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翠の新たな日常

 四月十四日、木曜日。

 小鳥のさえずりや木の葉が揺れる自然音が、寝室の中に心地良く流れた。それと同時に寝室のカーテンが自動で開き、ベッドで寝ている翠の顔を朝日が照らした。時刻は、午前六時三十分。

 翠がゆっくりと目を開き、上体を起こしたちょうどそのとき、寝室のドアが開いてイリスがふわりと現れた。

「おはよう、翠さん」とイリスは声をかけた。

「おはようございます、イリスさん」と翠は返し、ベッドから足を下ろして立ち上がった。

イリスは目を光らせ、翠の全身を上から下へとスキャンし、健康状態を確認し始めた。

「体温……36度、心拍数……70拍/分、血圧……115/76mmHg、血糖値……正常範囲内、睡眠の質……良好、顔色良好――」イリスは翠の健康状態を呟きながら確認していた。

「――うん、健康状態問題なし!」

「ありがとう、イリスさん」

 洗面台で顔を洗い歯を磨いたあと、翠はシャワーを浴び、スキンケアを丁寧に済ませた。シャワーを終えたあと、柔軟体操で身体をしっかりとほぐした。

朝のルーティーンを終えると、翠はイリスに声をかけた。

「お待たせしました。それでは行きましょう」

イリスは頷き、二人は地下室へ向かった。

今日の勤務は十時からなので、それまでに翠は、天に頼まれたレコーディングを行った。事前に天から、「翠ちゃんらしく歌ってね」と控えめに言われていたため、翠は言われた通りに歌った。イリスに助言をもらいながら、自分が納得いくまで、何度も歌った。

満足のいくレコーディングを終え、ふと掛け時計を見ると、時刻は午前九時二十分を過ぎていた。勤務時間が近づいていることに気づき、翠は急いで一階へ向かうと、素早く着替えを済ませ、家の掃除をイリスに任せて家を出た。

 イリスは翠の背中を見送ったあと、白雪家の掃除に取りかかった。


 喫茶『色森』に到着した翠は、店内に足を踏み入れた。カウンター奥で鏡を見つめながら髪型を整えていた青山に、翠は歩きながら「おはようございます」と適当に挨拶した。

青山は手を止め、翠に視線を向けた。

「おはよう、翠くん! 今日も朝日が霞むくらい美しいね!」

青山はウインクしながら、おどけた声で返した。

翠は真顔で無視し、速やかに更衣室へと向かった。

更衣室で制服に着替えていると、「コン・ココン・コン!」というリズミカルなノック音が響いた。ゆっくりと開くドアの奥から顔を覗かせたのは、同僚の伽羅メルだった。

「やっぱり、今日は翠ちゃんが先か……占い通り!」とメルは満足げに呟いた。

「おはようございます、メルさん」

「おはよう」

 メルは更衣室の前で胸にそっと手を当て、瞳を閉じた。

「今日も幸運の風が、わたしを導いてくれますように……」と祈りを捧げるように小さく呟いた。そして突然、「よし!」と目を開け、その場でくるりと三回転したあと、まるでダンスのフィニッシュポーズを決めるかのように片手をグンと伸ばしながら、更衣室へ滑り込んできた。

奇妙な儀式にも動じず、翠は淡々と着替えを続けた。何度も見慣れた光景だったからだ。

 占いが大好きなメルは、毎朝目を覚まして最初にすることが自身の占いだった。その日の運勢によって、一日の過ごし方を決めているらしい。

たとえば、通勤の際、家から『色森』までを最短距離で通うのではなく、その日の運が良い方角を選んで通っていた。そのため、かなり遠回りになる日もあるようだ。

さらに、メルは自分以外の人も占うことが可能だ。店内の一角には、不思議な雰囲気を装ったメルの小さな占いの館が構えていた。メルの占いは、巷で当たると評判で、満足度も高く、人気もあった。そのため、メルはホールの仕事をするより、占いをしている時間の方がはるかに長い。もはや、肩書きは占い師と呼んだ方が正確だった。

占いのスキルにかけて、メルは天才的で、水晶占いやタロット、星占いなど、どんな方法でも見事にこなす。『色森』では、店のテーマに合わせ、特製のコーヒーカップに残る粉や泡の形から運勢を読み取る「コーヒー占い」がメインだった。それが売り上げに絶大な貢献をしていた。

この日も、メルがシフトに入ってから最初に訪れた女性客が、すぐにメルの占いを注文――メニュー表にしっかり載っている――した。メルは勤務早々、ホールから占いの館へと移動した。その後も次々とメルの占いの注文が続き、忙しくしていた。

