6.生魚、それは貴族への試練
それから市場を回り、色々なものを買いまくった。小エビやアサリの干物、煮干しをたくさん、それにホタテの貝柱の干したやつまで。
ホタテはよそから運ばれてきたものらしく、高くてあまりたくさん買えなかったけれど。
それより何より、昆布と運命の出会いを果たすことができたのが嬉しかった。
この辺りではあんまり使う人がいないとかで、店の片隅にひっそりと置かれていたそれを見つけた時、喜びで狂喜乱舞してしまった。
「そんな板のようなものの、何がいいのだ」
「これは私の目指す料理に、なくてはならないものなのです」
昆布がぎっしり入った袋をしっかりと抱きしめる私に、ディオンがうさんくさげな目を向けてくる。
「まったくお前は、訳が分からん……それより、どうしてさっきから干物ばかり買っているのだ」
「生のものは日持ちがしませんから。機会があれば、そちらも調理してみたいとは思っていますが」
「ふむ……ならば私から伯父上に頼んで、新鮮な魚を運ばせるように手配しようか」
「いえ、つつしんで辞退します」
私が料理をしているのは、あくまでも記憶の中の懐かしい味を再現したい、ただそれだけの理由なのだ。だからできる限りひっそりとやりたい。目立ちたくない。
しかも、彼の伯父にして今の私の主であるサレイユ伯爵については、いい話を聞かない、というか悪い話ばっかり聞こえてくる。だから伯爵に目をつけられるようなことは、避けておくに越したことはない。
しかしディオンは、私の返事を聞いてあからさまにがっかりした顔をした。
「……そうか。お前が新鮮な魚を料理したら、どうなるか興味があったのだが」
こうも分かりやすくしょんぼりされた顔をされると、少々後ろめたく思わなくもない。
馬車を出してもらったし、焼きイカを一緒に食べてくれたし、少しくらいお礼をしてもいいような気がしないでもない。ほんのちょっぴりだけだけど。
しかし、どうしたものか。焼き魚も煮つけも、醤油や味噌がなくては和食っぽくならない。普通の料理を出したら、それはそれでディオンががっかりしそうな気がしなくもない。
眉間にぐっとしわを寄せながら、辺りの店を眺める。ふと、あるものに目が留まった。
「……ディオン様。今日の夜食に、新鮮な魚を使ってみようと思います」
そうつぶやくと、ディオンが露骨に顔を輝かせた。しかし、ここで言っておかなければならないことがある。
「ただその夜食は、あなたには少々……いえ、かなり受け入れがたいものになるかもしれません。それでも、食べにこられますか?」
彼は私が何を言っているのか分からなかったのか、鮮やかな紫の目を見張って一瞬たじろいだ。しかし彼は、すぐに胸を張って言い切った。
「ああ、望むところだ」
どうもそれは若干のやせがまんを含んでいるようだったが、とにかく返事はもらった。あとは必要なものをそろえて、料理しまくるのみ。
あちこちの店を回ってさらに買い物を始めた私のあとを、ほんの少し不安そうなディオンがついてきていた。
そうして、またディオンの馬車に乗せてもらって屋敷に戻る。今日は休みの日なので、ひとまず自室に引っ込んだ。
最近私が厨房に出入りし過ぎているせいで、料理長の視線がちょっと痛いのだ。だから、できる限りの作業は自室で済ませようと思う。
昆布を小さく切って、水につける。さらに別の器に水を張って、頭とわたを取った煮干しを数匹入れた。
要するに、念願の出汁を取っているのだ。こうしていると、鰹節があったらなあと思わずにはいられないけれど。
そのまま待つこと数時間、夕食とその後片付け、さらに明日の朝食の下ごしらえを終えて、屋敷が、というか厨房が静かになった頃。
出汁の入った器を両手に持ち、食材の入ったリュックをしょって、忍び足で厨房に向かう。そうしたら、なんとディオンが既にそこで待ち構えていた。
びっくりして器を取り落としそうになったが、ぎりぎりのところで持ちこたえる。
「どうせなら、作っているところから見せろ」
