1.衝撃の事態、衝撃の事実
「済まない、アンヌマリー。私たちの家は、もうおしまいだ」
ある日唐突に、父が涙ながらにそんなことを言った。
「私たちは家を復興させるために、遠くへ、とても遠くへ行くの。海を越えて、そこで一から商売を始めるの。でもそんな過酷な旅に、あなたを連れてはいけないわ」
母も肩を震わせながら、私をじっと見つめていた。
「だからお前は、この国で私たちを待っていておくれ。サレイユ伯爵がお前を引き取ってくれることになったから。お前はそこで、メイドとして働くのだよ」
「大丈夫よ、あなたは賢いし、メイドの仕事もちゃんと覚えられるわ」
「少なくとも、私たちと共に来るよりはずっと安全だ」
「いつか迎えにいくから、それまで元気でいてちょうだい」
そんな両親の言葉を、私は呆然としながら聞いていた。私たちの家が、ミルラン男爵家が、終わった? 跡取り娘の私が、よその伯爵家で、働く?
立ち尽くす私をしっかりと抱きしめて、両親はさめざめと泣いていた。
それから自室に戻り、震える手で荷造りを始めた。両親に聞かされた言葉を、頭の中でぐるぐると繰り返しながら。
我がミルラン男爵家は、商人だった父が一代でおこした家だ。爵位を得た後も父は商売を続け、我が家はどんどん豊かになっていった。
しかし不運なことに、父が商売に使っていた船が嵐で沈んでしまった。その結果、父はあちこちの貴族に不義理を働くことになり、さらに莫大な借金まで抱えてしまった。
そのせいで、ミルラン男爵家は取り潰されることになった。しかし借金を全て返し、さらにあちこちに違約金を払い終えれば、また家を復興させてもらえるのだそうだ。
だから両親は、新天地で一から商売を始め、必要な金を貯めることにした。
その間私は、サレイユ伯爵のもとに身を寄せることになる。そこでメイドとして働きながら、両親の帰りを待つのだ。
心細さに泣きそうになりながら、独りつぶやく。
「今まで一度だって、家事なんてしたことがないのに……メイドだなんて、私には無理よ……」
……本当に?
自分のつぶやきに、強烈な違和感を覚えた。私は、家事をしたことがある。掃除も、料理も。むしろ料理は得意なほうだ。そんな思いが、次々とあふれてくる。
「えっ、そんなはずは……」
考えれば考えるほど、混乱していく。くらくらする頭を抱えて、寝台に座り込む。
「……やっぱり、私は家事をしたことがある。というかそもそも一人暮らしだったから、掃除も洗濯も買い物も料理もゴミ出しも、全部自分でやってた。そうよ、私はごく普通の大学生なんだから」
ぼんやりとしか思い出せないけれど、普通に大学に行って、講義が終わったらバイトして。それから下宿に帰って、家事をこなして。私はずっと、そんな生活をしていた。
「でもそれなら、今の私は、アンヌマリー・ミルランはいったい、何者なの……」
ふらふらと立ち上がり、壁にかけられた鏡をのぞき込む。
ゆるく波打ったつややかな黒い髪、エメラルドそっくりのきらきらした目の乙女がこちらを見返してくる。やはりはっきりとは覚えていないけれど、大学生として暮らしていた私は、こんな色の目をしてはいなかった。
ぺたんと床に座り込み、ぽかんとする。さっきから衝撃的なことが起こりすぎて、頭がついていかない。
私は十八歳の男爵令嬢アンヌマリー・ミルラン。私は二十歳の大学生。まったくかみ合わない二つの記憶が、きれいに頭の中で共存している。それがどういうことなのか、しばらく考えて、悩んで。
「……うん、考えるだけ無駄ね、これは」
すっくと立ちあがり、荷造りに戻る。やけに気分がさっぱりすっきりするのを感じていた。
大学生だったはずの私が、違う姿で令嬢なんかをやっている。どうしてそんなことになっているのかは分からないけれど、いずれそのうち解明される、かもしれない。
とにかく私がやるべきことは、これからの生活に向けての準備だ。
今までのアンヌマリーは、見事なまでの箱入り娘だった。けれど今の私なら、メイドの仕事だってどうにかこなせる……と思う。要するに、住み込みの家政婦のようなものなのだし。
「……その点については、この謎の記憶に感謝ね。ひとまず、荷造りを終えてしまわないと」
荷造り途中のカバンの中には、既に豪華なドレスが何着も詰められていた。それを引っ張り出し、代わりにおとなしめの私服と下着をたくさん突っ込む。
どうせこれからはメイドとして暮らすのだし、ドレスが役に立つ場面はない。両親に売り飛ばしてもらって、せめてもの足しにしてもらおう。
さらに金貨を小分けにして、カバンのあちこちの隙間に突っ込む。
両親が、せめてこれを持っていきなさいと言って渡してくれたものだ。お金はあって困るものではない。特に、これからは一人きりで頑張らなくてはいけないのだから。
謎の記憶を手にする前は遅々として進まなかった荷造りは、あっという間に終わっていた。
「アンヌマリー、次に会えるのはいつになるのかしら……ああ、離れたくないわ」
「できることなら、連れていってやりたいが……旅先では何があるか分からないからな」
別れの日の朝、両親はまた大泣きしていた。
