第938話 『ルシエルレベルの魔法使い』
イーリスに、案内されるがままに行きついた先――王宮内にあるとある一室。
扉を開けて中に入ると、そこはとても変わった内装だった。まるでカフェやレストラン……ううん、とてもお洒落な大きなキッチンと言ってもいいかもしれない。
部屋の中央には、何人も並んで座る事ができる大きなダイニングテーブル。イーリスはそれを掌で指した。
「さあ、どうぞ。お座りになって」
「え? うん、ありがとう」
クロエの手を引いて隣同士に席に着くと、クロエとは反対側の席にマリンが座った。なので私は丁度真ん中。対面してイーリスが着席し、パンパンと手を叩く。
「ディディエ! 参りましたよ!」
ディディエ? イリーナが誰かの名前を口にすると、部屋の奥の方から女の子が一人現れた。料理人の服装をしている。もしかしてこれは……
「お初にお目にかかります、アテナ王女殿下。私はディディエ・ボナペティーノと申します。このパスキア王国の料理人でありますが、この王宮の専属料理長も務めさせて頂いております。今日はささやかながら、私の料理をご堪能して頂ければと思います」
私より、歳は少し上かな。料理人ディディエ・ボナペティーノと名乗る女の子は、私達の前で跪いた。私は慌てて立ち上がって自己紹介をする。
「アテナ・クランベルトです。よろしくお願いします」
私達を見て笑うイーリス。
「ウフフフ、可笑しなアテナお姉様。あなたは王族でしょ。一料理人に頭を下げるなんて」
「一料理人でもそうでなくっても、私達の為に腕を振るって美味しい料理を作ってくれるんだから、ちゃんとお願いしますっていうのは、道理だと思うんだけど」
「そうかしら。わたくし達王族と、それに使える者とでは、そもそもの身分が違うんだからって、お父様やお母様、それにお兄様達はいつもそうおっしゃっていますわよ」
「それでも人と人。あと、付け加えるなら、私は招かれている方だから」
そう言ってにこりと微笑みかけると、ディディエ・ボナペティーノも微笑み返してくれた。すると隣に座っていたクロエも立ち上がって、慌ててディディエ・ボナペティーノに挨拶をする。
「ク、クロエ・モレットです! ほ、本日はお招き頂きまして、よ、よろしくお願いします」
「こんばんは。ボクは、マリン・レイノルズ。美味しい晩御飯を食べにきたんだよ」
クロエを見ても、変わらずに微笑んで頭を下げる料理人ディディエ・ボナペティーノ。でもマリンが名乗ると、彼女の方を見て暫く驚いた顔をした。イーリスもその事に気づいたようだった。
「どうしたのかしら、マリンを見つめて。ディディエ?」
「失礼ですが、マリン・レイノルズ様とは、魔導大国オズワルトの天才魔法使いと呼ばれたマリン・レイノルズ様ですか?」
「そうだよ。天才魔法使いとは、ボクの事だよ。控えめに言ってもね」
「あれ、でもお名前ですが……マーリン・レイノルズ様では、ありませんでしたか?」
「ボクはマリンだ。マリン・レイノルズ」
「そうでしたか、マーリン様と思っておりました。失礼致しました」
本当の名は、マーリンではないのか……その事に触れられるのを、本人が嫌がっているのは解っているので、私は聞かずにいる。マリンは、マリンだし。
でもまったく、天才魔法使いって自分で言ってしまうなんて……何処からそんな自信が溢れてくるんだろうか。
……確かにマリンの水属性魔法はとんでもないし、世間でいう一流って言葉をも超える力を持っていると思う。だけど、この明らかに胸を張ってエッヘンってした態度は……目は相変わらず、眠たげだけどね。
でもなぜ料理長が、マリンの事を知っているんだろう。爺は知っていたみたいだけれど、もともとが同じオズワルトの人みたいだしってその時は思っていた。もしかして、マリンって凄い有名人?
だけど少なくとも私はマリンと出会うまでは、マリン・レイノルズなんて名前は知らなかった。
むーーん、これは単に、私が知らなかっただけだろうな。私の魔法に関する知識なんて、剣術に比べれば微々たるものだし。
「本日は、クラインベルト王国の王女様だけでなく、あのマリン・レイノルズ様までお越しくださいまして、私も腕を振るうのに胸が高鳴ります。いえ、もちろんクロエ様にも喜んで頂きたく――」
「ウフフフ、ちょっとディディエ。その辺にして、そろそろお料理を用意してくれるかしら。わたくしもそうだけれど、アテナお姉様達はきっともうペコペコよ。そうでしょ?」
「え? あ、うん。そうね」
「ボクはペコペコすぎて、今にも倒れそうだよ。端的に言って、餓死寸前だ。早く美味しい物が食べたいな」
マリンの怖いもの知らずな言葉と態度に、大笑いするイーリスとディディエ・ボナペティーノ。因みに私とクロエは苦笑い。
「それでは、ご用意致します。そうそう、それと私の事は親しみを込めて、ディディエとお呼びください。アテナ様、マリン様、クロエ様にそう言って頂けると、この上ない喜びでございます」
「うむ」
えらそうに返すマリンに、軽く突っ込みをいれる。
「こら、マリン!」
「えーーー、なんで?」
「それじゃ、ディディエ。どんな料理が出てくるか、楽しみにしているわ」
イーリスとディディエは、お互いに顔を合わせた。これはきっと、美味しいものがでてくる予感。
ディディエは、「失礼します」と言って下がる。そして厨房にいる他の料理人に声をかけて指示をすると、やや黄色っぽいような液体の入ったグラスを4人分運んできた。
「アプリコットの、ジュースでございます」
「えっ、アプリコットのジュース!! そんなの初めて飲むわ。とても美味しそう!」
どーだとばかりに、得意げな顔をするイーリス。
「飲んでみて。とても美味しくて、わたくし、大好きなの。だからいつも、まず食前にこれを頂くのよ。でもお酒がよろしければ、遠慮なくおっしゃってね」
「うん、ありがとうイーリス」
クロエが私の腕を触る。
「ん? どうしたの、クロエ?」
「ア、アプリコットって……」
「うん、杏子だね。杏子のジュース。とても美味しそうだから、早速遠慮なく頂いてみようよ」
「はい……ごくごく……お、美味しい!」
フフフ、きっとクロエも飲んだ事がないんだと思った。アプリコットジュースって、そう言えば聞いた事がないかも。
「ねえ、マリン! このジュース、凄く美味しいよね」
「え?」
マリンの方を見ると、マリンは既にジュースを飲みほしていて、ディディエにお代わりを要求していた。
マリンも食いしん坊なのは解っていたけれど……ふむ、これはなかなかのルシエルレベルだね。