7.だれかのための決意
陽が落ちると外に集まった野次馬もあらかたいなくなり、それをきっかけに晴馬たちはカルロと別れて元居た場所へと戻ってきていた。人目を避けるため晴馬はカルロから上着を借りてシャツを隠し、いちおう裏口からこっそりと出てもいる。
白い街並みを流れる小川は夕焼けに照らされて、燃ゆる陽炎のようにゆらゆらと揺れている。晴馬たちの気配に怯えた小鳥が飛び立つと、抜け落ちた羽根が水面を揺らしてゆっくりと流れていった。
昼間の出来事からは考えられない、嘘のように穏やかな時間。
いま歩いている遊歩道の先にユランたちが二人で住んでいる家があるらしい。
ユランは晴馬の衣食住を本気で援助してくれるそうで、当面の間の仮住まいとして空き部屋を貸してくれることになった。
もちろん、晴馬もただ施しを受けるつもりはない。二人の仕事を手伝うことを条件として女神の提案を受け入れている。
というのも、当のユランは無償で養うつもりで言っていたらしく、晴馬に「手伝わなくてもいい、むしろ手伝わないでほしい、できれば帰るまで養わせてほしい」と言い放ったのだ。もはや恐怖を感じるくらいの世話焼きモンスターである。
建物も路面も白いこの区域は、女神の信奉者だけが住んでいる一風変わった特別居住区。それも並大抵の信奉者ではない。同志で集まり資金を出しあって土地を買い、景観を女神ユランが好む白色で統一して土地開発まで行うほど熱心な信者だ。
逃走劇を繰り広げていた時間は誰も出払っていて人など見かけなかったが、陽が傾いて夕暮れが眩い頃にもなると、ちらほらと仕事終わりの住民の姿が見え始める。
彼ら彼女らは皆、ユランの姿を見かける度に親しげに手を振り、声を掛け、人によっては畏敬の念を込めて礼拝をする。街の女神という異名に偽りなし。あっという間に人だかりができた。
崇拝されている女神というよりは街の人気者。
子供にも服の裾や手を引っ張られて抱っこをせがまれている。
一人一人へにこやかに応対し、両腕に子供を抱いて満面の笑みを浮かべるユラン。居住区に入ってから終始そんな調子だったものだから、本来なら五分で着くところを三十分以上かけて家に到着した。
「大人気だったな」
「まあな。ただなぁ、愛してくれるのは嬉しいのだが、こちらから何かしようとすると誰も彼も遠慮するのだ。我も受け取るばかりでは抱えきれんのに」
どこか嬉しそうな様子で愚痴のような不幸自慢をしつつ、ユランは自宅の扉に手を掛ける。玄関に入ると彼女はすぐに二回へ上がって行った。
「着替えてくる。奥の部屋で待っていてくれ」
「わかった」
アレクシアもユランへ続いて二階に上がり、晴馬は指示通りリビングへ向かう。
基本的な内装は白を基調としているものの、外の景色ほど露骨に白一色というわけではない。床は白樺っぽい木造のフローリングで、家具もぱっと見ほとんど木製。椅子や机などにアクセントとして黒い家具がいくつかあり、全体的に明るいながらも落ち着いた雰囲気のある空間だった。
晴馬の率直な感想は「綺麗な家」だ。
あまり人の家をじろじろと見るものでもないのだが、モデルハウス染みたあまりの綺麗さに晴馬は視線を隅々まで通わせる。
と、部屋の入り口でぼぅっと突っ立っていた晴馬の背中がとんっと押される。
振り返るとそこにいたのはユラン。ゆったりとしたシルエットの白いルームウェアに着替えた彼女は、晴馬の背中をぐいぐいと押して強引にソファへ着席させる。
「ハルマはここで待っているといい。暇だったら映画とかも見ていいからな」
「ユランは何すんの?」
「夕飯の準備だ」
「いやいやいや、手伝うって」
ただでさえ迷惑を掛ける身なのに、あまつさえ客人として扱われるわけにはいかない。
そう思って晴馬も席を立とうとするが、ユランに肩から抑えつけられて敢え無く腰が柔らかなソファに沈む。
しかも、その細腕からは想像もつかないほど力が強い。
「だーめだ、立つな。たーつな、座れ」
