五、忘れて申し訳ございません
波乱の体育祭が終わると、本格的に梅雨の季節に入る。梅雨は鬱陶しいものだが、清孝に関してはもっと鬱陶しい事態になっていた。
体育祭以来、清孝は偶にだが校内で「あのメイドの男子」と囁かれるようになった。どうも「美少女メイド男子」と注目されているようなのだ。
先日は、上級生の女子に呼び出されることがあった。
「ちょっと可愛いからって、いい気にならないでよ!」と怨言を聞かされた。
何でも彼氏が清孝のメイド写真で呆けているらしく、構って貰えないとのクレームであった。清孝としても好き好んでメイド姿になった訳ではない。つくづく迷惑な話である。
とにかく目立たず、大人しく過ごすしかない。
登校した清孝が自分の下駄箱を開けると、見慣れない封筒が上履きの上に置かれていた。
「何だこれ?」
清孝は封筒を手に取り表裏を確認する。封筒は洋型二号封筒で白地に薄らと花が描かれている。宛先も差出人も書かれていない。
「お、ラブレターか?」
いつの間にか近寄って来た雄也が、清孝の手元を覗き込んでいる。
「ま、まさか、違うだろ?」
清孝は雄也に向かって慌てて否定する。
「山川さんには黙っているから、な」
雄也は笑いながら清孝の肩を叩いた。
「真澄に何の関係があるんだよ?」
清孝は眉を寄せる。雄也はそんな清孝の顔を見て、「あー、なるほど……」と独り言ちた。
「何だよ?」
「いや、何でもない」
雄也は手を振り、教室に歩いて行った。
昼休みの時間、清孝はトイレの個室で封筒と睨めっこしていた。
これはラブレターではなく、体育祭の時の悪目立ちに対する抗議文だろう。もし、仮に、万が一でもラブレターというものであれば、丁寧にお断りせねば――
そう言えば小学六年の時、家に遊びに来た真澄から手紙を貰ったことがあった。
いつものように揶揄っているのだろうと思って読みもせずにゴミ箱へ捨てたら、それを見ていた母親に酷く叱られた記憶がある。
好意を受けるにしろ、断るにしろ、誠意をもって対応するのが礼儀だと言いたかったのだろう。結局、あの時は真澄が冗談だと言っていたので、叱られ損だったのだが……
清孝は封筒から便箋を取り出して目を通した。
体育祭での活躍がとても素敵だったこと、今日の放課後に校舎裏に来て欲しい旨が書かれていた。
「これ……ラブレターだよな」
いくら鈍い清孝でも、これがラブレターの類であることは分かる。これは誠意をもって返事をしなければならない。
清孝は便箋を封筒に戻すと、ため息を漏らした。
「沢村くん、来てくれてありがとう」
校舎裏で待っていたのが可憐な美少女だとしても、清孝は断るつもりだった。
恋愛もしてみたいが、もっと大人になってからでも良いと清孝は考えている。今の清孝にとって高校生活を安穏と過ごすことが、何よりも重要なことなのだ。
しかし、待っていたのが男子生徒だとは――全く考えていなかった。罰ゲームか何かと勘繰ったが、相手の男子は至って真面目である。
同性愛を否定するつもりはない。ただ、清孝は恋愛に関してはストレートな人種だ。
想定の斜め上を行く事態に、清孝は眉を寄せた。
落ち着いて話を聞くと、その男子生徒は清孝の女装姿に一目惚れしてしまったらしい。そう言う意味では彼もストレートと言える。
ただ、惚れた相手が実在しないので、感情を向ける先が清孝になってしまったと言うことだろう。
その男子生徒の話だと、メイド姿の清孝の写真は生徒の間でかなり広まっているようだ。ファンクラブを作る動きもあるとか。――それだけは勘弁してくれ。清孝は大きく息を吐く。
男子生徒は清孝と話が出来て満足したのか、願望を押し付けてくるようなこともなく、「応援してます」とだけ残して去って行った。
清孝は安堵すると共に、どっと疲れを感じた。
「清孝、一緒に帰ろ――」
清孝が一人で帰ろうとしていると、真澄が近寄って来た。
「げ……」
清孝は思わず声を上げる。
「何よ、げ……って」
真澄が頬を膨らませて、清孝の脇腹にパンチを入れる。女の子だからと侮るなかれ、真澄は運動センスが良いのでパンチも的確なのだ。
「悪かった、悪かった」
清孝は少しだけ顔を歪め、謝った。
「まったくもう――」
真澄は一瞬呆れた眼差しを清孝に向けるが、直ぐに頬を緩ませる。
「清孝って、少し変わったよね」
真澄が清孝の顔を見上げる。
「変わったか?」
清孝は自分の頬を確かめるように触る。
「うん、愛想がないのは変わらないけど、自信に満ちた表情をするようになったというか」
「自分では分からんな」
「今だって、周囲から沢山視線を注がれているのに動じてないよね?」
真澄は目を細める。確かに視線を多く感じるが、以前ほどの苦痛は感じない――慣れただけかもしれないが。
