二、見惚れて申し訳ありません
五月のイベント、中間試験が終わった。
清孝は学年三十位以内の成績で概ね予想通りの結果、真澄は五十位までもう少しだったので頑張った方だろう。きっと選んだ参考書が良かったのだ、と清孝は口許を緩めた。
流石だなと感心したのが、学年三位の亜弥乃だ。
噂ではかなり裕福な家庭で、幼少より英才教育を受けてきたとか。所謂、エリートお嬢様というやつである。
そんなことを考えながら登校していると、清孝は背中を誰かに思いっきり叩かれた。
「背中が曲がっているぞ、清孝訓練兵!」
そう言って敬礼してきたのは真澄だった。
真澄はポニーテールをゆらゆらさせて、満面の笑みを浮かべている。今日は部活があるのだろう、背中にベースギター用のソフトケースを背負っていた。
真澄は中学の時にベースを始めている。対抗意識からなのか、清孝がギターを弾き出したことがキッカケらしい。
真澄は大きなヘッドホンを装着していた。否、顔が小さいのでヘッドホンが大きく見えるのだ。
オープンエアのヘッドホンなのだろうか、音が少し漏れている。
「いきなり何すんだよ!」
「おはよう。いやぁ、ついね」
真澄が、頭を掻きながら歯を見せた。
このやり取りだけでも、周囲の刺すような視線が清孝に集まって来る。
清孝は居た堪れなくなって足早に移動した。真澄が慌ててついて行く。
「ちょっと、歩くの早いぞ――清孝訓練兵!」
真澄が唇を尖らせる。
清孝が少し歩みを遅くすると、真澄は白い歯を見せた。
「そう言えば、参考書役に立ったようだな」
清孝はチラリと真澄を見る。
真澄は何やら熱心に曲を聴いていて、話が聞こえなかったらしい。清孝の視線に気がついて、ヘッドホンの片方を耳から外す。
「ごめん、何か言った?」
「いや、何でもない。それより何を聴いているんだ?」
清孝はヘッドホンから漏れている曲に聞き覚えがあった。
「あ、これは私が今注目しているアーティストの曲。アーティストと言ってもアマチュアなんだけどね」
真澄はそう言いながら、スマホの画面を清孝に見せる。
スマホの画面で再生されている動画は、清孝が先日投稿したものだ。
「赤斗アルマという動画投稿主なんだけど、清孝知ってる?」
真澄が清孝の顔を覗き込む。
知ってるも何も本人なんだが、と言えないので清孝は視線を外し、「いや、俺はそういう動画サイト見ないから」と答えた。
「一度見てみなよ。凄くギターが上手くて、この人のインスト曲がちょー胸にしみるんだよね。うちのクラスにも何人かファンがいるよ」
真澄の嬉しそうな解説で、清孝は背中がこそばゆくなるのを感じ、頬が緩まないよう意識を集中させる。
「そう言えば、清孝のクラスの東條さん、凄い人だね」
真澄は指を顎にあてて思い出したような仕草をした。
「そうだな。中間試験、学年三位だからな」
「それもそうだけど、ピアノもかなり上手らしいよ。色んなコンクールで入賞してるって」
「へぇー、そうなんだ」
「頭が良くてピアノも上手。おまけに清楚で可憐――私にはないものばかりだ……」
真澄が大きく息を吐く。
世の中には、天から才能を与えられた人間がいる。亜弥乃もその一人だろう。でも、そういう人間だからこそ弛まぬ努力をしているに違いない。
「東條さん、うちのクラスの男子の間でも凄い人気なの。あれだけ可愛ければそうだよね……」
真澄が再び大きく息を吐く。
真澄は亜弥乃と張り合っているのだろうか? 真澄も清孝のクラスで人気がある。そもそも可愛さならタイプは違うがどっちも同じくらいのレベルだろう。
「想いを寄せている男子は多いかもな」
清孝は同意する意味で答えたのだが、真澄にはお気に召さなかったらしい。
真澄は眉を寄せてから、「清孝も?」と上目遣いで顔色を窺う。
清孝は安穏とした高校生活を送りたいだけなので、恋愛以前の問題として、亜弥乃のような目立つクラスメイトとは距離を取りたい。
