第698話 『愛情』
うっ!! 臭い!!
ルキアの差し出してきた山羊のミルクが、ほんのりと暖かくなっていて、ニオイも更にするようになっていた。ボクは、こういうニオイに対してあまり免疫が無く、かなり苦手だと今改めて思い知らされた。
うら若き乙女の表情としては、あり得ない程に顔をギュっとしてリアクションすると、ルキアがそれを見てボクの心境に反して笑顔を見せた。
「はい。大丈夫ですから、あげてください」
「うーーん、でも今更だと思うけれど、さっきこのバジャーデビルの子供達は、ミルクを飲まなかった訳だよね」
「ちょっと暴れただけです。今度はきっと大丈夫です。お母さんから飲むお乳のように、今度は少し温めてもらいましたし」
「しかしーー話の腰を折るようで申し訳ないが、ルシエルから既に聞いた話によると、このバジャーデビルの子供達は、親から肉を餌として与えられていたらしい。巣には沢山のにんげ……動物等の骨があったらしいからね。今更、山羊のミルクなんて飲むと思うかい?」
今のこの状態になぜか、ボクは戸惑っていた。だからここから一時離脱して、村の警備に戻れれば問題ないと思ったのかもしれない。
だからこの場から逃げたい一心で、こんな事を言ってしまった。もっと他に言葉はあったのだろうと思うけど。
するとルキアは笑顔のままで、ボクに言った。
「お肉が好きなら、ミルクだってちゃんと飲めますよ。私もルシエルからその話は聞いています。それに私、以前アテナに色々な魔物の事が記されている本を貰ったんですけど、今でも私の大切な物で愛読しているんですが、バジャーデビルの情報もちゃんと記されていました」
「ほう、それは実に興味深いね」
「バジャーデビルはミルクを飲まないんだそうです。生まれて直ぐは、何も食べず暫くして親から肉をもらって食べるとか……私はだから、凶暴で肉を欲する魔物になるのかなと思いました。そうじゃないかもしれないけれど、そうかもしれない。それにその要素は少しはあるかもしれない」
「でもそれじゃ……」
「バジャーデビルの子供は、ミルクを飲めないんじゃなくて、飲まないって書かれていました。飲もうと思えば飲めるけど、子供のうちに親に肉を与え続けられて、それが好物になると。でしたら子供の時にミルクを与えれば、ミルクを飲んでくれる子になるんじゃないかなって思って。現にほら、私とクロエが抱いている子は、美味しそうに飲んでいますしね」
確かにボクもバジャーデビルの知識は、少しだけある。ボクも本は大好きで死ぬ時は、本に潰されて死ぬのも悪くないと思っている程だ。だから、色々な本を読み漁っているから多少の知識はある。
だから、ルキアの今言った事に対して、はっきりもっと簡潔に言ってしまうと、バジャーデビルは雑食なのだ。だからなんだって食べるし、飲む。だけど……こんな事をして何の意味になるのだろうか。
そうは思っていても、足を止めてルキアのもとに戻ってきてしまった自分。考えと矛盾した行動も、気になって仕方がない。
「さあ、あげてみてください。マリン」
「え、ああ」
グウウウウウウ……
長々とルキアと話していると、流石にお腹が減ってきているのに、目の前でお預けされているのが我慢できなくなったのか、ボクが抱きかかえているバジャーデビルは、手に持っていた山羊のミルクの入った哺乳瓶に両手を伸ばしてきた。
小さな狸の子供のような手。確かバジャーデビルは、アナグマの魔物だったかな。
「ほら、見てください! やっぱりミルクも美味しそうに見えてるんですよ!」
ルキアの方を見ると、ルキアが抱いているバジャーデビルも、哺乳瓶を咥えてゴクゴクと美味しそうに飲んでいる。
クロエもそう。目が見えないのに、上手にちゃんとミルクを与えている。まだ山羊のミルクにありつけないでいるのは、ボクが今抱いているこの子だけ。
「ほら、マリンもあげてください」
グウウウ……
「……わ、解った。じゃあ、あげてみるとしよう。バジャーデビルの子供が、こんなにも山羊のミルクを美味しそうに飲むなんて実に興味深い。観察する必要があるようだ」
「ウフフフ」
ルキアとクロエに笑われてしまった。
ボクはバジャーデビルに哺乳瓶をゆっくりと近づける。顔の手前までくるとバジャーデビルは、ガシっと勢いよく両手で哺乳瓶をキャッチすると荒々しく山羊のミルクを飲み始めた。
「の、飲んでる……ガブガブと飲んでいるね……」
目だけじゃない。その光景に心も奪われてしまっていた。ボクはこういうものをあまり目にしたことがないし、意識に捉えた事もなかったからだ。だけど今は、こんなにも……
グウウウ……ガブガブッ
「美味しそうに飲んでますよね。バジャーデビルは大人になると凶暴で、人を襲ったりもする危険な魔物らしいです。でも私は、子供の時に沢山愛情を与えて育てれば、間違いなく優しい子に育つと思っています。そう思って育てるべきだと思っています」
まだ年端もいかないルキア。だけどそんな少女がまるで、立派な母のようなセリフを言った事に少し気おされてしまった。
「だから肉ではなく、ミルクを飲ませてみようと思ったのかい?」
「はい。もう少し大きくなったら、お肉とかもちろん野菜も与えないとと思いますが、まだこの子たちは1歳にもなっていないと思います。だからまずは、栄養満点で母の愛情でもあるミルクが一番いいかなと思いました。私も生まれた頃はお乳で育ちましたし、マリンだってとうぜんそうでしょ?」
なるほど、そういう事か。ルキアの言葉に関心する。関心しながらもボクは正直に顔を左右へと振った。
「え? マリンはそう思いませんか?」
「そう思うよ。だけど、一点思い違いがあるんだ。ボクはルキアやクロエのように母乳を飲んだ記憶……いや、その経験そのものがないんだよ」
「え? そんな……」
そこで顔をプイっと背けて、バジャーデビルの子供にミルクをあげ続けた。それは……それ以上は今は話したくないという意思表示だった。ルキアは察しのいい子なので、驚きはしたがそれ以上は、言ってしまった事に触れてこなかった。
ボクはゴクゴクと美味しそうにミルクを飲み続けるバジャーデビルの子供を見つめ、可愛さとともに愛情というものを少し解ったような気になっていた。




