第561話 『美味しい珈琲の入れ方講座 その1』 (▼クロエpart)
ルキアと一緒に泉で吊り上げた魚は、焼き魚にして食べるととても美味しかった。こんなに食べ物を美味しいと思ったのは、いつ位かな。
私の食事はいつも、パンとお砂糖とミルクをたっぷりと入れた珈琲。そういう食事しかしてこなかったからなんと言うか、こんなワイルドな食事は……兎に角、感動した。
目が見えなくてもアテナさんが言ったように色々なものを感じる事ができた。風の冷たさや感触、湿気、そして虫や鳴き声や火と水の音――
例えばメラメラパチパチと奏でる音は、焚き火の音。水の音は、大きな泉が近くにあるから。
自分が今、ブレッドの街を出てアテナさん達やグーレスと一緒に近くの泉に来てキャンプしているんだって事が手に取るように解る。感じる。
目の前には、焚火があって……手を少し伸ばすと、指先がモフモフしたものに振れる。柔らかく優しい感じのする感触、息遣いと温もりが指先から伝わってくる。それがグーレスだと容易に解ってしまう。
グーレスの右前足を手でギュッと握って包み込むと、グーレスはペロリと私の手を舐めた。このまま叶うなら、私もアテナさん達やグーレスと一緒に、何処かへ行ってもっと色々なものを感じたい。
目の見えないわたしの日常は、そのほとんどが家の中――それも自分の部屋だけで過ごしている。食事も自分の部屋でとるし、身体を綺麗に保つのも母がわざわざわたしの部屋まで来て拭いてくれる。最近じゃ、それも少なくなったけど。
つまりわたしが自分の部屋から出るのは、用を足す位の時だった。
ずっとそういう生活が続くのだと思った。何をするにしても危ないからと言って、自分の部屋だけしか自由に行動する事ができない毎日。わたしは何をする為に生まれてきたのだろうって時折考える。
でもあの日から、わたしの何も変わらない日常に変化が起きた。フランクさんがうちへやってきた時から……大きく変わってしまった。
「まーーた、マリンはテントの中へ転がり込んで。まったくもう! これからコナリーさんに珈琲の入れ方を習おうっていうのに」
「えーー、ボクは珈琲は味見係りだからーー。そういう理を得て、そういう判断に至ったからーー」
「何を言っているのか解らないよ、マリン!」
アテナさんの声がした。マリンさんの文句を言っている。でもきっとアテナさんは、逃げる様にコナリーさんのテントに転がり込むマリンさんに対して、きっと微笑んでいる。端から見れば呆れているとも見えるかもしれないけれど、アテナさんの微笑みには優しさがある。
それは見なくて……見えなくても手に取る様にその光景が解る。それは、グーレスだけでなくアテナさん達とも仲が深まってきた証拠だと思った。
誰かが私の手を握った。凄く小さく柔らかい手。ルンちゃん。確か狸の獣人の、小さな女の子。
「ねー、クロエ! クロエもルキアと同じ大きな水の蛇を見たの?」
「え? え、ええ。わたし目が見えないから正確に言うと見てはないけど……でも会ったわ。水の身体を持つ、大きな蛇に」
「うわーー、すっごーーい!! いいなあーー!! ルンも会いたかったなー。ねえねえ、それでどうだったの?」
「え?」
「蛇だよ、蛇。どんな感じだったの? 怖かった?」
「お、大人しかったわ。頭の上にも乗せてもらったし」
「うそーー!! 頭の上!? ルンも乗りたかった、乗りたかったよ!! クロエとルキアだけじゃなくて、アテナとマリンもその蛇に会ったんでしょー? ずるーーい、ルン会ってないのにーー!!」
ルンが目の前で、ドンドンと地団太を踏んでいる音が聞こえた。すると近くで聞いていたのか、ルキアが言った。いや、気配でルキアが近くにいた事はなんとなく感じていた。
「もう、ルン! そんなわがまま言っちゃ駄目だよ! それにいい子にしていたら、水蛇さんが、もしかしたらルンに会いにここに来てくれるかもしれないよ」
「え、うそ? ルン、いい子にしているんだけど。ものっそいいい子なんだけど」
「本当に?」
「本当だよ。ルン、ずっといい子にしているんだけど。嘘じゃないよ」
「それなら、もしかしたら私達のいるここにまた現れるかもしれないね。水蛇さんはここの泉に住んでいる精霊さんなんだから」
「もしかしたらなんて、ルン嫌なんだけど。ルンも水蛇さんに会いたいんだけど!」
いつまでも水蛇に会いたいと駄々をこねるルン。その愛らしい感じに思わず微笑んでしまった。
ブレッドの街でのわたしの毎日は、閉ざされた場所での毎日。フランクさんがお母さんの前に現れてから、それは更に加速した。
でもアテナさんが誘ってくれたキャンプ。勇気を出して来てはみたけれど、ここに来てからわたしの世界は広がりっぱなし。周りの景色が見えなくても、感じる事ができる。
「クロエ、ちょっといい」
焚火の前でグーレスの身体に触れながらまったりとしていたわたしに、アテナさんが話しかけてきた。
「はい、なんでしょうか?」
「今からコナリーさんに珈琲の入れ方を教わるんだけど、一緒にやってみない?」
「え? でもそれは流石にできないかも……お湯の分量とかそういうのも、わたしには計れないし」
ルキアとルンが言った。
「それなら私と一緒に珈琲を落としませんか?」
「ルンも、ルンもー!! クロエと一緒にやりたーーい」
「それいいねー。それじゃ、ルキアとルンとクロエでチームになって、珈琲を落としてみて。上手にできれば一番だけど、失敗したとしてもそれもまたそれでいい事には違いないから。それでいい、クロエ?」
上手にできればいいと言うのは解る。でも失敗してもいい事だなんて……アテナさんは、とても不思議な事を言うと思った。
「え、ええ。それじゃあ、やってみます。ルキア、ルン。よろしくお願いします」
「はい! こちらこそよろしくお願いします、クロエ」
「ルンはまだ子供だから、お湯とか使えないからルンが指示するね。ルキアとクロエは、ルンの指示に従って美味しい珈琲を入れるんだよ!」
「う、うん。任せて」
アテナさんがコナリーさんに美味しい珈琲の落とし方を学びたいって言っていた事は知っていた。このキャンプの第一目的もそれだという事も。
だけどまさか、わたしも珈琲を落とす事になるなんて夢にも思わなかった。だって目の見えないわたしには、珈琲を落とす事なんてできる訳がないから。
だけどルキアとルン、二人とチームを組めばそれもきっと可能なのだろうと思った。それに気づいた瞬間、胸がドキドキと鼓動を立てているのが解った。
これは楽しみにしている時に感じる鼓動。珈琲を入れなきゃって事に対して、わたしはドキドキしている。
ずっと忘れさっていた、とても嬉しくてソワソワとしてしまう何とも言えない感覚だった。




