23.なぜ生きるのか
丘下には交戦中のアレクシアとアレスの姿があった
二人が争った跡には何も残っていない。あったはずの村の残骸すら。互いに撃ち合う攻撃や魔法の余波がすべてを塵に変えている。それがどれほど怪奇な光景なのか例を挙げれば、今し方、アレスが顕現させて放った無銘の槍をアレクシアの圧縮衝撃波が粉砕した。金属なのにまるで水で固めた砂のような脆さだ。
これに安易に割って入ろうものなら、瞬く間に槍の二の舞となるだろう。
最初にアレスへ飛び掛かった時と比べて、アレクシアは冷静を保って戦っている。動きをすべて見切っているかのように攻撃の出掛かりを的確に潰し、アレスの攻勢の間隙を縫って己の魔法だけを的確に通している。
アレスの兵装は既にただの破れた布と化しており、傷と血に塗れた肉体が露わになっている。獰猛な笑みを張り付けた悍ましい表情に、耳朶に響く不快な狂声。相も変わらずイカれた男神だ。
「小娘ェ! 貴様を侮っていたことを詫びねばなるまいな! 皮膚を突き破って噴出せんほどのその憎悪と憤怒、実に甘美な味だァ!」
「規定詠唱、月の矢」
アレクシアが腕を振りかぶると、貝紫色の粒子が手元に揺らぎ、生み出された光弾がぐんと伸びてアレスを狙い突き進んでいく。
それを片手で受け止めたアレスを、しかし二撃、三撃と絶え間なく光の矢が襲う。軌道が逸れて地面に当たった場所を見れば、小さなクレーターが作り出されている。それが合計三十発近く降り注いだのだ。もはや機銃の掃射に等しい。
それだけの破壊力を一身に受け、それでもアレスは荒々しく嗤う。
「溜めもなくこの威力……規定詠唱とやら、単なる魔法の貯蔵かと思えば凄まじいではないか!」
そう雄叫び、アレスは無銘の槍を計三条、形成する。一条を投げ、二条を携えると、そのまま前進すると見せかけてアレクシアの背後に転移し穂先を向けた。が、不発。転移先を読まれ、アレス自身が衝撃波を受けて大きく後方へ吹き飛び、投げた槍は頑丈な義手を使って無理やり拿捕された。
ここまで完璧な対応をされると、もはや反射神経だとか、動きを読んでいるだとか、思考の癖を読んでいるだとか、そういうレベルの話ではない。未来予知の領域に達している。事前に問題と模範解答を見て、頭に叩き込んでいるようなものだ。
アレスが気になっているのは、アレクシアの耳元にかすかに漂う貝紫色の粒子。おそらくあれが未来予知並みの動きを可能にしている魔法なのだろう。エニュオと比べて魔法には疎く、そのため原理も作用も見ただけではわからぬが、経験則が事実であると告げていた。
アレクシアは槍を構え、「規定詠唱、宵闇の矢」と呟く。
そしてその名を体現する暗夜のような光が、槍を闇に満たした。
本来、拡散するはずのセフィラを槍に宿し、それを放つのだ。
アレスは全身の毛が逆立つ感覚に見舞われた。
直感する。あれは喰らえない。喰らってはならない。喰らえば最期、神の中でも一際頑強な軍神の身体ですら塵一つ残すまい。
すべてのエネルギーが槍に収束し、速度は光速を超え神速へ。
風も音もすべて置き去りした槍はアレスの影を優に過ぎると、男神の背後にあった小丘を丸ごと吹き飛ばした。立ち上った土煙も遅れて広がる衝撃波によって一挙にかき消される。
アレスは、健在だ。しかし、肩から先の右腕を失った状態で。
「ハ、ハハハハッ! 間一髪の転移だったぞ……腕一つで済んだのは僥倖だなッ!」
「規定詠唱、黄金の矢」
「ヌフハハハッ、良いぞ小娘! そうだ、それこそ正しい人のあるべき姿だ! もっと苛烈に怒れ、猛れ、滾れ! けしてその手を休めるなァ!」
アレスは向かい来る金色の矢を、大地を踏みしめ、昇竜が如き拳で真上に弾いた。同時に、失った右には金属の腕を形成。転移でもってアレクシアに肉薄し、材質に物言わせた破壊力特化の振り下ろしを見舞う。
