18.明くる日までに
十日の入院生活を終えて退院した晴馬は、その足で役所へと赴いて戸籍登録に必要な各種申請を行った。身元を保証するものは何もなかったが、ラグナが提案した難民設定と国家の象徴であるユランからの口添えを得られた為、数日に及ぶ審査を要しはしたものの無事に戸籍を得られた。権力とは斯くや。
異世界に迷い込んでおよそ二週間。
こうして晴れて壱夜晴馬は正式にディオス共和国の国民となった。
とはいえ、公的に市民権を得たというだけなので状況が大きく好転したというわけではない。渡航文書の発行にはさらに二週間ほど掛かり、仮にいますぐディオスを発ってヘルメスに会いに行こうとしても、飼い鳥であるヘルマの帰還が遅れているので所在地が未だ不明なのだ。
アレスやエニュオからの接触も途絶えており、こちらについても所在が掴めず打つ手なし。ユラン曰く、全身を炭化寸前まで焼かれたのであれば、神の肉体と治癒力でも再生に最低一か月は掛かると。
晴馬も己の身を持って体験したことではあるが、改めて神という存在の特異性を思い知らされる。人と同じなのはあくまで見た目だけ。が、ユランは「奴だからだ」と言っていたので、何らかの事情があってアレスの耐久力がおかしいだけの可能性は高い。
そんな神を相手に直接ではないにせよ啖呵を切った晴馬は、アレス完治までの推定期間を指折り数えながら呟く。
「一か月って言うと、あと二週間くらいか」
役所を後にし、近くにあったオープンテラスの喫茶店に入った晴馬たち。ユランとアレクシア、それからヘルメスと接触する唯一の懸け橋であるラグナの四人で一番端の席を陣取っていた。
珈琲をスプーンでくるくる湯がきながらユランは眉根を寄せる。
「あの様子ではアレスの身体が治ればすぐにでも仕掛けてくるだろう。今度は我が直々に迎え撃つということを承知でな」
「ちょーっと質問。ユランってあの二人より強いの?」
正面に座るユランに唐突な質問を投げる晴馬。
アレスたちが彼女を警戒する理由は、神事情に極めて疎い晴馬でもいくつか思いつく。
例えば、ユランがディオスの守護者たる女神であるという点。
彼女との敵対はすなわちディオス共和国との敵対を意味する。国内でテロまがいの襲撃事件を起こしている時点でほぼ同義ではあるが、戦いに生き甲斐を見出す者が政治的しがらみを厭う可能性は十分考えられる。そのあたり、アレスはともかくエニュオは気にしそうだ。
ただ、戦と殺戮という言わば『戦い』に特化した神二人が、実質数的有利を得ている状態でなお警戒していたのがユランなのだ。
つまり、ユランと敵対することによる不利益どうこうではなく、単純に彼女が二人より強いのではないかという可能性。それが真っ先に浮かぶのは当然の帰結だろう。
ユランは片眉を上げながら小さく唸る。
「難しい質問だが、まぁ、我も神だからな。そうそう遅れは取らん」
「私、女神様の逸話みたいなの知ってますよ。ディオスの一個大隊を一分で壊滅させられるなんて言われてますよね。あれ? 十秒だったかな……」
曖昧な記憶にやや尻すぼみな言い方をしたラグナに、晴馬は驚愕を露わにする。
「十秒ってマジ?」
「逸話というか、噂話というか、嘘に尾ひれが付きすぎてむしろそっちが本体みたいな話だがな。軍と戦ったことなどないぞ」
「でも十秒で壊滅させられはする?」
「まぁ……まぁ」
随分と消極的な肯定をするユラン。何故か彼我の力量差を明言したがらない彼女の不可解な態度に懐疑の目を向けつつも、晴馬は両手を机の上において続けた。
「そこの真偽は一旦置いておくとして、そんだけ警戒されるなら出方を誘導することもできるよな。また街中で戦うってのは避けたい」
「駅前の修繕終わってませんし、鉄道もいまだに本数減らしての運行ですからねぇ。すっごい不便。困ったもんですよ」