「リズム刻むな。わかったって、手ぇ出されたくないなら出さないから。手ぇ放して」
「よしよし。ちなみに苦手な物とか食べられないものはないか?」
「アレルギー的な? 特にないよ。苦手なのもない。割と雑食」
「じゃあ肉と魚だったらどっちがいい? 男の子だからやはり肉か? 肉なら朝仕込んだのがあるからすぐできるぞ」
「まあそうね。肉、食べたいね」
「よし、楽しみにしておれ!」
そう言ってユランは機嫌よく鼻歌を歌いながら料理を始めた。ちなみにエプロンも白いので、もう全身くまなく真っ白だ。
と、そこに部屋着に着替えたアレクシアが顔を見せる。無地の薄い藍色のシャツに、下は黒い緩めのロングパンツという出で立ち。アレクシアは入り口の壁に肩をもたれさせ、ハルマに短く声を掛ける。
「ハルマ、ちょっといい?」
「ん?」
「話あるから二階来てくれる?」
「あぁ、わかった」
アレクシアに連れられ、ご機嫌に料理中のユランを残し二人で二階へ上がる。
コの字型の階段を上がると、二階は一回と同じ程度の短い廊下があって、間取りは右に二部屋、左の奥に一部屋。アレクシアの追って左の部屋に入ると、内装からそこが彼女の部屋であることが察せられた。
こんなことを言うのもなんだが、殺風景な部屋だ。部屋にあるのは、彼女の背丈よりやや大きい寝具と、反対側に小さい机が一つ。あとは壁に内蔵されたクローゼットがあるだけで他に何もない。
アレクシアは机の椅子を移動させて晴馬に座るよう促した。
「ごめんね急に。ちょっとお願いがあって」
アレクシアは晴馬の前に立って少し決まりが悪そうな表情を作る。両手の指をそれぞれ合わせて何かを言いあぐねているのを見るに、頼みづらいことなのだろうか。
しばしの沈黙。十秒ほど経ってからだろうか。ようやく口を開いた。
「その……オリオンと話がしたいんだけど、その話をハルマには聞かれたくないの。だから、一旦翻訳魔法を解除して、それからオリオンと話したくて」
「なんだそんなことか。いいぞ。ん」
思っていたより普通のお願い事だった。ちょうどおあつらえ向けの姿勢だったので、そのまま頭を垂れてアレクシアへ向ける。
要求があまりにもすんなり受け入れたことに若干の戸惑いを見せつつも、アレクシアは両手を晴馬の頭に伸ばした。
「……ありがと。ごめんね、わがまま言って」
「全然わがままじゃないだろ。話が終わったら合図くれ」
「うん」
「オリオンは魔法解除されてから口開けよ」
アレクシアが晴馬のこめかみに触れ、魔法をかけた時と同じように貝紫色の粒子が頭の周りを漂い、やがて霧散する。
晴馬が瞑目すると、それをきっかけにオリオンが話し始めた。
「目を瞑るなんて少年は紳士だね。話って何かな?」
「オリオン、あなたは――」
それから二人が話していたのは、十分ほどだったと思う。
会話の内容はわからずとも、なんとなく雰囲気は伝わってくる。声の調子や声量。目を閉じていても感じるアレクシアの気配に、床から揺れとして伝わる彼女の激しい苛立ち。途中、胸倉あたりにアレクシアの手が触れる瞬間もあった。躊躇いが勝ったのか掴まれたりはしなかったものの、やはり二人の間には晴馬が思っていたよりも根の深い因縁があるようだった。
そうして時間が流れ、アレクシアの両手が再びこめかみに触れる。しばしして、「もういいよ」と声を掛けられた。
「終わった?」
問うと、アレクシアは寝具に腰を掛けて答えた。
「うん、ありがと。あとごめん」
「ごめんってなにが?」
何についての謝罪だろう、と晴馬は訊き返しながら逡巡する。時間を取らせたことへの「お手数おかけします」的な謝罪だろうか、などと漠然と考えていたが、どうやら違うようだった。
「途中で殴りそうになった」
「あぁ、胸倉掴みかけてたやつ? 殴ってないじゃん」
「そうだけどさ」
「やってないこと謝られてもなぁ。昼間のはちゃんと殴られたからちゃんとやり返しただけで」
言いながら件の光景を思い返す。
