5.その名はオリオン
「こんな形で蘇ることになるとはね」
傷口を抑えてべったりと血の付いた手で、晴馬は髪を掻き上げる。
いや、これは晴馬なのだろうか。
駆けつけてきた女性職員にカルロの避難を任せ、晴馬の隣へ駆けつける。
いま女神の目に映る壱夜晴馬の姿は、先ほどまでの彼と酷く乖離していた。
雰囲気、仕草、言葉遣い、そして目つき。長く生きていると短い時間でもそういう人の特徴がよく目に映る。
だから、これが演技ではないこともわかる。
別人だ。見た目だけ模倣した完全な別人。
慣れない身体に感覚を馴染ませるかのように手を何度も閉じたり開いたりする。そうして手を傷口にかざすと、手のひらの皮膚が蠍の形に変貌して、不快な水音を立てて傷口に入り込んだ。蠍は次第に皮膚の色と同化して肉体を補填する。
女神にはわかる。それがどういう類の力であるか。
体系化した魔法とは根本から異なる、現世の理を捻じ曲げる力。
人の身ならざる者のみが持つことを許された力。
これは神の権能だ。
神には神が分かる。だから晴馬が人なのは確かなのだ。なのに晴馬の身体を操る誰かは権能を使い、傷を治癒した。
女神の動揺が口をついて出る。
「おい、なにを」
「傷を治している。このままでは少年の身体が持たない」
「お前、ハルマか? その力は……」
「壱夜晴馬はこの身体の持ち主の名前だ。私はオリオン。君は……テティスか? 久しぶりだね。随分と様変わりしたように見えるが」
「……その名前を知っているということはクラウディアの言葉は本当か」
オリオンの権能を狙うクラウディアの言葉がいま真実として確定した。
彼は間違いなくオリオンだ。晴馬が知る由のない私の名前を知っている。ずっと前に捨てた、もう誰も知らないはずの名前を。
であれば、どうして晴馬の中にオリオンが。
神オリオンは二十年前、貞潔の女神アルテミスによって殺されている。彼女の権能によって魂魄すら残さず消滅しているはずなのだ。今日この世界に来たばかりのハルマはおろか、他の誰かの身体を依り代に出来るわけがない。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。最も危惧すべき事情を真っ先に問う。
「ハルマはどこだ。いなくなったなどと言うなよ」
「怖い顔だね。安心してくれ、乗っ取ったわけじゃない。彼の意識は眠っているよ。私は痛みを肩代わりするために一時的に表に出てきているだけだ。それから」
オリオンは壁の穴から外を見やる。幾多の戦乙女と対峙しているアレクシアの姿と、こちらに狙いを定めて跳躍の姿勢を取るクラウディアの姿があった。
地面を砕く勢いで跳んで来て、少女の顔が目と鼻の先に迫る。
「やあクラウディア。こうして言葉を交わすのは初めてだな」
「オリオン? 出てこれるの?」
「君が少年の腹を抉ってくれたおかげでね」
「変に動くから」
「関係ないね。この傷はただの人にとっては致命傷だ。だからこれは少年に代わって私からの『お返し』だよ」
クラウディアの頭にポンと手を置くオリオン。その行為に敵意を感じなかったから少女も甘んじて受け入れた。
「ん?」
「ちゃんと受け身は取るんだよ」
「わっ」
アレクシアの衝撃波とは違って、何かに引っ張られるような形でクラウディアは部屋の外に飛ばされる。
地面に落ちてゆっくりと立ち上がるクラウディアを眺める。
アレクシアは戦乙女の対処を終えていて、こちらを見ていた。遠くて表情の機微はよく見えないが、驚いているように見える。
「彼女とも話したかったが後だな。テティス。アレスとエニュオはどこだ。あの子がいるなら主人の二人もいるだろう」
「知るものか。ディオスに来ているのか?」
「アレスの神器も劣化キュドイモスの複製もあの子が使っているだけであの子自身の力じゃない。二人ともこの街にいるはずだ」
