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アポカリプス・プレリュード  作者: 桜木姫
狂乱の軍神
15/28

15.在りし日の夢

 ――夢を見た。


 身体の自由が利かず、誰かが見ている光景をただじっと眺めるしかない夢。暗澹たる曇り空の下、風の音さえ聞こえぬ静寂の中を、晴馬は一人歩いている。

 そこは晴馬にとって在りし日の生まれ故郷。

 いまはもう撤去されてなくなった電話ボックス。

 舗装される前の雑草生い茂る駐車場。

 看板が剥げた改装前のコンビニ。

 十年以上変わらない街並みだと思っていたけれど、普段は気にも留めないほど細かい部分は案外違っている。変わらないものなどないと言われているような気分だ。

 どれもこれも懐かしい光景。

 だが、どこか違和感があった。

 そして、すぐに気が付く。それが目線の高さから来るものだと。

 大人になった自分が過去の故郷を歩いている。

 この先の道を曲がってまっすぐ進むと交差点があって、それを渡るとすぐに今も父と二人で住んでいるマンションがある。

 ゆっくりと道を曲がり、片側一車線の交差点が見えた。

 道の角の部分にあるガードレールと電柱の根元に、供えるように置かれている食べ物や献花。

 心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。

 道を曲がる前から得も言えぬ焦燥感はあった。

 言語化するのを脳が拒んだだけで、理解はしていたのだ。

 何故なら電話ボックスも駐車場もコンビニも、十三年前に母が亡くなってすぐに改装されているから。

 交差点までたどり着いて、晴馬の身体は動きを止める。

 献花をじっと見つめていると、晴馬は不意に横を向いた。

 そこには晴馬の母――壱夜かながいた。


「――」


 母は笑顔でこちらに何かを語りかけてくる。

 名前を呼ばれたのだと思う。

 ここは音のない世界だから、何を言っているのかはわからなかった。

 交わされている言葉も、笑顔の理由も、何一つ理解なんてできない。

 たとえわかったとしても、これは晴馬の記憶が勝手に作った映像で、そこに意味なんてない。

 それでも、――楽しそうに笑うお母さんの姿を久しぶりに見られたのは、この上なく嬉しかった。

 たぶん、夢の中の晴馬は泣いていたのだろう。

 母が伸ばした手が頬に触れて、親指で涙を拭ってくれる。仕方ないなぁと言いたげな表情をしながら、そのまま髪の毛をわしゃわしゃと撫でてきた。

 それで余計に胸が熱くなって、涙が止め処なく溢れて、母の顔がぼやけて見えなくなるのに夢の中の自分は涙を拭ってくれない。


「泣き虫だなぁ、晴馬は」


 代わりに、母の声が聞こえるようになった。


「晴馬はさ、ちゃんとあの子のこと守ったじゃん。ちっちゃい女の子のことも。だから泣く必要なんてないの」


 晴馬も何かを喋ろうとしたけれど、嗚咽が邪魔をしてうまく言葉が出ない。

 そんな晴馬の様子を見て、母は言葉を続けた。


「お母さん、こんな立派な息子を持ててほんと誇らしいよ」


 母は晴馬の胸に手を当て、穏やかな顔でそう言った。

 そして、そのまま晴馬の胸をトンと押し出す。

 たたらを踏む間もなく浮遊感があって、いつの間にか光の渦に変わっていた背後の地面に吸い込まれるよう落ちていく。

 足元から視線を戻すと、母はいたずらっぽい笑顔を浮かべていた。


「だから晴馬は目一杯生きて、一生分の土産話作ってからこっちに来ること。それまでお母さんは先に来るお父さんと一緒に晴馬を待ってるから。いい?」


 晴馬は手を伸ばして、ようやくあらん限りの叫びを上げる。


「母さん――ッ!」


 そうして晴馬は夢から覚めた。

 夢の中の勢いがそのまま現実の身体に反映されて、ベッドに寝ていた状態から弾かれるように起き上がる。

 その瞬間、視界が明滅するほどの強烈な痛みが全身を駆け抜けた。


「――ってぇ……ッ!」


 起き抜けに再び意識を失うかと思った。それほどの痛みだ。

 しばらくの間、頭の天辺から足の指先まで固まったまま動けずにいた。時間経過と共に痛みが和らいでいき、ようやく楽な姿勢に戻って横の人影を見やると、慌てた様子でこちらを心配そうに見ているユランと目が合った。


