第592話 『与えられた絶望と勇気 その1』
「チェルシー、これはいったいどーなってやがるんだ? ゲースさんの屋敷に王国騎士団がいっぱい雪崩れ込んできやがったぞ!! 慌てて逃げ出してきたが、どういう事か説明しやがれ!!」
「あ、あたしは何も知らないのよ! 本当よ!」
「そんな訳ねーだろが!! ゲースさんの屋敷にクロエを送ったすぐ後にだぞ!! クロエが誰かにタレこんだんじゃねーのか!! この間、友達ができたとか言って変な女どもや、コナリーとキャンプとか行くって言っていただろ? その時にタレ込みやがったんじゃねーのか?」
「それはないわ! あの子には、子爵様の事とか一切話していなかったし、絶対に聞かれていないと断言できるもの」
「それなら、チェルシー! お前しかいねーじゃねーか!! さてはやっぱり娘を手放したくなくなって騎士団にタレ込みやがったな!! 裏切ったなチェルシー!!」
「そ、そんな訳ないでしょ!! あたしがどうしてそんな事をするの? あたしはフランクに嘘なんてついた事、一度だってなかったでしょ?」
「それなら誰なんだよ!! 誰が騎士団にタレ込んだってんだ!! あの鹿の角の紋章、間違いなくクラインベルト王国の鹿角騎士団だったぞ。鹿角騎士団の団長と言えば、シカノスだ。シカノス・カナヤー。あんななんの面白くもないガッチガチの奴に捕まったら、袖の下も通じねえ! ゲース様は完全に終わりだ!」
「フランク、本当にあたしじゃない。信じて。それにあたしみたいな町民一人がタレ込んだとしても、子爵様であり、この土地の領主様でいらっしゃられるゲース様を本当に、あたし一人で何かできると思って?」
「じゃあ、誰だあああ!! 誰がゲース様を!!」
醜い二人の言い合い。それを全部、私もノエルもカルビも……そしてクロエも聞いていた。
母親が自分の意思で、娘をあのゲースに売ったという事を聞かされて、クロエは茫然としている。できる事なら、このまま母親には合わせないで私がクロエを連れ去って、王国でもなんでも穏やかに住めるところを手配してあげて、穏やかに暮らさせてあげたい。
だけどクロエは、母親と向き合おうとしている。
義母エスメラルダ王妃から、あの手この手で逃げ回っている私がクロエにどうこう言える立場ではないけれど、だからこそクロエの望む事を後押ししてあげたいと思った。
「クロエ……」
私だけでなく、ノエルもカルビもクロエの顔を見つめた。すると彼女は頷いた。
それなら、私は彼女の背中を押してあげるだけ。
「クロエ、これからの事やこれまでの事を考えると、怖くて不安と怒りが入り交じって身体が震えるのは当然だと思う。だけど前を向いて。お母さんと今話すのはつらい事かもしれないけれど、あなたがそうしたいと思うようにすればいいと思うよ。思っている事を、しっかりと声に出して。結果、どうなっても私やカルビやノエルは、ずっとあなたの味方だよ。勇気をだして」
ワウッ
カルビが続く。ノエルも頷いている。クロエにはノエルの頷く姿が見えないが、頷いている事はしっかりと伝わっているようだ。
クロエが家の陰から動いたので、私は彼女の背中を両手で押した。クロエが自分の家の前に飛び出すと、彼女の母親とフランク、そしてフランクの仲間達は一斉にクロエを見て固まった。
まず、今の大声で言い合っていた話を全てクロエに聞かれたのだろうかという事。そしてゲースのもとに送られた少女は、あの薄暗く陰湿な地下部屋で繋がれて、拷問をされていたのだからここへは帰ってこれないはずなのに、ここにいる事。
だけどクロエは、無事で返ってきたのだ。その事に、クロエの母親とフランクは混乱して頭の中の整理が追いつかないでいる。
だけどクロエの母親は、クロエのもとへ駆けた。そしてクロエを抱きしめる。
「クロエ!! クロエ!! 大丈夫だった? よく無事で返ってきたわね!ごめんね、ごめんね!」
クロエは抱き着いてきた母親の身体を、無言で押して拒絶する。チェルシーは、我が子に明らかに嫌われた態度を見せられて驚く。
「ク、クロエ?」
「やめて……やめて、お母さん。今更そんな態度をとらないで」
「え? どうしたの、クロエ」
カルビは飛び出していき、クロエの足元に寄り添った。カルビのモフモフの体毛を足に感じたクロエは、カルビの方を見ると、何かを決断したかのように自分の母親の方を睨みつけるような目で見た。
そしてゲース・ボステッドの屋敷で何があったか……自分がゲースに何をされたか、そしてゲースがどういう男だったかを、母親であるチェルシーに説明した。
クロエはゲースの屋敷で、身も震え言葉を失う程の恐怖を味わった。なのにそれを今一度鮮明に思い出して、言葉にしている。
クロエは、苦難に立ち向かえる強い子だよ。頑張って。
クロエの言葉を聞いたチェルシーは、困惑した表情でフランクを見つめた。
「フランク? 娘は、娼婦の館に入るって言ってなかった? 娘のような子を気に入って愛でてくれる貴族様がいるから……その方がクロエは、幸せに暮らせるって……5年もそこに居ればお金も十分に稼げてなんでも好きな事をして暮らせるって言っていたわよね? ね?」
フランクは、髪をかき上げるとそのまま面倒くさそうに、頭を掻いた。
「言ったよ! 言ったけど、アレだ、アレ。ゲース様がそう言ったんだ。まさかゲース様がそのままクロエで遊ぶなんて思ってもみなかったっていうかな……そこは誤算だったって認めるよ」
「……遊ぶ?」
クロエは歯を喰いしばると、自分の母親に向けて言った。
「ゲースの事を例え知らなかったとしても、お母さんは目の見えないわたしを娼婦の館へ売った。さようなら、お母さん。わたし、目が見えないし何処かへ行く宛もなかったから、フランクさんが家へ来るようになっても今まで我慢してきた。だけど、もう限界……わたしは、もうこの家には住みたくない。出て行きます」
「待って!」と叫ぶクロエの母親、チェルシー。行先が娼婦の館であったとしも、ゲースの拷問部屋であっても、大金と引き換えに娘を売った事実は変わらない。
クロエは、今まで自分が住んでいた閉ざされた小さな世界とその家にも別れを告げた。




