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アポカリプス・プレリュード  作者: 桜木姫
狂乱の軍神
17/28

17.ああ、神よ

 壱夜晴馬がディオス国立病院で目を覚ました日から、およそ二日前のこと。

 アレスたちの襲撃によってアレクシアは四肢の腱の断裂という負傷をし、晴馬は意識不明の重体に陥るなど、一切の予断を許さない状況にあった。二人の、というより晴馬の容態が安定し始めたのは翌日になってからのことだ。

 その間、ただ待つばかりしかなかったユランは当初の目的であるヘルメスへ手紙を送ることを先送りにする意味はないと考え、事のあらましを(したた)めた書状をヘルメスの飼い鳥であるヘルマに託していた。

 それがヘルメスの手元に到着した日が三日前。

 愛鳥に返信用の手紙を持たせてディオスへ送り返したのが二日前のことだ。

 旅の神ヘルメスが現在身を置いているのは、大陸東側に群生する世界で最も広大な森林地帯。

 人里からは遠く離れ、光すら碌に入らない、外界からは完全に途絶された森の奥深く。

 所々が割れてしまっている円形の石畳の中央に、苔に覆われてひっそりとたたずむ人一人分程度の大きさしかない小さな祠がある。それは随分と長い間雨風に晒され続けていたせいか半分ほど崩れてしまっていた。

 広範囲に渡って常緑広葉樹林の群生地となっているこの一帯は、元は前代人類が文明を築いていた場所。

 ヘルメスの記憶に間違いがなければ前代人類が滅んだのはおよそ二億年ほど前だ。

 これがその時代の代物とすれば、よくも保っていると言えるだろう。

 というか、人の手が入っていなければここまで形が残っていることはありえない。

 ヘルメスは石畳の中央まで歩み寄り、崩れた祠の欠片をひょいひょいと除ける。

 すると、隠れていた祠の根元にかすかな隙間があるのが見えた。

 近くに手をかざしてみると、中から風が吹いているのが分かる。

 アタリ。ヘルメスは口の中でそう呟き、崩れてしまわないように慎重を期して祠をずらす。そこには幼い子供ならば通れるほどの穴があり、その奥に底が見えないほど長く続く階段が現れた。


「暗いなぁ……嫌だなぁ……怖いなぁ……」


 両手を擦り合わせながら陰々と独り言つヘルメス。深淵も驚くほどの深い溜息を吐き、地面を踏みつけるように蹴って穴を広げる。

 地面に手を突いて穴の中に降りる。滑って転びそうになるのをぐっと重心を低くして堪える。が、健闘空しくぬめりに足を取られて転倒。肩と頭を強打した。


「ごぉおお……いでぇ……」


 頭を抱えて悶絶していると、がくん、と急に体が傾く。

 一瞬の浮遊感。そのまま勢いに乗って階段を滑り落ち、全身をくまなく打ち付けながら最下層まで落ちた。

 明かりも音もない空間に響く憐れな男神の苦悶。

 神の身体はひたすら丈夫ではあるものの、痛みの感じ方は人間とさして変わりない。此度も人なら死んでいるほどの事故だ。ヘルメスが神だから生き延びることが出来た。気絶も出来ずに。痛みから逃げられずに。ああ無常。ヘルメスは湧き上がる苛立ちを表現するかのように全身を故意に痙攣させた。打ち上げられた魚だった。


「おおんおおんおおん!」


 暗闇に響く奇妙な嬌声。その声も次第に先細りしてゆき、水面に水滴が滴る音だけが残る。


「……まだ先か。まったく、稀代のひきこもり女神めェ……」


 そう呟き、ヘルメスはそそくさと立ち上がると壁を伝って闇の中を進み始める。

 持ってきていた懐中電灯は落下の時の衝撃で壊れてしまった。唯一頼りになる導は音の反響のみ。動物が扱うものほど精度は高くないが、壁と床の有無を確認しながら慎重に行けば十分安全は確保できる。