「だ、大丈夫か……いや大丈夫なわけはないな……」


 壊れ物に触れるかのように繊細な手つきで晴馬の身体を支えるユラン。

 晴馬は部屋の中を見渡して、ここがどこかの病院の一室であることを知った。最後に覚えている記憶から察するに、彼女がここまで連れてきてくれて、治療を受けたのだろう。

 肘から先の無い左腕にはがっちりと包帯が巻かれている。

 途中から意識が朦朧としていたので記憶が定かでなかったが、どうやら駅前で起きたことは夢ではなかったらしい。

 晴馬は呼吸を落ち着かせて、慌てている女神を落ち着かせようと虚勢を張った。


「腹に穴開けられた割には大丈夫だよ。ちょっと痛いだけだ」

「そんな震えていて大丈夫なわけがないだろう。まだ寝ていた方が良い。ほら、ゆっくり、支えるから」


 ユランに支えられながら背を降ろし横たわる晴馬。ユランが晴馬の頭下にある何かしらの機器を操作した。おそらくナースコール設備か何かだろう。

 しばしして、病室の扉が開かれ、老齢の医者が入室した。

 しかめ面でカルテを眺める医者の男はベッドわきの椅子に腰を下ろすと、ちらりと晴馬を一瞥して短く訊く。


「自分の名前は言えるかね?」

「壱夜晴馬」

「年齢は?」

「十八」

「職業は?」

「学生兼アルバイト」

「出身地は?」


 晴馬は視線だけをユランに向ける。と、彼女は小さく頷きを返した。この医者は晴馬の事情を承知済みというわけだ。


「東京」

「では、意識を失う前、最後に覚えていることは?」

「アレスに腹抉られた後、アレクシアが暴れててそれを止めようと……そうだ、アレクシアは? 無事か?」


 彼女の安否が気になった。怪我の程度で言えば晴馬の方が酷かろうが、記憶が確かなら彼女も相当の傷を負っていた筈だ。

 晴馬はユランに向けて問うたつもりだったが、答えたのは医者の方だった。


「命に別状はない」

「無事なんすね。じゃあ様子は?」

「いまは己の身を案じてはどうかね」


 医者は険のある表情で晴馬を見て言った。

 いまの君は他人を気遣っていい状態ではない。大方そう言いたいのだろう。医者の立場から見れば当然の反応だ。

 だが、晴馬にとってはそんなこと関係ない。


「明らかに正気じゃなかったんです。俺のこと別人だと思い込んでたし……」


 晴馬が退かないことを直感してか、医者は渋々告げた。


「心的外傷が原因となる症状にも治療法はあるのだよ。心理療法と抗うつ剤の服用でいまは落ち着いているとも」

「たぶんいまは別室で検査中だ。後で連れてくる」

「そっか……なら、良かった」


 そう伝えられとりあえずは安心した晴馬だったが、ふと、気になったことがある。


「……てか、気ぃ失ってから何日経ってる?」

「七日だ」

「そんなに……」


 一週間。本来であればヘルメス宛の手紙の返事が来ている頃だが、おそらく手紙どころではなかったはずだ。帰還が遠のいたことに晴馬は少々落胆した。

 が、医者はそれを経過時間に対するものだと思ったのか、即座に否定するように言う。


「身体の状態から見れば信じられぬほど短い方だよ。君が眠っている間にオリオンが傷を治したからだろう」


 晴馬は右手で腹をそっと触った。抉られ修復された脇腹のように若干の凹凸はあるものの、言われた通り傷跡のような感触はない。

 どうやら本当に眠っている間にオリオンが権能で治したらしい。

 左腕が治されず手付かずなのは、欠損しすぎているからか、駅前での戦いで消耗していたからか、もしかすると権能が摩耗して無くなってしまったか。

 晴馬の懸念を知るや知らずや、あるいは視線の動きで察したのか、ユランが治癒までの経過を話す。


「集中治療室で処置を受けてこの病室に移された後、どうやらそこでオリオンが目を覚ましたようでな。ハルマの身体は眠っていたから会話こそ出来なかったが、五日ほど掛けて腹の傷を完治させた。それから二日、一度も起きてない」

