその一瞬の隙を逃さず、ワイヤーガンを素早く引き抜き、迷わず引き金を引いた。ワイヤーは音速で伸び、正確に男の胴体と両腕を絡め取った。男が力で引きちぎろうとする間もなく、玄はそのワイヤーを力強く引き寄せた。男は体勢を崩し、頭から勢いよく玄に向かって飛んだ。玄は迫る男の頭に鋭い踵落としを叩き込み、地面に激しく叩きつけた。その衝撃で、男はコンクリートの地面にめり込んだ。

その隙に、玄は一般人を狙った小型ミサイルを追いかけた。走りながらハンドガンを構え、正確な一発放った。その鋭い一撃は、まるで誘導されたようにミサイルの中心を貫き、爆発音とともに残骸が空中で散った。「ふぅ……」と玄は短く息をついたが、次の瞬間、背筋を這い上がるような悪寒が彼女を襲った。ふと顔を上げると、いつの間にか無数の小型ミサイルが彼女の周囲を取り囲み、まるで狙いを定めるように停止していた。玄は素早く男の方を睨む。そのマスクの奥で、彼がニヤリと笑ったのが見えた気がした。

「終わりだ……」と男が低く告げると、数十発の小型ミサイルが一斉に玄へと襲いかかった。

 逃げ場がなかったため、玄はその場から一切動かなかった。万事休す……誰もがそう思った瞬間だった。しかし次の瞬間、小型ミサイルは玄に着弾する寸前のところでピタッと一斉に止まった。

「なに!?」と男が驚きの声を上げた。

「助かったわ、イリス」と玄は静かに呟いた。

「ごめんね、ちょっと時間かかっちゃった」とイリスは返した。

イリスは玄が時間を稼いでいる間、冷静に小型ミサイルの通信ネットワークを解析していた。その過程で、男のスーツがミサイルの制御信号を暗号化していることに気づくが、イリスの高度なハッキング能力はそれすらも突破していく。次々にミサイルの制御を奪い取り、最終的にすべてを掌握するまでわずか数十秒。

「これ、お返しするね」とイリスは呟き、指先を軽く動かすと、ミサイルが一斉に男へと向きを変えた。男を指差すと、すべてのミサイルが彼に向かって飛んでいった。

ミサイルは男に全弾命中し、凄まじい爆発を巻き起こした。その爆風の衝撃で、周りの人々は体勢を崩し、近くの窓ガラスは激しく割れた。

「あっ……」とイリスは思わず声を漏らした。

「イリス、物を壊すと、あとで〈フリーデン〉に叱られるわよ」と玄は少しからかうように言い返した。

「あははは、ごめんなさい」とイリスは玄と同じように反省した。

 周囲には濃密な爆煙が広がり、視界が完全に遮られた。瓦礫の崩れる音や、焦げた金属の匂いが充満する中、玄とイリスは警戒を緩めなかった。やがて、煙の中からぼんやりとしたシルエットが浮かび上がり、視界が広がると、ふらつく男の姿が現れた。さすがの違法パワードスーツも、ダメージは避けられなかったようだ。しかし、中の男は無傷で、スーツの機能もまだ完全に停止していなかった。

「まだ動けるの?」玄は呆れたように呟いた。「でも、もう――」

 玄が続けて口を開いた瞬間、男はジェット噴射で生み出した驚異的なスピードで一気に間合いを詰め、強烈な蹴りを繰り出した。

玄は反射的に体を反らし、ギリギリで男の鋭い蹴りを躱した。イリスも瞬時に距離を取った。

男の動きは一変していた。それまで素人じみた力任せの攻撃が、まるで訓練を積んだ武闘家のような鋭さを帯びていた。無駄のないステップと、予測困難な鋭い攻撃。

玄が男の動きの変化に驚いている間、イリスは即座に分析を行い、すぐにその理由を突きとめて告げた。

「玄ちゃん、気をつけて。AIの自動操縦に切り替わってる!」

「そういうことか……」

 玄は納得したように呟き、容赦なく繰り出される男の連続攻撃を避け続けた。玄がこれまでの戦いで見せた回避動作や間合いの取り方が、スーツのAIによって徹底的に分析されているのがわかる。男の動きは、まるで玄の次の動きを先読みしているかのように精密で、攻撃の隙すら与えなかった。