 五、六人程度が並んで歩ける幅の通路をしばらく進むと壁の無い空間に出た。反響の聞こえ方が先ほどまでと大きく変わっている。おそらく左右と上に向けて弧を描くように空間が広くなっているのだろう。


「広そうだな……ここなら大丈夫か」


 ヘルメスの手の平に小さな羽根が現れる。

 体躯を持たず羽根のみで構成された黄金の輝きを放つソレは、ヘルメスの手からパタパタと飛び立ち、暗闇の中を上昇していく。ちょうど天井の真ん中あたりまで上がりきると、払暁と見紛う光を放って空間全域を照らした。

 狭い通路でこの光量は確実に目が潰れるので使えなかったが、この広さなら問題ない。

 すっかり闇に慣れてしまっていたヘルメスは、目を細めながら眼前に広がる光景を見渡す。

 広い円形の空間の中央にポツンと佇む石造りの祭壇。

 そこには花崗岩で作られた階段が五段ほどあり、それを登ると円形の台座に十個の石柱が立てられていた。並びは規則的で、左右に等間隔に三つずつ、中央の奥に一つ、それの手前に柱が置いてあったような窪みがあり、さらに手前にもう三つ。上から見ると縦長の六角形になっていて、中央の柱がやや下にずれているような配置だ。

 柱は一つ一つ、色も、形状も、材質も、すべて異なっている。

 これを祭壇と呼ぶにはあまりにも奇抜が過ぎる意匠だった。

 ヘルメスは階段を上がり、一番手前にあったおおまかに四色の色が浮かぶ水晶の柱に触れた。近くでよく見ると柱の表面にはうっすらと何かが刻まれている。文字や記号ではない湾曲した線。よくよく全体を通して見てみると、それが玉座に座る若い女性を描いたものであることがわかる。

 他の柱も見てみると、他にもいくつか何かが刻まれている柱があった。

 ヘルメスは静かに息を吐く。

 柱の配置、色や材質、刻まれた絵、そしてこれらが意味するところ。

 確証こそないが、ヘルメスの脳裏にうっすらと浮かぶものがあった。

 生命の樹――セフィロト。

 かつて、この世界に神が生まれるきっかけとなった『原初の魔法』。

 ここはその再現をしようとしていた場所なのではないだろうか。


「神になろうとでもしていたのかねぇ……」


 誰に聞かせるでもなくそう呟くと、不意に何者かの気配を感じた。

 敵意はない。が、得も知れぬ威圧感がある。

 ヘルメスはすぐさまその方を振り返って佇まいを正した。

 一番奥の柱、さらにその奥から、どこからともなく現れた一柱の女神。

 目元まで隠れる襤褸切れのような外套からかすかに見えるのは、老婆と乙女が同居したようなちぐはぐで歪な容姿。

 彼女こそ、病と老衰の女神ヘル。

 まさに今日、ヘルメスが会いに来た神だ。

 ヘルは柱の脇に立つ男神を睥睨すると、厳かに告げる。


「――頭が高い。余の前に平伏せ」


 若く張りもあり、同時に酷くしゃがれた声で女神は告げる。

 と、ヘルメスの視界が突如として落下する。膝に走る痛みによって、自分が膝を突かされていることを直ちに理解した。ヘルメスにだけ数十倍の重力が課せられているような状態だ。

 やがて自重に耐えられず手を突く。

 ヘルメスの身体を抑えつけているのは、地中で結晶化する前の魔晶――大気中に漂っているその構成物質だ。

 神の権能や魔法の源泉。名付けられたその名は『セフィラ』。

 世界最古の神の一人であるヘルは、他の神とは一線を画す比類なき力を持つ。

 本来、セフィラは権能や魔法を介した方法でしか干渉できない。

 それを直接操れるのは、見聞の広いヘルメスが知る限りでも唯一彼女だけだ。

 故に、同格の神であってもこれに抵抗するのには至難を極める。事実、ヘルメスはろくな抵抗も出来ずに跪いたまま動けない。顔の前に真空でも出来ているのかと思ってしまうほど息苦しい。