それを紙一枚ほどの間を空けて躱し、アレクシアは振り下ろされた腕に対して衝撃波を放つ。おかげで勢い余って地面まで腕を降ろし、体勢を大きく崩したアレス。ちょうど掴みやすい位置にまで落ちた彼の頭を鷲掴み、目を合わせる。
「お前は殺す。報いだと思え」
転移のインターバルは空けていない。故に回避の余地はない。
アレクシアの義手から放たれるのは紺青色の粒子。
本来はありえない二つ目の色。
これより顕現するのは、貞潔の女神の権能『消滅』。
それをいままさに使おうとしているアレクシアでさえ、この力が何故我が身に宿っているのか知らないし、わからない。が、どうやら突き抜けた怒りを感じた時に限り、堰を切るような形でならば行使できると直感で理解していた。
それだけわかっているならば、理由など要らない。
これ以上この男神が晴馬や他の誰か傷つける前に、いまここで滅する。
権能が解き放たれる寸前に粒子が揺らぎ、手の平に向かって収束する。
先程とは違った意味で――否、先程よりもより色濃い直感がアレスの思考を埋め尽くす。
「――アレスっ!」
権能が解き放たれた瞬間、ほぼ同時に、跳んできたクラウディアの操る神器の一脚がアレクシアの義手を薙いだ。権能は軌道が逸れ、神器とアレスの顔の一部を削り取って背後の地面を穿つ。
ユランとの戦闘を中断してまですっ飛んできたクラウディアは、脚を一つ失った結果、勢いを殺しきれずに地面を何度も跳ねるように転がった。ユランが相当気を使って立ち回っていたのか、傷どころか汚れ一つ負っていなかった少女は、あっという間に土に塗れてしまう。
少女の尽力も空しく、アレスは力なく背中から斃れた。だというのに、いまだに息はある。神どころか生物の枠を超えているとしか思えぬ生命力だ。しかし、この生命力こそアレスが史上で最も恐れられる神である所以。屍然となった姿で向かってくる姿を人は恐れたのだ。
アレクシアはトドメの粒子を義手に収束させ、アレスの頭部を目掛けて放つ。
が、再度クラウディアに防がれた。分離して射出された脚が義手を弾いたのだ。アレクシアの怒りは、立ち上がろうと地に手を突くクラウディアにそのまま向けられた。
「邪魔をするなら貴女も消すわよクラウディア」
刺すような冷たい声音。もしも向かってくるならたとえお前でも容赦なく殺すと告げている。クラウディアとアレクシアの実力はほぼ同等で、実際に戦えばクラウディアが優勢を取る。そういう力関係だ。しかし、いまこの状況下においては彼我の実力差など覆っている。差も開いている。戦闘という体すら取れず少女は塵となるだろう。
なにより、アレクシアの言葉には一切の余白がない。冗談でも脅しでもなく本気で殺すつもりだ。これほど純度の高い殺意を、クラウディアはアレクシアから感じたことなどただの一度たりともない。
過去、ディオスで起きた事件をきっかけに出会った二人は、それ以来、事実上の対立関係にあり、何度も戦っている。そんな敵であるはずのクラウディアから見てさえ、彼女はぶっきらぼうだが優しい人間であるように見えたのだ。
どう考えても、いまの彼女は正常ではない。
クラウディアは痛みを無視し、残る二つの脚で身体を持ち上げた。
「そう……――規定詠唱、月の矢」
光の塊から幾叉にも分かれた光の矢がクラウディアを追尾する。神器の機動力で躱せるものの物量が凄まじい。地面を抉って立ち上る土煙で視界も悪くなり、クラウディアは瞬く間に被弾した。
爆風と共に地面に打ち付けられ、衝撃で神器が外れる。エニュオから与えられていた盾の乙女がなければ間違いなく死んでいただろう。
なおもアレクシアの追撃は止むことなく降り注ぐ。方位を問わず攻撃され、その場に縫い付けられるように追い込まれていく。遂に盾の乙女のストックも底が付き、あわや直撃といったところでユランが割って入りクラウディアを救った。
「何をしているアレクシア!」
「アレスはここで確実に殺す! 庇い立てするならクラウディアだって例外じゃない。可能性の芽はすべて虱潰す」
