16.一仕事終えた後の一杯
ディオンの提案からたった三日後。彼は勝ち誇った顔で、私の家に現れた。一枚の書類を見せつけながら。
「調子はどうだ。商人組合から、屋台を出す許可証をもぎとってきたぞ」
「あ、そこに置いといてください。今忙しいので」
ちょうど私は、ミソ・スープの最終調整にかかっているところだった。
味噌を節約し、かつ洋食に慣れたここの人たちにも食べやすいよう、牛乳多めでバターも入れて、それから塩で味を引き締めて。
そうやって工夫しながら、よりおいしいレシピを見つけ出す。生まれて初めてのそんな作業が、思ったよりずっと楽しくて、つい夢中になってしまっていたのだ。
「……おい、忙しいのは分かった。だが客が来たのだ、茶ぐらい出せ」
相手にされなかったことが悔しかったのか、意外にも傷ついたような声でディオンがもごもごと言う。なんだかかわいそうになったので、できたてのミソ・スープを椀に盛ってやった。
「あなたには、茶よりこちらのほうがいいのでは?」
「おお、分かっているな。さっそくいただこう」
ころっと機嫌を直して、ディオンが満面の笑みでスプーンを手に取る。この腹ぺこ貴族め。
苦笑しながら、机の上に置かれた許可証を手に取った。
「許可証、確かに受け取りました。わざわざありがとうございます」
「うむ。この私が自ら運んでやったのだ。ありがたく思え」
こいつを少しでもかわいそうだと思ったことを後悔しかけたその時、ディオンが無邪気に笑った。
「これは素晴らしい! これなら、成功間違いなしだ!」
手放しに褒められて、今しがた感じたばかりの不快感も消し飛んでしまった。自分でもちょっと単純だとは思う。
「……お褒めいただいて、ありがとうございます。でも、成功するかはまだ分かりません」
「なぜだ?」
ディオンは心底不思議そうな顔をしている。彼は賢いほうだとは思っていたが、それでも貴族だ。商売については詳しくない。
「商売としてやっていくには、ただ食事がおいしいだけでは足りないんです。一応、レオさんには相談しました」
何をどれくらい、どの程度の予算で仕入れるか、さらにどれくらい料理を作り、いくらで売るのか。そんなことを書面にまとめて、レオのところに持っていったのだ。
彼は大家で、そして商売の大先輩だ。相談するなら彼しかない。そう思った。
そして、レオの意見はこんなものだった。
なにぶん未知の料理ですので、売れ行きがどうなるか全く読めません。ですがこの計画なら、失敗したとしてもそう大きな損害にはなりませんよ。あなたには商売の才能もあるのかもしれませんね。
正直、嬉しかった。実は、レオに見せた書類は、大学祭で屋台を出した時の経験を元に作ったものなのだ。必死にあの時のことを思い出しながら、一生懸命考えた。その努力が認められたのだと、そう思えた。
「今のところ問題はなさそうだと、レオさんにはそう言われました。こうして許可証も届きましたし、明日の朝市で、さっそくこのミソ・スープを売ってみようと思います」
少し緊張しながらそう告げると、ディオンはひどく優しく微笑んだ。思わずどきりとしてしまうような、そんな笑みだった。
「そうか。いよいよ、だな」
「はい。いよいよ、です」
家が潰れて、メイドになって。懐かしい味を必死に再現して、ディオンと出会って。セクハラ爺に解雇されて、カナールにやってきて。半年足らずの間に、びっくりするくらい色々なことが変わっていった。
そしてまた、私の生活は変わろうとしている。それが吉と出るか凶と出るかは、まだ分からなかった。
次の日の昼、私は荷車を引いて家に戻っていた。荷車の上に乗っている二つの大鍋は、全部からになっていた。
「……まさかの大成功……でもちょっとだけ、腑に落ちない……」
私がそんなことをつぶやいているのには、れっきとした訳があった。
今朝私は、夜明け前からミソ・スープを作り、朝市が始まると同時に屋台を出した。そのとたん、声をかけられた。
「そこの君、そのかぐわしいスープを一杯もらえるかな」
やけに気取った声でそう言って銀貨を一枚よこしてきたのは、なんとディオンだった。
「おはようございます、ディオン様。昨日も食べたのに、またですか? しかも銀貨なんて……お釣りが面倒なんですけど」
「釣りはいらない、取っておいてくれ。最初の客という栄誉をいただく、その対価だ」
