19.海辺の出会いと海苔の香り
今日はお休みだ。なので私は、船に乗っていた。
「どんなものが食べられるのか、今から楽しみだな」
いつも以上に浮かれまくっているディオンと、一緒に。
こうなったのにはもちろん訳がある。私が住んでいる運河都市カナールでは、周囲の町との間に船が行き来している。
ちょうど電車やバスみたいな時刻表があって、人や荷物をあちこちに運んでいるのだ。平民でも気軽に利用できる、安価な交通手段だ。
そしてその中には、港町メーアとの間を往復する便もあった。あの町にはいずれまた行きたいなと思っていたので、休みを利用して出かけることにしたのだ。
メーアには片道一時間ほどで着くという話だし、また何か面白い食材を仕入れたい。
野菜や穀物、それに肉なんかはここカナールでもたくさん手に入るけれど、海産物の品ぞろえについてはやっぱりメーアのほうが上だと思う。
そんなことを考えながら支度を済ませ、家を一歩出たところでディオンに出くわしたのだ。
「おはよう、アンヌマリー。今日は休みだと聞いているが、どこかに出かけるのか?」
「……ちょっと買い出しに」
「ならば、私も同行しよう。カナールは治安がいいとはいえ、人数は多いに越したことはない」
彼はなんだかんだで毎日私のところにやってくる。どうやら彼は、暇を持て余しているらしい。
いずれ自分はあのセクハラ爺ことサレイユ伯爵の跡を継ぐことになる。そうなったら一気に忙しくなるから、今のうちに羽を伸ばすのだとかなんとか言っていたけれど。
でもだからって、私につきっきりにならなくてもよさそうなものなのに。
もう住みかも仕事も見つけたし、もし何かに困ったら大家であり商いの先輩であるレオに相談しようと思っている。だからディオンがいなくても、そう困りはしない。
「あの、一人で大丈夫です。それに私、もうここでちゃんと暮らしていけますから、ディオン様がつきあう必要もないですよ」
そう切り返したら、彼は思いっきり不満そうな顔をした。すねているように見えるのは気のせいか。
「この私が、せっかく護衛を買って出てやったというのに……そこまでつれなくしなくても、いいだろう……」
そんなことをつぶやきながら、彼はちらちらとこちらを見ている。あ、やっぱりすねている。間違いなく。
「……その、買い出しと言っても、船に乗ってメーアまで行こうと思っているんです。私が知っている料理には、海産物を使ったものが多いので」
そろそろと打ち明けると、彼はやっぱりいじけた顔で、じっとこちらを見た。
「……でも、あそこで売っている食材や料理は、やっぱりディオン様には刺激が強いかなって……」
「構わん! 丸ごと焼いたイカも、ほとんど生の魚も食べたし、どちらもとても美味だった! さらに妙なものが出てきても、きちんと食べると誓おう! だから連れていけ!」
彼はまっすぐに私を見つめ、堂々と答える。どれだけお腹が空いているんだ、と思わずにはいられなかったし、メーアへの旅は騒がしくなるんだろうなとも思った。
でもそれを、嫌ではないと感じている自分がいた。
そうして船に揺られて一時間。あれこれとお喋りをしているうちに、あっさりとメーアの町に着いた。
連絡船の船着き場に降り立ったその時、耳慣れない騒がしさに耳を澄ませる。
「妙に騒がしいな」
「……あっちのほうって……確か、漁師の船が出入りする港だったような」
そんなことを話しながら、ふらふらと港のほうに向かう。何が起こっているのか、ちょっと気になったのだ。
そうしてそこに広がっている光景を見て、私は歓声を上げた。隣ではディオンが小さなうめき声のようなものを上げていた。
港に並んだたくさんの木箱。そこには、水揚げされたものがみっしりと積み込まれていたのだ。
目の前には、一面のカニ、カニ、カニ。どうやら、カニ捕り漁船が戻ってきたところらしい。これがこの冬最後の漁だとかで、みんな大いに盛り上がっていた。