翠はホールが一段落したのを見計らい、メルの大好きなキャラメルマキアートを手にして占いの館へ向かった。柔らかな薄暗い照明と独特な香りが漂うカーテンをくぐると、翠は足を止めた。

しまった! まだお客様がいたのね。早く出ないと。

翠はすぐに踵を返したが、客の後ろ姿がどうしても気になって足を止めた。静かに振り返り、目を細めて確認しようとしたその瞬間、耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある青山の声だった。

「メルくん、今日のぼくのキラキラ運勢はどうかな?」

「うーん、店長の今日の運勢は――」

メルがコーヒーカップの底をじっくりと見つめている間、翠は勢いよく占いの館のカーテンを開け、突撃した。

「て・ん・ちょー!」

翠は鋭い声で青山を呼びつけると、険しい表情で一歩ずつ前に進んだ。

「こんなところで、何をサボってるんですか!?」

「おお、翠くんも来たのか。どうだい? きみもメルくんに占って――」

 翠が炎のようなオーラをまとい、鋭い目で睨みつけると、青山はピタリと言葉を止めた。額から冷や汗がポタポタと流れ落ち、怯えたように肩を揺らした。

 青山は立ち上がり、慌てた様子で言った。

「――さ、さあ、そろそろ仕事に戻らないとなぁ~」

そう言うと、青山は逃げるようにその場から立ち去った。

「あっ、店長! 今日は気をつけた方がいいみたいですよ。軽率な行動で誰かの怒りを買ってしまうと不幸が訪れますよ」

メルがそう告げた瞬間、青山が足早に向かった先から、「ガンッ!」という壁に激突する音が響いた。続いて、「ガシャーン!」と調理器具が派手に散らばる音が聞こえた。

「いったぁ……!」

青山の情けない声が聞こえたのを耳にし、翠は呆れたようにため息をつき、メルはクスクスと笑った。

翠は向き直り、静かに腰を下ろした。

「メルさん、お疲れ様です。こちら差し入れです」

翠は手に持ったキャラメルマキアートを差し出した。

「あっ、キャラメルマキアート。ありがとう!」

メルは満面の笑みを浮かべ、両手で丁寧に受け取った。そっとカップを包み込み、嬉しそうに一口飲んだ。

「今日も大盛況のようですね」と翠は言った。

「うん、おかげさまで」とメルは微笑んだ。

「まだ、占い師に転職なさらないのですか?」

「占い師なんてならないよ」とメルは笑顔で即答した。「――占いは、あくまで趣味。本業はウエイトレスだから」

 ……いや、どう見ても占い師でしょう。

そうツッコミたくなったが、翠は口をつぐんだ。

「そうですか、とてもお似合いだと思いますが……」

「えー、そうかな?」

メルはまんざらでもなさそうだった。すでに一定の顧客がいるため、上手くやっていけそうな感じだと、自分でも思っているのかもしれない。将来、占い師の道も選択肢の一つなのだろう。

「それより、もし店長がここに来ても、占わなくていいですよ。あの人を占っても意味がありませんから」と翠は助言した。

「うん、わかった」

「それでは、わたしはそろそろ仕事に戻りますね」

そう言って翠は立ち上がったが、メルに「あっ、ちょっと待って!」と呼び止められ、足を止めた。

「どうしました?」と翠は尋ねた。

「これ(キャラメルマキアート)のお礼に、ちょっとだけ占ってあげる」

メルはウインクしながら提案した。

「お気遣いありがとうございます。でも……遠慮しておきます。メルさんもお疲れでしょう?」

「大丈夫」

メルはキャラメルマキアートをそっとテーブルに置くと、「まだまだ元気いっぱいだよ!」と力こぶを作ってアピールした。

「ですが、今からコーヒーを準備するのは……」

「コーヒーはいらないよ。翠ちゃんも忙しそうだから、簡単にできるやつで、パパっと済ませるね」

 メルは手カメラを作り、じっと翠の顔を覗き込んだ。

「うーん……これは……!」

何かを掴んだような表情を浮かべた。

「ふむふむ……なるほどね……」と意味深に頷いた。

翠が思わず身を引いた瞬間、「見えた!」とメルが目を見開いて叫んだ。

少しの沈黙のあと、メルはゆっくりと口を開いた。

「翠ちゃんはこのあと……大変な思いをすることになる……はず?」

 メルは最後に疑問形で首を傾げた。

「そう……ですか……」

「でも、心配しなくて大丈夫。翠ちゃんを大切に想う人たちが、助けてくれるから」と言い添えた。「そして――より一層、絆が深まる……かも……?」と最後にまた首を少し傾げた。

