5.とれたて、丸焼き、丸かじり
それからも、私はちょいちょい暇を見つけては、和食っぽいものを再現しようと頑張っていた。しかしどうにも、はかばかしくなかった。
だいたい和食を再現しようとすると、もれなく醤油か味噌、最低でもお出汁が必要になってしまうのだ。
味噌は今仕込んでいる途中だ。こちらは今のところ、うまくいっている気がする。
これなら、そろそろ醤油を仕込んでもいいかもしれない。
けれど味噌より醤油のほうがちょっぴり面倒で、そして余計に時間がかかるのだと、そう習った。
そんなこともあって、醤油の仕込みをずっとためらっていたのだ。しかしいい加減、覚悟を決めるべきだろう。
「醤油については今度仕込んでみるとして、ひとまずお出汁をどうにかしてみましょうか」
この間、ラーメンのスープとして鶏ガラスープを作った。しかしあれは結構手間がかかるし、ちょっとこってりした感じの味になってしまう。ここはどうにかして、海産物の出汁を取りたい。
そう判断した私は、お休みの日を使ってまた出かけることにした。
サレイユ伯爵の屋敷のすぐ近く、海のそばにあるメーアの町では、海産物を多く取り扱っているのだと料理長が教えてくれたのだ。
家から持ち出してきた金貨もまだ残っているし、お給料もある。久々のショッピングもいいかもしれない。
問題は、メーアまでの道のりだ。ここからメーアまで、乗り合い馬車とかそういった感じのものは出ていない。だからただのメイドである私は、そこまで歩いていくしかない。
朝一番に屋敷を出ても、戻ってくる頃には間違いなく日が暮れている。それに帰りは、たぶんかなり荷物が増えてしまう。
それを担いで夜道を歩くのは怖い。この辺は盗賊なんかは出ないし、人里が近いから野の獣もめったに見かけない。
それでもやっぱり怖いなあと尻込みしながら、屋敷を出た。前に出かけた時と同じように、メイドの制服を着て。そのまま勝手口を出て、正門に回る。
「おい、アンヌマリー。お前は出かけるようだな。ちょうど私は、今日暇なのだ。私の馬車に、お前を乗せてやらなくもないぞ」
屋敷の前には、馬車が一台。そしてその前に、ディオンが仁王立ちになっていた。
関わり合いになりたくないなあ、と思いながら、会釈してその横を通り過ぎようとする。しかし彼の手は、私が背負っているリュックをしっかりとつかんでいた。
「おい、逃げるな。お前がどこに行こうとしているのかは、把握済みだ。料理長から聞いたぞ。メーアの町に、魚や貝を買いにいくつもりなのだろう。しかし女の足では、戻ってくるのが深夜になるぞ」
「覚悟の上です」
「だったらなぜ、私の馬車に乗らないのだ!? 歩かずに済むし、ずっと早く着くし、おまけに重い荷物を背負わずに済むのだぞ!?」
ディオンは私の行動がよほど予想外だったのか、あせりながらそう主張してきた。確かにそうなのだけれど、彼にはあんまり借りを作りたくない。たぶん、その対価は私の夜食のおすそ分けだから。
しばらく悩んだ末、ディオンの誘いに乗ることにした。ここで押し問答していては、さらに帰りが遅くなってしまう。さすがに、日付が変わってから帰宅するのは嫌だった。
港町メーアまでの道中、ディオンは異様に上機嫌だった。お前は何を買うつもりなのだとか、それで何を作るつもりなのだとか、そんなことを聞き続けてくる。
こいつにはプライバシーの概念というものがないのか。そんな言葉をいくどとなく飲み込みながら、どうにかこうにか彼の質問をかわし続けた。
おかげでメーアの町に着いた時には、もうすっかり疲れ果てていた。これなら、自分の足で歩いたほうがましだったかもしれない。
「送っていただき、ありがとうございました。それでは」
ディオンに背を向けて、すたすたと歩き出す。この町に来るのは初めてだし、どこに何があるのか分からない。けれど海産物を取り扱う店は、きっと海の近くにあるはずだ。
適当にそうあたりをつけて、海岸のあるほうに向かって進んでいく。
あっ、潮の香りがしてきた。この分だと、海はすぐそこだ。
「おい、アンヌマリー」
行く手が何だか騒がしい。耳を澄ますと、安いよ安いよ、という威勢のいい掛け声が聞こえてきた。間違いない、そっちで何か売っている。
「おい、待て」
とってもいい匂いがしてきた。たぶん魚介を焼いているんだと思う。ただ塩焼きにしただけでもおいしいんだよね、とれたては。
欲を言えば醤油があれば最強なんだけど。あと大根おろし。すだちもいいなあ。
「だから、待てと言っているというのに」
腕をぐいと引かれて、しぶしぶ立ち止まる。当然というかなんというか、私を引き留めていたのはディオンだった。
「まだ私に、何か御用でしょうか? 私はこれから買い出しなので、忙しいのです。ディオン様はお暇とのことですが、でしたら海でも見に行かれては?」
なぜ、彼はこうもしつこく私を呼び止めているのか。私は買い物をするとずっとそう宣言しているし、そんなものを見ていても面白くないだろう。