言いながら飛び降りようとするオリオンを女神は咄嗟に引き留める。
「待て! それは晴馬の身体だ、勝手な真似は許さんぞ!」
「出会ったばかりの少年をいやに気に掛けるじゃないか。いや、君はそういう奴だったか。では君も来てくれ」
「な、まてっ」
オリオンは強引に女神の腰を抱いて部屋の外に飛び出た。
地上七階。国立図書館という特殊な建物の構造上、三十メートル以上はある。
だが、オリオンはまるで子供用の小さな土台からひょいと飛び降りるような身軽さで着地した。
着地したのに離さないどころかより力を込めて抱き寄せてくるオリオン。その軽薄な笑顔に強く嫌悪感を抱き、女神は突き放すようにオリオンと距離を取る。
「触るなオリオン」
「相変わらずつれないなぁ。まあいいさ。彼女のことは頼んだよ。私はアレスたちを探す」
「だからやめろと言っている! それは晴馬の身体だ、お前の自由にしていい身体ではない!」
「二人の対処を怠ればいずれ少年に危害が及ぶ。それでもいいのかい?」
「……汚いぞ、オリオン」
「私も少年を巻き込むのは不本意なんだ。この世界に引きずり込まれてしまったのも本を正せば私が原因だからね。少年には責任を取らねばならない。この身体を守りたいというなら協力してくれ」
瞬間、神器による一閃がオリオンの首元を掠める。
オリオンは未来予知でもしていたかのように一瞥すらせずそれを躱し、神器の一部に軽く触れた。空間に固定されて動かなくなった神器に、クラウディアの小さな体は大きく振り回される。
宙ぶらりんになったクラウディアの頭をポンポンと撫でて、オリオンは柔らかな笑みを浮かべる。
「少年を守るのに出し惜しみするつもりはないが、かと言っていたずらに権能を消費したくはない。しばらくここで待っていてくれクラウディア」
「外せば動ける」
「おや?」
神器から身体をパージしてオリオンの身体に触れるクラウディア。
極彩色の粒子が噴出し、現れたるは茨の蔓を纏う両翼の女騎士。
「今度はエリスか。権能を魔法で複製するとは、エニュオも苦労をしているようだね。同じ境遇の身として少しは同情するよ」
流れるような足取りで後退しながらオリオンは言う。
しかし、すぐに騎士の腕から伸びてきた蔓に足と手を囚われ、オリオンは離れた分だけ引き寄せられた。女騎士の身体に蔓で巻き付けられて身動きが取れなくなる。
「複製と密着しても嬉しくないなぁ。せめて甲冑は脱いでくれないと」
「棘刺さると痛いから動かないでね」
「良い助言だね。ではそうしようかな」
そう言ったオリオンの視線はクラウディアの背後へ向けられている。
視線の先で、鮮やかな赤い髪が激しく揺れた。
アレクシアが衝撃波の反発を用いて亜音速で接近してきたのだ。その凄まじい勢いと速度に、彼女にまつわるすべての音がほんの数瞬、遅れて到達する。クラウディアの首根っこを掴んで思い切り放り投げると、投げた先には女神の姿があり、少女の身体を抱きとめた女神はがっしりつかんで離さない。
「わふっ」
「っと、動くなよクラウディア」
「ん」
無意味な抵抗はしない、とでも言わんばかりに黙って拘束されるクラウディア。相変わらず物分かりは良い。だからこそ厄介な子なのだが。
女神がアレクシアを見やると、女騎士の複製を破壊してオリオンを解放しているところだった。
しかし、安心したのも束の間。アレクシアはオリオンの胸倉を掴んで右の拳を顔面に叩きつけようとしている。女神は咄嗟に叫んだ。
「アレクシア、それはハルマの身体だ!」
寸でのところで拳が止まり、オリオンがそれを優しくどける。
「私を殴りたいのであれば身体を取り戻した後にしよう。少年を殴るのは駄目だ」
「やっぱりオリオンなのね……どうして」
いまにも溢れ出んとする怒りを理性という蓋で抑えつける。身体中がわなわなと震えてどうにも止みそうにない。それでも晴馬の身体を傷つけまいとするアレクシアの精神力は並大抵ではなかった。