翠はほっと息をつき、「それなら安心しました」と微笑んだ。

「ごめんね。即席だから、ちょっと精度が低いと思う」

「いえ、ありがとうございます。気をつけますね」

翠が笑顔で礼を言うと、メルは「うん」と頷いた。

「では、失礼します」翠は丁寧なお辞儀をして、出口へ向き直った。

「またね」

メルは明るい笑顔で大きく手を振り、翠を見送った。その仕草には、どこか無邪気な雰囲気があり、翠は小さく微笑んだ。

 ホールに戻る途中、翠の頭にメルの占いが何度も頭をよぎった。

「翠ちゃんはこのあと……大変な思いをすることになる……はず?」というメルの言葉が、ふとした瞬間に胸を突いた。軽く聞き流すつもりだったが、翠の心に小さな不安が芽生え始めていた。

少しだけ気をつけておこう。

翠はそう心に決めた。

店内は徐々に客足が増えていた。ホールに戻ると、すぐに呼び出しベルが鳴った。翠は二人掛けのテーブルに座る、白衣の少女のもとへ向かった。

「お待たせしました。ご注文をお伺いします」

 丁寧に挨拶して、視線を上げた瞬間、翠は目を見開いて固まった。目の前に座っていたのは、〈フリーデン〉のエージェント――フィーア。

 定例会議のとき、玄の報告でたびたびフィーアの名が上がるため、翠は彼女の存在を知っていた。彼女が〈フリーデン〉の中でも特に、玄のことを好いていることも把握していた。玄からは「できるだけ関わらない方がいい」という忠告を受けていた。それなのに、今こうして、翠はフィーアを目の前にし、決して逃げられない状況に陥ってしまった。だが、こんな事態も想定済みだった翠は、毅然とした態度を崩さず、にこやかに接客に応じた。

 フィーアはじっと翠を見つめ、なかなか注文しようとしなかった。

「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」

 その問いかけに構わず、フィーアはようやく口を開いた。

「ねぇ……もしかして、あなたが……“色森の女神様”?」

「……は、はい……そう呼ばれているみたいです」

 その言葉に、フィーアは目を輝かせた。

「やったー、ついに会えたんだ! ねぇねぇ、名前はなんていうの? あ、あたしは、四宮卯月。色神学園に通ってるんだ」

 フィーアは早口で次々と言葉を繋いだ。

 翠は一瞬迷ったが、ここで名乗らなければその方が怪しまれると、即座に判断し、「翠、です」と控えめに答えた。

「翠ちゃん……素敵な名前!」

「ありがとうございます。では、ご注文を――」

「あたし、科学が大好きで、ロボットを作ったり新薬の研究をしたりしてるんだけど――」

フィーアは食い気味に息つく間もなく語り出した。まるで噴水のように言葉が次々と溢れ出すフィーアに対し、翠は口を閉ざした。

 しばしの間、フィーアの弾丸トークは続き、そして最後に、「翠ちゃんは、どこの学校に通ってるの?」と興味津々に問いかけた。

「えっ、えーっと……」

 翠は内心焦っていた。

 ど、どうしましょう。一応、わたしも色神学園に入学しましたが、正直に答えるのは、リスクがあるような気がします。もし、フィーアさんが〈フリーデン〉の情報網を使ってわたしや玄さんの秘密に気づいたら、面倒なことになりかねません。しかし、嘘をつくのもそれはそれで危険ですね。ああ、一体どうすればいいのでしょうか。

 翠が返答に困っていると、背後から「卯月さん、翠さんが困っていますわ。まだお仕事中なのですよ」という、優雅な口調の声が響いた。

 慌てて振り返ると、翠の視界に一色の姿が映った。

「えっ、あ、そっか。ごめんね。つい」卯月は反省を見せた。

「いえ、お気遣いありがとうございます」と翠は冷静に返した。

 一色はフィーアの向かいに腰を下ろすと、メニュー表を眺め、「わたくしは、オリジナルブレンドと、このコーヒー占いというものをお願いします」と注文した。

「あたしはアメリカン」と卯月も続いた。

「オリジナルブレンド、コーヒー占い、アメリカンの三点ですね。かしこまりました」

 注文を受けると、翠は軽く一礼し、早足でその場を後にした。その背中を、一色とフィーアが、小さな微笑みを浮かべながらじっと見つめていた。

 カウンターの奥に身を潜めた翠は、胸に手を当てた。うずくまるように体を丸め、高まった心拍数を深呼吸で抑えた。やがて、落ち着きを取り戻し、静かに立ち上がったその瞬間、翠の頭に、メルの占い結果がよぎった。