「それにしても例のメイド姿、凄い人気だねぇ」
真澄は口許を手で押さえながら目を細める。清孝は頬が熱くなるのを感じ、口を結んで真澄を軽く睨む。
「私よりも人気があって嫉妬しちゃう――」
真澄は戯けた口調で清孝を見上げる。
「お前、自分が人気者だと自覚しているな」
「ふふふ」
真澄が、当然ですよと言わんばかりの視線を清孝に向ける。
実際、真澄の人気は凄いものだ。校内にファンクラブもできていると聞く。最近、真澄と歩いていると視線に殺気が混じっているのは、その所為だろう。
「しかし、先を越されちゃったな……」
真澄がポツリと呟く。
「何が?」
「いやぁ、私も清孝が化粧映えするのは分かってたんだけどね」
真澄がそう言って俯く。
清孝が首を傾げると、真澄は笑顔を作り「そうそう来月は――」と話題を変える。
「来月は期末試験だろ? しっかり勉強しないとな」
清孝が真面目な顔で即答すると、真澄はしばらく清孝を見つめていたが、「そ、そうだね……」と目を伏せた。
七月になると気温も上がり、蒸し暑さの不快感が増してくる。
清孝が通う翠川高校は、冷房設備は特別教室にだけ設置されている状況で、一般教室にはまだ設置されていない。
茹だる暑さの中で勉強させられる生徒たちは気の毒であるが、期末試験が終われば夏休みが待っている。
生徒たちはそれをモチベーションに蒸し暑さと闘っているのだ。
「暑い……」
清孝は思わず独り言ちた。あまりの蒸し暑さで授業の内容が入って来ない。下敷きで顔を扇ぐが、ぬるい風が当たるだけで不快感は変わらない。
「くすっ」
後ろの席から一瞬笑いが漏れる。清孝からは見えないが、亜弥乃は清孝の仕草を見て微笑んでいた。
亜弥乃は何を思ったのか、自分の下敷きで清孝を扇ぐ。
突然後ろからぬるい風を受けた清孝は、びっくりして身体を強張らせた。
「な、何をしているので?」
授業中なので、周囲に気付かれないよう少しだけ振り返り、小声で尋ねる。
「暑そうだったから……」
亜弥乃が屈託のない笑顔を見せる。
清孝は一瞬眉を寄せるが、「お、お構いなく」と言って前を向いた。
「先日の調査票の提出期限は明後日だからな、忘れるなよ」
授業の終わりに担任教師は、そう告げて教室を出て行った。
そう言えば選択科目や進路などの調査票を貰ってたな。明後日が提出期限か――
「ん? 明後日は七月七日……あっ!」
スマホのカレンダーを見ていた清孝は、うっかりスマホを落としそうになった。
七月七日は真澄の誕生日じゃないか……
去年、真澄が清孝の誕生日を祝ってくれた時、お返しに祝うと約束したことを思い出した。――うっかりしていた。急いでプレゼントを用意しないと……
――七月七日――
登校時、清孝は真澄と一緒にならなかったので、まだ誕生日プレゼントを渡していない。プレゼントは、清孝の小遣いで買えるリップグロスにした。嵩張る物だと学校で渡し難いからだ。
とは言え、校内で渡すのも結構難しい。
清孝は休み時間に一年二組の前を通ったが、誰にも気付かれずに渡すなんて無理そうだった。
衆目の中で渡す手もあるが、清孝にそんな勇気はない。そんなことしたら、周囲に誤解を与えかねないし、絶対恨まれる。
校内の監視の目を掻い潜って渡すなど、忍者か怪盗でもない限り出来そうもない。となると、放課後しかチャンスはない――
「真澄、カラオケ行くよー」
真澄の親友である小柳冥が、スマホを弄っている真澄に声をかけた。これから、真澄の友人たちが誕生日を祝うことになっていた。
「う、うん」
真澄はスマホをカバンにしまうと冥と一緒に教室を出た。
「そう言えば、いとこ君からプレゼントは貰ったの?」
冥が真澄の顔を覗き見る。
「知らない。あんな奴――」
真澄は頬を膨らませながら、顔を逸らした。
「あらあら、そっか。貰ってないのか」
冥は真澄の頭を撫でて慰める。
「別に期待してないから、大丈夫よ」
大丈夫と言いつつ、真澄の瞳には不満の色が滲んでいた。
真澄が大きくため息をつき、自分の下駄箱を開ける。外履きの上に小さな包みとメッセージカードが置かれているのが見えた。
真澄は眉を寄せて、小さな包みとメッセージカードを下駄箱から取り出した。
メッセージカードには、『誕生日おめでとう。遅くなってごめん』とだけ書かれている。
名前の記載はなかったが、その筆跡は見覚えのあるものだった。真澄の頬が淡く染まり、瞳に薄っすらと膜がかかる。
「おや、いとこ君からかな? よかったじゃん」
状況を察した冥が真澄に笑いかけると、真澄は口許を緩めた。
「よーし、今日はいっぱい歌うぞ――!」
真澄は元気に叫ぶと、冥を急かすようにして校舎を飛び出した。