 しかし、男の鋭い一撃を躱したその瞬間、玄は男の懐に滑り込み、一瞬のうちに数発の掌打を胸部へ叩き込んだ。違法パワードスーツの胸部には深いヒビが入り、火花を散らすその様は、ショート寸前の機械そのものだった。さらに、男がよろめいた隙に、こめかみに強烈な蹴りを繰り出した。男が地面に崩れ落ちると、すかさずイリスが駆け寄った。

イリスは男の額に手を当て、ハッキングを仕掛けた。目を閉じると、体の周囲に微弱な光のラインが走り始めた。スーツ内のAIが必死に抵抗を試みたが、イリスの高度なアルゴリズムによって、わずか数秒で突破された。「システム制御、完了……」とイリスは静かに呟きながら目を開けた。

違法パワードスーツは完全に機能を停止した。

「ふう……これで、もう大丈夫」イリスは額の汗を静かに拭った。

「お疲れさま、イリス」と玄は言い、悲しげな表情で男を見た。すぐに冷静な表情に戻ると、「急いで回収するわよ」と玄が指示を出した。

 決着が着いた頃、現場にはすでに他の〈フリーデン〉の掃除部隊が到着し、一般人の対応や後処理をしていた。もみ消しには迅速な対応が求められるのである。

 

玄は、捕らえた男を〈フリーデン〉本部まで連れていき、仲間に引き渡した。その後、本部内の射撃場に足を運び、射撃の腕を磨いた。次に、道場で人型ロボットを相手に格闘訓練に打ち込んだ。帰る頃には、空のスカイブルーが徐々にオレンジ色へと染まり始めていた。

帰り道、通りには制服姿の学生たちがちらほら見え始めた。近くの『色神学園』から帰宅途中の生徒たちだ。

玄は無意識のうちに、生徒たちへと視線を向けていた。もし普通の生活をしていたら、自分も同じ制服を着ていたかもしれない。玄の頭の中に一瞬、制服に身を包んだ自分の姿が脳裏に浮かんだ。しかし、すぐに頭を左右に振って、そのイメージを掻き消した。そんな生活は夢のまた夢だと思った。

やがて、校門が視界に入る。夕方の帰宅ラッシュで、生徒たちがにぎやかに行き交っていた。そのとき、玄はある異変に気づいた。校門の少し先、空中に不自然に浮かぶ飛行車が目に入った。

飛行車は駐車位置ではない場所に停まっており、中に人の姿もなかった。街を走る自動車や飛行車は、超AIによる完全自動運転で効率的に制御されている。そのため、何もない場所に停まっている飛行車に、玄は強い違和感を覚えた。その飛行車は、まるで何かを待っているようだった。

「イリス、あの車、調べてくれないかしら?」と玄はイリスに指示を出した。

イリスは視線を上げて飛行車を見た。その瞬間、突然、飛行車が急発進し、猛スピードで色神学園の校門に向かい始めた。誰かにハッキングされ遠隔操作されているような動きだった。狙いは、校門から出てきた金髪の少女のようだった。

飛行車が急発進したのを見て、玄は即座に駆け出した。「イリス、あの車を止められる?」

「ちょっと……間に合わない……」イリスは苦い表情でそう答えた。

「そう……なら、仕方ないわね」と玄は呟き、覚悟を決めて突撃を続けた。

 周囲に人がいる以上、できるだけ目立ちたくはなかったが、今はそんなことを言っていられなかった。玄は周りの状況を瞬時に把握し、最善の手段を考えた。

 彼女を抱えて避けるのは簡単……だけど、避けたあと、もし車が暴走を続けたら、周りの人にも被害が及ぶかもしれない。イリスのハッキングも、もう少しかかりそう……なら、壊して止めるしかないわね。

