第577話 『心の中 その1』
闇の中で何度もわたしも名前を呼ぶ声が聞こえた。わたしの指を折ったり、太腿に何本もの針を刺したり、顔を殴りつけた男。ゲース・ボステッド。その男の声では無かった。
(クロエ――――クロエ――――)
「……!! あ、あなたはだれ? わたしの名を呼ぶあなたは誰なの?」
心の奥底、暗闇の中で誰かがわたしの名前を呼び続けている。
(クロエ。クロエ・モレット。お前の名前はクロエ・モレットだな。違うか?)
「そう、そうだけど誰なの?」
この拷問部屋には今、誰もいない。ゲース・ボステッドという男は、わたしを殴って気絶させた後、何処かに行ってしまった。
時間をかけてじっくりと拷問を楽しむと言っていたので、一旦満足して食事でもしに行ったのかもしれない。だから人の気配もしない。この部屋には今、間違いなくわたし一人しかいなかった。
(俺かい? 俺の名前を知りたいのかい? そうなんだろ?)
「え、ええ! 知りたい。教えて欲しい! そ、それにあなたはいったいどこにいるの? この部屋にはあなたの気配はしない。だけど、声は頭の中に響いてくる」
(ギャハハハ。声は響いてくるか……そりゃそうだろうな。俺は、お前に取りついているんだから)
と、取りついている? え? え?
こんな恐ろしい屋敷に連れてこられた事と、お母さんに売り飛ばされた事、そしてあの男に拷問された事によるショックで、幻聴が聞こえているのではないかと自分を疑う。
頭を振って幻聴をかき消そうとしたけど、拘束されていて動けない。そればかりか手や足などにも鉄枷が嵌められたままで、椅子から微動だにする事もできなかった。
(ギャーーハッハッハ。無理無理、ぜってーー無理だっつーーの。お前の枝みたいに細く、あばらの浮き出た貧相な身体で、その鉄枷を破壊できるわけないだろーがよ。ちょい考えれば解る事だろーがよ。チョーーうける!!)
幻聴、これは幻聴だと思った。恐怖で頭の中に変な声が聞こえるようになった。わたしの頭の中から出て行って!
(あのーよー。俺の事を幻聴だと思い込むのはお前の勝手だがよー。言っておくが、俺は実在するぜ。しかもお前の心の中に取りついている。ああ、嘘じゃないぜ。俺様は嘘はつくが、これは嘘じゃねーぜ)
「そ、そう言うんだったら、名前を名乗ってみてよ!! 名乗れないでしょ? 名乗れたとしても、きっとそれはわたしの知っている名前じゃないかしら!! だってあなたはわたしの作りだした幻聴なんだもの!!」
(いいだろう、その程度でお嬢ちゃんが納得するのなら、俺様の偉大なる名を明かしてやろう。いいか、特別だぞ。俺の名は、ヴァサルゴ様だ。そこまで馬鹿じゃねーと思うが一応言っておいてやるが、様は名前じゃねーぜ。ヴァ・サ・ル・ゴ。これでいいか? お前の知らない名だろう)
「ヴァ……ヴァサルゴ……」
確かにわたしの知らない名前。聞いた事もない。っていう事は、これは幻聴ではなく本当に存在する者の声。
(ったく。だから言ってんだろーがよ。俺は、お嬢ちゃんの幻聴じゃねえ。ヴァサルゴ様だ)
自分が恐怖と痛み、絶望でおかしくなったと思った。だけどわたしはヴァサルゴなんて名前は知らない。ヴァサルゴは、確かにわたしの身体の中にいる。そして身体の中から直接わたしの心に語りかけてきている。
わたしはもう、ヴァサルゴの存在を認める事にした。確実にヴァサルゴは存在すると悟ったというのもあるけれど、何より藁にも縋りたかった。このままじゃ、あのゲース・ボステッドという子爵に、ゆっくりと時間をかけて残酷に身体を傷つけられて殺される。
「ヴァ、ヴァサルゴ……」
(ついに、俺の存在を認めたな。クロエ、いいぞ。その調子だ)
「ヴァサルゴ……あなたは、何者なの? わたしが心の中に作り出した何か?」
(お嬢ちゃんにそんな能力はないよ。想像力は、他の凡人よりも遥かにあるようだがな。だが例えば自分の中にもう一人……もしくは複数の人格を作り出す多重人格であったり、何か別の俺のような生き物を作り出すにもそれはそれで素質が必要なんだよ。特別な奴な。だが残念ながら、お前にはそういったものは何もない)
「じゃ、じゃあなんなの? あなたはなんなの?」
(ギャハハ、ギャハハハハハ!! 質問に質問を返しちまうが、なんだと思う? 言ったろ、俺はお前の心の中にいる。もっとよーーく集中して、自分の心の中を探ってみればいい。何か感じるかもしれないぞ。だが、何も考えずアホな顔して探って、伸ばした手をバクリ。その可能性もちゃーんと踏まえて用心しろよー。ギャハハハ)
心の中? 心って……頭の中……ううん、胸の奥の方に何かを感じる。小さいけど、黒くて何か……禍々しい……
「うっ……うえええっ!!」
ビチャビチャッ!!
嘔吐した。心の中にいるというヴァサルゴを見つけようとすると、禍々しく黒い何かを見つけてそれを探ろうと集中した途端に、気持ち悪くなって胃の中のものを履いてしまった。
身体は鉄の椅子に固定されていたので、口から吐き出した物で自分の身体を汚してしまった。
(おいおいおい!! これは驚いたな。目が見えないってのは、リスクでしかないと思っていたが……目では見る事ができないお嬢ちゃんの心に巣くう俺の存在を、こうも早く突き止める事ができるなんて正直驚いたぜ)
「あ、あたなは誰なの? 答えて!!」
(ギャハハハーー!! もうここまで来たら俺の正体を薄っすらと気づき始めているんだろ? ドス黒く禍々しい塊が、お嬢ちゃんの心の中にあったはずだ。しかもそれはお嬢ちゃんの絶望や悲しみ、そして怒りと恐怖でより黒く大きくなってきている。まったくお嬢ちゃんは素晴らしい。このヴァサルゴ様の復活の為に、魔王がわざわざ遣わされた者のようだ)
「ま、魔王?」
(おっ! もう解ったろ? 俺の正体は、魔族だ。お前達人間の解りやすい呼び方をするならば、悪魔って言った方が理解しやすいかな)
あ、悪魔!!
驚きを隠せなかった。わたしの心の中に悪魔がいるなんて――でも、どうして……
わたしは、自分自身とこのヴァサルゴの事について考えを巡らせた。




