008 竜幼女のごはん
儂が管理するこの山脈には、幾つもの瘴気湧き出る地点がある。瘴気とは、腐敗を思わせるような歪んだ魔素の一形態だ。
儂にとってもあまり好ましいものではない。変質してしまった魔素とも言えるものが瘴気なのだ。ゆえに魔力として利用することも難しく、何よりも、それが周囲の魔素にも干渉し、環境を変異させ悪臭をもたらす。その場に留まりたいなどとは思えない、近寄り難いレベルの臭いだ。
瘴気を生み出す源泉ごと消し去ることは可能なのだが、いかんせん、こんな環境を好む奴らも存在する。そいつらの意を汲んで、放置していたわけだが。
——まさか、儂自身がこの瘴気の沼を、喜んで利用することになろうとは。
「美味しい、美味しいよ、グリムちゃん!」
ゴフゴフと豪快な音を立てながら、瘴気の沼の水を飲んでいる儂——の体を操る幼女アイソスが、勢いよく手を振る。
美味しそうな匂いがする、と言って離れていったアイソスは、この瘴気の沼にたどり着いていた。樹々を気遣うこともせず直進していたため、行き先を追うのは簡単なことだった。アルビオーネの無駄な足止めがなければ、もっと早く追いついていたはず。
「お、おい、やめんか、アイソス」
異臭に顔を歪めながら遠巻きに声をかけたのだが、アイソスは嬉しそうに喉を鳴らして沼の水を飲み続けている。竜の身体ゆえ瘴気への耐性はあるが、とはいえ美味いものでもないと思うのだが。何故だ?
それにだ。
「なんとも浅ましい姿だ。あれでは知性なき獣のようではないか」
「え、そうですか? 水果を拾い食いしていたときのグリムちゃんと、大して変わりませんよ」
「そんなわけあるかっ」
涼しい顔で指摘するアルビオーネを小突く。
「だが、いくらなんでも異常ではないか? 味覚がどうこうという話ではないぞ」
「そうですね。私でも近寄りがたいというのに。もしかして、グリムワルド様の体が瘴気を求めている、とかですか」
「そんなはずはない。儂とて許容できぬ。人間の幼女が耐えられるか? 儂の体は耐えられるとはいえ、感じているのはアイソス自身だろうに」
現に、この幼女の体は拒否反応を示している。距離を取っているというのに、そら寒い感覚に体が小刻みに震えている。加えてこの悪臭が目眩を誘う。これ以上留まることに、儂の本能と幼女の体は警鐘を鳴らしているのだ。
「ねえ、みてみて、グリムちゃん。こんなお魚がいたよ!」
アイソスは、幼女の体に匹敵するほどの双頭の魚を掴み上げていた。瘴気そのものを糧とする生物だ。儂も観察したことがあるが、好き好んで狩る奴もいない為か動きは鈍い。ゆえにアイソスでも簡単に捕まえることができたのだろうが……。
「これもおいしいね、グリムちゃん。ねえ、グリムちゃんも一緒に食べようよ」
いや、それ、食うのか。儂とて竜の体であれば食えぬことはないが、いわばゲテモノだぞ。
「はぁ……聖女、だからですかねえ。聖女ならば、こういった瘴気も浄化できるはずですし」
「愚か者が。浄化できるからといって、瘴気を好むか? それでは戦いを好む狂戦士ではないかっ。それに、アイソスにそんな力があるとは思えんな」
「まあ、そうですよね。浄化ができるほどのレベルではないですよ、彼女。どちらかというと『聖女』と呼ばれるだけの——」
言葉を区切って、アルビオーネは首を傾げた。儂と視線が合い、それはさらに下方へ向けられる。今はローブに隠されたお腹。少しくるくると鳴っているのは瘴気のせいだ。
「ん? どうしました、グリムちゃん?」
「な、なんでもないっ。いや、ならばやはり、この呪印がなんらかの影響を与えているということ。——おい、アイソス!」
