一、馴染めなくて申し訳ありません
入学式から一月近く経てば、新しいクラスに馴染み、一人や二人仲の良い友達が出来てもおかしくはない。
しかし、翠川高校一年四組の沢村清孝は、クラスに馴染むつもりも、友達を作るつもりもなかった。
清孝は高校生活に青春イベントを求めておらず、卒業まで安穏と過ごすことが出来れば十分と考えていた。
孤立し、独りでいても寂しくはない。寧ろ、独りでいる方が気が楽だと思っている。余計なことに煩わされることがないからだ。
恐らく清孝は、マズローの法則における物質的欲求が満たされていれば、それで満足なのだろう。現実に於いては――
清孝は小学校低学年の時に、父親の仕事の都合で転校を繰り返している。
転校する度に交友関係がリセットされ、「初めまして、こんにちは」が繰り返されるのだ。友達作りそのものが煩わしくなってしまうのも頷ける。何事も最初に一番労力を使うのだから。
それに転校生というだけで虐められることもあった。
得てして転校生というのは目立つものである。意味もなくクラスの人気者に祭り上げられることも多い。それは一部のクラスメイトの嫉妬を買うことにもなってしまう。
男の嫉妬というものは、女の嫉妬と比較にならないほど怖いと誰かが言っていた。それは、対象を社会的に抹殺してしまうことを躊躇わないものだからだ。
それ以来、清孝は友達を作ることを、自らの意思で放棄した。
清孝にとって転校は好ましくないイベントであったが、それで親を恨んではいない。
友達が作れないのは、あくまで自分に問題があると思っている。同じ環境に置かれた人間が、同じように友達を作れないとは限らないからだ。
それに親からは愛情を感じているし、育てて貰えるだけありがたいとも思っている。一度だけ、初恋をした直後に転校した時は、流石に親を恨めしく思ったようだが……
しかし、世の中にはそうした友達不要論を唱えている人間に対して、接触を試みる奇抜な人間もいる。
「清孝――いる?」
昼休みが間もなく終わろうとする時刻、教室の入口から顔を覗かせたのは、その奇抜な人間に当て嵌まる山川真澄だった。
「あれ、二組の山川さんだ」
「うちの東條さんも可愛いけど、山川さんもやっぱ可愛いな」
「清孝って誰だっけ?」
クラスの男子に騒めきが起こる。
真澄は清孝のいとこであり幼馴染だ。同い年だが、誕生日は真澄の方が早い。
真澄の母親と清孝の母親はとても仲の良い姉妹で、今でも頻繁に交流がある。幼い頃は清孝も、母親に連れられて真澄の家によくお邪魔していた。中学生になって流石にこちらから行くことは無くなったが、真澄は今でも頻繁に訪ねてくる。
真澄は、大きな瞳に長い睫毛、艶やかな栗色の長い髪をポニーテールにしている。可愛らしい容姿もさることながら、誰とでもフレンドリーに接する真澄は男女問わず好感度が高く、入学早々注目を浴びていた。
真澄は机に伏せて隠れている清孝を見つけると頬を緩め、栗色のポニーテールを揺らしながら教室に入って行く。
クラスメイトの視線が真澄を追いかける。そして、真澄が見下ろしている清孝に注がれた。
どういうこと?――クラスメイトのそんな視線を感じた清孝は、少しだけ眉を寄せる。
「クラスに馴染めない清孝くん」
真澄が茶化してくるのはいつものことだ。
清孝は気にする素振りを見せず、「馴染めないではなく、馴染まないだ。何か用か?」と真澄を見上げる。
入学してから、登下校時や廊下で絡んでくることはあったが、真澄が清孝の教室を直接訪ねてきたのは初めてかもしれない。
「今日、帰りにちょっとだけ買い物付き合ってくれない?」
真澄は両手を合わせて片目を瞑った。
クラス中の視線が清孝に固定され、清孝は居た堪れなくなった。――昨日までの安穏としていた日々が懐かしい。
いつの間にか周囲は静まり、クラス中の生徒が聴覚を研ぎ澄ましている。
清孝は大きく息を吐き「わかった、わかったから」と掌をひらひらさせて、早く自分の教室へ戻れと促した。
「ありがとう――清孝!」
真澄は満面の笑みを浮かべ、ポニーテールを揺らしながら教室を出て行った。
クラスの男子が再び騒めき始める。
男子が騒ぐのも無理はない。学年でも可愛い上位に入るような女の子が、クラスに馴染めずにいるよく分からない男子を訪ね、親しげにしていたのだから。
「さっきのは、沢村くんの彼女さんですか?」
清孝の後ろの席に座っている東條亜弥乃が、爽やかな声で話しかけて来た。
突然話しかけられて、清孝の脳は三秒ほど活動を停止する。
清孝でなくとも殆どの男子は、亜弥乃に話かけられれば同じような状態になるだろう。
清楚で可憐なお嬢様――なにせそんな言葉がぴったりと当て嵌まる女の子なのだ。亜弥乃も入学早々注目されているが、彼女は男子の人気が特に高かった。
脳が活動を再開し、清孝がゆっくりと後ろを振り返る。清孝の視界に微笑む亜弥乃の姿が入り込む。
収まりかけたクラスメイトの視線が、また清孝に注がれた。
今日は厄日に違いない。胃が痛くなってきた――清孝は思わずみぞおちを押さえる。
「いえ、ただのいとこですよ」