「違えるな、我らの目的は権能の奪取と無力化だ! 殺すことではないぞ!」
「アレスは殺さないと止まらない!」
アレクシアは裂帛の叫びを上げると、いまだ同じ姿勢で斃れたままのアレスを見やった。ユランがクラウディアを抑えるのであれば取り立てて構う必要はない。アレスに近づき、紺青色の粒子を蓄える。
今度こそ邪魔はない。と、油断するほどアレクシアは愚鈍ではない。空を割いて近づいてくる何かへ視線と義手を向ける。しかし『消滅』が放たれることはない。飛んできた何かがまさに彼女が守らんと決めた少年だったからだ。
「んな……っ!」
慌てて腕を逸らし、少年の身体を受け止める姿勢を取る。頭部を打ち付けてはならないと抱え込むように少年を抱きしめ、自分の身体をクッション代わりにして地面を転がる。腕の中で呻く少年は頭から血を流していて、意識はあるものの朦朧としており、すぐに受け答えが出来るような状態ではない。
その姿を見てアレクシアは半ば恐慌状態に陥った。「なんでなんで」とうわごとのように呟く。それでもなすべきことをなせる程度には冷静でもあった。地面の小石を払い、ゆっくりと横たわらせ、わなわなと震える手で枝垂れた髪を除けて出血元を確認すると、傷があったであろう場所に小指の先ほどの治癒痕を見た。
腹や左腕と同じ歪な凹凸。蠍の権能で治しているということはオリオンの意識は健在のはずだ。だというのに何故こんなことになっている。
認めたくなどないが、過去、数多の神を相手に戦いを仕掛け、時に一対多になることもあった中、ほとんどの場合において一方的に葬り去ってきたのがオリオンだ。巷では戦争を終わらせた英雄とすら呼ばれている。まともに戦えばエニュオなんぞに後れを取るわけがない。
仮に後れを取るとするならば、考えられる可能性は一つ。
エニュオが複製ではない権能を行使した場合のみ――
その時、ズズズ、と。
地面の上を何か引きずるような音がした。
ふと、音の方を見やり、そこにいたのは、己の身体を蔓でもって両翼の女騎士エリスに縛り付けたエニュオの姿。血涙、鼻血、吐血、赤に染まった極彩色の長髪、そして四肢の裂傷。凄惨な身姿から思うに、すでに自力で動くことは叶わないのだろう。
幾多もの蔓で身を縛り上げ、己の身体を浮かせるその様は、まるで神器に身を揺られるクラウディアを準えているかのよう。
アレクシアは即座に魔法を放とうとした。アレクシアの魔法『規定詠唱』は、あらかじめ用意しておいた魔法を待機状態でストックしておくという一種の遅延魔法。事前準備の長さや、セフィラを常に待機状態にしておくことによる負荷がある為、普段はめったに使わない。しかしそれ故に、軍神さえ目を見張る強力な魔法だ。
宵闇の矢。十分溜めて放てば厚さ七百ミリの鉄板も易々貫く、アレスの片腕を奪った破壊力特化の魔法。
しかし、エニュオの様子を見て、アレクシアは動きを止めた。
エニュオが顕現させている権能がエリスだけではないからだ。
戦いに特化している為に、好んで扱うキュドイモスと盾の乙女。さらにはアレクシアも初めて見る精鋭がエリスを含めて全部で十二体。どれもが女型だ。その特徴的な構成と数を見て、それがエニュオの権能『乱戦』の全顕現であることを悟った。
女神エニュオは権能の直接行使をしない。何故ならば己の権能は他のものと違い有限であり、何かの拍子に失われでもすれば、金輪際二度とは再現できなくなるからだ。それ故にエニュオは長い時間を掛けてセフィラという物質について学び、独自に魔法の開発を進め、その結果、この世に存在するのであれば物を問わず複製できるという常軌を逸した魔法を生み出した。
だからこそ『複製』を介さず、彼女が直接権能を行使しているいまこの状況は、異常なのである。
「――」
おそらく本人の意志ですらない、言われてもそれを声として認識できない音がエニュオの喉から発せられた。すると十二の権能の内、盾の乙女を含む四体が呆然と立ち尽くすユランとクラウディアへ向かう。