 玄は一瞬で判断を下し、地面を強く蹴った。

金髪の少女は突進してくる飛行車に気づいたが、驚愕のあまりその場に立ち尽くしていた。その目には恐怖の色が浮かんでいた。そこへ、玄が横から割って入った。

玄は右足を振り上げ、その踵を勢いよく飛行車のフロント部分へ叩きつけた。「ガンッ!」という鈍い衝撃音とともに、飛行車は地面へと墜落した。前部が大破し、煙が立ち上る。エアバッグが作動し、部品が周囲に散乱した。飛行車は完全に動きを止めたが、その破壊音に周囲の人々が一瞬凍りついた。

イリスはすぐさま玄の肩から飛び立ち、飛行車に触れ、ハッキングを開始し、遠隔操作していた人物を探した。

 玄が振り返ると、金髪の少女は腰を抜かし、その場にへたり込んでいた。震える手で胸元を押さえている。

「大丈夫? 怪我はない?」と玄は落ち着いた声で尋ねながら、そっと手を差し伸べた。

「あ、は、はい……」

少女はかすれた声で答え、玄の手を支えにして立ち上がった。彼女の視線は壊れた飛行車に釘付けとなり、いまだ現実を受け入れられない様子だった。

周囲の生徒たちも足を止め、次第にざわめきが広がっていった。「何が起こったの?」と声を上げる者や、スマートフォンで壊れた飛行車を撮影する者もいた。中には、驚きのあまり言葉を失っている生徒もいた。

「ごめんなさい。驚かせてしまって……」と玄は申し訳なさそうに言った。

「い、いえ。助けていただき、ありがとうございました。何かお礼を……」と彼女は返した。

「気にしなくていいわ。たまたま通りかかっただけだから」

「ですが……!」

 玄たちのもとへ、イリスがふわりと飛んできた。

「どうだった?」

 玄の問いかけに、イリスは肩をすくめながら首を横に振った。

「まあ、これだけ派手に壊したから、仕方ないわね」と玄は呟いた。

 周辺に金髪少女を狙う気配や異常も感じなかったため、玄はもう心配する必要はない、と判断した。さらに、彼女のもとには、黒いスーツ姿のSPらしき人物が駆け寄って来ていた。

「これ以上、ここにいても意味はないわね」

玄は即座に判断し、速やかにその場を立ち去ろうとした――その瞬間、「あの!」と金髪の少女が震える声で呼び止めた。

玄が振り返ると、彼女は一歩前に踏み出し、何かを言おうとして口を開きかけた。しかし、躊躇いがちに視線を逸らし、言葉を飲み込む。その表情には、玄への感謝と不安が入り混じっていた。

「さようなら」と玄はそっけなく返すと、その場を立ち去った。詮索される前に動く――それが、玄にとっての最善策だった。

 

日はすっかり沈み、街はオフィスビルの灯りで輝いていた。スーツ姿の大人たちが一日の仕事を終えて帰宅するなか、玄もその流れに紛れるように歩いていた。

「イリス、さっきの事故の件だけど……」と玄は呟いた。

「大丈夫、全部終わってるよ」とイリスは返した。

「そう、ありがとう」

 色神学園の校門前で起こったことは、イリスが情報操作していた。現場近くの防犯カメラに映っていた玄とイリスの姿は、すでにイリスの手で消されていた。映像は、二人が一切関与していないように巧妙に改ざんされていた。このような情報操作は、今まで何度もしてきた。

 歩を進めていると、玄は小さくため息をつき、面倒そうに眉をひそめた。色神学園の校門前から尾行されていることに気づいていたが、殺気がなかったため、しばし様子を見ていた。その間にも、玄は尾行者の動きや気配から、その人物の特徴を冷静に分析していた。

