12.危機、転機、あったかい味
ディオンと一緒にカナールの町に出かけてから数日後、私はサレイユ伯爵に呼び出されていた。
またあのセクハラ爺と顔を合わせるのかと思うと、恐ろしく気が重かった。
それに、イネスの忠告のこともある。もっとも私は、新たな食材の誘惑に負けて、その忠告を思いきり無視してしまったのだけれど。
「お館様、アンヌマリーです」
サレイユ伯爵の部屋の前に立ち、おそるおそるノックする。
「入れ」
扉の向こうから聞こえてきた声は、先日のものとは比べ物にならないくらいに低く、重々しかった。
何の用で呼び出されたのかは分からないけれど、明らかにこれはまずい。一発でそう分かる声だった。
精いっぱいしおらしい顔をしながら、しずしずと部屋に入る。正面の豪華な椅子では、サレイユ伯爵がふんぞり返っていた。明らかに、怒っている顔だった。
「お前は、自分がなぜ呼びだされたのか、分かっておろう?」
分かりません。心当たりがありすぎて。しかしそんなことを馬鹿正直に答えては、火に油を注ぐだけだ。だから悲しげに視線を落として、じっと黙っていた。
「お前はあれこれと妙なことばかりしおって、使用人たちの和を乱しておる。これについては、既に何件も苦情を受け取っておる」
まさか、他の使用人たちが爺に告げ口するなんて。イネスの忠告を、もう少し真剣に受け取っておけば。
「そしてもう一つ、お前はディオンをたぶらかしておるであろう。食い物で釣っておるらしいと聞いてはおるが、どうせ色香でも振りまいたのじゃろう」
それは誤解です、と叫びそうになってあわてて思いとどまる。どうせこの状況では、私が何を言ったって聞き入れてはもらえないだろう。
「まったく、使用人などというものは、おとなしくただ命令だけに従っておけばよいのじゃ。お前のようなはねっ返りなど、危なっかしくて使ってられぬわ。美人なだけにもったいないが、もうそれどころではない。解雇じゃ、解雇」
その言葉に、ぷちん、と頭の中で何かが切れる音がした。にっこりと笑って、口を開く。
「お言葉ですがお館様。私たち使用人にも、意思があり、感情があります。そして、一人の人間としてそれらのことを尊重される権利があります」
私が今暮らしているこの辺りでは、基本的人権なんて言葉はない。それが分かっていてもなお、私はそう言わずにはいられなかった。
「そこのところをわきまえておられないお館様に、おとなしく従うのは難しいです」
サレイユ伯爵は、使用人など人とも思っていない。他のメイドたちから聞いた話からも、それはありありとうかがわれた。
そして私だけでなく、みんな彼のふるまいに怒っていた。立場のせいで、それを直接彼に言えなかっただけで。
でも私は、もう彼に雇われる身ではなくなった。だったら最後に、言いたいことを言ってやることにしたのだ。
「私とディオン様との間には、誓って何もありません。ただおいしい食事を愛する、同士のようなものなのです」
それと、ここだけはきっちりと訂正しておくべきだと思った。胸を張って堂々と言い張る私に、さすがのサレイユ伯爵もたじろいだようだった。
「でも、それももう終わりです。あなたのお望みの通り、私はさっさと退散いたします。さようなら、ああせいせいした」
最後に特大の本音をぶつけて、返事も待たずに部屋を飛び出す。そこには、心配そうな顔のイネスが立っていた。
「どうだったんだい、アンヌマリー」
「解雇されました。普段の行いが、色々と駄目だったみたいです」
「……そうかい。寂しくなるけれど、あんたのためにはそのほうが良かったかもしれないね。ここはあんたにとっては、あまりいい働き口とは言えなかったから」
二人で廊下を歩きながら、そんなことを話す。ちょっとしんみりした空気が、私たちの間には流れていた。
「それで、これからあてはあるのかい?」
「ないです。家政婦か、家庭教師か……そういった仕事ならできそうですけれど、雇ってくれそうなところを知らなくて」
この辺りでは、仕事を探すにもそれなりのこねというか、人脈が必要なことが多い。
でも両親は海の向こうに旅立ってしまったし、親戚たちは家が潰れた時に借金を押しつけられることを恐れてさっさと逃げ出した。つまり私は、自分ひとりの力でどうにかしていかなくてはならないのだ。
「何か、力になってやれればいいんだけど……行く当てがないのなら、ひとまずカナールに行ってみたらどうだい? 徒歩でも、二日もあれば着くしね」
ため息をつく私に、イネスがそう助言する。
「あそこはこの辺りでは一番大きな町だから、働き口も見つけやすいだろうさ。治安もいいしね。もしそれでも困ったら、あたしに手紙を書くといい。こっそりとだけど、力を貸すよ」
「イネスさん……」