「お父様、お母様。私もメイドとしてしっかり頑張りますから、どうかこちらのことは心配しないでください。……それよりも、どうかご無事で」
二人があんまり嘆くから、私までちょっぴり泣きそうになってしまった。けれどぐっとこらえて、二人ににっこりと笑いかける。
そうして、去っていく両親の背中を見送った。引き裂かれるような悲しみと、妙に冷静な気持ちの、両方を抱えたまま。
それから私は、迎えの馬車に乗ってサレイユ家の屋敷へと向かっていった。
その屋敷は思ったより近く、馬車で半日とかからなかった。窓の外に広がるのは草原と森、それに畑や田んぼといったのどかな風景だった。見ていると、心の中の不安が少し和らぐような気がした。
屋敷の前で馬車を降りた私を、メイド服の中年女性が出迎える。肝っ玉母さんという言葉がふさわしそうな、色々な意味で強そうな女性だった。
彼女は見た目にふさわしく豪快に笑いながら、私に手を差し出してきた。
「あたしはイネス、ここのメイド長さ。アンヌマリー、あんたの事情は聞いてるよ」
彼女の手をにぎると、とても力強くにぎり返された。
「ただ、だからといって特別扱いしてはやれない。あんたも明日から、掃除をして、料理をして……といっても、すぐには無理だろうねえ。しばらくは、みっちり教えてやらなくちゃ」
ため息をつくイネスに、けろりとした顔で返す。
「それなんですけど、ある程度の基本はできていると思いますので……たぶん、じきにちゃんと働けるようになると思います」
「元男爵家の、お嬢さんが?」
「ええ、色々ありまして」
にっこりと笑いかけると、イネスは信じられないものを見たような顔で目をむいた。まあ、それも仕方ないか。
「……にわかには信じがたいけれどねえ。明日になればはっきりすることだから、今は気にしないでおこうか。こんなところで立ち話もなんだし、あんたの部屋に案内しよう」
そうしてイネスは、私を連れて歩き出す。母屋を抜けて、屋敷の裏手にある建物に入り、そこの一室の扉を開けた。
「ほら、今日からここがあんたの部屋だよ」
部屋の中には質素なベッドが置かれ、小さいタンスが置かれていた。壁にはクローゼットのものらしき扉があり、別の壁には小さな鏡がかけられている。広くはないけれど、居心地のよさそうな部屋だった。
「食事は使用人の食堂でとってもいいし、部屋に持ち込んでもいい。自分の分の掃除と洗濯は、自分でやる決まりになっているからね。部屋は好きに使ってくれていいけれど、男を連れ込むのはなしだ。ああそれと、仕事着はクローゼットに入れてある。傷んだら、自分で手入れすること」
そこまで一気に言い切ると、イネスは微笑んだ。今までの威勢のいい笑いではなく、母親のように温かく優しい笑顔だった。
「とにかく、今日はゆっくりお休み。明日から、よろしく頼むよ」
次の日の朝。生まれて初めて着るメイド服にちょっとわくわくしながら、部屋を出る。
使用人たちが暮らしている使用人棟の、一階にあるホール。そこに、メイドたちが集まっていた。年頃の女性が半分、中年女性が半分といったところだ。
彼女たちは同世代のグループに分かれて小声でお喋りをしていたが、私の姿を見るとぴたりと黙った。
「おや、来たねアンヌマリー。みんな、彼女を紹介するよ!」
イネスが私のところに歩み寄り、朝っぱらから豪快に言い放つ。メイドたちの遠慮のない視線がぐさぐさと突き刺さってきた。期待半分、警戒半分といったような表情だ。
しかし彼女たちは、イネスの説明が進むたびにどんどんがっかりしたような顔になっていく。たぶん、足手まといが来たと思っているのだろう。
もっとも、それについてはじきに見直してもらえるだろう。私はそんなことを考えながら、涼しい顔をして立っていた。
そうして、私はその日からメイドとして働き始めた。掃除機も洗濯機もないので全て手作業だけれど、それでも仕事にはすぐに慣れることができた。
でも、かまどの火力調節にはさすがに手こずった。薪を出し入れして火の大きさを調節するなんて、まるきりキャンプだ。
そうやって私がお荷物ではないことを示しているうちに、周囲のメイドたちの態度も和らいでいった。といっても、親しくなれたというにはちょっと遠かった。
ここの屋敷のメイドのほとんどは、近隣の町から集められた平民たちだった。見目麗しいものを選りすぐって最低限の行儀作法を仕込んでから、メイドとして働かせているのだそうだ。
だから、元がつくとはいえ貴族の出なのは、私だけだった。そのせいか他のメイドたちは、私にどうかかわっていいのか分からないらしい。
そんな訳でぼちぼち孤独だったけれど、ひとまず働いていくには問題はなかった。
私は日々せっせと働き、夜は自室で思い切りくつろいでいた。もともと一人でいるほうが落ち着くたちだったし、体を動かすのも嫌いではない。
思ったよりは快適なこの生活に、しかし一つだけ問題があった。一日の仕事を終えてから、メイド服のままベッドに倒れこむ。そうして、深々とため息をついた。
「はあ……味噌汁、飲みたいなあ……」
目下のところ、これが一番切実な問題だった。