尾行者は一人。玄が歩幅を変えるたび、相手もそれに合わせて速度を調整している。時にはビルの陰に隠れ、時にはすれ違う人々の背後に紛れ込む巧妙さを見せていた。その動きには、経験の浅さゆえの緊張と、それを覆い隠すような慎重さが入り混じっていた。さらに、一台の小型ドローンが一定の距離を保ったまま、ずっと玄のあとをついてきていた。おそらく、尾行者の私物ドローンだ。静音機能に優れた機種のようだが、街の見回りドローンと明らかに機種が違うため、玄はすぐに気づいた。イリスも気づいているだろうが、何も言わなかった。

「イリス、わたしたちを尾行しているのは何者?」と玄は問いかけた。

「もう気づいたの!? まだ五十メートルも距離があるのに!」とイリスは驚いた。

「ずっと視線を感じてたからね」

「さすが玄ちゃん!」とイリスは感心し、とっくに調べていた尾行者の写真付きのプロフィールを玄の前に浮かび上がらせた。「この人だよ」

そこに映っていたのは、さきほど玄が助けた金髪の少女だった。名前は『一色こがね』。色神学園高等部一年生で、学園理事長の孫娘――いわゆる超お嬢様だ。

「彼女の目的は、何だと思う?」と玄は尋ねた。

「うーん……たぶん、さっき助けたお礼がしたいんじゃないかな?」とイリスは答えた。

「お礼? いらないって言ったけど……」

「それでも納得できなかったのかもしれないよ」

「はあ~」と玄は深くため息をついた。「かかわるのは面倒だけど、これ以上あとをつけられても迷惑ね。……もう一度、はっきりと断らないといけないわね」

「了解」

イリスは瞬時に彼女のドローンの信号を解析し、強固なセキュリティを軽々と突破した。その直後、ドローンが突然ピタリと停止し、操作不能となった。

一色は動揺した様子で、手元の端末を何度も操作していた。その隙に玄が早足で歩くと、一色は慌てて追いかけた。もはや一定の距離を保ったり隠れたりする余裕はなさそうだった。人通りの少ない裏通りに差しかかると、玄は角を曲がり、すぐにほうき型ドローンを起動。静かに宙へと舞い上がった。そのタイミングで、玄は制御下に置いた彼女のドローンを素早く回収した。

玄が空から見下ろしていると、少し遅れて一色が角を曲がった。玄を見失った一色は、辺りを見回しながら不安げに立ち止まった。

「あれ……? どこに……? まさか、消えてしまいましたの?」と呟きながら、焦った様子で周囲を歩き回った。街灯の光に照らされた金色の髪は滑らかに揺れ、夜の中でも一際目を引いていた。その端正な顔立ちには、困惑の色が浮かび、まるで迷子になった子猫のようだった。

玄は彼女の背後へ滑るように降下し、夜の闇に紛れるように無音で着地した。その瞬間、夜の喧騒さえ息を潜めたようだった。そして間を置かず、低く澄んだ声で問いかけた。

「一色こがねさん、わたしに何か用かしら?」

一色は目を見開いて驚き、金色の髪を揺らしながら素早く振り返った。

「まあっ、いつの間にわたくしの背後に……!? 驚きましたわ!」

その声には驚きだけでなく、尊敬のような感嘆も滲んでいた。

玄が回収したドローンを差し出すと、一色は視線を少し落とし、状況を察したような表情を浮かべた。

「気づいていらしたのですね。さすがですわ」と一色は感心した。

「どうしてわたしを尾行していたのかしら? 目的はなに?」と玄は問い詰めた。

「あなた様に助けていただいたお礼を、どうしてもお伝えしたくて……。ですが、どんなに調べてもあなた様の情報が見つからず、直接お会いするしかないと思いましたの」と一色は少し照れた様子で微笑んだ。

 この街のほとんどの住人は、自分たちで個人情報を管理している。プロフィールにいろいろ書き込んで経歴を公開している者もいれば、名前だけという者もいる。

一色は誇らしい経歴を公開しているが、玄はすべてを非公開にしている。立場上、公開するわけにはいかないからだ。

「お礼なんていらないわ」と玄は冷静に言い切った。その声には、どこか拒絶の響きがある。

「それはいけませんわ!」と、一色は即座に語気を強めた。その瞳には揺るぎない意志が宿り、続けて言った。「一色家の名にかけて、命を救っていただいたご恩は、必ずお返しせねばなりませんわ。どうか、お受け取りください!」