そういった思いを込めて、できるだけ冷静に言い返す。それから無言でじっと見つめると、ディオンは面白いくらいにたじろいだ。
「海には興味がない。お前の買い物に私も同行させろ。馬車を出してやったのだ、それくらい構わないだろう」
彼がどうして同行したいのかはやっぱりさっぱり分からないけれど、ひとまずうなずいた。仕方ない、邪魔をしなければ良しとしよう。
そうして今度は、二人並んで歩き出した。海のすぐ近くに簡素な小屋がずらりと並んでいて、所狭しと品物が広げられている。どうやらそこは、市場のようだった。
間違いなく今朝とれたばかりに見える新鮮な魚や貝、ふっくらとつややかな干物。
さらにそれらを使った料理を出している店もあって、見ているだけでもお腹がすいてくる。きちんと朝御飯は食べてきたのに、さっきからよだれが出そうだ。
「それで、お前は何を買うのだ?」
「魚でも貝でも、良さそうなものを」
「そうか、ならばあれはどうだ?」
ディオンは不思議なくらいに乗り気で、近くの店先に並んだ魚を指さしている。そこには、特大のマグロが丸ごと一匹、ずどんと置かれていた。
あんなもの、どうやって持って帰れというのか。馬車が生臭くなりそうだし、そもそもあんなものさばけない。
「悪くはないですけど、あそこまで大きいと私の手には余ります」
そう言ってから、すかさずディオンに向き直る。少しおとなしくしていてもらわないと、品物を選ぶどころではない。
「買うものを決める前に、まずは一通り見て回ります。綿密な調査と吟味が、大切なのですから」
落ち着いた声でそう言い聞かせると、さすがのディオンも神妙な顔になった。さすがにこれなら、私の邪魔をすることもないだろう。
そう思いつつ、粛々と店巡りを再開しようとする。その時、懐かしいものが目に入った。さっきの宣言をころっと忘れて、思わず浮かれた声を上げてしまう。
「あっ、焼きイカ売ってる!」
近くの店先に、バーベキュー台のようなものが置かれていた。その金網の上では、竹串に突き刺した小ぶりのイカが丸焼きにされている。
男爵令嬢として生まれてからこっち、丸ごと焼いたイカなんて口にした覚えはない。たまに、輪切りにされて煮込みなんかに入っているくらいだ。
でも大学生だったあの頃は、お祭りの時なんかにちょくちょく食べていた。
「おっ、そこの嬢ちゃん、これが気になるかい?」
イカを焼いていたおじさんが、満面の笑みで手招きする。ふらふらとそっちに寄っていって、いい匂いを上げているイカをじっと見た。
「塩焼き……にしては、ちょっと違う匂いがしますね」
「だろう? 俺の家に代々伝わる秘伝の塩を使ってるんだぜ。こいつを一振りすれば、とれたてのうまいイカがさらにうまくなる! どうだ、食べてみたくないか?」
とっても食べたい。私は流れるような動きでお財布を出して、焼きイカを一つ買った。
そのままかぶりつくと、弾力のあるイカのぷりっぷりの歯ごたえと、潮臭さを感じさせる力強い塩の味、そして複雑なハーブの香りが口の中いっぱいに広がった。
焼きイカなら焦がし醤油一択だ。そう思っている私にも、素直においしいと思える味だった。
「まあ、とってもおいしいです」
豪快にイカにかぶりつく私を、おじさんはさらに嬉しそうな顔で、ディオンは面食らった顔で見ていた。
「おや、そっちのお連れさんは貴族様かい? それならさすがに丸かじりは、ちょっと無理だなあ」
「おいしいですよお、ディオン様。こんなもの、食べたことがないのでは?」
困惑するディオンに見せつけるように、さらに焼きイカをかじる。このおいしさにありつけないなんて、貴族はかわいそうに。
「店主! 私も、一つもらおう!」
にやにやしていたら、何とディオンが突然そんなことを言い出した。半ばやけになっているような口調だ。
私が彼を挑発したのは認めるし、この焼きイカがおいしいのも事実だ。
しかしまさか、ディオンが丸かじりに挑戦するとは思わなかった。どれだけおいしいものに執着しているんだ、こいつ。
私とおじさん、それに周囲の店の人間や通りすがりの人たちが注目する中、ディオンは食い入るような目でイカを見つめていた。
それからおそるおそる、一口かじる。小鳥がつっついたような小さな一口ではあったが、彼はぱっと顔を輝かせた。
「なるほど、これは確かに美味だ!」
固唾をのんで見守っていた周りの人々から、歓声が上がる。なんだか、すっかり見世物になっているような気もする。
それからディオンは、あくまでも上品に、しかし一生懸命焼きイカを食べ進めていた。
そのさまが面白かったのか、それともおいしそうに食べる彼の表情にそそられたのか、周りの人々が次々と焼きイカを買い始めた。
辺りには人だかりができ、焼きイカは飛ぶように売れていった。焼くのが追いつかないぜ、とおじさんは嬉しい悲鳴を上げていた。
私たちは大いに感謝され、そしておみやげまで持たされて、その店を後にしたのだった。