八、秘し隠しで申し訳ありません
蝉が鳴いている。どこか近くに止まっているようだ。
蝉が鳴くと夏を意識してしまう。意識したからと言って、特別何かある訳ではないが……
蝉は幼虫で数年から七年、長い場合は十年も地中で過ごし、成虫で過ごすのは僅か七日程度と言われている。
その七日間で、相手を見つけ子孫を残す為に頑張らなければならない。大変なことである。少々煩くても頑張れと応援したくなるというものだ。
そうそう蝉はカメムシの仲間らしい。カメムシ目(半翅目)に分類されている。因みにアメンボも仲間だそうだ。
清孝は朝早くから自室に篭り、ギターを片手に新しい曲の創作に取り組んでいた。清孝の場合、先にギターパートのメロディやバッキングを作ってから、ドラムやベース、キーボードのパートをパソコンで作り込んでいく。
結構手間の掛かる作業である。それでも創作に没頭している時間は、清孝にとって至福なのだ。
「もうこんな時間か……」
時計の針は昼の十二時を少し廻っている。清孝は装着していたヘッドホンを外し、空腹を満たそうと居間に向かった。
両親は二人とも、今日仕事が休みで出掛けている。久しぶりに夫婦水入らずでデートするらしい。夫婦仲が良いのは好ましいことだ。清孝としても、邪魔されずに創作活動ができるのでありがたいと思っている。
そんな清孝以外誰もいない筈なのだが、キッチンから物音が聞こえる――
清孝がキッチンを怖々覗くと……、エプロンを付けた可愛らしい少女がいた。
「真澄?」
清孝が訝しげな表情で真澄を見る。
「あ、清孝。今起きたの?」
真澄が清孝に向かって微笑んだ。
髪型はいつものポニーテールではなく、ハーフアップにしている。これはこれで可愛らしい。エプロン姿が可愛らしさに拍車を掛けている。
「いや、とっくに起きてたが。それより何故ここにいる……。というか、どうやって家に入った?」
「今朝、叔母さまから鍵を預かったの。清孝の昼食の用意をお願いって。寝てると思って静かに入ったけど、起きてたのね」
真澄が白い歯を見せた。
簡単な調理ぐらいは清孝でも出来る。態々真澄に頼まなくても――
いとこ同士とはいえ、年頃の男女が二人きりになる状況に、うちの親もそうだが真澄も抵抗は無いのだろうか?
勿論、清孝を信用していることであろうが、清孝も一応男である。清孝は、自分だけ憂慮していることに何とも釈然としなかった。
「お腹空いたでしょ?」
真澄がダイニングテーブルに、昼食を並べる。清孝の好きな挽肉たっぷりのボロネーゼである。
「ボロネーゼか。美味しそうだな」
可愛い女の子の手料理――それも校内で人気のある女子の。普通に考えるとご褒美のようなシチュエーションであるが、清孝には考えも及ばないことであろう。
「清孝は、ボロネーゼ好きよね。はいどうぞ」
スープの器が清孝の前に置かれた。コンソメの香りが食欲をそそる。
清孝は「いただきます」と感謝を述べ、ボロネーゼを口に運ぶ。挽肉にトマトソースの酸味が相まって濃厚な旨味を形成している。太めのパスタも清孝の好みの食感であった。
「美味い――!」
清孝がボロネーゼの美味しさに舌鼓を打つ。美味しそうに食べる清孝を見て、真澄が頬を緩めた。
以前、真澄から料理や家事が好きだと聞いたことがある。好きな相手に尽くすタイプの女の子なのだろう。
「真澄はきっと良い嫁さんになるだろうな」
清孝の言葉に真澄は頬を染めた。食事の手を止めて、「そ、そうかな?」と恥じらう姿も可愛いらしい。
これだけ可愛い子に尽くされて、幸せでないと言う愚か者はいないだろう。
「お前の旦那になる奴は幸せだと思うぞ。ほんと羨ましい限りだよ」
清孝の素直な称賛に、真澄が眉を寄せる。
真澄は瞳に不満の色を滲ませた後、ため息をつく。
「清孝って、本当にバカというか鈍感というか」
「なんだよ? 意味が分からないんだが……」
真澄が不機嫌になった理由が分からず、清孝は顔をしかめる。
「分からなくてもいいわ。今に始まったことじゃないし――」
真澄は不機嫌なまま、黙々とボロネーズを口に運んだ。
お腹が満たされると眠くなるのは良くあることだ。血糖値の上昇にインスリンの分泌が追いつかないことが関係しているらしい。
清孝が居間のソファーでウトウトしているのは、勿論腹が満たされた所為もあるが、早起きして曲の創作に勤しんでいたことも影響しているのだろう。