ユランは十分な反撃が出来ないとみるや、クラウディアの保護を優先した。「外せ」と短く指示を出し、神器を分離させると少女を抱えて地面を蹴る。四体の権能はユランたちがいた場所で減速すると、緩慢な動きでぐるりと旋回し、急加速した。
距離を離そうと大きく跳んだ為、ユランたちはいまだ空中にいる。このままでは着地までに追いつかれてしまうと、ユランは腰の水筒から水を操り出し、弾丸に変えて放った。着地までのわずかな間、動きを封じられればと思ったのだ。
しかし女神の思惑は儚くも破れる。権能が舞い踊ったかと思えば、それぞれが獲物を振るい、側面からの接触でもって水の弾丸の勢いを相殺したのだ。そのまま勢い衰えることなくユランたちをめがけて突貫する権能は、空中で女神らを取り囲むと、着地と同時に姿を変容させ、二人を飲み込んでドーム状の小さな要塞と化した。
たった十秒足らずの出来事。が、エニュオの意図は十分理解できた。
彼女はユランを狙ったのではなくクラウディアを保護したのだ。
となれば、次に狙ってくるのはアレクシアだ。というかそもそももうアレクシアしか残っていない。
「規定詠しょ」
魔法を最後まで詠唱できず、アレクシアは口籠る。何かが口内を満たす感覚、というか猿轡のような形で鼻下から首に掛けて覆われたのだ。気づけばアレクシアの背後に『乱戦』の一体、物々しいマスクで口を覆った盲目の乙女ロゴスが控えている。
アレクシアにとっては初めて見る権能だ。察するに言葉を奪う権能なのだろう。呼吸は普通に出来るのに、言葉はおろか咳をしても音すら出ない。本来の用途は戦場において情報伝達を封じるものだろうか。おそらく『規定詠唱』が音の精霊を介して発動する魔法だと気づき、アレクシアと精霊との繋がりを物理的に断ったのだ。
ならばと、衝撃波でもってロゴスを粉砕しようとしたアレクシアだが、容易く弾かれてしまう。
その苛立ちは、声の代わりに露骨に顔に出た。
複製されたものはその性能や強度がオリジナルに比べて幾らか劣る。わずかな溜めの衝撃波で粉砕できていたキュドイモスを始め、たとえばパナケイアの権能などは本来生きてさえいればどんな傷も病気も完治させるものだが、複製したものではせいぜい身体に空いた穴を塞ぐ程度の性能にまで落ちる。
その劣化が生じていない本来の権能が、まさにこれなのだ。
おそらく最大まで溜めた上、一点集中特化の衝撃波でもなければ打ち砕けない。
そして、なによりこの現状。晴馬を守りながらの戦いを強いられるアレクシアに、エニュオがその隙を与えてくれるとは思えなかった。
幸いと言うべきか、エニュオはアレクシアの動きに適宜対応を取る構えだ。こちらが動かない限り向こうも動かない。出方を見るというより、力任せに押し切る為の体力がもうないのだろう。
と、エニュオを見据えるアレクシアの胸に何かが当たる。見れば、それが弱々しく掲げられた晴馬の手であることが分かった。朦朧としていた意識が回復し、こちらを見ている。
「アレクシア……」
アレクシアは、「大丈夫?」と声を掛けたが、しかし声には出なかった。それでも彼女の必死な表情で意図は伝わったのか、晴馬はにやりと笑って見せた。
「大丈夫だよ」
晴馬はアレクシアの助力を得て身体を起こす。車酔いか、あるいは寝起きの傍のような眩暈はだいぶ収まっている。問題はエニュオによってつけられた傷だが、頭に触れた感覚からしてオリオンがすでに塞いだようだ。
「あれで動けるとは思わなんだ……他の奴らは?」
言いながら、晴馬は周囲を見渡す。まず目に入ったのは頭部が一部欠損したアレスの屍。実際には生きているらしいが、ここからではそうは見えない。次に奇妙な形のドーム。あれは何かと訴えると、「ユラン、クラウディア」と声がなくとも分かる単語で返ってきた。
こうして晴馬も戦況を正しく認識する。