ディオスに暮らす一市民としてラグナが不満を漏らす。
駅前での戦闘の余波は凄まじいもので、建物の倒壊や晴馬たち以外の人的被害などはおおよそ確認されなかったものの、道路や地下施設への被害は深刻であり、二週間経った今も復旧作業が続いている。
その関係で駅自体も封鎖されており、該当路線を通る鉄道は、現在、本数を減らした上での快速運行となっていた。
一般市民代表、ラグナの愚痴は留まるところを知らない。
「迷惑系神様なんて今日日珍しくもないですけども、少しは常識ってものを身に着けてほしいですよねぇ。何億年生きてるんだって話ですよホントに。無駄に歳だけ重ねちゃって」
「迷惑系って。そんなカジュアルな話じゃないと思うぞ」
「ディオスは治安良いのでそういうのあんまりないですけど、中央寄りの街とかでは割と日常茶飯事ですよ。それこそヘルメス様は賭場一つを建物ごと壊して永年入国拒否になった国とかありますし」
「だいぶワイルドな主神様だな……」
「恩人ですけど言っちゃいます、アホですあの人は。あっ、ありがとうございます~」
ラグナがちょうど店員が持ってきた昼食代わりの軽食を受け取る。
全員同じフレンチトーストのサンドイッチ。注文する際に少し眉根を顰めたが、ラグナが絶対おすすめだと言って聞かなかったのでこれになった。晴馬もよく知るファストフード店に似たような商品はある。食べたことはないので未知ではあるが、これも別に不味くはないだろう。ちなみに十四歳で成長期のラグナだけ三人分。結構な大食らい。
目の前に置かれたサンドイッチは普通に美味しそうではあった。ふとラグナの視線に気づいた。強い期待を感じる。一口食べて、期待に応えた。
「うん、美味しい」
「ほらね~、言ったじゃないですかぁ~。好き嫌いはよくないですよぉ?」
「そうね。嫌いとは言ってないけどね」
「嘘は良くないなぁ。うげぇって心の声が出てたもん、人相に」
顔をしかめて、げぇっと、わざとらしく舌を出して見せるラグナ。
彼女ともこの二週間でだいぶ気安く打ち解けた。小生意気な年下全開の態度は晴馬も嫌いではない。むしろ好ましさすら感じる。たまに腹が立つ。概ね良い塩梅だ。
晴馬は、ふんっと、嘲笑だけ返して話を本線に戻した。
「んで、話戻すけど、人とか街に影響がない場所に心当たりとかないか?」
「ぜんっぜん未開拓じゃないことで有名な未開拓領域とかおすすめです」
「ユランと湿地帯なんて向こうからすれば絶対避けたい組み合わせ。誘導どころか避けられる」
「じゃあじゃあ、セリオス村なら湿地帯から外れた場所にあるので条件ぴったしじゃないです? 管理もされてない廃村なので多少壊れても問題なし!」
「問題あるし、なにより故郷だろう。そんな軽々しく……」
あっけらかんとしすぎているラグナの提案に眉を顰めるユラン。
が、それでもラグナの調子は変わりなかった。
「いいんですいいんです。あそこにはもう何も残ってませんから」
「……」
「……」
「……」
「……え、なんですかこの空気。私が悪いんですか? やめてください、最年少を責めるのは」
「最年少関係ねぇだろ」
「イチヤさん、最年少とは常に可愛がられるものなんですよ」
ふふん、と得意げに言い放つ小生意気な最年少少女。
ラグナは故郷のことについては本当に気にしていない様子だ。であれば必要以上に気を遣うのも失礼に当たるのかもしれない。ひとまず晴馬は選択肢の一つとして提案を受け入れる方へ持って行った。
「まあセリオス村も候補地の一つってことで」
「待って。故郷ってことを抜きにしてもセリオス村があった場所ってゴルゴーンの活動域なんだけど」
「ゴルゴーンとは?」
晴馬が片眉を上げて問うと、ラグナが「セリオス村を襲った魔獣です」と注釈してくれた。曰く、家屋を丸呑みに出来るほど巨躯の大蛇らしい。さらに詳しくユランが付け加える。