「あいつも消耗してるってことか……まあするわな」


 オリオンはハルマが意識を失っている間に傷を治し、再び眠りについたらしい。

 いずれにせよ晴馬が目を覚ましてから一切反応がないことを鑑みるに、起きていながら黙っているわけではなく、表に出て来られないほど消耗しているのは確かのようだ。左腕を治せるとしても彼が起きるまでは待つしかない。

 ひとまず、現在の晴馬が置かれている状況はだいたい掴めた。

 あと気になるのは、駅前で戦った神二人のことだ。


「アレスとエニュオは? 逃げたか?」

「ああ。もとより転移が使えるのから捕まえてはおけんのだが」


 ユランが無念の表情を浮かべて言うと、待ってましたと言わんばかりに病室の扉が開いた。

 顔を覗かせた人物を見て、晴馬とユランは驚愕の声を上げる。


「私をお呼びでしょうか?」

「おまっ」

「エニュオ――ッ!」


 殺戮の女神エニュオが、来ちゃった、みたいな軽妙さで姿を現した。

 エニュオは特徴的な極彩色の長髪をルーズサイドテールにし、身なり良い余所行きの格好をしたクラウディアをそばに連れている。さしずめ知り合いのお見舞いに来た親子という装い。

 ただそれは装いだけで、エニュオとクラウディアの身体的特徴――似ても似つかぬ髪や目の色を比べれば他人であることは一目瞭然だった。

 ユランは棚に飾られた花瓶の水を操って一円玉サイズの水滴に分解し、エニュオを取り囲むように展開した。

 水の女神の権能により、水滴は弾丸よりも速く動く。ユランがその気になれば瞬く間もなくエニュオの身体は蜂の巣になるだろう。

 が、エニュオは特に警戒する様子もなく水滴の一つを指で撫でるように弾く。


「意味のない威嚇はおよしなさい。殺せないでしょう、貴女は」

「……」


 見透かされたように言われ、ユランは唇を噛み締める。それでも威嚇を解くことはやめず、晴馬の正面まで歩んだエニュオを捉え続けている。


「改めましてイシヤハルマさん。怪我の割には元気そうで何よりです」

「壱夜だ。元気そうに見えるか?」

「ええ、見えますよ。現に一週間で会話できる程に回復しているではありませんか」

「これ。お見舞いの花」


 クラウディアは晴馬の足元に小さい花束を置いて言った。

 見舞いの品というにはあまりに無骨でむき出し過ぎる待雪草(スノードロップ)の花束。旧約聖書に由来する花言葉は『希望』『慰め』そして『貴方の死を望む』。

 少女は別世界の花言葉など知る由もないだろうが、晴馬はたまたま知っていたので眉根を顰めた。


「花嫌いだった?」

「いや、花言葉がね……」

「変な言葉なの?」


 クラウディアは傍らのエニュオを見上げながらそう問うた。それにエニュオは小首を傾げながら答える。


「球根を切り離した待雪草は『病からの回復』や『健康の象徴』とされていますが、もしかすると彼の故郷では別の意味があるのかもしれません。なにせ別の世界の人間ですから」

「……良くない意味なら持って帰る」


 相も変わらず無表情でありながら、少しばかりしょげたような声で呟くクラウディア。罪悪感に駆られた晴馬は慌てて言い訳する。


「そこまで言いたいわけじゃなくてだな、お見舞いはありがたいよ」


 そう言いながらも、何か間違っているような気がしてならない晴馬。

 二人はアレスの仲間であり、オリオン襲撃の主犯格だ。

 しかし、朧げに残る記憶が確かならば、彼女らは晴馬の命を繋いだ恩人でもある。その点においては彼女らが晴馬のお見舞いをするというのは不自然ではないかもしれない。そんなわけない。

