2.食事、それはすべての基本
大学生としての記憶が、一人暮らしでてきぱきと家事をこなしていた記憶がよみがえったおかげで、箱入りの元男爵令嬢である私は、メイドとして立派に働くことができた。
しかしその記憶は、一つとんでもない副作用をもたらしていたのだった。
働いている間は、余計なことを考えずに済んでいた。でもこうして自室に戻ってくると、自然とご飯のことばかり思い浮かんでしまう。
大学生として暮らしていた頃に食べていたあれこれが、次から次から思い出されてしまうのだ。
味噌汁飲みたい。鰹節と煮干しで出汁を取ったやつ。具はなんでもいいけれど、今は豆腐とワカメの気分かなあ。
おにぎり食べたい。ふっくら炊き立てのご飯を、あちあちいいながらにぎったやつ。手にちょっぴり塩をつけて。軽くあぶった海苔を、食べる直前に巻く。具材は……梅干しかな。鮭もいいかも。
付け合わせはお漬物。浅漬けもいいし、ぬか漬けもいい。たくあん、柴漬け、キムチ、正直なんでも合う。
「あああ、思い出したらお腹すいてきた……」
もちろん、まかないのご飯はしっかり食べている。けれどそれとは別に、和食が食べたくてどうしようもなかった。
男爵令嬢としての私は、ぼちぼち豪華なご飯を食べて育っていた。白いパンに肉に野菜、時折お米も食べていた。
けれどそれらは、全て洋食だった。コンソメ味にトマト味、塩バター味にチーズ味にハーブにスパイス、それとデミグラスとかのソース。だいたいみんな、そんな味だった。
つい先日までの私は、それでも問題なかった。けれど今の私には、大問題だった。
ラーメン食べたい。そんな無理難題をつぶやいて、がばりと身を起こす。
「……いっそ、作れないかしら。塩ラーメンくらいなら、どうにか……」
その拍子に、お腹がきゅるりと鳴った。顔を両手で覆って、ため息をつく。
「…………どうせなら、醤油ラーメンがいい……昔ながらのシンプルなやつ……」
アンヌマリーである私が暮らしているこの辺りには、醤油はない。少なくともここ十八年、見たことも聞いたこともない。
でも食べたい。食べられないとなったら、余計に欲しくてたまらない。
「……ないのなら、作ってみよう、調味料。うん、それしかない」
大学で去年受けた、とある講義のことを思い出す。『伝統の食文化』と銘打ったその講義では、味噌や醤油といった調味料の作り方から、様々な加工食品の作り方まで、とにかく丁寧に丁寧に説明していた。
自他ともに認める食いしん坊の私は、講義のタイトルを聞いた瞬間に受講を決め、そして大いに満足した。ついでに、かなりの好成績を修めることもできた。
「ああ、あの講義の時のノートさえあれば……完璧に作れるのに……」
よよよと泣き崩れ、ふるふると首を横に振る。しかし、ないものを嘆いても仕方がない。必死に記憶をたどり、講義の内容を思い出してみる。
「……醤油よりは味噌のほうが、作りやすかったような気がする。まずはそっちから取りかかってみよう」
醤油ラーメンが食べたいけれど、味噌ラーメンもおつなものだ。それに味噌を完成させられれば、味噌汁が作れる。そう思ったら、自然と心が浮き立っていた。
「味噌の材料は……大豆と塩だったかな。この二つは安く手に入るし、問題ないわね」
この辺りでも大豆は普通に食べられている。そして海が近いので、塩も簡単に手に入る。
「材料、もう一つあったような……白くてふわふわした、カビっぽいのが。ああ、思い出した。コウジ、だわ」
よし、思い出せそうだ。笑顔になりながら、どんどん記憶をたどっていく。
「稲穂についた黒いカビっぽいものを米に植えつけて作るんだって、教授が楽しげに写真を見せてきたっけ。こんなものを使おうって最初に考えた人間はとんでもないなって、そう思ったんだった」
私、結構優秀かもしれない。意外ときちんと覚えている。思わず胸を張ったものの、次の瞬間また頭を抱えた。
「……つまるところ、稲穂を一つずつ見て回って、地味に探すしかないってことね……」
この辺りではリゾットにパエリア、それにピラフなんかもよく食べられる。そんなこともあって、稲作も盛んだ。
この屋敷に来る時にも、ほんのり黄色に染まり始めた稲穂が揺れる田んぼをいくつも見た。というか、屋敷からでも田んぼが見える。結構近くに。