そんなものを見ていて何が楽しいのだろうか。退屈しているんだろうか。そう思いつつ、てきぱきと準備を進めていく。
まずは出汁を鍋に入れて、軽く煮立たせる。沸騰する前に昆布を取り出して、薄切りにしたシイタケを放り込んだ。
その間に、魚に取り掛かる。大きな魚の切り身に鉄串を刺す。初めての作業だけど、まあなんとかなった。
さらに別のかまどにわらを入れて、直接火をつける。たちまち、ふわりと炎が立ち昇った。
部屋の片隅から、ディオンが驚いている声が聞こえる。それは無視して、魚を炎にさっと突っ込む。表面だけに焼き目をつけたら、あとは冷まして切るだけだ。
次は、薬味の準備だ。タマネギはスライスしてから水にさらす。ニンニク、それにネギとショウガをとにかく刻んで刻んで刻みまくる。
その頃には、鍋の出汁もいい感じに煮えていた。火からおろして、少しだけ別の小鍋に移す。
今度は小鍋を火にかけて、さらに煮つめる。塩を多めに入れて、コショウをぱらぱら。適当なところで、小鍋を火から下ろして水につけ、一気に冷ます。ついでに、レモンをたっぷりと絞って加えた。
これはタレになる予定だ。本当なら醤油かポン酢、もしくはめんつゆ辺りを使いたいところだけれど、どれもないのだから仕方ない。
大きな皿に薬味をしいて、切った魚を並べる。さらに上からも薬味を散らす。別の小皿にタレを入れた。メインは、これでできあがりだ。
それから鍋に残った出汁の味を調えて椀に盛り、イタリアンパセリを数本浮かべた。こちらはシイタケのお吸い物だ。
「ディオン様、できましたよ」
「おお! ……おい、これはまさか、生魚……か?」
貴族は生魚を食べる風習がない。それはこの十八年の人生の間に実感していた。しかし昼間メーアの町で、生魚を食べている人たちをちらほら見かけたのだ。
白身の魚をかなり薄く切って、塩と油とハーブとレモン汁をかけた、カルパッチョ風の料理が多かった。あと、刺身に塩をつけて豪快にほおばっている人たちも割といた。
彼らが食べているのなら、私たちが食べても問題ないはずだ。そう考えた私は、カツオのたたきっぽいものを作ろうとしていたのだ。このカツオは生で食べても大丈夫だと、店のおじさんに確認は取ってある。
「はい、生魚ですよ。新鮮な魚をおいしく食べるには、これが一番ですから」
立ちつくしているディオンを尻目に、さっさと席につく。
「ディオン様、食べられないのなら、私が先にいただいてしまいますが」
「あ、ああ……構わない、先に食べていてくれ」
どうやら彼は、私のことを毒見係として利用するつもりらしい。その気持ちは分からなくもないけれど、少し腹が立つかもしれない。
しかしそんないら立ちも、おいしそうな料理を目にしていては長く続かなかった。たっぷりの薬味を乗せたカツオの一切れを、小皿のタレにどぼん。大きく口を開けて、一気に頬張る。
「……おいしい……醤油なしでも、結構いける……お米……お米食べたい……」
最近夜食の食べ過ぎで、ちょっと太ってしまったような気がしていたのだ。
体重は計っていないけれど、メイド服のウエストがちょっときつくなっている。だから深夜の炭水化物は控えめに、だ。
幸せだなあと思いながらお吸い物を飲んで、またカツオを頬張る。
そうしていると、隣のディオンがそろそろとフォークを手にするのが見えた。その手がちょっぴり震えている。そんなに怖いか、生魚。
しかしさすがは貴族、優雅な動きでカツオに薬味を乗せ、タレにつけてゆっくりと口に運んでいる。
「……………………美味、だ。……たぶん」
ものすごく間があったし、たぶんとか言っている。やはりいつもと違う反応だ。知らん顔をしながら、こっそりとディオンの様子をうかがう。
彼はやはり大いに戸惑った顔をしていたが、それでも二切れ目を口にした。やがて、その口元に小さな笑みが浮かんでくる。
普段は偉そうなこと極まりない彼だが、こうやっておいしいものを食べている間だけは、まるで子供のように純粋な表情をしていた。ずっとこうなら、可愛げもあるのに。
そんなことを思いながら、私もカツオをもう一口頬張った。