しかし、オリオンの軽妙な態度が彼女の苛立ちを加速させる。
「生きているのかって? それを知って何になるんだい? 意味もないことを知ろうとするのは時間の無駄だよ」
「……っ!」
「おっと、煽るべきじゃなかったか? その調子だと君の理性の限界も近いね。少年の身体を傷つけられてしまうなぁ」
「いいから答えなさい。訳を話せば彼なら多分許してくれるわよ」
「君が少年の何を知っている? 君もテティスも会ったばかりの人間を信用しすぎじゃないか?」
「ッ!!」
アレクシアの右がオリオンの頬を強打する。
平均的成人女性の膂力とは思えないその一撃。オリオンの顔が辛苦に染まる。口の中が切れて血も出ているし、殴られた頬の皮も剥けていた。
「本当に殴るとは……しかも金属製の義手で。容赦ないな」
「次は頬骨砕くわよ――ぃだっ!」
アレクシアが短い悲鳴を上げて身体を仰け反らせる。そのままたたらを踏んで尻もちをついた。
突然、オリオンが頭突きを見舞ったのだ。
何故か頭突きをした側のオリオンも驚愕している。彼の意志に反して動いている右手が、拳を握ってオリオンの顔目掛けて飛んできた。
「ちょっと待った、これは私じゃないぞ。待て待て少年待ってくれ!」
かなり焦った声音で懇願するオリオンは、己の拳に殴られてバランスを崩し転倒した。
「オリオン、なにを……?」
突然の奇行に女神が困惑を露わにする。抱かれているクラウディアも首を傾げるほどだ。
「人の身体勝手に使ってんじゃねぇぞタコスケぇ……!」
「待ってくれ少年、君一体いつから起きて、というか傷を治さないと痛みが君に来るぞがっ!」
「知るか身体返せボケカスぅ!」
「ちょっと待って少年んんぐはっ!」
どうやら先程の奇行は、晴馬の人格がオリオンの支配に抗った結果らしい。
一人漫才のように同じ身体の同じ口を使ってやり取りをするオリオンと晴馬。己の身体だというのに晴馬はオリオンを痛めつけるのに躊躇いがない。痛みがない故のことかもしれないが、それにしても殴りすぎだった。もう鼻血まで出ている。
「痛い待って、傷治すから、治したら返すから」
「とっととやれ鼻骨か頬骨折るぞゴミムシ!」
「君の身体だろう!?」
自分で自分を脅してそれに怯えている姿は如何とも言い難い光景だった。
オリオンは小指の先ほどの小さい蠍を何匹か生み出し、顔の傷を治癒する。その後すぐに身体がぐらりと揺れて晴馬の人格が表に出てくる。
「ぉぉぉお……傷治っても痛ぇじゃねえか……ぐぉお」
「だから言っただろう」
「人の口使って喋んな、つか出てけボケクソ」
地面に座り込んだまま顔を抑えて悪態をつく晴馬。痛みやらストレスやらで普段の晴馬からは考えられないほど口も悪い。罵詈雑言の嵐だ。
「口は一つしかないのだから仕方がないだろう。それから出て行くことはできない。少なくともいますぐにはね」
「じゃあ許可するまで喋んな」
「であれば許可申請は常にしておくよ。さっそくいいかい?」
「駄目だ」
無慈悲にオリオンを黙らせた晴馬は痛む腹を抑えながら立ち上がる。
正面で尻もちをついたまま鼻頭を抑えているアレクシアに手を差し出す。鼻血は出ていないが鼻骨を直撃したようで相当痛いらしい。目尻に涙を湛えている姿を見て視線を逸らし、自分でも少し素っ気ないと思う態度で言う。
「とりあえずお互い一発ずつでチャラな。事情は後で聞く」
「う、うん……」
意識がオリオンから晴馬に代わったためか、アレクシアもついさっきまでの剣幕は鳴りを潜めて素直に返事をする。
さて、問題はあの少女だ。
晴馬は女神に抱かれたまま大人しくしているクラウディアを見やった。
こちらを見たまま動かない少女は、抱えられている姿も相まって等身大の人形のように見える。
対面すると自然と目が合うが、向こうから何か言ってくるでもなく、晴馬も何と言っていいやら分からないで無言の時が流れた。