改めて考えてみると、女性の顔面に渾身の頭突きはいささか反撃として過剰だったのではなかろうか。晴馬は今更ながら冷や汗をかいた。出血、骨折、痣、いずれもなしなのでセーフだとは個人的に思っているのだが、たまたま彼女が頑丈だっただけで一般的にはまあアウト。正当防衛は不成立、告訴で有罪確定まで見えた。
内心の大慌てが表情にでも出ていたのか、アレクシアは控えめに笑う
「ごめんね、なんか私ずっと暗いし態度悪いよね。ちゃんと切り替えるから……少なくとも明日には」
少し無理をした様子で笑うアレクシア。
晴馬の中のオリオンが覚醒してからずっとこの調子だ。晴馬に対しては普通に接しようとしているのに、その奥にオリオンの影を見てしまって、どうしても気持ちの高ぶりを抑えられていない。
図書館で晴馬は「事情は後で聞く」と彼女に言った。
アレクシアのただならぬ様子から見ても、軽々しく踏み込んでいい話題ではないのは想像に難くない。ましてや晴馬は異世界の住人。極めつけの赤の他人だ。
だから、わざわざ訊くべきではないのかもしれない。
ただ、オリオンに対するこれまでの彼女の反応は、晴馬の目にすら単なる怒りには留まらないように映る。
表面的に見えるのは怒りであり憎悪。
しかし、その奥に潜む悲哀と諦観。あるいは、失望。
人を見る目には自信がある――と言えるほどの人生経験もない晴馬だが、彼女に関しては間違いないと思う。
「アレクシア、図書館で頭突きした時に言ったこと覚えてるか?」
「事情は後で聞く、だよね。わかってる、話さないといけないのは……わかってるんだけど」
「先に言っておくけど無理して話す必要はない。人に話し辛いことなのは見てれば分かるしな。会ったばっかりで俺に対して別に信用もないだろ?」
目を見て問うと、アレクシアは何も答えず目を逸らした。
さもありなん。彼女とは今日の昼間に出会ったばかりで、信用を積み重ねる時間などなかった。そもそも出会ってからいままでの間、世話焼きのユランが助けてくれると言っているだけでアレクシアは流されているだけなのだ。
晴馬は彼女とは別の方向に視線を移す。
窓の外に見える空は、夕焼けの鮮やかな色を失いながら夜の帳を降ろしていた。
明かりのついていない部屋に、晴馬とアレクシアが二人。薄暗さに包まれた中で、晴馬はもう一度アレクシアの顔を見た。
端正な造形に目を奪われることはない。
何故なら、その横顔に苦悩の影を見たからだ。
思い出されるのは、「大切な人を守れる人になれ」という母の言葉。
大切な人とは少し違うけれど、命の恩人である彼女の助けになりたいという気持ちは確かにあった。
何が出来るかはわからない。
そもそも自分は人探しが済めばこの世界から消える人間なのだから、何かをするだけ余計なお世話なのかもしれない。
それでも。
「でも、何かあるなら力になりたい」
アレクシアの視線が晴馬を捉える。顔は向けずに、あくまで視線だけ。
「どうして?」
「目の前でそんな顔されたらほっとけないからだ」
その問いに、晴馬は彼女の目を見ながらそう答えた。
誰かを助ける人になる。
誰かを救える人になる。
誰をも守れる人になる。
在りし日の母に教わり、そして亡き母の前で誓った、晴馬の人生を掛けた決意。
ここが異世界であろうとも、晴馬にとってはアレクシアも誰かの中の一人だ。
相変わらずアレクシアは晴馬の方を向かない。代わりに言葉を投げかけられた。
「たぶん、知っても何も変わらないと思うよ」
「わかってる。でも事情を知れば君のために何ができるかをちゃんと考えられる」
「……優しいね」
無表情のままそう言うと、アレクシアは晴馬の方を向かないままぽつぽつと話し始めた。
「いまではほとんどないけど、二十年前までは大陸各地で起こる内戦がかなり問題視されていたの。いまのディオスもそうだけど、当時から国を挙げて神を信仰するって風潮はとても強くて、それをよく思わない他の神が反政府組織を擁立して暴動を扇動するなんてことも珍しくなかった」