 晴馬はユランの手を借りて身体を起こし、やや表情を歪めて言った。


「てかさ、なんでお前ら普通にお見舞い来てんだよ」

「いけませんか?」

「別にいけなくはないんだけどさ、ノリが軽すぎる。友達かと思っちゃったわ」


 晴馬も本気で言ったわけではないが、友達と聞いてエニュオは鼻で嘲笑った。


「ではお友達としてお願いでもしましょうか。イチヤハルマさん、我々にオリオンの権能を渡してください」


 と、エニュオを狙う水滴が針のように鋭く伸びた。

 言うに事欠いて。ユランの表情が言外にそう語っている。人や街にあれだけの被害を出しておいてなんと烏滸がましいことか。

 晴馬はそれに気づきつつも、依然、威嚇の域は出ないと判断して指摘はせずに言い返す。


「それはオリオンに言え……と言いたいところだが、あいつはいま寝てるし、そもそもあいつだって渡すつもりが無いからああなったわけで。俺としてもあんな力をほいほい渡すつもりはないぞ」

「渡していただければ元の世界に戻してあげます」

「論外だ」

「疑っていますか? 私の魔法はどんな物でも複製可能ですから、ヘルの従者の魔法も複製できますよ」

「聞こえなかったか、論外だ」

「……悩みもしませんか」


 目を細めてかすかに睨むように晴馬を見るエニュオ。


「しかもそれを交渉材料に使うってことはずっと監視してたわけだ。考えてみりゃ襲ってきたタイミングもドンピシャだったしな」


 あの日、晴馬とアレクシアが襲撃されたのはユランと別れた後だった。

 きっかけこそ晴馬たちではあったが、おそらく彼女らは晴馬たちが別行動をする機会を虎視眈々と狙っていたのだろう。

 より正確を期せば、女神ユランが一行から分断される機会を。

 戦いの中でオリオンは常に時間を稼ぐような立ち回りを見せていた。それは権能の行使に晴馬の身体が耐えられないという理由の他に、ユランが救援に到着するのを待っていたからでもある。

 オリオンが『ユランがいれば形勢が覆る』と判断したように、アレスらもまた『ユランがいると勝てない』と踏んだからこそ、時機の到来を待ったのだ。

 我が身可愛さに交渉に応じると思われていたのであれば、あまりに浅はかであると晴馬は内心で笑う。通り雨で出来た水溜まりよりも浅い。


「元の世界に帰りたいのは山々だけどな、その条件呑んだらお前たちが滅茶苦茶するってわかってるのに、全部放り投げて帰ったりなんかするかよ」

「貴方には関係のない世界ではありませんか」

「おかげさまでもう関係あるんだ」


 晴馬が胡乱な返答をすると、エニュオの眼差しが鋭く変わった。


「理不尽に死にかけてなお己が身を賭して世界の防波堤になろうと?」

「大げさな。んな大層な話じゃねぇだろ」

「いいえ。これはそういうお話です」


 見舞いの花を花瓶に移し替えているクラウディアを横目で眺めながら、エニュオは語る。


「良い機会です。皆さんにはアレスの目的をお伝えしておきましょう」

「アレスの?」


 まるで自分はアレスと無関係であると言いたげだ。晴馬は怪訝に言葉を返す。


「お前たちのじゃなくてか?」

「ええ、アレスので間違いありません。彼の目的は、大陸国家間における武力闘争の長期的な持続と規模の拡大――つまり戦争の永続化です」

「成金にでもなるつもりか?」

「そういった俗物的な目的の方がまだしも救いはありますね」


 エニュオは指をぴんと立て、この場に似つかわしくない笑みを浮かべながら言った。


「彼が求むるのは唯一つ、純粋な闘争のみ」

「戦いたいだけならお前たちだけで完結させろ。他人に迷惑かけるな」

「そうもいきません。生を渇望する戦士と矛を交える事だけが、唯一彼が生かす方法なのですから」


 晴馬は眉根を寄せて胡乱な声を上げる。


「ぁ?」

「イチヤハルマさん、アレスの逸話を何か一つでもご存じでしょうか?」

「知らない」


 晴馬は素直に答える。隣でユランがさらに表情を険しくした。


「自らが手に掛けた兵士の血肉を喰らうのです。長きに渡る生の中、そうすることで彼は生き永らえてきました。いえ、そうしなければ生きられなかった、と言う方が正しいですね」