何を言っているんだこいつと思いつつ、椀にスープをよそって差し出す。きんと音がするくらいに冷え切った朝の空気の中で、その椀は柔らかな湯気を上げていた。
「それでは、いただこう。このふくよかな香り……何度かいでも、いいものだな」
そうしてディオンは、一口ずつ味わいながらミソ・スープを平らげていた。幸せそのものといった表情で。
どこからどう見ても貴族そのもののディオンが、古びた荷車で売っている得体の知れないスープをおいしそうに食べている。
そんな不思議な状況と、彼が手にしているスープに興味をひかれたのか、周囲の人たちがじりじりと近づいてくる。その中の一人が、声をかけてきた。
「姉ちゃん、それは何なんだ? 妙な匂いのスープだが……」
「味噌という、珍しい調味料を使ったものですよ。栄養もありますし、体も温まります」
どきどきしながらそう答えると、ディオンが食事の手を止めて口を挟んだ。
「アンヌマリー、一番大切なところが抜けている。このスープは、それはもう素晴らしく美味なのだ。私は何度も食べているが、ちっとも飽きることがない! まろやかでふくよかで優しい、愛おしい味だ!」
その言葉に、ごくりとつばを飲み込む音があちこちから聞こえてくる。周囲の人垣から、二人ほど進み出てきた。銅貨をこちらに差し出しながら。
「お買い上げ、ありがとうございます!」
そこからは大忙しだった。一人また一人と、私のもとにやってきてはミソ・スープを買っていく。お金を受け取って、スープを渡して、からになった椀を受け取ってさっとすすいで拭いて。
ばたばたしているうちに、大鍋いっぱいのスープはなくなってしまった。そして私の手元には、たくさんの銅貨。
食いっぱぐれた人たちに、また明日も店を出しますからと言って、荷車を引いてその場を後にした。
ちなみにその間ディオンは、戸惑い半分誇らしさ半分といった顔で私が働くのを見ていた。
ちょっとくらい手伝って欲しいとも思ったけれど、たぶん彼はこういった作業の経験はないし、邪魔にならないだけまあいいかと思うことにした。
「カナールは、あちこちから様々なものが集まる交易の拠点。それゆえ、ここの者たちは新しいものに抵抗がない、というよりも新しいものが好きだ。だからお前のミソ・スープも、必ず受け入れられると思ったのだ」
帰る前に近所の店を回って明日の分の仕入れをしている私の隣で、ディオンはそう教えてくれた。
「ところで、私も何か手伝ったほうがいいのだろうか。少し、荷物を持とうか」
「大丈夫です。貴族のあなたに荷物を持たせたりしたら、どんな噂になるか分かりませんから。街道ならともかく、ここは町のど真ん中です」
「……そうか」
なぜか彼は、少し悲しそうな顔をした。しかし次の瞬間、ふと何かを思いついたように顔を引き締める。
「済まないが、用事を思い出した。先に家に戻っていてくれ」
そもそも、彼に同行を頼んだ覚えはない。彼が勝手についてきていたのだ。だから素直にうなずいて、一人で荷車を引いて家に戻った。
「それにしても、疲れた……」
家に戻ったとたん、特大のため息がもれた。屋台が成功したのはいいけれど、慣れない仕事に緊張しっぱなしで疲れた。
手早く大鍋と食器を洗って片付け、食卓の椅子に腰かける。そのままぐったりとしていたら、いきなり玄関の扉が開く音がした。元気な足音が、私のところまでやってくる。
「戻ったぞ、アンヌマリー! さあ、祝杯にしよう!」
彼の手には、ワインのボトル。どうして彼と祝杯を上げなくてはならないのだ、と思わなくもなかったけれど、うきうきしている彼に水を差す気にもならなかった。
「ワイングラスはないですけど……」
そう言いながら木のカップを二つ取り出すと、彼はにっこりと笑ってワインをついだ。そうして一つを、私に差し出す。
「お前の成功を祝って、乾杯!」
「か、かんぱーい……」
完全にディオンのペースに飲まれてしまって、戸惑いながらそうつぶやく。それから、ワインを一口飲んだ。
あ、おいしい。正直ワインはあまり好きではなかったけど、これは飲みやすい。渋くなくてさわやかで、ほんのり甘くて。
「……おいしいです」
なぜか照れ臭くなりながら、そんなことをつぶやく。向かいに座ったディオンは、それは満足そうな顔をしていた。