「その気持ちだけで十分よ」と玄も返す。

「いいえ、全然足りませんわ」と一色は一切譲る気がない目で玄を見つめた。このような性格の人物は、おそらく断り続けても一歩も引かない。

玄は肩に座るイリスを横目で見る。イリスもそれに応じるように目を合わせ、小さく微笑みながら頷いた。その仕草だけで、二人が同じ結論に達していることがはっきりと伝わった。それを確認した玄は、説得を早々に諦めることにした。

「説得しても無駄みたいね……」玄は小さくため息をつくと、一瞬、考え込んだあとで提案した。「それじゃあ、一緒に食事でもどうかしら?」

一色は目を輝かせながら答えた。

「光栄ですわ。今すぐ手配いたします!」

一色は左手人差し指のスマートリングに軽く触れ、内蔵AIに予約を命じた。準備を進める中で、彼女はふと玄を見上げて問いかけた。

「あの……差し支えなければ、お名前を教えていただけませんか?」

 玄は少し迷ったが、「……玄」と小さく答えた。

「玄様……ですね」と一色は繰り返した。

「様はいらない」

「では、“玄さん”とお呼びしても……差し支えありませんか?」

「構わないわ」

「ありがとうございます。わたくしのことは“一色”でも“こがね”でも、お好きなようにお呼びください」

「じゃあ、一色さんで……」

「はい」と一色は満面の笑みを浮かべた。

 玄は、彼女に害意はないと判断し、名を告げた。玄の個人情報は、イリスが厳重に管理しているため、外部に漏れることなど決してない。

 やがて、夜空から静かな低音を響かせながら、リムジンタイプの高級飛行車が降下してきた。流線型の漆黒のボディは、防弾ガラスの窓とともに街灯の光を柔らかく反射していた。自然と威圧感を漂わせるその飛行車を見て、玄は心の中で「さすがは一色財閥ね……」と呟いた。

玄たちは高級飛行車に乗り込み、一色が予約した店に向かった。

「玄さん、お好きな曲はございますか?」と一色は尋ねた。

「何でも構わないわ」と玄は返した。

「そうですか……では、わたくしの好きな曲を掛けてもよろしいですか?」

「ええ」

「ありがとうございます。では、『七色パーソナリティ』をお願いします」と一色は飛行車のAIに指示した。

 その瞬間、玄の瞳がわずかに揺れ、一色を静かに見つめた。偶然にも、この曲は玄の好きな曲と一致しており、まさかこんな場所で聴くことになるとは思いもしなかった。

「かしこまりました」とAIは丁寧に返し、車内にポップな曲が流れ始めた。

一色は目を閉じ、リズムに合わせて軽く体を揺らしながら、「これは、わたくしの大好きな曲、『七色パーソナリティ』ですの」と説明した。

玄も耳を傾け、微かに頭を振ってリズムに乗り、「いい曲ね」と呟いた。

「はい」と一色は満面の笑みを浮かべた。


飛行車が静かに着地したのは、色神駅近くの高級料亭の入口だった。穏やかな外観に安堵を覚えつつ、玄は足を踏み入れた。

二人は個室に案内され、コース料理を堪能していた。食事の間、玄は一色の話に耳を傾けていた。

一色の話題は実に多岐にわたっていた。学園生活の微笑ましいエピソードから始まり、次第に最新科学技術の進展や財界の動向、さらには政治的駆け引きの話まで広がる。その知識量と視点の鋭さは、玄の予想を遥かに超えていた。

話を聞きながら、玄は一色のプロフィールに『色神学園で優秀な成績を収めている』と記されていたことを思い出した。時折、彼女から質問されることがあったが、玄はあまり自分のことは話さないようにして、一色が話すように誘導していた。玄の巧みな話術により、食事は日常会話のまま終わろうとしていた。