「あの黒いのって、どれくらい見つかりにくいものなのかしら……」
一面の田んぼの中を、目的の稲穂が見つかるまでさまよう。想像しただけで、げんなりとする状況だった。
やっぱりやめようかなと、一瞬弱気になってしまう。そんな自分を叱るように、両手で頬をぱちんと叩いた。
「駄目よ、アンヌマリー。ここであきらめたら、もう二度と味噌汁は飲めない」
重々しくそう言って、ベッドから降りた。部屋の真ん中に立ってこぶしをにぎり、高々と突き上げる。
「こうなったら、何が何でも和食を作ってみせるわ!」
真夜中近い部屋の中で、私の抑え気味の決意表明は、誰に聞かれることもなく消えていった。
それから数日、私はせっせと必要なものを集めていた。
大豆と米、それに塩。さらに蓋つきの大きな瓶と、手頃な大きさの板に大きな石。それと、小ぶりの火鉢。
板と石は落とし蓋にする予定で、火鉢はコウジを育てる時に使う予定だ。
そうこうしているうちにお休みの日になったので、朝一番に屋敷を出て近くの田んぼに向かった。田んぼの持ち主を見つけて、これこれこういうものを探しているのだと説明する。
持ち主はなんでそんなものを欲しがっているのか分からないという顔をしていたが、ともかくも、稲穂を数本切り取る許可はもらえた。
「暑い……スカートで田んぼって、動きづらい……」
一面の田んぼの中を、稲を傷めないように気をつけながら稲穂を一つずつ見て回る。
かがみっぱなしで腰が疲れるし、かんかん照りのせいで暑くてたまらない。そして長いスカートは、ちょっと目を離すと稲を豪快になぎ倒してしまう。
「今度、もっと動きやすい服を買おうかしら……外で動き回るたびにこれじゃあ、ちょっとね」
今私が着ているのは、屋敷のメイドの制服だった。家を出る時に持ってきた服はもっと上等なので、野外での活動には向いていない。
いや、この制服だって向いているとはとうてい言えたものではないのだけれど。まだまし、といった程度で。
ため息をつきながら、目の前一面に広がる黄金の田んぼに踏み入った。
「ない、ない、ない……いいえ、きっとどこかにあるわ。絶対に、お味噌汁を飲むんだから」
そんな言葉を呪文のようにつぶやきながら、一つ一つ稲穂を見て回る。いつの間にか太陽は頭の上に来ていて、頭がじりじりと熱い。
仕方なく近くの木陰に避難して、昼食にすることにした。今日のお弁当は、おにぎりとお漬物だ。
おにぎりは白身魚の塩焼きをほぐして、白ゴマと一緒にご飯に混ぜ込んだものだ。
梅干しも塩鮭もなかったし、もちろんツナマヨなんてものはある訳がないし、それ以前に海苔がない。
なので、普通のおにぎりではなく混ぜご飯のおにぎりにしたのだ。これなら、比較的簡単にそれらしいものができる。
お漬物は塩と砂糖、それとビールで一晩漬けたキュウリとナス。ただの塩漬けというのも味気ないので、ひと工夫してみたのだ。
「それでは、いただきます」
両手を合わせてそう言ってから、食事に取りかかる。素朴なお弁当は、とってもおいしかった。
おにぎりはあっさりした魚の風味に、白ゴマが香りと食感を添えている。思わず笑顔になってしまう、幸せな味だった。
漬物も、目分量で適当に漬けた割にはいい感じに仕上がっていた。ビールの風味が、ひと癖あって面白い。
「ここに醤油をひと垂らしすれば、最高なんだけどなあ。味噌で焼きおにぎりにしてもいいんだけどなあ」
久しぶりに食べる、洋風ではないご飯。でもそれだけに、醤油がないのが物足りなかった。というか、余計に醤油やら味噌やらが欲しくなってしまった。
ゆっくりとお弁当を食べて、水筒に入れたお茶を飲む。辺りは静かで、遠くから鳥の声がする。
「ああ、のどかだなあ……」
「お前、さっきから何をしているんだ?」
いきなり声をかけられて、びっくりして飛び上がる。どうにかお弁当をひっくり返さずに済んでほっとしていると、背後の木を回り込むようにして人が近づいてきた。
「田の中を歩き回り、木陰で食事とは……農夫ならともかく、なぜメイドがそんなことをしているのだ。訳が分からん」
私の前に立っていたのは、どこからどう見ても貴族以外の何物にも見えない青年だった。