そう声を絞り出してから、清孝は平常心を取り戻すべく努める。
「そうですか。山川さんと言いましたか? 可愛い人ですね」
会話を長引かせる訳にはいかない。清孝は「ええ、まぁ」と適当に相槌を打ち視線を逸らした。
機転の利く男子なら「東條さんも可愛いですよ」とでも言って仲良くなるチャンスを窺うことだろう。
しかし、清孝にそれを求めるのは酷である。クラスメイトの視線が集まる中、これ以上の会話は清孝の精神が羞恥で崩壊しかねない。
清孝は、早く始業のチャイム鳴れ!――と神様に祈っていた。
放課後、清孝が帰り支度をしていると、真澄が迎えに来た。
「清孝様――お迎えに参りました」
清孝は返事をせずに鞄を肩に担ぐと、真澄の方へ歩いて行く。真澄は「ノリが悪いなぁ」と唇を尖らせて清孝の腕をペチペチ叩く。
真澄と並んで歩くと直ぐに、嫉妬成分増し増しの視線が集まって来た。視線は殺人兵器になり得るかもしれない――清孝はそんなことを考えながら真澄の横顔を眺める。
真澄にも清孝とは異なるが視線は注がれている。しかし、周囲の視線を感じていないのか、気にしていないのか、平然としていた。真澄にとってこの程度の視線は当たり前のことなのかも知れない。
「それで、どこに行くんだ?」
「駅前の本屋さん」
「本を買うのに、何故俺が必要なんだ?」
清孝は眉を寄せる。
「いやぁ、参考書を買おうと思ってさ。ほらもうすぐ中間試験じゃない? どれ選んで良いか分からないから」
真澄は少し照れくさそうに笑った。
清孝は大きくため息をつく。
「それ俺じゃなくても良くないか?」
「清孝が選んだ参考書で頑張りたいという、乙女心が分からないかなぁ」と真澄が唇を尖らせる。
「どんな乙女心だよ」
そんな清孝の言葉に真澄は歩みを止めた。
真澄は口を結び、眉尻を少しだけ下げている。何か言いたそうな顔――真澄は時々こういう表情を見せることがある。
清孝はいつも困惑するが深く考え無いようにしていた。
しばらくして真澄は「清孝は、バカだよね」と頬を膨らませ、そっぽを向く。
「おい、そのバカが選ぶ参考書で勉強するのは誰だ?」と清孝がやり返すが、真澄は顔を背けたまま鼻を鳴らした。
参考書を選んで真澄を家まで送り届けた後、清孝は電車に乗り隣の駅で下車した。この駅の商店街には大きな楽器店がある。
清孝は楽器店に入り陳列棚の物色を始める。
お目当てのアーニーボールのギター弦を手に取ってレジに向かう。アーニーボールは、尊敬するギタリストが使用していると言うだけで使い始めたのだが、今は普通に気に入っていた。
レジに向かう途中のギター展示ブースで、清孝は一本のエレキギターに目を留める。
「これ、試奏できますか?」
清孝は近くにいた大学生風の店員に尋ねた。
「できますよ」
店員が展示してあったギターをチューニングして清孝に渡す。
「エフェクターは何か使います?」
「アンプだけで大丈夫です」
清孝はギターを受け取ると弦を静かに鳴らした。ピックアップで拾った弦の振動が、クリーンなサウンドとしてアンプのスピーカーから発せられる。
清孝はアンプの摘みを回し、音を少し歪ませた。
最初は確かめるようにゆっくり音を刻んでいたが、徐々にスピードを上げる。――弾き易くて良いギターだ。
清孝が試奏を終えてギターを店員に返すと、口を開けて凝視していた店員が笑みを見せる。
「君、上手いね。びっくりした」
「まだまだです。ありがとうございました」
清孝はレジで弦の支払いを済ませると店を後にした。
ギターは清孝の趣味の一つである。
ギターを始めたキッカケは、中学でも友達ができない清孝のことを心配した父親が、何か自信になるものをと薦めてくれたのがギターだった。
スポーツでも音楽でも何か没頭できるものがあると、やがてそれが自信に繋がっていく。
ギターを薦めてきたのは、父親も学生の頃に少し嗜んだことがあり、教えることができるからと考えたのかも知れない。
清孝は中学一年の夏休みに父親と一緒にギターを買いに行き、店員に薦められてフェンダーのストラトキャスターを買っている。
ギターが上達して、清孝は少し自信を持つようになった。
しかし、バンドを組んだり、腕前を披露したりすることはしなかった。基本的に目立つのが苦手なのだ。
自分に自信を持つようになったが、仲の良い友達はできていない。
その代わり中学三年の頃から、オリジナルのインスト曲の創作に精を出すようになった。
パソコンとソフトがあれば、ギター以外の楽器も奏でることができる。
清孝はギターパート以外をパソコンで作り、ギターを重ねていく一人セッションに没頭した。
ある時、一人セッションを動画に撮って、動画サイトに投稿しようと考えた。勿論、身バレ防止の為に顔は映らないようにしてだが。
清孝は『赤斗アルマ』という名前で大手動画サイトにチャンネルを開設、オリジナルのインスト曲の投稿を始める。
演奏動画は清孝のギターの巧さもさることながら、インスト曲の出来も評価され、赤斗アルマは徐々に人気を博して行く。
こうして赤斗アルマは、清孝の精神的欲求を満たす、もう一つの顔となった。