第834話 『心の底に潜むナニか その1』
暗闇――――わたしは、光すら感じる事ができないから、常に暗闇の世界にいる。だからいつもの事だけど……なんだか、それとは違うものを感じた。兎に角、何かいつもとは違う、闇の世界。
そして耳を澄ませれば、何処からかわたしの名を呼んでいる声が聞こえた。
(……クロエ……クロエ……)
「誰? 誰がわたしの名前を呼んでいるの?」
目の前に、唐突に眩しい程の光が広がる。
おかしい。わたしは目が不自由で、光を捉える事もできないはず。なのに、光を感じる。
そして次の瞬間、また真っ暗になった。
「な、なに……いったい何が……」
暗闇。わたしのいるそこに、光が照らされた。まるでスポットライトのようにわたしのいる周辺だけ。わたしは、驚いた。
「わ、わたし、目が……見えている!!」
刹那、目の前に何者かが現れた。大きな身体のそれは、わたしの目の前にいる。大きな鉄の椅子に座っている。
普段なら、恐怖するかもしれない。なんだか解らないけれど、得たいが知れなくて恐ろしい光景。だけどわたしは、心の奥底で自分の目が見えている事に歓喜もしていた。
いったい、何か起こって……
……もしかして、これは夢?
「初めて会ったの日に思ったけどな、なかなか察しのいい子だ。クロエ・モレット」
ギザギザとした声色。いったいこの人は誰? いえ、本当に人なの?
「俺様は、お前の中にいるもんだって言えば、解るか? だからクロエ、お前の考えている事は手に取るように解るぜ。だから喋りたい事があるなら、口に出せ。どーーせ、ここにはこの俺様とクロエ、お前しかいないんだからな」
「じゃ、じゃあ、あなたは何者なの?」
「おっと、そうだ。その前に――」
大きな鉄の椅子に座った、大きな男? その男が指をパチンと鳴らした。するとわたしの真後ろに、鉄の椅子が現れた。冷たくて固そうで、誰も寄せ付けないような鉄の椅子。
「さあ、お喋りしよう。それにかけて」
「……あ、あの」
ドキリとした。
鉄の椅子を確認し、また男の方へ振り返ると、そこには大きな鰐がいた。大きな鰐が、鉄の椅子に腰かけている。わたしは、この鰐を知っている。身体が恐怖で震える。
「あ、ああ、あの……」
「折角目が見えるようになったのに、こんな恐ろしいものを見るハメになっちまうとはな。まいったよなー。でも見えるっていうのは、ご機嫌な事だろ、なあ? さあ、クロエ。その椅子に腰をかけろ」
「あ……」
戸惑うと、鰐は不機嫌な表情をした。鰐の顔だけど、それはなぜかはっきりと解った。
「す・わ・れ。いいか、クロエ。もう一度は言わねえぞ」
鰐の口からヨダレが垂れる。わたしは恐ろしくて、腰が砕けるように真後ろにある鉄の椅子に座った。
「よし、いい子だ。やはりお前は俺様が見立てた通りの女だな。顔は整っていて美しいが、身体は痩せていてガリガリ、まったくもって美味そうじゃない。だが、なかなかに察しがいい」
「あ、あなたは誰?」
わたしの振り絞って言った質問に、鰐は驚いた。
「ほう、これは凄い。ゲース・ボステッドの拷問屋敷では、震えあがって泣き叫んだ挙句、果てにはお漏らしまでしていた小娘が、この俺様と対峙して質問をしてくるまでになるとはな?」
ゲース・ボステッドの屋敷。あそこでわたしはあの男の趣味で拷問されて、酷い目にあった。あの時の事は、未だに朧げに感じる。
あの時に聞こえた声は、恐怖でおかしくなって幻聴が聞こえていたのかもしれない。あの時は、そう思っていたけれど……
「あ、あなた、ブレッドの街の近くの泉。あそこでも会った……ヴァサルゴね」
鰐は、大きく頷いてパチパチと拍手をする。
「こいつあ、嬉しいねえ! まさか名前を憶えていてくれたとはな。そうさ、俺様は大悪魔ヴァサルゴ様だ」
「やっぱり……でも、おかしいわ。もしかしてこれは夢? そもそもわたしは、目が見えないはず」
「そうだな、お前は盲目だ。だが今は見えるだろ? どんな気分だ?」
「ど、どんな気分って……そ、そりゃ戸惑っているわ」
半分は嘘。幼い時は、目が見えていた。そして、ある時から見えなくなった。
あれから何年もずっとわたしは暗闇の中で生きている。だから例え夢の中であったとしても、久しぶりに感じるこの光の感覚は、喜びとしかいいようがない。
だけど、それを大悪魔と名乗る鰐の化物に悟られたくはなかった。
「わ、わ、わたしをどうする気なの?」
「ギャハハハハ!! 別に何も今日、お前をとって喰おうって訳じゃねーよ!!」
「じゃ、じゃあなぜ……」
「いやーよう。実はな、ちょいとお前にいい話をもってきてやったんだよ」
「いい話? それはあなたにとってじゃないの?」
ヴァサルゴは、大きな口を豪快に開いて大笑いした。あの口、わたしなんて丸呑みにできる。
「クロエ、お前ちょいと前の塞ぎ込んでいた時と別人だな。何がお前を変えたんだー? 興味深いなあ」
「な、何も変わってはいないわ!!」
「そう、そういう所。普通……お前位の少女ならな、俺様と1対1で対峙してこの姿を拝むだけでも、場合によっては恐怖でショック死してしまうのにな。それがだよ、対等に話そうとしている」
ヴァサルゴは、自分の事を大悪魔と言った。悪魔と友好的にしていいはずはないし、何より信用ができない。
「あ、あなたと話す事なんてないわ。わたしをもとの世界へ戻して!!」
「いいのか、それで。本当にいいのか? 俺様はお前と共にいる。お前の中でこそこそと何かよからぬ事を、せっせと何かしているかもしれんぞーう? それならそれで、見える方がいいんじゃないかー? それに、そうだ! 久々にこの目の見える感覚、夢の中とは言え、たまらないだろう? んーー?」
やっぱり、ここは夢の中。だけど、ヴァサルゴは現実にいる。わたしの中にいて、わたしにこの夢を見せている。
わたしはどうすれば、ここから逃げ出せるのか。それと、本当に逃げ出してもいいものかとも考えていた。
ヴァサルゴから逃げ切って、夢から覚めたとしても、本当にわたしの中にヴァサルゴがいるのなら、根本的な解決にはならないから――――