「まさかこれが……大変な思い、だったのでしょうか?」

 翠は思わず声を漏らしたが、すぐに気を取り直し、再び仕事に戻っていった。


午後四時を過ぎた頃、流香が帰ってきた。

 店の入り口が勢いよく開き、金属のドアベルがけたたましく鳴り響いた。驚いて振り向いた店内の視線を一身に受けながら、流香は胸を張り、堂々と立っていた。

「ただいま帰還した!」

声高らかに宣言する流香に、店内は一瞬の静寂に包まれた。

「おかえり、ルカルカ」とモカが陽気に声をかけ、「おかえり、流香ちゃん」とメルが穏やかに微笑み、「おかえりなさい、流香さん」と翠が丁寧に一礼した。

それに続き、常連客も次々と流香に「おかえり」と声をかけた。

 いつもなら、このあと流香は、店と繋がる隣の家に真っ先に向かい、荷物を置いてから制服に着替え、店の手伝いにやってくる。だが、今日は少し違った。

流香は背中のその場でバックパックを床に置くと、中身を雑に漁り始めた。

「ふっふっふ……みんな、見て!」

 その言葉に、翠、モカ、メルの三人が流香のもとへ集まった。

三人が集まると、流香は大きく息を吸い込み、「ジャジャーン!」と声を上げながら、勢いよく手を抜いた。手の中には、全長約十センチのコーヒー豆型の玩具が握られていた。それをテーブルに置くと、周囲の視線が吸い寄せられるように集まった。

 モカは「おぉー!」、メルは「わぁ!」と驚きの声を上げ、翠は静かに見つめていた。

「この子の名は――オマール。流香が作ったんだよ!」流香は自慢げに言った。

「流香さんが作ったのですか! かわいらしいコーヒーですね」と翠は素直な感想を述べた。

「そうでしょ、そうでしょ。えへへ……」流香は嬉しそうに頬を掻いた。

「さっ、オマール。みんなに自己紹介して!」

 流香の言葉に応じ、オマールは背筋を伸ばして堂々と名乗った。

「コヒコヒコヒ、お初にお目にかかります。わたしの名はオマール。華麗なるコーヒー豆の妖精でございます。これからは流香様の右腕として、『色森』に幸せを届けるべく、努めさせていただきます。どうぞよろしく」

モカと目を合わせ、「モカさん」と名を呼び、次にメルと目を合わせ、「メルさん」と呼び、最後に翠と目を合わせた。

「翠さ……ん?」

オマールは一瞬言葉を詰まらせ、機械とは思えぬほど戸惑いの表情を浮かべた。

「あなたは、はじめましてではありませ――」

 オマールがそう言いかけた瞬間、翠の手がまるで閃光のように空を裂き、彼の顔面を鷲掴みした。その速さは、誰の目にも映らないほどだった。

翠は捕らえたオマールを、自身の顔に近づけ、微笑みかけた。

「オマールさん、はじめまして。わたしの名は“翠”といいます。これから一緒に働く仲間として、どうかよろしくお願いします」と丁寧な挨拶をした。翠の顔は笑っているが、どこか圧力を感じ、鷲掴みした手の力も徐々に強くなっていた。

 オマールは翠の力に圧倒され、機械らしからぬ震えた声で「は、はい……」と返事をした。顔にじわりと浮かぶ冷や汗が、その動揺を雄弁に物語っていた。

 翠はニコッと微笑み、オマールをテーブルの上にそっと置いた。

「おぉー! 翠ちゃん、オマールのこと、気に入ってくれた?」と流香は嬉しそうに尋ねた。

「はい、とてもユニークなお方ですね」と翠は笑顔で答えた。

「えへへ……オマールと仲良くなってくれると、流香も嬉しい」

流香は屈託のない笑顔を浮かべた。

「実は昨日、流香とオマールで色神学園七不思議の一つ、『花子さん』を探してたんだけど――」

 流香が語っている間、翠は心の中では危機感を覚えていた。

 さ、さすがに今のは驚きました。まさか、AIに正体がバレそうになるとは……。

 翠は鋭い視線をオマールに投げた。

 さすがに超AI相手では、何度も顔を合わせると、わたしたちの秘密に気づかれるリスクが高まりますね。一色さんのオーロラ然り……。帰ったら、イリスさんに相談して、対応策を考えないと……最悪、このバイトも続けられなくなるかもしれません。

