第983話 『泥濘 その2』
私は絶叫した。けれど、決してロープを離さなかった。身体は泥沼に沈んでいくし、得体の知れない何かが、私の身体に取り付いて血を吸っている。
「た、助けてーー!! 誰か!!」
この底無し沼から脱出しようと、思い切りロープを引っ張る。だけど身体は、泥沼に埋まって動かない。むしろ、徐々に沈んでいく。
「ど、どうしよう!! このままじゃ……このままじゃ、この沼の中に呑み込まれちゃう」
クウーーン。
「駄目!! カルビはこっちに来ては駄目だからね!! こっちに来たら、カルビも沼に呑まれちゃう!!」
危うくこっちへ来てしまいそうになったカルビを止めた。カルビは、どうにか思いとどまってくれた。そして私の掴んでいるロープに喰いついて、全力で引いてくれようとしている。カルビの小さな身体では、沼に沈みかけている私の身体を引き上げるなんて到底できない。
もう、諦めるしかないのだろうか。私は、ここでこの沼の底に沈んで……この今、私の身体に取り付いている無数の魚みたいなのの餌になって……
ううん、違う!! アテナなら絶対あきらめない。どんな時だってアテナは、諦めないから私も諦めない!!
私はいつだって、勇敢で強くて綺麗で優しいアテナに憧れているんだから!! アテナのようになりたい私が、こんな事くらいで絶望していちゃ、とてもアテナになんてなれないんだから!!
「うううーーーん!!」
思い切り身体を動かした。でも沼に浸かっていてまったく動かない。今度は全力でロープを引く。何度も何度も。カルビもそれに合わせて引っ張ってくれた。でもやっぱりカルビの小さな身体じゃ……
あっ!!
私はとてもいい事を思いついた。そうだ、カルビに大きくなってもらえればいい。ノクタームエルドでの戦い、あれからカルビは大きくなれるようになった。一時的にだけど、大人のウルフの更に何倍もの大きさになれる。私を背に乗せて、駆ける事もできる。
そう、大きくなればそれだけ力も強くなるから、きっと私をここから引っ張り上げる事ができる。
「カルビ、お願い!! 大きくなって、その力で私をここから引っ張り上げて!!」
ワウ!! ガルウウウ!!
カルビは、はっとした。そして身構えると、全身の毛を逆立たせる。身体を大きく変化させる為に、力を入れている。
「良かった。これで助かる……」
ズルズルズルズルズル……
カルビは、大きくなると力任せにロープを引っ張る。私を沼から一気に引っ張り上げようとしてくれた刹那、握っていたロープが大きく動く。ええ!? 私は一気に沼の外に引き上げられた。呆然とする私とカルビ。いったい誰が……
「よう。いったいこんな所で何やってんだ?」
見るとそこには、ノエルがいた。そう、私が戻らないからノエルは私を心配して迎えに来てくれたんだ。そしてノエルは、誰よりも凄い怪力の持ち主。
私は、助かった事の喜びと安堵感、そしてノエルに対しての感謝の気持ちが溢れて彼女に抱き着いた。
「ノエル――――!!」
「うわああああ、やめろ、よっせーー、ルキアーー!! 泥があたしの服にーーー!!」
「ええーん……ありがとう、ノエル……」
こんな所で、死ぬかもしれないと思った。冒険者というのは、いつも死と隣合わせ。こんな所で死ぬとしてもおかしくない。だけど誰も死にたくはないし、死ぬのは恐ろしい。
だからちょっとノエルの胸で泣いてしまった。するとノエルは、泥まみれになった私に抱き着かれて悲鳴をあげたけど、私が泣いてしまっているのを見ると、優しく頭を撫でてくれた。
そうだった。ノエルは見た目は少女で、歳は私よりも下にも見える。クロエと同じ位かな……だけど実は、アテナよりも年上なのだと改めて思った。考えてみれば誰よりもお姉さんなんだよね。
ルシエルは、別として……フフフ。
気が落ち付くと、迎えに来てくれたノエルに改めて御礼を言った。
「助けにくれてありがとう、ノエル」
「ちょっと帰りが遅かったからな、何かあったのかと思って見に来た。まさか、沼に落ちて身動きがとれないでいるとは思わなかったがな、ハハハ」
「ごめんなさい」
「まあ無事で良かったじゃないか」
「ノエルとカルビのお陰です。2人のお陰で助かりました、本当にありがとうございます」
「別にいいよ。あたしらは仲間だからな。でもあたしがヤバイ時は、助けてくれよ」
ワウワウッ
「もちろんです!」
にっこりと笑うと、ノエルは少し笑い返してくれた。カルビは、嬉しそうに飛び跳ねる。
「あれ? そう言えば、ルシエルは何処ですか? カトル君は見つかったんですか?」
「いや、まだ捜索中だ。間もなく暗くなるしな、今日はもう王都へは戻れないだろ。それにこの森でカトルはまだ彷徨っているのだとすれば、見つけ出すまで戻れない」
「もう行方不明になって二日目ですもんね」
「明日になれば三日目だ。もしかして、既になんらかの恐ろしい魔物に出会ってとか……確か、フィッシュメンとか言ったか」
「まだそれは、考えたくないです!」
「そうだな。まだ探し始めたばかりだした。だけどそのカトルって奴が、ルキアと同じように底なし沼に沈んだりなんかしていたら、結構な広さのあるこの森の中で探し出すのは困難だけどな」
「……はい。でも私は生きていると思います」
「ああ。それじゃ、ルシエルのもとへ戻ろう。あいつは今、キャンプを設営してくれているよ」
「今日休む場所だけ先に確保しておけば、そこを拠点にしてもうしばらく周辺を捜索してもいいですよね」
「ああ、そうだな。それはそうと、ルキア? お前、ちょっと服を脱いでみろ?」
「え? な、なぜですか?」
「いいから脱げ!!」
ルシエルなら兎も角、ノエルがこんな事を言うなんて思わなかった。動揺していると、ノエルは無理やり私の服を掴んでまくり上げた。悲鳴を上げかけた所で、ノエルが言った。
「ルキア、動くなよ。あたしに任せろ」
「え? ななな、なにがですか?」
「魔物だ」
「魔物?」
「変なドジョウみたいな魔物が、お前の身体に張り付いて吸血している。いいな、動くな。あたしが全部、とってやるから心配はいらない」
ぜ、全部? ノエルが私の服をまくった部分に目をやる。お腹――そこには何匹もの細長い不気味な魚が張り付いていた。血が流れている。
私はまた大きな悲鳴をあげた。




