七、野郎で申し訳ありません
電車内の混み具合はそれほどでもないが、座れない程度には混んでいた。不快指数の高い街中と違って、冷房が効いている車内は快適そのものである。
清孝と真澄が電車に乗って移動している間、二人に様々な視線が注がれるのは致し方ないだろう。見目麗しい二人の女性(一人は男である)が、車内という凡常な空間から浮いてしまっているのだから。
視線は明らかに男性からのものが多い。清孝は居た堪れなくなり大きく息を吐く。
男のまま真澄と歩くと、嫉妬や殺気のこもった視線を向けられる。女装をしていると、卑猥な視線を向けられる。
嫉妬や殺気のこもった視線も嫌だが、卑猥な視線も気持ち悪く耐え難いものだ。
「女というのも大変なんだな」
清孝の呟きに「何か言った?」と真澄が顔を向けて来たが、清孝は首を振って何でもないと返した。
目的の駅で下車すると、真澄は駅前の大型複合ビルに清孝を引っ張って行く。
休日とあって館内は賑わっている。
清孝が人混みにうんざりした表情を浮かべていると、清孝の腕にふくよかな感触が伝わった。
横を向くと真澄が腕を絡めている。
「おま、何してるんだよ!」
清孝が慌てて腕を引っ込めると、真澄は「女の子同士なら普通よ」と不服そうに頬を膨らませた。
「俺は男なんだが?」
清孝が思わず漏らした言葉に、すぐ後ろにいたカップルが固まっている。カップルの驚愕した表情が見て取れた。
清孝はバツが悪そうに顔を赤らめると、真澄の腕を掴みながら足早にその場を離れたのだった。
「いいか、あまり密着するな」
清孝の赤く染まった顔を見て、真澄がほくそ笑む。
「ふうん、腕組みが恥ずかしいの? お子ちゃまだねぇ」
真澄が冷やかすような眼差しを清孝に向けた。
「それもあるが、その、なんだ……」
清孝が言い淀む。
「何よ?」
「あ、当たるんだよ、お前の胸が!」
真澄の顔がみるみる赤く染まる。どうやら真澄は気づいてなかったらしい。
「な、清孝のどすけべ!」
真っ赤な顔で清孝の腕を叩く真澄に、「理不尽だ……」と清孝は天を仰いだ。
軽く昼食を済ませた後、清孝たちはビル最上階にあるシネコンに来ていた。真澄が映画を観たいと言ったからである。
ロビーはかなりの賑わいを見せている。カップルや家族連れが多いだろうか。
「本当にこの映画でいいのか?」
清孝が眉を寄せて真澄に確認した。真澄は表情を硬くして頷いている。本当に観るつもりのようだ。
清孝が指しているのは、上映中のホラー映画、今夏一番人気の映画パネルである。
真澄はホラー映画が苦手の筈だが、友達との話題作りの為にトレンドは押さえておきたいのだろう。
チケットを購入したが、入場時間までは少し待つことになる。待っている間、清孝はロビーを見渡した。
こんな場所で映画を観るなんて何年振りだろうか。というか、何回目か数えた方が早いかも知れない。
ロビーで待っている間も視線は集まって来る。
ただ、電車や街中での視線に比べ、不快な類のものではなかった。カップルや家族連れが多い所為だろう。
上映時間が近づき、ロビーに入場のアナウンスが響く。
清孝たちは予めコンセッションで購入した飲み物を持って入口に向かう。
チケットを提示してから指定のシアターまでホワイエを歩くのだが、清孝は真澄に袖を掴まれた。
やはり怖いのだろうか。真澄の肩が少し震えている。
そんなに怖いなら観なければ良いのに――清孝が苦笑する。
普段の真澄は弱みを見せない。何があっても気丈に振る舞う女の子である。
清孝は袖を掴んでいる真澄の手に、自分の手を重ねる。真澄が思わず顔を上げた。
「観る前から怯えてどうする」
清孝が苦笑すると、真澄は顔を赤く染めて「だって、しょうがないじゃない」と唇を尖らせる。
「本当にしょうがない奴だ」
清孝はそう囁くと真澄に掌を差し出した。
「観ている間、手を握っててやるよ」
真澄は瞳を丸くして頷くと、清孝の掌に自分の手を置いた。清孝が「行くぞ」と真澄の手を握る。
真澄は手を握られて安心したのか、口許を緩ませた。
邦画ホラーは精神的にジワジワと来る怖さがあり、暫く後を引く。洋画ホラーはビジュアルで怖さを追求しているものが多く、娯楽として割り切れるので後を引かない、と言うのが清孝の考えである。
清孝はホラー映画は嫌いではない。適度にスリルを味わうのは愉しいものだ。しかし、今の清孝は映画よりもある意味怖い体験をしていた。
上映中、清孝は真澄と手を繋いでいるのだが、怖いシーンになると真澄の手に力が入るのだ。
女の子が怖くて思わず力むのは、傍から見て可愛いものである。でも、その力が強い場合は別だ。
真澄は華奢に見えるが、それなりに身体を鍛えていて握力は同学年の男子並みにある。因みに高校一年男子の握力は、四十キログラム前後と言われている。
清孝は怖いシーンになる度に、手が握り潰されるのではないかと苦悶の表情を浮かべ、映画どころではなかった。
上映が終わりシアター内が明るくなると、清孝は大きく息を吐いた。
隣の席では真澄がぐったりしている。あれだけ力んでいたのだ。疲れて当然だろう、と清孝は苦笑した。
さて、もう大丈夫だろう――清孝が手を離すと真澄が眉を寄せる。不服そうな視線が清孝の頬に刺さった。
「ほら、出るぞ」
清孝はそんな真澄を無視して席を立つと、出口に向かって歩き出した。
リスクを考えて行動することは大事なことである。予めリスクを想定し、準備することで、ある程度の回避は可能だ。
今回、清孝はリスクを想定していなかったと言って良いだろう。そう、うっかりしていたのである。
エスカレーターで階下のショッピングフロアに向かっている最中、清孝に最大の危機が訪れていた。
膀胱が悲鳴を上げたのだ。
気が緩んだ瞬間、満水目前であることを知らせるアラームが、清孝の脳に伝達されてしまった。生理現象は、一度認知したらもう後戻りは出来ない。
普段ならトイレに行けば済む話だが、今の清孝は女装中である。男性トイレに行くべきか、女性トイレに行くべきかで清孝の頭は揺れ動いていた。
男性トイレに入るとする。間違いなく奇異の目に晒されることになるだろう。或いは痴女として、後ろ指を指されることになるかも知れない。
女性トイレに入るとする。罪悪感に苛まれるのは間違いない。それに建造物侵入罪に問われると聞いたことがある。
いやいや、緊急避難が認められる場合はセーフの筈だ。
まてまて、この状況は緊急避難に該当するのだろうか。
そろそろ、マジにヤバい。漏らしたりしたら、それこそ末代までの恥になる。
神様、俺はどうしたら良いのデスカ?