 翠は視線を流香に戻しつつ、心の中で覚悟を決めた。


勤務を終えて帰路に就いた翠は、途中でスーパーに立ち寄った。

店の入り口を通ると、天井のカメラが翠を正確に認識し、彼女の個人データと連動したシステムが自動で起動した。

店内の商品には極小のチップが埋め込まれており、選んだ品物がどれかをリアルタイムで感知。レジを通す必要もなく、店を出た瞬間に会計が完了する仕組みだ。

店内は、忙しそうに動く数十人の客で賑わっており、棚の間を滑らかに動く人型ロボットが品出しや整理を淡々と行っていた。ロボットの無機質な動きとは対照的に、買い物客たちは家族連れや一人客が入り混じり、思い思いのペースで品物を吟味していた。

 翠は野菜コーナーを皮切りに、フルーツ、鮮魚、精肉と順に歩き回った。手に取った品をじっと見つめ、指先で触れてみる。野菜の色艶やフルーツの香り、魚の透明感を一つひとつ確認しながら、慎重に選んでいった。その眼差しには、食材に対する確かな信頼と愛情が込められていた。加えて、玄が「また食べたい」と言っていた『イカスミペースト』や、茜が時折リクエストする『生ハム』、天が疲れたときに喜ぶ『ソーダアイス』、柴乃の楽しみにしている『ブルーベリーヨーグルト』も忘れずに袋に入れた。さらに、桜の好きな『さくらラテ』の材料、そして真白が大好きな『バニラアイス』も忘れずに買った。

 買い物を終えて店を出ると、空から軽やかな羽音が近づいてきた。ふと顔を上げると、小型の運搬用ドローンが正確なタイミングで翠の目の前に停止した。このドローンは、イリスが家から遠隔操作して送り出したもので、翠の荷物を運ぶためにやってきたのだった。白いボディには「SHIRAYUKI」の文字が七色で刻まれ、光を反射して小さく輝いていた。

翠はドローンに買い物袋を慎重に掛け、「お願いしますね」とやさしく声をかけた。

ドローンはゆっくりと浮上し、滑らかに方向転換すると、風を切る音を残しながら家の方へ向かって飛び立った。

翠はその後ろ姿を見送りながら、ゆっくりと歩みを進めた。


家に帰り着くと、翠は早速イリスにオマールの件を相談した。

「イリスさん、少し、ご相談があるのですが……」

「オマールのこと?」

「はい」

「大丈夫、何も心配はいらないよ」

その一言で、翠の心配は杞憂に終わった。

 イリスによると、オマールは基本的なコミュニケーション機能に特化したAIであり、高度な分析や推論能力を持つタイプではないらしい。今日の出来事は、単に短期間に連続して顔を合わせたために生じた、偶然の反応に過ぎないという。よって、今後はあまり気にしなくてもいい、とのことだった。

 翠はそれを聞くと、深く息をついて、ほっと胸を撫でおろした。

バイト後からずっと胸の奥にくすぶっていた不安が、イリスの一言で霧散したように晴れ渡り、心が驚くほど軽くなった。体力はすっかり消耗していたはずだが、心が晴れると不思議と元気が湧いてきた。その勢いで夕食作りにも気合が入り、普段より少し手の込んだ料理をテーブルに並べた。

 夕食後は、ゆっくりとお風呂に浸かり、湯気に包まれつつ、今日一日の出来事を静かに振り返った。上がったあとは、柔軟体操で身体を解し、作業机に向かうと趣味のDIYに没頭した。小さなピアスのパーツを丁寧に組み合わせていく作業は、心を穏やかにし、疲れた身体をリフレッシュさせてくれた。

午後十一時三十分になると、翠は道具を片付け、寝室へ向かった。ベッドの横に、明日柴乃が着る予定の紫色のジャージを綺麗に畳み、そっと置いた。

「イリスさん、柴乃さんに伝言をお願いします。『体調に気をつけてください』と……」

「了解」

 翠はベッドに横たわると、ふかふかの布団に包まれながら目を閉じた。今日の出来事をぼんやりと振り返るうちに、いつの間にか静かな寝息を立てていた。



読んでいただきありがとうございます。

次回もお楽しみに。

感想お待ちしております。

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