「まだ、生きているな……あっちもこっちもかさこそと動いている」
ディオンはどことなく腰が引けている。そもそも生きたカニを見るのが初めてらしい。
微笑ましいなあと思いながらカニの山をながめていたその時、私はあるものを見つけた。港の端のほうで、木箱に座って大きな鍋を囲んでいる人たちがいたのだ。
彼らは生きているカニをそのまま大鍋に放り込み、見事にゆで上がったカニを素手でべきべきと折りながら食べ始めたのだ。
そのさまを見たディオンが、複雑な顔をしてつぶやいた。
「……これはこれで、彼らの文化なのだろう。だからこんなことを言うべきではないと分かっている。分かってはいるが……それでも野蛮だと、思ってしまう」
「見たことがないと、そうかもしれませんね。でも、ああやって食べるとおいしいんですよ。それはもう、とっても」
よだれを垂らしそうになるのをこらえながらそう言ってやると、彼は信じられないものを見るような目をこちらに向けてきた。そんな彼の腕を引っ張って、男たちのところに歩み寄る。
「おはようございます。おいしそうですね。お金は払うので、少し食べさせてもらえませんか」
その言葉に、男たちは嬉しそうに笑う。
「おう、もちろんいいぜ。こんなべっぴんさんと一緒に食えるたあ、眼福ってもんよ」
そうして彼らは、空いた木箱を持ってきてくれた。裏返したそれにディオンと並んで座り、カニがゆで上がるのを待つ。
素手でカニの足をぶち折るのは私には難しかったので、ハサミを借りて、それで殻を切っていった。
その中から現れるのは、ぷりっぷりの身。口に含むと、ほのかな塩味と、カニのうまみが口いっぱいに広がっていく。幸せ。
「カニはやっぱり、こうやって生きのいいものを塩ゆでしただけものが最高ですね」
うっとりとそうつぶやくと、男たちはそうだろう、と言ってさらに嬉しそうに笑う。
「ほら、ディオン様もどうぞ。特別に、殻をむいてあげますから」
戸惑っているディオンに、むいたカニの足を差し出す。彼はやはり複雑な表情をしていたものの、素直にカニを口にした。
「………………なんと、いうことだ……」
ぴたりと動きを止めて、ディオンがつぶやく。そのただならぬ様子に、私たちは首をかしげる。
「これは! うまい! 見た目の気持ち悪さからは想像もできない深みのある味と香り、そして見事な歯ごたえ!」
解説モードに入ってしまったディオンに、男たちは目を丸くしつつも好意的な視線を向けていた。
いきなり乱入してきた貴族の彼に、男たちもついさっきまでは少々戸惑っているようだった。でもこうやって、おいしいものを一緒に食べればみんな仲間だ。
それから私たちは、みんなでのんびりとカニを食べていた。気づけば、全員無言だった。カニを食べるのに熱中してしまっていたのだった。
思う存分カニを食べた私たちは、今度は二人きりでメーアの海岸にいた。ディオンはとても上機嫌で、私の後をついてきていた。
「ゆでただけのカニは素晴らしかったな。今度、料理人に作らせてみよう。ところで、お前はこんなところに何の用があるのだ?」
「ずっと探しているものがあるんですけど、どうやらメーアの市場でも取り扱っていないみたいなんです。だったらいっそ、作ってしまおうかなって思いまして」
砂浜の隣に、大きな岩がいくつも転がった岩場が広がっている。ちょうど今は潮が引いているらしく、岩の表面に苔のような海藻がびっしりと生えているのが見えていた。
「たぶんあれです。ひとまず試食してみますね」
波に気をつけながら岩に近寄り、海藻をひとつまみむしりとる。海水でさっと洗って、そのまま口に放り込んだ。
「おい、そのようなものを食べて大丈夫なのか? どこからどう見ても、苔そのものだが」
そんなディオンの声も、ろくに耳に入らない。しょっぱさの中に広がる、懐かしい海藻の香り。たぶんこれは、岩海苔で合っていると思う。
「集めて洗って、すだれで干すんだったかな……ディオン様、これを集めたいので、ちょっと手伝ってください」