「ゴルゴーンは成長した魔獣の中でも特に異質な存在でな。権能や魔法の源泉であるセフィラを吸収し己が糧とするのだ」
「つまり権能と魔法が効かない?」
「うむ。神に近い存在でありながら神の力ではどうすることもできんという厄介極まりない怪物だ。手に負えん」
首肯しながら語られるその言葉には強い実感が伴っている。
察するに、過去に退治しようとして返り討ちにでもあったのだろう。
と、いつの間にかサンドイッチをすべて平らげていたラグナが口元を拭きながら何気なく言う。
「ゴルゴーンのことなら心配無用ですよ」
「なんで?」
「活動域が周期的に変わるんですよ。次にセリオス村の近くに来るのは二か月くらい先で、いまは山の麓あたりにある巣穴にいる筈です」
「随分と詳しいな。……周期で活動域を変えているのか。それは我も知らなんだ」
感心したように目を見開いてユランが呟く。が、当のラグナは気まずげに目端を窄めた。
「周期って言っても過去の目撃例とかから割り出しただけなので確実ってわけじゃないですけど。でもここ一年はだいたい合ってるんで精度は自信あります」
「自分で調べたのか?」
「ですねぇ。いつかぶっ殺してやろうと思ってるので、あのオオヘビ」
「へぇ」
しれっと、明日買い物行こうと思ってるんですよね、くらいの気軽さで言うものだから、乱暴な言葉遣いに多少引っ掛かりはしたものの指摘はせずに流した。そもそもラグナにとっての仇敵だ、それくらい思っていてもなんら不思議ではない。
「私情は置いといてですね、てなわけなので、セリオス村はアレスとエニュオを迎え撃つには絶好の場所というわけですよ」
「それはそうかもしれないが……」
なおもユランは渋い顔で躊躇いを見せる。
それにラグナはやや怒ったような口調で返した。
「まぁだ私に気を遣ってるわけですか。まったく及び腰な人ですねイチヤさんは!」
「なんで俺が責められてんの?」
唐突な矛先の転換に慄く晴馬。
するとラグナは驚くほど自然に、晴馬が残しておいた残り半分のサンドイッチを強奪して一口で頬張った。もきゅもきゅごくん、と咀嚼して飲み込み、殊更に険しい表情で晴馬を見て言う。
「セリオス村の生き残りがいいって言ってんですから、うだうだ悩んでないで使えばいいんですよ。この皿のように、もう何も残ってないんだから」
「いや、なに勝手に食ってんだよ」
「使えばいいんですよ! わかりましたか!」
「足りねぇなら追加で頼め、人の奪うな」
「わかりましたか!!」
「ああもう、わかったから! すいません、追加で二つ同じのください!」
「三つで!」
うるさめの注文を「はい三つね~」と笑顔で往なす熟練の店員。女神の金で食べるサンドイッチであることを二人は忘れている。が、そこを気にする女神ではない。
「アレクシアも追加で頼むか?」
「普通にお腹いっぱい。ていうか、ホントにセリオス村使うの?」
「ここまで言われて断るのもな」
「……まあいいけど」
ゴルゴーンさえ脅威にならないのであればアレクシアとしても特に異論はない。
慈愛の女神はラグナの故郷を戦場とすることに抵抗があるようだが、アレクシアにはそれよりも余程気がかりなことがあった。
アレクシアの脳裏には、いまもあの時の光景が焼き付いている。
腹を穿たれ、血に塗れ、左腕を消し飛ばされてなお、動かぬはずの身体を強引に動かして自分を救った少年の姿が。
再びアレスたちと戦うことは避けられないだろう。少年の執念が原動力となっている以上、もうそこは何を言っても揺るがない。
ならば、アレクシアがすべきなのは二週間前の再現を避けること。
はっきり言ってしまえば、それ以外のことはどうでもよかった。
――どうせ殺せば終わる。
誰に聞かせるわけでもなく、喧騒に紛れて消えるほど小さく呟いた言葉は、少女の心の奥底に深く沈んでいった。