二十年前、当時の大陸内部の国では、かなりの数の内戦が勃発していた。
大陸は大きく分けると四分割される。海岸都市ディオスと広大な未開拓領域を擁する西部と、複数の国家が領地を構える起伏の無い平野の中央部、山脈と峡谷で隔てられた人口密集地である北部、そして大陸の十分の一にも及ぶ世界で最も広大な森林地帯のある東部だ。
中でも大陸中央諸国。現在に至るまでにおおよそ落ち着いたとされるものの、依然として北側は深刻な紛争地帯と化しており、終わりの見えない武力抗争が日々続いている状態だ。
「大陸中央にある国は特に酷くて、複数の反政府組織が同時に反乱を起こすせいでほとんど乱戦みたいになってた。市民への被害なんてお構いなし。誰がどれだけ死のうが誰も止まらないし何も終わらない。むしろ大義名分を得たと言わんばかりに内戦はどんどん激化していった」
まるで見てきたかのように語るアレクシア。かすかに目を細めて、表情に苦渋を滲ませる。
「本当に酷い時代だった。そんな中でオリオンともう一人、アルテミスという女神が現れた」
「オリオンを殺した女神だな」
アレクシアは小さく首肯する。
「彼らは当時一番酷い状況だったアルガスという国を訪れて、そこで難民の救済を始めた。結果から言ってしまうと、ほとんど意味なんてない行為だったけど。難民救済を続けていく中で、オリオンの中にある思想が芽生え始めた」
晴馬の中でオリオンの意識が疼くのを感じる。彼もこの話を聞いているはずだ。それでも口を挟まずに黙っているのは、殴られるのが怖いからだけではないだろう。
「神の権能の完全な排除。神が神として奉られている限りこの内戦は終わらない。ならば原因である神を人の身に降ろせばいい。彼はそう考えた……いいえ、違うわね。元々権能なんてない方が良いって思いはあって、救済活動がそれを過激化させたのよ。オリオンは神を見つけ出しては殺し、次々と権能を奪っていった。すべての神から権能を奪い、最後にアルテミスに自分を殺させることで、すべての権能を葬り去ろうとしたの」
「こいつが複数の権能を持っていた理由はそれか」
「結果だけ見れば、オリオンは内戦を終わらせた英雄。だけど神も人も区別なく大勢を殺した。ミュオン・セレネもその一人」
「肉親か……父親?」
「うん」
セレネはアレクシアの姓。内戦で父親を亡くしていることが、彼女がオリオンに対してああいう態度を取る原因というわけだ。
しかも、ただ内戦で親を失ったわけではない。いまの口ぶりからして、父親はオリオンの凶行に巻き込まれて亡くなったのだろう。ならばあれほどの怒りや憎悪が向けられることにも納得がいく。
アレクシアはようやく晴馬の方を向いて、まっすぐに目を見つめた。
その目を見ていると「これを聞いて、あなたはどうするの?」と、そう問いかけられているような気分になる。
内戦によって父親を亡くし、その上、死んだはずの仇が生き返って戻ってきた。
確かに彼女の言った通り、この話を知って何かが変わるわけではない。
でも、晴馬にとっては理解できない話ではなかった。
「……俺、昼間に母さんの話しただろ。子供助けて死んだって」
「うん」
「その助けた子供、奏音なんだよ」
「こっちに来る直前まで一緒にいた友達だよね」
「そう。同じマンションに住んでる奴でさ、ほとんど毎日顔合わせるんだ。いまでは同じバイト先で働けるくらいには関係も改善したけど、事故があってすぐの頃は顔を見るのも嫌だった。俺から母さんを奪ったって思ってたから」
晴馬は淡々と話す。アレクシアは無言でそれを聞いていた。
母を亡くしてからしばらくして、事故後、一ノ瀬奏音と初めて顔を合わせた。
よく覚えている。その日は朝からどんよりとした曇り空で、午後から雨が降ると気象予報士が言っていた。いつも使っていた傘が壊れていたから、父に借りた折り畳みの傘を持って家を出た。
一階に降りたマンションのエントランスで、見知った後ろ姿を見た。