そこに助け船を出してくれたのは女神だった。
「ハルマ、腹の傷は大丈夫か?」
「あぁ……まあ痛いけど騒ぐほどじゃないってくらい。おおむね平気だよ。ってか顔のが痛い。自業自得だけど」
「そうか。状況はわかってるか?」
「出てこれなかったけど聞こえてたから大体は。アレスとエニュオって奴がこの子を使ってオリオンって奴を狙ってるっぽくて、オリオンは何故か俺の中にいるっぽい。言ってみたけどさっぱり意味はわからん!」
オリオンやクラウディアの発言からなんとなく状況を整理してみた晴馬。
しかし理解できるのは、どうやら自分は知らない四人の争いに理不尽に巻き込まれているらしい、ということくらい。訳が分からなすぎる上、全身の痛み由来の苛立ちも相まって、困惑を通り越してだいぶ吹っ切れた振る舞いになっている。
良くないテンションの昂ぶりを見せる晴馬にユランは若干圧倒される。
「そうか……なにか変だと思ったらすぐに言うのだぞ。街一番の名医を知っている」
「おう、ありがとな! ……で、君はクラウディアでいいんだよな」
「そう」
クラウディアと視線の高さを合わせ、睨むように見つめる晴馬。腕を組み、少しでも威圧感が出るように声音も変える。
「いろいろ訊きたいことはあるけどまず先に言っておくことがある」
「なに?」
「腹抉られるようなことした覚えはねぇぞ」
「ごめんなさい」
「……うむ」
普通に謝られてしまって言葉に詰まる晴馬。そして表情は変わらないながらもちゃんと謝れる良い子偉い子クラウディア。いや、建造物を不当に破壊したり、人を拉致しようとしたり、事故とはいえ結果として人の腹を抉ったりしている時点で良い子でも偉い子でもない。
ないのだが、落ち着いた状態で対面するとわかるこの感覚。
少女自身からはこれっぽっちも敵意を感じない。
それどころかこちらを心配しているような素振りすらある。晴馬の脇腹をじっと凝視して、注視してようやくわかるほどほんの微かに目端を萎ませた。
本当ならちゃんと叱責なり詰問なりすべきなのだろう。
しかし現代社会出身の健康優良男児こと壱夜晴馬はいまだ十代後半の若造である。生活の中で誰かを怒るより、誰かに怒られる機会の方がはるかに多い。その上、謝られてしまうと僅かな気さえもゴリゴリと削がれてしまう。晴馬は典型的な叱れない若者だった。
「ああもういいや。気にしねぇ!」
「みなさぁん!」
声がした方を見ると、図書館の入り口方面に女性職員の姿があった。
小走りで駆け寄ってくる彼女の方を振り返る。おそらく顔見知りなのであろうユランが職員の名を呼んだ。
「エイレア。中の方は大丈夫だったか?」
「いま職員総出で確認中ですが、ひとまず大丈夫です。倒壊の恐れもありません。じきに警察も来ます、とりあえずみなさんもこちらへ」
案内に従って移動を始めると、視界の端で何かが起こった。
オリオンによって空中に固定され、いまのいままでそのままだった神器が何の前触れもなく切り取ったように消えたのだ。
晴馬がそれに気づいて神器があった場所に視線を向けると、口が勝手に動き出す。オリオンの意志だ。
「アレスの権能だね。転移だ。次はクラウディアかな」
許諾を取らず喋ったことを諫めている暇はない。
相変わらず女神に抱かれたままのクラウディアを見ると、少女は自分の手の平をじっと見つめていた。そして顔を上げて晴馬を見ると、「呼ばれてる」と短く告げる。
「マジかよ……次は本人が来るように言っとけ!」
「わかった」
そう言い残して少女は音もなく消えた。
まだ聞きたいことは色々とあったのに、と晴馬は深く溜息を吐く。方法はさておき、絶妙な転移のタイミング的にもアレスとエニュオはこちらのやり取りをリアルタイムで把握しているようだ。一旦諦めるしかない。
いまの出来事に、人一倍驚いているエイレアに連れられ、一行は室内へと移動した。