21.花見弁当と故郷への思い
そうこうしているうちに、春が来た。
マキシムが定期的に海苔を送ってくれるようになったおかげで、しょっちゅう食べていたおにぎりは海苔巻きおにぎりにバージョンアップした。もちろん、ディオンは大喜びだった。
私は相変わらず、毎日せっせと屋台を出している。メニューも増えた。まずは定番のミソ・スープ。それに、魚のほぐし身の混ぜ込みおにぎり。この辺りは、初めての人にも好評な定番メニューだ。
そしてそれとは別に、常連向けのメニューを追加したのだ。
といってもそちらは簡単で、日替わり具材の味噌汁と、具なしの海苔巻きおにぎりだ。味噌や海苔になじみのない人には少し食べづらくはあるのだけれど、一度慣れたらみんなこっちのほうがうまいと言い出す始末だった。
味噌も醤油も、さらにどんどん仕込んでいる。この分なら、まあ継続して屋台をやっていけるだろう。
しかし問題は、増えた瓶が食糧庫に入りきらなくなって、物置まではみ出してしまっていることだった。このままだといずれ、居住スペースまで乗っ取られる気がする。
かといって、大量の瓶をよそに置いておく気にもならない。なにせ仕込み中はこまめに手を入れてやらなければならないのだから。
ひとまずその問題については見なかったことにして、さらにせっせと料理に精を出していた。
ある日、なんとタケノコを見つけたので、メーアのワカメと合わせて若竹煮を作ってみた。醤油を作ってよかったなあとしみじみ思いながら、久しぶりの春の味をディオンと二人で味わった。
この風変わりな料理をディオンはやっぱり気に入ったようで、満面の笑みでどんどん平らげていた。食べ過ぎたせいか、後でちょっぴりお腹が痛くなっていたようだけど。
そうして、また休みの日がやってきた。今日は何をしようかなあと考えていたら、朝一番にディオンがやってきた。
「その、お前は今日……予定などあるのだろうか」
「今のところありませんよ。また市場でもぶらぶらしようかなって」
「ならば少し、私に付き合ってはくれないか。見せたいものがある」
「どこまで行くんですか? お弁当か何か、作ったほうが良かったりします?」
「ああ、それは……そうだな、頼む」
どうにもディオンは、歯切れが悪い。そのおかしな態度が気になりつつも、お弁当の準備を始めることにした。
そうしてぱぱっとお弁当を作り上げた私は、なぜかディオンと一緒に船に乗っていた。
前にメーアに向かった時のものより小ぶりで、華やかな装飾がほどこされた、やけにしゃれた船だった。座席はふかふかで、とても座り心地がいい。
「いきなり誘うから、何かと思えば……この船は、どこに向かう便なんですか?」
「これは町をつなぐ定期便ではない。貸し切りの、舟遊びを楽しむためのものだ」
つまり彼は、私を舟遊びに誘ったらしい。どういう風の吹き回しだろう。
「…………ディオン様、孤独なんですか? 普通こういうのって、恋人とか婚約者とか、そういった人と乗りますよね。わざわざ私を誘うなんて」
つい本音をぽろりともらしたところ、彼はなんともいえない目で私を見て、それから順に説明し始めた。
「私に婚約者はいない。恋人もだ。……恋人になってほしいと思う相手がいるにはいるが、どうも脈がないようでな」
そう言って彼は、切なげなため息をもらす。偉そうだとはいえ美形の彼がそんな表情をしていると、たいそう絵になる。
彼はまあ意外と素直ではあるし、気遣いもできるほうではある。ちょっぴり偉そうだけれど。彼が本気で押せば、たいていの女性は落とせそうな気がするというのに、相手はよほどの難敵なのだろうか。
そんなことを思いながら、にっこりと笑ってお弁当箱を差し出す。
「あら、それは残念ですね……ほら、お弁当でも食べましょう。悲しいことは、食べて忘れるに限りますから」
彼はどこかしょんぼりとした顔で私を見ていたが、素直にお弁当箱を受け取り蓋を開けた。
「ああ、いただこう。……おや、これはまた可愛らしいな」
暗い顔をしていたディオンが、一転して興味深そうに目を見張った。
「パンに様々な具材を挟んだものか。市場で似たようなものを見かけたが……お前が作ったものだし、きっとまた何か変わっているのだろう」
いつもおにぎりというのも芸がないと思って、今日はサンドイッチにしてみたのだ。まあ、今日に限って冷や飯が残っていなかったというのもある。