「俺は別に……」
清孝が真澄から視線を外して言い淀むと、真澄は突然頬を膨らませて「先に行く!」と走り出す。
「何なんだ……?」
清孝は、困惑した表情で真澄の後ろ姿を眺めていた。
「彼女さんと喧嘩したのですか?」
一時限目と二時限目の休憩中、後ろの席の亜弥乃が清孝に近づきそっと耳打ちする。
いきなりの耳打ちに、清孝は腰を浮かせて亜弥乃へ顔を向けた。亜弥乃の声音が清孝の鼓膜をくすぐり、清孝の頬は羞恥で赤く染まる。
亜弥乃は慌てた様子の清孝を眺めて、何やら嬉しそうに目を細めていた。――このお嬢様は油断できない。
朝の真澄との様子を見られていたのだろう。清孝は動揺を隠す為に咳を一つする。そして、亜弥乃から顔を逸らし「喧嘩もしてないし、彼女でもないから」と答えた。
それにしても亜弥乃は、何故清孝に話しかけてくるのだろうか。
亜弥乃が、他の男子生徒に自ら話しかけるところをあまり見たことがない。勿論、話しかけられれば相手をしているが、どうも男子に対して警戒心を持っているように感じられるのだ。
清孝は前を向くと、動揺を悟られないよう次の授業の教科書をパラパラと捲った。
放課後、清孝は偶然にも音楽室の前で足を止める。
担任の教師から頼まれた用事で、偶々音楽室の前を通ったのだが、漏れ聞こえるピアノ演奏に心を奪われたのだ。
清孝はピアノのことは詳しくない。でも演奏者の技量とかは何となく分かる。
同じ楽器、同じ旋律であっても演奏者の技量や感性で全く別物になってしまう。このピアノを弾いている人物は相当上手い。
清孝が扉の窓越しに中を覗くと、クラスメイトの亜弥乃の姿が見える。
亜弥乃が奏でる旋律は繊細でありながら力強く叙情的であり、清孝は亜弥乃の演奏に見惚れて、しばらく聴き入っていた。
亜弥乃は演奏中誰かの視線を感じ、それが清孝のものだと気付くと演奏を中断する。そして、清孝に向かって微笑みながら手招きをした。
突然亜弥乃に手招きをされた清孝は、音楽室の扉を開けて中に入り、バツが悪そうに視線を下げる。
「ごめん、覗くつもりはなかったんだ」
「いえ、それは構いませんよ。沢村くんは、ピアノが好きなのですか?」
亜弥乃は責めることはせず、寧ろ嬉しそうに微笑んだ。
「まぁ、ピアノに限らず楽器はどれも好きかな。ピアノは弾けないけど……」
「そうなんですね。沢村くんは、何か楽器を嗜んでいるのですか?」
「ギターを少し……」
清孝はは恥ずかしそうにポツリと答える。
「ギターですか――そうだ、今度聴かせてください」
亜弥乃が手を軽く合わせて、瞳を輝かせる。
「いやいやいや、俺上手くないから」
清孝は両手を前に出し、頭をブンブンと振った。――人前で弾くなんて、考えただけでも恐ろしい。
「そうですか……」
亜弥乃が残念そうに肩を落とす。
清孝は亜弥乃があまりにも落胆しているので、話題を変えた。
「そ、それにしても東條さんはピアノが上手いね。感動して聴き入ってしまったよ」
清孝の言葉に亜弥乃は頬を薄っすらと染める。
「そう言って頂けると嬉しいです。幼い頃から弾いていたのでそれなりにですけど」
亜弥乃は謙遜しているが、それなりの上手さではない。こう言っては当校の音大出身の教師に失礼だが、亜弥乃の方が遥かに技量は上だ。
清孝にとって、亜弥乃はあまり関わりたくないクラスメイトである。しかし、今は亜弥乃との会話も嫌な感じはしない。恐らく周囲に人がいない所為で、嫌な視線に晒され無いからだろう。
亜弥乃がクラスにいる時よりも表情に硬さがないのは、清孝と二人きりだからだろうか。
もしかして、亜弥乃が清孝に話しかけてくるのは、亜弥乃もクラスに馴染めておらず、清孝に近しいものを感じたからなのかも知れない。
清孝はもう少し亜弥乃の話に付き合うことにした。