「なぁに? ねえ、グリムちゃんも一緒に遊ぼ!」
口元から沼の水を滴らせながら、誘ってきた。沼の淵を掴んでいた両手も泥だらけだ。儂なら断じてこんな品なき姿は晒さん。幼女のどろんこ遊びと思えば、まあ……。
儂は足元からローブをめくり上げて、アイソスにお腹を見せつけた。
「これを見よ! お前に刻まれたこの呪印。いつからお前を縛っている?」
「え? あれ? そのお腹、私と一緒。一緒だね。グリムちゃんて、ほんとにわたしとそっくりなんだね〜」
あ、そうえいば。コイツには、入れ替わりのことは話していなかったか。病気、と説明していたのだったな。だが、儂の言葉を理解していないようで幸いだ。
「それ、わたしもおんなじ。気持ちいいの。パパがね、撫でてくれるともっと気持ちいいんだよ。あ、そうだ。グリムちゃんもパパに撫でてもらう? 一緒に行く?」
「ま、待てっ。近寄るなっ!」
悪臭と悪寒が強まる。やはりこの体では、高濃度の瘴気は耐えられそうもない。
「そ、そうか。お前にもあるのだな。して、それはいつからあるのだ? お前が生まれた時からか? それとも最近のことか?」
「う〜ん…………わかんない。ずっとあるよ。パパがね、いつも触ってくれるの。大切だよっていってくれるの。わたし、なくなっちゃったけど…………」
アイソスは竜のお腹を見つめて声を落とした。コイツにとっては普通に存在した、体の一部なのだろう。だが、アルビオーネの話通りならば、呪印は良からぬ影響を与えているものであるはず。
「……グリムちゃん」
「ん、どうした、アイソス」
「わたし、病気なんだよね? 治るよね? こんなのイヤなの。パパに気持ちよくしてもらいたいの。ねえ、グリムちゃん」
「儂が治す、と言っただろうが。不安なのかもしれんが、大丈夫だ。安心して儂に任せろ」
「……うん。ありがと、グリムちゃん。わたし、ね」
「それでいい。だから、それ以上儂に近づくな」
「えっ?」
足の震えが止まらない。立っているのがやっとのようだ。いつの間にか儂は、アルビオーネの蛇身に背を預けていた。
「瘴気の染み付いたお前の体、耐えられん。その臭いもだ。だからどこかで清めてくるのだ」
「え? えっ? でも、わたし、グリムちゃんと一緒に遊びたいの。一緒にいたいの。一緒にパパのところに行こうよ。ね?」
「ち、近づくなと言っておろうがっ! アリュっ! とりあえず離れるぞっ!」
「あのですね、グリムちゃん?」
「なんだっ」
叫ぶのだが、実際は思ったような声が出なかった。体に毒が浸透してゆく感覚がある。全身が氷漬けにされたかのようにこわばり、身動きがとれなかった。
「グリムちゃん、わたしね…………ごめんね。わたし、パパのところに帰るね」
「あ? 何を急に。帰れるわけなかろう」
「あのね、わたし、帰るの」
「——あなたの住んでいた街は、向こうよ。この方向にずっと進めば、あなたの教会が見えるわ」
俯いていたアイソスは、アルビオーネ指し示す方角に頭を向けた。昏く沈んだような瞳を儂に向け、目蓋を閉じる。
「ごめんね、グリムちゃん。じゃあね」
「え、おい、待て! 行ってはだめだっ!」
瘴気振りまきながら、アイソスは儂のそばを通り過ぎる。その瞬間意識が遠のく。だが、強く肩を掴んでくるアルビオーネの手が、気を失いかけた儂を保たせていた。
「くっ、おいっ、本気で帰る気かっ! その姿で街に入ったらどうなると思っているっ! 待つんだ、アイソスっ!」
駆け出そうとしたが、アルビオーネの手がそれを許さなかった。
「放せ、アリュ! 奴を追わねばっ!」
振り返った儂を、怒りの形相でアルビオーネが見下ろしていた。