「そんなところで寝ると風邪引くわよ」
真澄がシンクで食器を洗いながら、居間のソファーで今にも寝そうな清孝に声を掛けた。
「だいじょ……ぶ……」
清孝は真澄の声に反応するが、結局そのまま寝入ってしまう。
真澄は食器を洗い終えるとソファーにそっと近づき、寝息を立てている清孝の顔を眺める。
真澄が清孝の頬を指先で軽く突く――しかし、目を覚ます気配はなく、真澄は口許を緩めた。
もう一度指先で清孝の頬を突くと、真澄は悪戯っ子のような笑みを溢す。
それから、今度は真剣な表情で、指先を頬から下唇までゆっくりと滑らせた。
真澄は唇の感触を指先で味わうと――その指先を自分の唇に添えながら頬を紅く染める。
そして、真澄は寝ている清孝の鼻頭を指で軽く弾き、「ばか……」と小さく呟いた。
どれくらい寝ていたのだろうか。意識が明瞭になるにつれ、清孝は胸の辺りに重さを感じた。
目を開けると栗色の髪が視界に入る。どうやら真澄が清孝の胸にもたれ掛かっているようだ。真澄はソファーの前で横坐りした状態で清孝にもたれ掛かり、寝息を立てていた。
息を吸い込むと、真澄の甘い香りが清孝の鼻腔をくすぐる。
清孝が少し頭を持ち上げると、真澄の寝顔が見て取れた。安心しきったその寝顔は、心臓が高鳴るほどに可愛らしく清孝を困惑させた。
――この状態が長引けば、理性を持ち続けるのは危ういだろう。
「おい、真澄! 起きろ」
清孝は顔を赤く染めながら、真澄に声を掛ける。真澄がゆっくりと瞼を開き、清孝の方へ顔を向けた。
虚な瞳に光が宿ると、真澄の顔が徐々に赤く染まる。真澄が恥じらうように視線を逸らすと、清孝も慌てて視線を逸らした。
いつもの真澄と異なる反応に、意識したことのない感情が清孝の中に溢れ出てくる。照れることはあっても、真澄はどちらかというと自分の感情をあけすけに曝け出すタイプである。こんな恥じらい方は未だ嘗て見たことがない。
清孝は身体を起こしソファーに座り直すと、激しく鼓動している心臓を落ち着かせるように深呼吸をした。
「ところで、お前は何をしてたんだ?」
「えっと、あの……、その……」
真澄が狼狽して視線を彷徨わせる。
「き、清孝に頼み事があったんだけど、寝顔を見ていたらこっちも釣られて眠たくなったのよ」
「それで俺を枕にして寝たというわけだな?」
「そ、そうよ」
真澄が頬を染めて答える。
清孝は真澄を一瞥すると、小さく息を吐く。
「で、頼み事って何だ?」
「『ぷれい屋』の今月号を借りようと思って」
『ぷれい屋』とは、ギターを中心とした楽器奏者向けの音楽雑誌である。
「そんなことか。別にいいけど」
清孝が立ち上がって自室に向かうと、真澄が少し離れてついて行く。
清孝の部屋に入るのが一年振りかそれ以上の真澄は、瞳を輝かせて部屋の隅々を眺めていた。
本棚に飾ってある置物を見つけて、真澄が口許を緩ませる。
それは、去年清孝の誕生日に真澄が贈ったスノードームだった。球形の容器にギターを弾いているサンタクロースの人形が封じ込まれている、少し珍しいものだ。
「ちゃんと飾ってあるのね。感心感心」
「お前、飾ってないと怒るだろう?」
「当たり前でしょ。もう――」
真澄が軽く睨む。清孝は肩を竦めると、本棚に並んでいる雑誌の中から『ぷれい屋』の今月号を掴み、真澄に手渡した。
タブレットPCの画面上で赤斗アルマの動画が再生されていた。無線接続されたヘッドホンからは、軽快な、それでいて叙情的なサウンドが漏れている。
「やっぱり、赤斗アルマの曲はカッコいい。文化祭のステージで演奏してみたいなぁ」
真澄は自室のベッドで寛ぎながら、タブレットPCの画面を眺めていた。
――何だろう、何処かで見たような。
真澄は、自室の白い壁をバックに撮られたと思われる映像に、既視感を覚えた。
「あれ?」
真澄は動画を一時停止させた後、映像を注意深く確認する。画面の片隅に本棚が映っているのが見て取れた。
真澄は画面をピンチアウトして本棚の部分を拡大する。そこに映っている物は、清孝の部屋に飾ってあったスノードームと同じ物だった。
真澄は赤斗アルマのギターが清孝と同じモデルなのは分かっていた。部屋の様子や同じ置物とくれば、赤斗アルマが清孝であると確信するには十分であろう。
「へぇー、なるほどね。そういう事ですか――」
真澄は悪戯っぽく口許を緩めた。