 それは、晴馬にとっては受け入れがたい告白であった。

 エニュオの発言を字面通りに受け取るのなら、人間の血肉を喰らうことでアレスは生命活動を維持できるということだ。想像するだけでも気分が悪い。胸糞が悪い。あまりにも残酷な話だ。

 だが、それまで黙っていた医者――名をアスクレピオスという男神が、苦い顔をして口を開いた。


「聞くに堪えぬことを吹聴するのは止めたまえよエニュオ。奴のあれは妄想性障害の一種だ。人の血肉を食わずとも死ぬことはない」

「そうですね。ですが重要なのは彼がそう思い込んでいるという点です」

「……どういうことだ?」


 漠然とした理解に留まり、いまいち点と点が線で繋がりきらない晴馬。

 脳内で右往左往する線を繋いでくれたのは、不快感を露わにするユランだ。依然として視線はエニュオに向いたまま女神は言う。


「アレスは人の血肉を摂取しなければ死ぬと思い込んでいるのだ」

「厄介なことにただの血肉では彼は満たされません。生への渇望に満ちた高潔な兵士の血肉でなければ心身に不調をきたすほどです」


 思い込みで火傷をするという話がある。あれは過剰な思い込みによって人体の防衛反応が引き起こされるというものだが、話に訊く限りアレスのソレはともすれば死に至る病のようにも聞こえる。

 アレスの目的とは、つまるところ『生存』だ。

 それが思い込みによるものだとしても、人の血肉が無ければ生き延びられないという条件を確実に満たし続ける為の手段こそが、先にエニュオが語った戦争の永続化なのだろう。

 闘争を好む軍神としての性も満たせる、ある意味では一石二鳥の策。

 ……それだけ、なのだろうか。

 率直な感想として、晴馬はまったくそう思わなかった。

 己が生き永らえる為に戦争を長引かせるというのは、人道に(もと)るという点にさえ目を瞑れば、ある意味では理に適っている。言葉選びが不謹慎というのは承知の上で、趣味と実益を兼ねた方法とも言えるだろう。

 しかしだ。それとオリオンが持つ数多の権能がどう結びつくというのだ。

 戦争に権能は必要ない。権能がなくとも戦争は起こせるし、続けられる。

 であれば最大の目的は権能による規模の拡大か? 否だ。人間の身体が耐えられるギリギリの出力でもって放たれる権能でさえ、駅前の広場を更地に変えた。神の身で振るわれる十全の権能はあれ以上に比類なき力のはずだ。

 大きすぎる力が戦争を終わらせるのは、晴馬が生まれ育った国の歴史によって証明済み。それはそのまま抑止力ともなり、エニュオの言葉を借りれば、戦争を再び起こさない為の防波堤ともなろう。

 晴馬はその疑問をそのままエニュオへぶつけた。


「その話とオリオンの権能がどう関係ある? 俺は喧嘩もろくにしたことないけどな、一回戦っただけでも十分わかるぞ。アレスは化け物だ。あんな奴があんな力を使えばまともな戦いになんてならない。戦争じゃなくて一方的な虐殺だ。永続化なんて端から成り立たないだろ」

「そうですね。成り立ちません」


 エニュオは信じられないほどあっけらかんとした様子でそう言い放った。

 否定の言葉が来ると思っていた晴馬は一瞬、言葉を失う。エニュオは続けて言葉を紡いだ。


「アレスはオリオンの権能を獲得することで自由に戦争を起こせると思い込んでいるのです。能否を問うならば起こせはするのでしょうが、戦争は国や人を疲弊させますから、アレスの思い描いているよう結果にはならないでしょう」

「だったらなんで」


 晴馬の疑問をエニュオは食い気味に潰した。


「先程から申し上げている通り、アレスは思い込みが激しいのです。あの男に論理的な思考を求めてはなりません。オリオンに言われませんでしたか、話の通じる相手ではないと」

「……言われた」

「であれば、私がこうして交渉をしていることの意味がお分かりでしょう。あの男の執着心は底知れません。オリオンのように死んでも付き纏われます。いずれ元の世界へ帰るのならば、一時の正義感に身を委ねなどせず権能を渡した方が遥かに身の為です。割に合いませんよ」


 不利益を被りたくなどないでしょうと、あくまで交渉という体は崩さずエニュオは告げる。

 一時の正義感。悔しいが、それ自体は反駁の余地もない事実だ。

 オリオンと肉体を分離し、元の世界へ帰るという最終目標がある以上、どれだけ晴馬がこの件に首を突っ込もうが最後まで責任を背負うことはない。いずれ投げ出すことが確定しているようなものだ。

 中途半端な正義感をかざすより、エニュオに言葉に従うのが良いのだろう。

 しかし、しかしだ。

 本当にそれでいいのか?