「清孝、もしかしてトイレに行きたいの?」
悲嘆にくれている清孝を真澄が覗き込む。
清孝は屈むような姿勢を取り、脂汗を流しながら頷いた。
「しょうがないわねぇ……」
真澄は頭を掻くと、清孝の手を引っ張る。エスカレーターを降り、トイレへと導く。
男子トイレか? それとも女子トイレか?
トイレを前にして、究極の選択をしなければならない。
「どっちに入れば……?」
涙目で判断を委ねてくる清孝を見て、真澄が苦笑する。
「ここに入るの!」
真澄がスライドドアを開け、清孝を中に押し込んだ。
そこは、バリアフリートイレ、古くは多目的トイレと呼ばれた場所であった。男女問わず誰でも使えるトイレである。
ただ、このトイレを本当に必要としている人が、使えなくなるのは好ましくない。通常のトイレを使える人は、緊急時以外に使わないよう心掛けるのがマナーであろう。
危機が去った清孝は、晴れやかな顔でトイレから出て来た。
「あれ? 真澄がいない」
トイレの近くに真澄の姿は見えなかった。真澄もトイレか、買い物にでも行っているのだろう。
清孝は近くのベンチに腰を下ろして待つことにした。
真澄が居ない分視線の量は半減しているが、誰かに見られていると言うのは落ち着かない。
「ねぇ君、ひとり?」
清孝が顔を上げると、大学生だろうか――遊び慣れているような二人組の男が、目の前に立っていた。一人はリップピアス、もう一人は鼻ピアスをしている。
清孝が眉を寄せるとリップピアスの男は、「そんな警戒しないでよ。暇ならお茶しない?」と誘って来た。
誘い方がダサいのは置いておくとして、無視するのが無難だろう。
しかし、清孝が横を向いて無視していても、男たちは執拗に誘って来る。困ったものだ。
清孝はため息をつくと、両腕をクロスし、ばってんを作った。声を出すと男だとバレてしまうので、ジェスチャーで意思を伝える為だ。
「何それ? 面白いね、君――」
「俺知ってる。そのポーズって光線を出す奴だろ? アニメで見たよ」
どうも男たちには拒否っているのが分からないらしい。二人で光線を出すポーズをして戯れ合っている。
清孝がため息をついていると、真澄が戻って来た。
「何してるの? 清……子」
真澄は状況を見て、咄嗟に清孝の名前を変えた。
「おや、君の友だちかな? へぇー可愛いじゃん」
リップピアスの男が清孝から真澄に視線を移す。
「この二人、マジべっぴんじゃね?」
清孝と真澄に下卑た眼差しを向け、鼻ピアスの男は鼻息を荒くした。
「君たち、少し付き合ってよ」
「ごめんなさい。私たち、行くところがあるので――」
真澄が清孝の手を取ってこの場を去ろうとすると、リップピアスの男が真澄の手首を掴んだ。
「待てよ。何もしないから、少し付き合えよ」
真澄がリップピアスの男をキッと睨み付ける。しかし、男は下卑た笑みを見せるだけで、手を離す気は無いらしい。
清孝が真澄を掴んでいる男の手を払いのけ、男を睨み付ける。
「気安く触るな」
清孝がドスを利かせた声で囁く。
リップピアスの男は清孝の声音に狼狽えた。
「え? 男? え? うそ……」
男たちの瞳に驚愕の色が滲んでいる。何度も瞬きを繰り返し、清孝の顔を凝視した。
「野郎で悪かったな」
清孝は羞恥で顔を赤く染めると、真澄の手を引いて走り出した。
「あははは。あーおかしい。愉快愉快」
真澄が腹を抱えて笑っている。抱腹絶倒というやつだ。
清孝と真澄は複合ビルを抜け出し、小さな公園のベンチに座っていた。
「いつまで笑っているんだよ」
清孝は不服そうに眉を寄せる。顔は赤いままだ。
「それにしても、『気安く触るな』か。なんかキュンとしちゃった」
「うるさいな。忘れろ」
清孝は隣ではしゃいでいる真澄を一瞥すると、大きくため息をついた。