一ノ瀬奏音とその母親。二人がこちらに気づいて唇を引き絞ったのを見て、晴馬は頭が真っ白になった。母を失ってからギリギリで保っていた何かが決壊して、頭も心もすべてが塗り潰されるような感覚だった。
気づけば持っていた折り畳み傘で奏音を殴ろうとしていて、父に止められていた。
止められたけど、晴馬は止まらなかった。
大粒の涙をいくつも流して、大声で喚きながら「お母さんを返せ」と何度も何度も叫んだ。遂には奏音も泣きだして、母親も辛そうに顔を歪めて、父は涙を堪えながら晴馬を抱きしめた。
その場にいた誰も悪くない。奏音だって被害者だ。
だけど母親の喪失は、子供が割り切るにはあまりにも大きな出来事だった。
父を一人にしないと誓った。嘘じゃない。
誰をも守ると誓った。それも嘘じゃない。
でも、母を失った悲しみを乗り越えられたわけでもない。
そのまま奏音を恨んでいられたならもっと単純な話だっただろう。
しかし、それでは駄目なのだ。
あんなのは完全な八つ当たりでしかない。
だから結局は、自分の中で気持ちにケリをつけるしかなかった。
怒りも憎悪も悲しみも、全部ひっくるめて向き合って、少しずつ。
そうして気持ちに整理をつける中で、晴馬と奏音の関係は徐々に元通りになっていった。一緒にいて笑顔でいられるし、お互い冗談や軽口を言い合える仲にもなった。
「俺と奏音の話じゃ状況が違うし、アレクシアがオリオンのことを許す必要はないと思う。でも自分の気持ちと向き合うのは大切なことだ。俺の場合はいつもそばに父さんがいて寄り添ってくれた。いなかったらたぶん、いまも奏音のこと恨んでたと思う」
「……」
「だから、せめて君がそんな辛い顔しなくてよくなるよう力になりたい。俺は赤の他人だし、余計なお世話かもしれないけど」
「ううん……そんなことないよ」
そう呟いた彼女の顔は、いまだ晴れないまま。
当然だ。俺にもこんなことがあったよ、と共感して晴れるような気持ちなら、彼女もここまで悩んでいない。
そうじゃないから晴馬も力になろうと思ったのだ。
と、扉の外から二人を呼ぶ掛け声が聞こえてきた。
「おーい! もう夕飯できるぞー!」
一階から響いてくるユランの声。晴馬が立ち上がって扉を開けると、かすかにスパイス系の香りが鼻孔を突いた。
少し沈んでしまった雰囲気を取っ払おうと、晴馬は努めて笑顔を作る。
「一人で抱えてたら潰れてしまいそうになることも、話を聞いてくれる相手がいるだけで気持ちは軽くなる」
「かもね。……話してちょっと落ち着いた気がする」
「それにユランもいるしな。親友と他人、話しやすい方にいつでも話せる最高の環境だ」
「私とユランが親友?」
苦笑しながらアレクシアが問い返す。まさか聞き返されるなんて微塵も想定していなかった晴馬はぎょっと表情を歪める。
「え、違うのか?」
「いや。違うっていうか、改めて言葉にされると違和感凄いなぁって」
そう言われ、あぁ、と晴馬は手を打つ。ついでに人差し指も伸ばす。
「なるほど照れね。わかる。絆とか愛みたいな大切なことほど、真正面から言葉にされるとなんかむず痒いよな」
「ハルマがまさにそういう人じゃん?」
「そうか? 言われてみたらそうかも……」
「そうだよ。ユランもそうだから」
晴馬の横を通り過ぎるアレクシアの横顔には、小さな笑みが浮かんでいた。
ほんの一瞬だったけれど、無理をして作った笑顔ではない。
自然とこぼれ出た彼女自身の本物の笑顔だ。
つられて晴馬の口角も上がる。続いて一階から女神の間延びした声が再び届いた。
「おおーい、まだかー?」
「いま行く。そうだ、ハルマは先に身体洗ってね。特に髪」
「あぁ、了解」
アレクシアに言われ、晴馬は前髪を摘まんで見る。血で掻き上げたせいで整髪剤を付けたように束になって固まっていた。そういえばカルロに上着を借りたので隠れているが、シャツも破れて血が付いたままだ。確かにこれで食事をとるのはお行儀が悪い。
アレクシアの後を追って一回に降り、晴馬は本日二度目にシャワーを浴びた。