3.おにぎりと偉そうな青年
お弁当箱をしっかりと抱えたまま、すぐ前に立っている人を見上げる。
私よりちょっと年上か、それとも同年代か。貴族の略装をまとっている彼は、一応かなりの美形ではあった。
軽く波打った淡い金髪、アメジストのような鮮やかな紫の目。少々気の強そうな目つきに、自信たっぷりの笑みを浮かべた口元。
美形ではある。だがちょっと、いやかなり偉そうだ。
私とはあんまり馬が合いそうにないなあなどと思いながら、メイドらしく頭を下げる。彼がどこの誰だか知らないが、少なくとも今の私よりは立場が上だろう。
「今日は休みをいただいておりまして、少々探し物をしておりました」
「お前、アンヌマリーだろう。伯父上のところに新しく雇われた」
どうやら彼は、今の主であるサレイユ伯爵の甥っ子らしい。面倒な相手に見つかった気がする。
「私はディオン・サレイユ、いずれ伯父上の跡を継ぐことになる者だ。つまり、そのうち私はお前の主人となる」
うげ、という声が出そうになって、あわてて飲み込む。目の前のディオンが主になるというのは、十分すぎるくらいにうっとうしそうな気がしたのだ。
ごまかすように礼儀正しく頭を下げて、また上げる。ディオンはその間、私の手元をじっと見ているようだった。
「ところで、お前が食べているそれはいったい何だ?」
「……米に魚を混ぜて、丸くにぎったものです。こちらは野菜のピクルスです」
「見たことのない料理だな。もしかしてお前が作ったのか?」
「はい」
「少し分けてくれ。さっきからずっと、気になっていたのだ」
その言葉に、ちょっとだけためらう。主君筋の彼には、下手に逆らわないほうがいいだろう。
でも彼の偉そうな態度は、ほんの少し気にさわる。それに、このおにぎりとお漬物が彼の口に合うかは分からない。合わなかった場合、面倒なことになりそうだ。
しかしこのまま断り続けても、らちが明かなそうだ。どうも彼は、かなり意志が強い、それも面倒くさいほうに強い人間のような気がする。
そんなことを考えながら、まだ手をつけていないおにぎりを半分に割って、ディオンに差し出した。丸ごと一個くれてやるつもりはない。
しかしディオンは、アメジストの目を真ん丸にして、それから眉間にしわを寄せた。
「皿は? フォークとナイフはないのか?」
「……ございません。これは手づかみで食べるのが、正しい作法なのです」
きっぱりと言い放ち、おにぎりを押しつける。手本を見せるように、残り半分のおにぎりをかじってみせた。
ディオンは半分のおにぎりを手に戸惑っているようだったが、やがて覚悟を決めたような顔をしておにぎりを一口食べた。
整ったその顔に、驚きが広がっていく。それから、満足そうな笑みに変わっていった。
「ほう、これは……素朴だが、悪くないな」
彼の口調はどうにも偉そうな、というかちょっぴり高慢なものだった。しかしその顔は輝いていて、まるで子供のようだった。
そうして彼は、あっという間におにぎりを食べ切ってしまった。期待に満ちた視線だけで、もうちょっとよこせと訴えている。
その視線には気づかなかったふりをして、さっさと残りのおにぎりを食べ切る。素直においしいと言っていれば、もう少し分けてあげてもよかったのだけど。
「そちらの野菜も、一口分けてくれ」
ところがディオンは、残っていた漬物にも目をつけてきた。貴族がメイドのお弁当をかつあげしていていいものだろうか。そう思いつつ、今度はお弁当箱ごと差し出す。
彼は待ってましたとばかりに、漬物をぱくりと食べた。手づかみで。
「この風味は何だ? やけにふくよかで、それでいてさっぱりとして……」
「ビールを使いましたので」
「まさかと思うが、お前が作ったのか?」
「はい」
ディオンが困惑しているのが面白くて、ついそう答えてしまう。彼がまた、目を丸くした。
「……お前、料理人……ではないな。こんなものを伯父上の屋敷で口にした覚えはないし、お前の制服はメイドのそれだ。いやそもそも、お前は男爵家の娘だし、料理人として雇われるはずもないか。それらしくないせいですっかり忘れていたが」