彼女の言葉に、じんときてしまった。両親が私のためを思って、私を置き去りにしたことは分かっている。でも、やっぱりひとりぼっちになったことは、少しばかり心細かったのだ。
イネスは私をがばりと抱きしめて、優しくささやく。
「めげるんじゃあないよ、アンヌマリー。あんたは変わっているけれど、性根のまっすぐないい子だ。こつこつと頑張っていけば、きっといいことがあるさ」
「はい……ありがとうございます……」
それ以上、何も言えなかった。彼女が私のことを心から心配してくれているのがひしひしと伝わってきたから。
だから彼女のたくましい背中に手を回し、しっかりとよりそっていた。イネスはそんな私の背を、ぽんぽんと叩いてくれていた。まるで、子供をあやすように。
それから自室に戻り、大急ぎで荷造りを始めた。明日の朝には、ここを出ていかなくてはならない。ここでそう長く過ごした訳でもないし、特に愛着があるということもなかったけれど、一つだけ大きな問題があった。
味噌、醤油、ぬか漬けの瓶にコウジが詰まった小箱。さらに、メーアやカナールで買い込んだ数々の食材。ここ数か月の悪戦苦闘の結果であり、私の部屋を圧迫していたそれらを、どうしても持っていきたかった。
最悪、コウジがあれば味噌なんかはまた一から作れなくもないし、干物やなんかは買い直せばいい。でも、やはり置いていくのも、捨てるのも嫌だったのだ。
「小さい荷車を譲ってもらって、それに乗せていくしかないかな……」
そう考えて、うんざりする。ここからカナールまで、普通に歩いても丸二日の旅だ。
荷車なんて引いていたら、当然ながら余計に時間がかかる。目的地まで三日か、あるいは四日かかるかも。そして道中、宿屋なんてない。しかも今は、真冬だ。
「まあ、いいか。きっと何とかなるでしょ。保存食はたくさんあるし、街道の近くには小川もあるし。この辺りは温暖だから、冬に野宿する人も普通にいるらしいし」
野宿なんてしたことはない。怖くないと言ったら嘘になる。住むところと仕事を一度に無くして、不安にならない訳がない。
だからあえて、いつも以上に明るく言い放った。ここでめそめそしたら、あの爺に負けたようで腹が立つし。
余計な考えを振り払いながら、せっせと荷造りを進めていった。
そうして次の日の朝。私はてんこもりに荷物を積んだ古い荷車の隣に立ち、使用人のみんなに見送られていた。
イネスを先頭に、比較的付き合いのあったメイドたち。珍しいことに、料理長までやってきていた。
「これであんたに厨房を荒らされることもなくなる。せいせいするな」
そう言いながら、料理長はせんべつに干し肉をくれた。イネスたちからは、ハーブティーの茶葉だ。
「見送りありがとうございます。いつか暮らす場所を見つけて落ち着くことができたら、連絡しますね」
ぺこりと頭を下げて、荷車の持ち手をつかむ。さて歩き出そうかというその時、屋敷の中から何かが走り出てきた。
「待て、アンヌマリー!」
それはディオンだった。昨日あの爺に呼び出されて解雇を言い渡されてから、私は何となくディオンのことを避けていた。どんな顔をして会えばいいのか、分からなかったからだ。
「伯父上の決定をくつがえす力は、今の私にはない。だからお前を、止めることもできない」
相変わらず偉そうな態度で、彼は言い放つ。別れのあいさつにしては薄情な言葉だなと思っていたら、彼は小さな布包みを差し出してきた。
「お前はカナールの町に向かうと聞いた。道中、空腹になったらそれを食べるといい」
目を丸くして、包みを開く。白い布と油紙の中からは、ホットドッグのようなものが出てきた。
細長いパンに入っている切れ目はぎこちなくゆがんでいるし、ソーセージはところどころ焦げている。野菜とソースもあっちこっちはみ出していて、どうにも不格好だ。
ふと視線を動かすと、ディオンの手が見えた。いつも傷一つない貴族らしい手には、細い包帯が巻かれている。
「まさか、これって……」
「お前がいともたやすく料理を作るから、私にもできるだろうと思った。生まれて初めての料理だが、案外悪くないものができたぞ」
得意げに胸を張るディオン。つまりこのホットドッグは、ディオンが作ったものなのだろう。
胸がじわりと温かくなる。というか、目頭も熱い。
「その、ありがとうございます。……それでは、失礼します」
ホットドッグを包み直して、肩からかけたカバンにしまう。それからもう一度荷車に手をかけた。振り返らずに、そのまま進みだす。
黙々と足を動かしている間も、ずっとカバンが気になって仕方がなかった。その中に入っている、あの不格好なホットドッグのことが。
きっとそれは、とてもあたたかい味がするのだろう。まだ一口も食べていなかったけれど、そう確信できた。