第621話 『赤い目の兎 その3』
混乱している私の代わりに、セシリアが言った。
「つまり……私達の今の目的地は、テトラがモロロント山で知り合った後、そのまま色々と助けてもらったというレティシアという女冒険者。その人と交易都市リベラルで合流して、『闇夜の郡狼』に関する有益な情報を得る事。そのはずなのだけれど……なぜ、そのリベラルにいるはずのレティシアっていう人が、連れている土の精霊ラビッドリームを使用して、私達を攻撃してきている……っていう事かしら?」
アローは、首を横に振った。
「違いますね。レティシアは、今僕達がこんな状況下にいる事を知りません。テトラがレティシアと別れた時に、きっとラビッドリームが勝手にレティシアのもとから離れて、テトラに取り付いてきたのでしょうね」
え? か、勝手に取り付く!?
「ラビッドリームは、深層心理に潜れる精霊ですから、今まで誰も気づけなかった。だってテトラの心の奥深くに沈んで隠れていたとしたら、いくらレティシアでも何も感じ取れないし解らなかったと思います」
「ででで、でも、なぜ、じゃあその兎の精霊……ラビッドリームは、私にとりついていたんでしょうか?」
「兎の精霊ではなく、土の下位精霊です。なぜテトラに取り付いたのかは、精霊本人にしか解りませんし僕にも予想がつきませんよ。それでも考えて思いつくのは、テトラの過去に関係があるのかもしれませんね……そしてその心に惹かれた、興味があった……もしくは、美味しそうな心だった。そんな所ではないかと思いますけどね」
お、美味しそうな心――ぎょっとするような事を言われた。もしかして、ラビッドリームは人の心を食べる!?
で、でもとりあえずこれで、あの兎が何者かという事も解ったし、捕まえればいいという解決策も解った。
私は逃げもせず、一定の距離を保ってこちらをじっと見つめている赤い目の大きな兎に目をやった。
「そ、それじゃあの兎を捕まえますよ。そうすれば、夢からは覚めるんですよね」
「ラビッドリームを捕まえただけでは、戻れないかもしれない。ですから僕がいます。テトラとセシリアがそろそろお喋りをこのへんで切り上げて、あのラビッドリームを見事に捕まえてくれたのなら、その意思とは関係なく僕が二人をもとの世界へ連れ戻してご覧にみせますよ。ほんとです」
私はセシリアの顔を見た。セシリアは頷く。
「セシリア、それじゃああの兎を捕まえましょう!!」
「解ったわ。それじゃあ、まずテトラ――お願い」
「え? 私からですか?」
「それはそうよ。テトラと私じゃ運動神経も体力も違いすぎるでしょ。それに私なんかじゃ、まともにあの兎を追いかけても、一生捕まえられない自信があるわ」
「そ、そういうのは自信とは、言わないんじゃ……」
「きっと途中で力尽きて、呼吸困難を起こしてそのまま死んでしまうかもしれない」
「へえ……」
セシリアにキッと睨みつけられたので、私は慌てて兎の方へと駆けた。
「よ、よーし!! こうなったら、私が捕まえます!!」
「頑張ってね、テトラ。全力で、応援しているわ」
絶対皆でかかった方が、合理的でより早く捕まえられるのになと思った。だけどセシリアと言い合っていても始まらない。それに、口じゃかなわないし。
姿勢を低くすると、一気に兎との距離を詰めていく。私が迫っている事は、こっちをじっと見ていたし、気づかれてはいる。だけど姿勢を低くする事で、加速して移動できる。
どんどんと兎に近づいていくにつれて、二つの不思議な事に気づいた。
一つは捕まえようと迫っていっているのに、さっきまでとは打って変わって一向に兎が逃げ出そうとしないこと。
そして二つ目は、遠くのものが小さく見える。それはとても普通な事ではあるのだけれど、兎に近づいていくに連れて、兎が大きくなり過ぎていっているという事だった。