最後のひとことにちょっぴりかちんときてしまった。立場上よくないとは思うけれど、ついつい言い返してしまう。
「料理はあくまで趣味ですので。元貴族とはいえ、今はただのメイドにすぎない私の料理など、伯爵様の甥御様のお口に合うとは思えません。それでは、まだ用事が済んでおりませんので」
無駄に丁寧な口調で答えてから、ディオンの手から空になったお弁当箱をひったくる。荷物をまとめて素早く一礼し、田んぼのほうにずかずかと歩いていった。一度も振り返ることなく。
そうしてまた、稲穂のチェックを再開した。一生懸命に、作業のほうに意識を集中する。気づくと、ディオンの姿はもうなかった。
右見て左見て、誰もいないことを確認してから、小声でつぶやいた。
「まったく、偉そうな人だったわ。まあ実際偉いんだから、仕方ないけれど」
そこまで一気に言ってから、口をつぐむ。どこかにディオンが隠れていそうな、そんな気がしたのだ。
「……さすがに、そんなはずはないわよね」
ふうとため息をついた拍子に、一つの稲穂が目についた。垂れ下がる穂についた米粒に、真っ黒い何かがくっついている。いくつかの米粒だけ、黒い粉をたっぷりとまぶしたような異様な姿になっていた。
「あった」
午前中いっぱい探しても見つからなかったものが、ディオンに出会ったとたんに見つかった。まさか彼は、幸運の女神……。
「そんなはずないわね。ただの偶然。そうに決まってるわ」
用意してきたはさみで注意深く稲穂を切り落とし、ハンカチでくるんだ。偉そうなディオンの面影を頭の中から追い出しながら、足どりも勇ましく帰路についた。
屋敷に戻り、大急ぎで準備にかかった。やっと見つけたコウジのもとを、一刻も早く培養しなくてはならない。
厨房の隅を借りて、せっせと作業にいそしむ。『伝統の食文化』、その講義の中で聞いたことを必死に思い出しながら。
蒸した米に灰を混ぜて、木箱に敷き詰める。田んぼで手に入れた黒い稲の粒を米の上に置いた。
それから濡らして絞った布巾を木箱にかぶせて、ほんの少しだけ炭をいけた火鉢の上に乗せる。
「……栄養と、水気と、温度。それと、余計な菌を殺すアルカリ性の灰。たぶん、これでいいはずね。あとは天に祈りましょう」
その間じゅう、仕事中のメイドたちはずっとけげんな目をこちらに向けていた。あの新入りはいったい何をしているんだ、と言いたげな顔だった。
しかし私は、彼女たちに構っている余裕はなかった。どうか成功してくれ、うまくいってくれと祈るのに忙しかったから。
木箱を乗せた火鉢を自室に持ち込んで、時々温度やら湿度やらを目分量で確認しながら、ひたすら待つこと数日。
「白い、ふわふわ……講義で見たのと、同じやつだ……」
蒸した米の表面に、ぽわぽわとした白いものがびっしりと生えていた。どう見てもカビだけれど、教授はこれが米コウジなのだと言っていた。
「違う菌がみっしり生えている可能性もあるけれど、ひとまずこのまま進めてみましょう」
そう考えて、次の段階の支度を始めた。大豆は水を吸わせてから蒸して、適当につぶす。そこにコウジ(だと思う何か)と塩を混ぜたものを合わせて、よくこねる。
これを瓶に入れて、板と石で落とし蓋をしたらたぶん完成だ。色々と自信はないけれど、だいたいは合っているだろう。
味噌(になる予定の何か)が詰まった瓶を部屋の隅に置く。あとは熟成されるのを待つだけだ。
「……と言っても、出来上がりまで数か月かかるって聞いた気がする……はあ、先は長いなあ」
ひとまず味噌についての見通しは立った。たぶん。しかしこの結果が分かるまで、おとなしく待っているつもりはこれっぽっちもなかった。
「食べたい料理はたくさんあるし、できそうなものからどんどん再現していきたいところよね」
部屋の片隅にどんと置かれた瓶をもう一度ちらりと見て、ベッドにもぐり込む。明日は何を作ろうかな。そう思ったら、自然と笑顔になっていた。