 晴馬は己の胸に去来するそんな想いを無視できない。

 ――ここが分水嶺。

 脳裏に浮かぶのは、父や友の顔。

 真面目で勤勉な父は、晴馬の決断を支持するだろうか。生まれてからずっと一緒にいるからわかる。きっとしないだろう。自己犠牲を美しいとは思いつつも、犠牲を前提に成り立つ構造を父は厭うから。

 奏音はどうだろうか。彼女は自分の気持ちを表に出さない。晴馬を相手には特に。だから心の内まではわからないけれど、でも、ぎこちない笑顔を浮かべて晴馬の決断を応援してくれるような気がする。

 では。

 母はどうだろう。

 命を賭して奏音を救った壱夜かなは、果たして晴馬を認めてくれるだろうか。

 夢の中で出会った母の姿を思い出す。

 あれは幼き頃の記憶が造り出した幻。

 けして本物じゃない。

 それでも、きっと髪をわしゃわしゃと荒く撫でながら、よくやった、立派だと褒めてくれるだろう。

 晴馬は全身に走る痛みに堪えつつ、エニュオに向けて言い放った。


「割に合うかどうかは関係ない。何があっても権能は渡さない」

「強情ですね。愚かでもあります」

「愚かで結構。上等だ、世界の防波堤にでも何でもなってやるさ。お前らが無理にでもオリオンから権能を奪うってんなら、俺が鼻頭ぶん殴って止めてやる」

「別世界の人間がどうしてそこまで。理解に苦しみます」


 エニュオは懐疑の視線を晴馬に向ける。

 少年の目に宿る決意が本物であるかどうかは、すぐにわかった。長く生きていれば表情一つでそれくらいはわかる。

 当初の想定の範囲内とはいえ、エニュオは内心の驚愕を禁じえない。

 目の前の少年は、無関係の世界を破滅から救う為に、自らが人身御供となることも厭わないと言っているのだ。

 ただの一般人。それも十代の少年が持っていて良い精神性ではない。

 いったい『何が』彼にそう言わせているのか。

 しかし、こうなってはこれ以上の交渉は時間の無駄だ。意味もなく水の女神に威嚇され続けるのもあまり気分が良いものではない。故にエニュオは早急に話を切り上げることにした。


「……いいでしょう。現段階でこれ以上の交渉の余地はないようですし、今日のところはお暇させていただきます。行きますよ、クラウディア」


 エニュオは少女に声を掛け、扉の前まで移動する。少女は棚に置いた花瓶を指して注意喚起した。


「これ、生花だからちゃんとお世話して」

「ああ。……なあ、ひとついいか?」

「なに?」

「なんでそいつらに従ってる?」


 正直迷った。子供相手にこんな質問はすべきではないのかもしれないと。

 だが、クラウディアは晴馬の心配をよそにさして気にした様子もなく答えた。


「こんなのでも家族だから」

「……そうか」


 それからもう一つ。今度はエニュオに声を掛ける。


「あんたはどうなんだ。話してる感じ、別にアレスの思想に感化されてるってわけじゃなさそうだった。むしろ忌避してる感じで。だったら、あんた自身の目的はなんだ?」


 エニュオの口からはアレスの目的しか聞いていない。わざわざアレス個人の目的であると明言した以上、彼女にもある種の目的意識はあるはずなのだ。

 故に晴馬は咄嗟にそう問うた。

 そしてエニュオは退室の間際、上体を軽く逸らしてその問いに答えた。


「趣味ですよ」

「は?」

「クラウディアの傍にいることが一番の理由ではありますが、それはそれとして私も人を甚振るのは好きなのです」

「……お前もイカれてるじゃねぇか」

「よく言われますぅ。では」

「お大事に」


 そう言い残し、女神と少女は病室を去って行った。


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