ディオンはサンドイッチを手に取って、上品なしぐさで口に運んだ。とたん、大きな笑みが浮かぶ。
「これは卵か。ふんわりとしてこくがある。出汁の風味が効いた優しい味だな」
「だし巻き卵、って言うんです。卵に味付けして、巻きながら焼くんですよ」
卵サンドの定番は刻んだゆで卵にマヨネーズだけれど、前にだし巻き卵のサンドイッチを食べてからは、こっちを作ることが多くなっていた。ぼろぼろこぼれないし、あっさりしていて食べやすいのだ。
「こちらはハムと野菜か。ドレッシングは醤油味。本当に醤油は、何にでも合うのだな。ほんのり辛子の風味もするな」
にこにこしながら、ディオンはせっせとサンドイッチにかぶりついている。本当に彼の食べっぷりは、見ていて気持ちいい。だからつい、お弁当にも気合が入ってしまった。
「ほら、こっちもどうぞ。デザート代わりの甘いものです」
甘く煮たリンゴとカスタードを挟んだサンドイッチを、彼に差し出す。
ディオンは甘いものも好きだし、きっと喜ぶだろうと思って、お弁当に入れてみたのだ。作り置きがあってよかった。
他のサンドイッチをあらかた平らげたディオンが、勧められるまま甘いサンドイッチを口に運んだ。とたん、満面に笑みを浮かべる。
「ああ、しゃきしゃきとした歯ごたえがほどよく残ったリンゴが、なめらかなクリームとよく合っている。パンのおかげで、甘さもやわらげられていて食べやすいな。見慣れた食材だが、素朴で味わい深い」
「あ、頬についてますよ」
とっさにハンカチを取り出して、彼の頬についたカスタードをふき取る。一瞬遅れて、自分がしてしまったことに気がついた。これでは親子か、あるいは恋人だ。
「そ、その……礼を言う」
珍しいことに、ディオンは真っ赤になってしまった。伏せたまつ毛が、小刻みに揺れている。まるで、恥じらう乙女だ。
ふと嫌な予感がして、自分の頬に触れてみた。そこはあきれるくらいに熱くなっていた。
豪華な貸し切りの船に二人きり、顔を赤らめて向かい合っている。想像しただけでこっ恥ずかしくなるような、そんな光景だ。そのことに、今さら気がついた。
背筋がむずむずするような甘酸っぱい空気を追いやるように、大きく口を開けてサンドイッチにかぶりついた。
こそばゆい食事の間も、船は進み続けていた。そして食事を終えた頃、川岸に何か見えてきた。ふわふわとした、淡いピンクの雲のようなもの。
「ああ、やっと見えてきたな。あれをお前に見せようと思ったのだ」
ディオンが嬉しそうに言う。その頃にはもう、雲の正体が分かるくらいに近づいていた。
運河の両岸に、桜によく似た木がずらりと植えられていたのだ。大学の近くにも、ちょうどこんな光景があったなと、そんなことを思い出す。
「この春の一時期だけ見られる、珍しい光景だ。……お前は毎日働き通しで、休みの日も食材探しにいそしむ始末だ。たまには少しくらい、美しいものを見てのんびりする時間も必要かと、そう思ったのだ」
どうやらディオンは、私のことを気遣ってくれたらしい。いつもならちゃかしてしまうところだったが、今はそんな気分にはなれなかった。
咲き誇る桜たち、ふわりふわりと風に乗って舞い散る花びら。私の中のもう一つの記憶が、強く揺さぶられる。
私はアンヌマリーで、私は別の誰か。その二重の人生の謎はまだ解けていない。
というか、もうあまり気にしていなかった。二重だろうがなんだろうが、私は私だ。だから今ここで精いっぱい生きていこうと、そう思っていたから。
でも桜色の花吹雪を見つめていたら、ぽろりと言葉がこぼれ出てきた。
「……帰りたいな」
「ああ、お前はきっと帰れる。本当の居場所である、ミルラン男爵家に。だから、心配するな」
ディオンの励ましは的外れなものだった。だって今私が帰りたいと思ってしまったのは、記憶の中の場所なのだから。どうやれば戻れるのか分からない、そもそもどこにあるのかすら分からない場所。
それでも、彼が励ましてくれたこと自体は嬉しかった。
「ありがとうございます。……また来年も、あの花を見たいなって、そう思いました」
「お前が望むなら、連れてきてやる。来年も、再来年も」
やけに張り切って、ディオンが断言する。やっぱりほんの少し偉そうな彼の物言いは、頼りなく揺れている私を、しっかりとここにつなぎとめてくれているような気がした。