私自身、自分で何を言っているのか解らない。ちょっと混乱してしまっている。
だからそのまま言ってしまうと、最初に兎を見た時は大人の膝位も無い程だったけど、どんどんと近付いていくにつれて大きくなり、今は3階建ての一軒家位の大きさになっていた。
見たこともない、巨大な兎。
その巨大兎が大きな赤い目で、まるで見下しているかのように私を見下ろす。
「うう、なんですか!? これは?」
「テトラ、逃げなさい!!」
セシリアの声。何かが起きている。そう思って、大きくなった兎を見上げる。すると兎は、なんだか丸みを帯び始めて徐々に傾き始めた。フワフワの丸い毛玉のよう。
「早く、逃げなさい、テトラ!! 兎はあなたの方に傾いてきている!!」
「え?」
ゴゴゴゴゴゴ……
次の瞬間、まるで兎の尻尾のように白くてフワフワの毛玉になった兎が、私を押しつぶそうとこちらに傾いてきた。
慌てて横に飛んで避けると、兎はゴロゴロと音を立てて転がっていった。ホッと胸を撫でおろす。すると巨大な毛玉になった兎は、ゴロゴロと大きくカーブしてまた私の方へ向けて転がってきた。
うそ!? どうしても、私を押し潰すつもり!?
草原を走り、慌てて横へ逃げようとするも巨大な毛玉も私に合わせて避けようとする方へ、転がる向きを修正してくる。どどどど、どうしよう!!
どうすればいいか戸惑っている間に、目の前まで毛玉が接近してきた。つ、潰される。こうなったら尻尾の力を解放してイチかバチか全力で毛玉を止める。それしかないと思った。
巨大な毛玉が目前まで迫ったところで、横から誰かに押し倒された。そのお陰で、私は巨大な毛玉に轢かれずに済んだ。
目をやると、私の身体の上にはセシリアがいた。セシリアは直ぐに立ち上がると、私の手を引いて立ち上がらせてくれた。
「セ、セシリア!!」
「どちらにしても、あのままじゃ兎を捕えられないわ。それにいいか悪いか、テトラを押し潰そうとしたわ」
「そそそそ、それっていい事じゃないじゃないですか!!」
「そうかしら。押し潰そうとしているって事は、逃げるつもりはないって事でしょ」
「あっ! 確かに……でも、恐いです」
ゴロゴロゴロゴロ……
草原――向こうまで転がっていた巨大な毛玉が、再びまたカーブを描いてこちらに引き返してくる。
「どどどど、どうしましょう、セシリア!!」
「とりあえず、兎は逃げずに私達を押しつぶそうと追ってきているわ。それなら、こちらが逃げましょう。どのみち、あの大きさじゃ、私達に捕まえる事なんてできやしないわ。あの森に逃げ込みましょう。あの巨大な毛玉で森の中を転がる事なんてできないだろうから。あくまでも追って来るつもりなら、きっと小さくなるはずよ」
「わ、解りました!! それじゃ行きましょう!! 急がないと、また毛玉がこちらに向かって転がってきていますよ!!」
「フフ……それなら、僕が少し時間を稼ぎましょう。テトラとセシリアは一気に森まで駆けて!」
そう言って、アローは私達とは逆の方向へと羽ばたいて行った。そして転がってくる巨大な毛玉の前で降り立つと、魔法を詠唱し始めた。
「少しでも、喰い止める事ができればいいんだがね。光よ、我を守りたまえ!! 《全方位型魔法防壁!!》」
防御魔法。光のドームがアローを包みこむ。凄い、これなら止められる――
ゴロゴロゴロ……グシャッ!!
「ぎゃっ!!」
ええ!!!! 嘘!?
「アローーーー!!」
しかし巨大な毛玉は、止まらなかった。シールドを張るアローをそのまま轢き潰すと、全く勢いを落とすことなく私達に迫ってきた。
「大丈夫よ、テトラ。それより急いで逃げないと私達もアローみたいに、お煎餅になるわよ」
セシリアは、アローの名を叫ぶ私の手を引いて森の方へと走り出した。