「とりあえずイコルで血を戻さないと。あんな状態で動き回ってたらすぐに死ぬ」
「……」
「見殺すってか。まぁ、そうしたい気持ちは理解できるけどな」
晴馬は覚束ない足取りでアレスの近くまで歩む。
確かに虫の息以下ではあるが生きていた。正直、見るに堪えない姿ではあるが、晴馬は腹を決めてぐっと堪え、傍らに膝をついて男神の胸元に手を当てた。身体の主導権をオリオンに渡すと、手の平が磁石で引き寄せられたかのような感覚を帯びる。次第にその感覚はなくなり「終わったか」と問うとぴくりと親指が動いた。次いで損壊した頭部に手をかざし、蠍の権能で傷を癒す。
その間、アレクシアは物を言いたそうな顔をしていたが何も言わなかった。
権能の奪取は完了。傷も癒し命も繋いだ。できれば身動きを封じておきたいが、用意しておいた拘束具は野営地にある。アレス相手にはあまり意味はないが、ひとまず念のためにイコルを発動できるよう権能を付与しておいた。そこまでしてようやく晴馬は立ち上がる。
晴馬はアレクシアを振り返って手を取った。
背丈がほとんど変わらない二人は普通にしていれば自然と目が合う。が、いまは彼女が目を伏してしまっていて、視線が交わることはなかった。
「殺そうとしたのは俺の為だろ」
彼女の手に力が入る。晴馬はそれ以上の力で、しかし優しく握り返した。
「でもな、こいつとエニュオはクラウディアの親だ。殺してハイ終わりなんて、それだけは絶対にしちゃいけない。そもそも親を奪われたクラウディアが復讐に目覚める可能性だってある。そうなれば元の木阿弥だ」
アレクシアの口元を覆っていた見えない何かが消え、震える吐息が漏れる。ロゴスの活動限界というわけではないようだ。さっきからそうだが、いまのエニュオにはどうやら積極的交戦の意志が無いように見受けられる。
晴馬はエニュオを見ながら、掛ける言葉はアレクシアへ向けて語る。
「エニュオと戦ってる時、苛立たせようとして「お前はクラウディアを愛してなんかいない」って言ったんだ。別に本気じゃなかったけど、やっぱり間違いだったな」
血をまるごと抜かれて動けないどころか意識を保つのもままならないはずなのに、エニュオはクラウディアを守るために動いた。それも永久に権能を失うリスクを背負ってまで。
その源泉にあるのは紛う方なき『愛』だ。
己が身を賭してまでも、誰かを守ろうという気持ち。
晴馬はアレクシアの顎に手を添えて、視線を上げさせた。
「誰かを守ろうって気持ちは単なる使命感じゃ成り立たない。人が人を想う気持ちが力になるんだ。別にそれが憎しみや殺意であっても構わない。でも俺はどうせ想うなら愛情がいいと思う。で、アレクシアにもそうあってほしい」
アレクシアは頬を震わせ、目尻に涙を蓄えた。やがて決壊しつーっと涙が零れると、堪えていたものが溢れたように泣きじゃくって思いの丈を吐き出した。
「……わかんないの。ずっとオリオンを憎んでたから、死んでるはずなのに生きてるって言われて、それから頭の中がぐちゃぐちゃでっ、同じ思いを味合わせたい、傷つけてやりたい、殺したい、そういう気持ちがずっと湧いてきて止まんなくて、でもそれをどこに誰にどうやってぶつければいいのかも……わかんないの……っ!」
アレクシアの切な叫びは、晴馬の胸を強く締め付けた。
仮に彼女が抱えている気持ちを復讐という形で素直にオリオンにぶつけられたのなら、ここまで思い悩むこともなかっただろう。しかし現実は非情で、オリオンは晴馬の中におり、その晴馬はアレクシアにとってはすでに我が身以上に大切な人だ。害するなんてできないし、それ故に湧き上がってくる黒い情動を抑え込むしかなかった。
晴馬は彼女の手を放し、代わりに両頬を包み込むように手を宛がった。親指で零れる涙をそっと拭い、にかりと小さく笑って見せる。
「んなもん抱え込まなくていい、遠慮なく俺にぶつけろ」
「でも、こんなの……」