「あの、最後に一つ、お聞きしたいことがあるのですが……」と一色は静かに言った。

「何かしら?」と玄は返した。

一色は左手を顔の前に掲げ、人差し指のスマートリングに向かって声をかけた。

「オーロラ、お願いします」

その声に応じ、スマートリングのエメラルドが光った。

「了解、お嬢」という応答があった次の瞬間、エメラルドから放たれた緑色の微細な粒子が、ブワッと部屋全体に広がった。

「完了だ、お嬢」とスマートリングから声が響いた。

「ありがとう」と一色は微笑みながら返した。

「……何をしたの?」と玄は冷静に尋ねた。

「今から大切なお話をいたしますので、外に聞こえないようにしましたの」と一色は答えた。

玄は部屋を見回したが、特に変わったところはなかった。イリスに目をやると、彼女は即座に頷いた。イリスの検知能力から見ても、一色の言葉に嘘はないらしい。玄は一色に視線を戻し、真剣な表情で尋ねた。

「わたしに聞きたいことって何かしら?」

 一色は少し間を置き、玄をじっと見据えた。

「単刀直入にお伺いします。玄さん……あなたは、〈フリーデン〉の一員ではありませんか?」

「……〈フリーデン〉? ドイツ語で『平和』という意味よね。それが何か?」と玄は表情を変えずに返した。

「そうですが、わたくしが言っているのはそれではなく……この国の治安を守っている秘密組織のことです」

「秘密組織……? そんな組織があるの?」

「隠さなくてもいいですわ」

一色は顔の前で左手を握った。すると、人差し指のスマートリングのエメラルドから光が伸び、ある映像が宙に映し出された。それは、玄が一色を助けた瞬間の録画映像だった。

「これを見て、確信しましたの。こんなことができるのは、〈フリーデン〉しかいないと」と一色は自信たっぷりに言った。

「小さい頃から鍛えてるから、身体能力には自信があるの。これくらい、誰にでもできるわ」と玄は冷静に返した。

「そうですか。では、こちらをご覧ください」

一色はそう言って映像を切り替えた。次に映し出されたのは、玄が違法パワードスーツの男と戦っている映像だった。その映像の中にはっきりと映り込む玄を指差しながら、一色は問いかけた。

「これは、今日の午前九時頃に、色神駅で起きた事件の映像です。ここに映っている人は、玄さんではありませんか?」

「その映像なら、わたしも見たことがあるわ」と玄は、会話の主導権を渡すまいと冷静に返した。「――ただ、わたしが見たものとは、少し違うようだけど……」と続け、隣に座るイリスに視線を送り、無言で指示を伝えた。

イリスはすぐに玄の意図を察して頷き、立ち上がった。手のひらを広げ、指先を軽く動かすと、空中に映像を投影した。その映像は、ディープフェイク技術によって玄の姿を別人に見せかけた、巧妙な偽造映像だった。

「わたしが見た動画では、男が戦っているように見えるけど……」と玄はフェイク動画を見せながら冷静に言い返した。

「それは偽物です。わたくしの映像こそが本物ですわ」と一色はきっぱりと言い切った。

「わたしの映像が本物で、そっちがフェイクの可能性もあるんじゃないかしら?」

「それはありえません」

「どうしてそう言い切れるの?」

「この映像は、わたくしが自前のビデオカメラで撮影したものですの。スマートデバイスは何者かに妨害されていましたが、オフラインの機器なら問題なく使えましたわ」一色はイリスを一瞥し、軽く微笑んだ。