「ちょ、ちょ……ヘル……っ! くるじい、いきできない……ッ!」

「不埒者め。余の領域で何をしておる?」

「せ、せつめいしますんでっ! これといて……っ!」


 命辛々の懇願を受け、ヘルはしばしの熟考の後にセフィラを霧散させる。

 それと同時にヘルメスは大きく息を吸い、四つん這いのまま肩を大きく上下させた。眼下の台座にぽたぽたと水滴が滴る。それが己の額から流れる汗と気づくのに一瞬の間を要した。

 ものの数秒。

 彼我の力量差を理解するのには十分すぎる時間だ。

 いまだに冷めやらぬ悪寒と拍動。ヘルメスは己の胸に手を当てながら女神に意思を示す。


「勝手に入り込んで悪かった。ナグルファルくんに貴女がここにいると教えてもらったんだが、聞いてないか?」

「余の眷族を(かこ)(ぐさ)にするつもりか?」

「いえ、滅相もない」

「ならば答えよ。余の領域で何をしておる」

「ここで何かしようとしていたわけじゃなくて、貴女に頼みごとがあってはるばる来たのさ。――オリオンの件で」


 ヘルメスはそう言いながら、懐から手紙を取り出した。

 どこの国でも市販されている何の変哲もない簡素な白無地の封筒。ディオスの公式封蝋によって封がされた跡があり、端に差出人である女神の本名が記されている。


「彼、まだ生きているらしいじゃないか。しかも別世界の少年に憑りついているって」


 ヘルメスは二本指で挟んだ手紙を揺らしながら懐疑的な視線を向ける。

 旧知の女神から突如として送られてきたこの手紙には、別世界から迷い込んでしまった少年について記されていた。

 その少年に、かつてアルテミスに殺された神オリオンの魂が宿っていることも。


「貴女がそれに協力していたという話も信じ難いところだが、正直、僕はこの話自体にいまだ半信半疑なところがある。ありえなくはないが意味が解らない。だからまずは事の真偽を確かめたい。この手紙の内容は事実か?」