「正気か? と言いたいところだが、従おう。これもまた、お前の手にかかれば美味な料理に化ける……と信じることにする。やはり信じがたいが」
まだ納得がいっていない様子のディオンと二人して、せっせと岩海苔を摘んでいく。こんなこともあろうかと持ってきていたざるが、大いに役に立った。
「たくさん摘めたのはいいんですけど……でもこれ、どうやって持って帰りましょうか。びしゃびしゃのままでは、帰りの船に乗せてもらえないかもしれません。水切りをするにしても、ちょっと時間がかかりそうですし」
「どこかで鍋か皿を買うしかないだろうな。あるいは、木箱とか」
ディオンとそんなことを話していたら、ざくざくと砂を踏む足音が聞こえてきた。どんどん近づいてくるその足音のほうを見ると、小柄な老人が一人立っていた。
漁師たちと同じような服をまとった彼は、かなり年老いているのに鋼のような強さを感じさせる、かっこいいおじいさまだった。
「……岩海苔採りなど、数十年ぶりに見たな」
恐ろしく日焼けした、真っ白な髪の彼は、私が手にしたざるを見てしみじみと言う。
「え、これ、この辺でも食べられていたんですか?」
「昔の話だがな。俺が若い頃は、そいつも普通に食っていた。今はメーアも豊かになったからか、みんなそんなものには見向きもしなくなったが」
老人は懐かしそうに語り、それからふと何かに気づいたように私に問いかける。
「あんた、それをどうするつもりだ」
「ええと、洗ってから干して、紙みたいにしてみようと思ってはいますが……なにぶん初めてなので、うまくいくかどうか」
「そうやって紙みたいになったら、どう使うんだ」
何がそんなに気になるんだろうと思いつつ、素直に答える。
「炊いた米をにぎったものに、巻こうと思っています。前に、そういう料理を食べたことがあるんです。米の甘さに海苔の香りがよく合って……とてもおいしいんです」
隣のディオンが、ごくりとつばを飲んだ。それを見た老人が、にやりと笑う。
「だったら、俺がやってやろうか。そいつを紙みたいに加工するのを」
思わぬ申し出に、とっさに答えが出てこない。
「俺はマキシム。生まれも育ちも、ここメーアだ。ちびのころからずっと漁に出ていたし、そいつの加工も、何度もやったことがある」
「あ、私はアンヌマリーです。カナールで屋台をやっているんです。こっちはディオン様、えーと……友人、みたいなものです」
もう主従関係はないし、どちらかというと腐れ縁に近いのだが、それをそのまま口にするのもはばかられた。なので友人だと紹介したのだが、当のディオンはやけに嬉しそうな顔をしていた。
「そうか。あんたさえ良ければ、俺がそいつを加工して、あんたの住むカナールまで届けてやる。メーアとカナールの間なら、郵便屋に頼めばいいからな」
「そうしてもらえると助かりますけど……でもどうして、手助けしてくれるんですか?」
「なに、すっかり忘れられた岩海苔を、わざわざ摘みに来た連中がいた。俺はそれが、嬉しいだけだ」
どうやら、今日はとってもついていたらしい。金なんざ要らんとごねるマキシムを説き伏せて、定期的に海苔をカナールの私の家まで送ってもらう約束を取り付けた。材料費、手間賃、それに郵便代をきちんと払って。
「まったく、律義な嬢ちゃんだ。岩海苔採りに貴族まで巻き込んでるし、訳が分からんな」
苦笑するマキシムに見送られ、大急ぎで船のところに向かう。そろそろ、カナールに戻る最終便が出てしまう。
ぎりぎり最終便に間に合って、ほっと一息ついた。船は海から運河に入り、どんどんさかのぼっていく。
川風に髪をなびかせていると、隣のディオンがぽつりとつぶやいた。
「……今日もまた、変わった体験ができた。それに……お前の探し物が見つかってよかったと、そう思うぞ」
「ふふ、楽しかったならよかったです」
彼は日に日に態度が柔らかくなっているなあ。そんなことを思いながら、にっこりと笑ってうなずいた。