イリスはサッと目を逸らした。

玄は冷静に次の作戦を考えた。

 まずい……完全に主導権を奪われた。やっぱり、優秀だという情報は本当だったのね。さて、ここからどう誤魔化そうかしら……。

 玄が考え込んでいると、一色はさらに問いかけた。

「玄さんは……もしかして、“シュバルツ様”ではございませんか?」

 その言葉を聞いた瞬間、玄は片膝をつき、流れるような動作でハンドガンを抜いて、一色の額に銃口を向けた。

 シュバルツというのは、玄のコードネームだった。

「その呼び名……どうして知っているの?」玄は冷徹な眼差しで一色を睨み、低い声で問い詰めた。

一色は銃口を突きつけられているにもかかわらず、まるで気にしていない様子で、わずかに口元を緩めた。玄が引き金を引くはずがないと、確信しているようだった。

「これ以上深入りするのはやめなさい。命が惜しいなら……。これは脅しじゃないわ」と玄は真剣に警告した。

「うふふ、玄さんっておやさしいのですね。〈フリーデン〉の任務には、暗殺も含まれていると伺いましたけれど……」と一色は微笑みながら返した。

「世の中には、知らない方が幸せなこともある。今日のことは、聞かなかったことにするから、今すぐ忘れなさい」と玄は忠告した。

「わたくしのこと、心配してくださるのですね。嬉しいですわ。ますます、玄さんのことが好きになってしまいます」一色は頬を赤らめたが、すぐにキリっとした目つきで玄を見つめた。「でも、ご心配には及びませんわ。わたくしには、〈フリーデン〉の護衛がついていますもの……」

「……は? 護衛……?」玄は眉をひそめた。

 一色は指を軽く動かし、宙に画像を映し出した。そこには、一色と玄の仲間の姿が映っていた。一色の説明によれば、彼らは『色神学園』の生徒として学校に通っているらしい。主な仕事は、一色こがねの護衛と学園の安全管理。まったく知らない玄にとって、これは驚きの情報だった。

イリスに情報の信憑性を確認させたところ、一色の説明に嘘や誇張はないと判断された。それを聞き、玄は構えていたハンドガンを静かにホルスターに収めた。

一色は微笑みながら問いかけた。

「……やはり、“シュバルツ様”でお間違いないのですね?」

玄は一瞬だけ迷ったが、もう隠しても意味がないと悟り、「……ええ」と、ついに観念して認めた。

「……やっと出会えました!」一色は、まるで憧れの人に会ったかのように目を輝かせ、声を弾ませた。「ずっとお会いしたいと思っておりましたの!」

「……どうして?」

「フィーアさんから、シュバルツ様のお話を何度も伺っておりましたの。話を聞いているうちに、ぜひ一度、お目にかかりたいと思っておりました……!」

「そう……」

 玄は心の中で呟いた。

 次にフィーアに会ったら、たっぷり説教してやらないといけないわね。

「シュバルツ様は、月曜日だけお仕事をされていると伺いました。それは、なぜですの?」と一色は興味津々の表情で尋ねた。

「答えられないわ」と玄はきっぱりと返した。

「そうですか……では、質問を変えます」一色は真っ直ぐな瞳で、玄を見つめた。「わたくしと、お友達になっていただけませんか?」

「は……?」玄はぽかんとした表情を浮かべた。

「シュバルツ様の凛々しいお姿を拝見し、わたくしは心を奪われましたの! なんて美しくて魅力的な方なんでしょう、と……」

 一色は恍惚な表情を浮かべた。

 玄は即答できず、少し間を置き、冷静になってから答えた。

「……友達には、なれないわ」

「そうですか……」一色は残念そうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻り、続けた。「今日はたくさんお話できて、本当に楽しかったです。ありがとうございました」

一色の瞳の奥には、まだ何かを画策しているような光が潜んでいた。

 料亭を出ると、高級飛行車が静かに待機していた。一色は車内に乗り込み、「よろしければ、お送りいたしますわ」と提案した。しかし、玄は自宅を知られることを避けたかったため、丁重に断った。

一色は去り際に高級飛行車の窓を開け、「またお会いできる日を、心よりお待ちしておりますわー!」と明るく叫びながら、夜空へと消えていった。

 玄は内心(どうせ、もう会うことはないでしょうけど……)と呟きながら、軽く手を振り、一色の飛行車が見えなくなるまで静かに見送った。車が夜空の彼方に消えると、玄は周囲を一瞥し、足早にその場を後にした。



読んでいただきありがとうございます。

次回もお楽しみに。

感想お待ちしています。

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