「でもじゃない。俺がいいって言ってんだからいーの。そもそもアレクシアは我慢しすぎなんだ。少しは人に甘えること覚えねぇと」
晴馬はアレクシアの頭をわしゃわしゃと撫でる。
きっと、オリオンのことだけではない。大人としての矜持や倫理観、あるいは善悪の狭間で揺れ動く感情と意志、もしくは社会性なんかもそうだろう。そういうものをすべてひっくるめて抱え込んで手放せなくなっている。ならば多少強引にでも彼女から取り上げるべきなのだ。
どうせこう言っても、向こうから甘えることなどないだろう。
だからこうやってこちらから甘やかす。よーしよしよしよしと、さながら子犬を愛でるように。そうでなければ七つも上の成人女性の頭をこうも無造作に撫でなどしない。あまつさえ血液付きの手で。普通なら極刑ものである。
「さて……なんか静かにしてるが、いつまでも放っておいたら死んじまうな」
晴馬はアレクシアから離れ、エニュオの方へ向かって歩む。
一歩踏み出すと地面から蔓が伸びて晴馬を捉えた。抵抗はしない。晴馬は両手を上げて見せ、交戦の意はないことを伝える。
「アレスの権能は奪った。もうお前たちと戦う理由はない」
言ってみたものの、蔓の締め上げは徐々に強くなる。晴馬は顔をしかめ、さらに声量を上げて言う。
「そのままだと死ぬぞ! クラウディアを残して逝くつもりか!」
「――」
蔓がわずかながら緩む。まるで後ろ髪引くように足に絡んでくるが、それも足止めになるほどではない。
生気を失い胡乱な目をした女神。
晴馬は剝き出しになった肩に触れ、イコルで血液を元に戻す。出した血をそのまま戻すわけではないから多大な負担を強いるだろうが、神の身体なら耐えられるはずだ。
しばしして、女神が強く咳き込む。
同時に権能が解け、エニュオの身体は自重を支えられなくなり倒れ込む。自然と晴馬が受け止める形となり、正面から支えたままゆっくりと膝を突かせた。
そして権能が解けたということは、ユランとクラウディアを守っていたドームも消え去ったということだ。晴馬の視界の端、血相を変えたクラウディアが走って来るのが見え、エニュオの首に腕を回してひしと抱き着く。
「エニュオ!」
「……く、ぁ」
エニュオは呂律が回っていないながらも少女の名を呼ぼうと声を絞り出した。
晴馬は支える役目をクラウディアに代わり、二人からそっと身体を離す。
気が付けば、クラウディアは涙を流していた。込み上げてくる涙のせいで上手く呼吸が出来ない。
でも、そのおかげで今まで言えなかったことが口を突いて出る。
「わたし、普通に暮らしたい……人を傷つけるのも、殺すのも、好きじゃない、からっ! エニュオはそうじゃないって、わかってるけど! わたしが死ぬまででいいからっ!」
「……っ!」
まだ小さな腕がエニュオを強く抱きしめ、泣いて震える声が耳朶を叩く。
エニュオとクラウディアは公的には義理の親子ですらない。
戦火に見舞われた街で瓦礫に押し潰されそうになっていたところを、たまたまエニュオの放った魔法が救った時から、この奇妙な親子関係は始まっている。
女神は少女の白さに。
少女は女神が差し伸べた手に。
ゆえに女神は無窮の愛を与え、少女は女神の喜ぶ顔を求めた。
互いが交わることがない世界にいると気づいていながら、けして離れなかった。離れたくなかったから、こうして気持ちがすれ違って、拗れてしまった。
晴馬はふうと一息ついて言う。
「……お前にとってはクラウディアと一緒にいることが最優先なんだろ」
エニュオはそれに答える代わりにクラウディアの背に腕を回した。
誰に何を言われようが死んでも離すまいと、互いが互いを求め合う。
たとえ傍目には歪んで見えたとしても、二人にとってはそれが本来あるべき正しい姿なのだ。
晴馬は脱力して息を吐いた。気が付けばアレクシアとユランも近くに来ている。
「だったらそうしろ。人を甚振るとか、そういう悪趣味なことはもうやめるんだな」