 ヘルメスは手紙をピッとヘルへ向けて投げ渡す。

 受け取った手紙を開封し、数枚の便箋に目を通す。約一分後、読み終えた便箋を封筒に戻してヘルは告げた。


「オリオンが異界の童に宿っていることは事実だ」

「なるほど……それが事実なら他のことも事実として扱ってよさそうだ」


 ヘルメスが好奇心に満ちた表情を浮かべながらそう独り言つと、ヘルは封筒を投げ返して言った。


「貴様の言う頼みとはなんだ」


 掴み取れず落ちた手紙を拾い上げ、ヘルメスは指を二本立てる。


「この手紙に書いてある通りだ。一つはイチヤハルマという少年からオリオンを分離すること、もう一つはエル=フィリアに別世界への扉を開いてもらうことだ」


 言いながら、ヘルメスはわざとらしく閃いたという表情を作り、指を鳴らして付け加える。


「言うまでもないが、このイチヤハルマという少年は完全なる被害者だ。貴女に断る権利はない」


 と、ヘルの雰囲気が一層、厳としたものへと変わる。


「――礼節を弁えよ」


 地の底から響くような声。

 打ち付けるような気迫にヘルメスは息を呑んだ。噛みしめた歯の隙間から震えた息が漏れる。


「余が否むとでも思ったか。不敬であろう」


 全身の産毛が一挙に総毛立ち、指先に電流が走ったよう痛む。

 肌を切り付けるような冷たい風が吹くと、乾いたはずの汗が額に滲んだ。

 先程のように場のセフィラを操られたわけでもない。

 女神は、ただ『そこにいる』だけ。

 余計な事を言ってしまった。失態は交流の浅さ故か。ヘルメスは数秒前の己の過ちを後悔する。


「あ、貴女を侮辱する意図はありません。あくまで一般論を――」

「戯け。伝令使風情が余を侮るでない」

「……偉大な女神への慙愧の念に堪えません」


 これ以上の言い訳は神経を逆撫ですると悟り、ヘルメスは粛々と首を垂れる。

 その女神は、厳格なれど不遜では在らず。

 意味無く怒りをぶつけることはなく、気迫は鳴りを潜める。

 外套を翻して台座を降りる直前、ヘルは背を向けたまま男神に言い放った。


「異界の童を連れてくるがよい。貴様は余の領域より疾く去れ」

「ちょ、ちょっと待った、最後に一個訊きたいことがある」


 制止を受け、ヘルは立ち止まり首だけで振り返る。


「どうしてオリオンに協力したんだ?」


 ヘルメスが最も理解し難いのはそこだった。

 人里から隔絶され、とうに忘れ去られた祠の地下深くに一人隠居しているような女神が、オリオン個人の確執に由来する明らかな面倒事に手を貸した理由とはいったい何なのか。

 常に昂然と振る舞い、品格を保ち、まさに謹厳実直を形にしたような女神。

 歴史書の中で、女神ヘルは誠実な人柄であると記されている。

 それも嘘ではないが、正しくもない。

 彼女はディオスの女神のような極めつけの博愛主義者とは程遠い。

 言い換えれば、人の世に根付く善良な価値観に基づいて人助けをするような神ではないのだ。

 だから目的があるはず。

 それが彼を救うことで果たされる目的なのか、あるいは間接的に果たされるものなのか。

 ヘルメスは二の句を継ぐ。


「手紙によればアレスがオリオンの持っていた権能を狙っているらしいが、あのイカれた軍神がオリオンから権能を奪えたとして、貴女がそんな些事を気に留めるとは到底思えない。そもそも気にしているならオリオンを助けるよりも手ずからアレスを葬ればいい話だ。あえてかかずらうことじゃない」

「一つ訊こう。貴様は何故テティスの懇請(こんせい)を呑んだ」

「先に質問したのは僕なんだが……まあいいか」


 とはいえ、こちらが答えなければ向こうも答えまい。

 ヘルメスは嘆息して人差し指をピンと立てる。本心を腹の奥底に隠し、上部の言葉を塗り付けて。


「偏に好奇心だ。僕個人が別世界という『未知』に強く惹かれている」

「それだけではなかろう」

「……」


 疑われる余地もなく言い切ったと思ったのに、即座に否定が入り、思わずヘルメスは言葉を失う。

 しかし、女神は端からヘルメスの思惑になど興味はないと言わんばかりに視線を前に戻す。

 そして一言。


「余は常に理を重んじる」

「……それはつまり」


 そこから先は言葉に出来なかった。

 ――貴方も、奴の思想に感化されたのか。

 そう訊こうとして、言えなかった。

 英雄オリオン。

 過激な思想に憑りつかれ、かつて神を滅ぼそうとした史上で最も危険な神。

 彼が重んじたのは一つ。

 それは人の世の理。

 疎んじたのは、理外の力。

 それは神と権能。

 己が身さえ賭し、現世に変革を齎そうとした彼の男神はいま、異界の少年に宿っている。

 そんな彼を救ったというのなら、やはり彼女は――


「疾く去れ、ヘルメス」


 初めて名を呼ばれ、ヘルメスは深くお辞儀をして台座を降りる。

 言葉に詰まってしまった以上、彼女がヘルメスの質問に明言することはない。ヘルメスは来た道を引き返し、明かりの無い通路へと姿を消す。

 やがて天井の羽根は光を失い、霧散して消えた。

 洞窟内は再び闇によって満たされ、女神の足音だけが静かに響く。


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