第536話 『水蛇』
マリンは泉の方へ進み出ると、大きな水の蛇を見て唸った。
「ほう、これは凄い。騒ぎを聞きつけて、何かあったかとアテナと駆け付けてみたけれど、まさかこの泉に水蛇が住んでいるなんてね。これには、驚いたよ」
水蛇? アテナの顔を覗き込むと、アテナは両手を軽く上げて顔を左右に振った。どうやら、アテナもその正体は知らないみたい。マリンが安全だと言ったので、それを信じたのだろう。
「す、水蛇ってなんですか? クロエは大丈夫なんですか?」
「結果から言うと、クロエは大丈夫だよ。見た通り、水蛇は理由もなく人間を襲ったりはしないんだ。見てみるといいよ、水蛇の上に乗っているクロエが苦しんでいるように見えるかい?」
目をやると、クロエは水蛇の頭の上で腰を抜かしたように座り込んでキョトンとしている。そして時折、手で水蛇の頭の表面を触ってみては、何とも言えない顔をしている。
「クロエは、じゃあ大丈夫なんですね?」
「そうだね。危害を加えなければ水蛇が人間を襲う事はまずないよ。それと、きっとルキアもアテナも勘違いしているだろうから、先にそこから正しておくけど……あれは魔物じゃないよ」
マリンの言葉に、私だけでなくアテナも驚く。
「嘘! あれ、魔物じゃないの? クラインベルト王国内に、こんな蛇がいたなんて私も初めて知ったんだけど」
「で、でもどう見てもあんなの普通の動物なんかに見えないですよ」
マリンは、私とルキアの言葉を聞いて笑った。特徴的な笑い方。
「プフーーーー」
そして、マリンは水蛇の方を向くと手を翳す。すると水蛇はそれに応える様に、泉からその長い身体の先端部分、尻尾の先を水から表してマリンの翳した手に振れた。それはなんとなく、マリンと水蛇との間で信頼の握手を交わしているかのように見えた。
マリンと水蛇のやり取りを目の当たりにしたアテナが、騒ぎ始める。きっとアテナも水蛇とコミュニケーションを取りたいんだ。
「マリン! わわわ、私もこの水蛇と戯れたいんだけど、大丈夫かな? 大丈夫だよね。噛みついたりしないよね?」
「大丈夫かどうかって聞かれれば……まあ敵意を見せなければ、まず問題はないと思うけれど……」
そう言った瞬間、アテナは私の手を掴んで泉の方へ走った。
「え? アテナ!」
「大丈夫だって! 行こう!」
にこりと微笑むアテナ。私は引き込まれるように、アテナと手を繋いだまま泉に向けて走った。――跳躍。
ガシッ!
まさかの水蛇に向かっての大きな跳躍。私が悲鳴をあげる中、アテナは楽し気な笑い声をあげている。そして、そのまま水蛇の身体に抱き着いた。
流石にこれには、水蛇も何事かと顔を私とアテナの方へ向ける。目が合う。水蛇の頭の上に乗っているクロエも同時に見えて目が合うと、可笑しな感覚になった。
岸にいるマリンとカルビ。マリンの顔を見ると、アテナの信じられない行動に、やや呆れているという風には見えるけど、他に何も行動をとらない。それは、危険性はないという事の証明。
「ア、アテナ……こ、こんな事をして怖くないですか? い、今私達、とても大きな蛇の上に乗って摑まっているんですよ」
「あははは、そうだね。でも、大丈夫だよ。マリンもそう言っていたしね。それにこの子の顔をよく見てごらん。可愛いよ」
この子の顔?
アテナがじーっと水蛇と見つめ合っていると、水蛇はゆっくりと顔を近づけてきて、長く細い舌を出して伸ばすと、ペロペロとアテナの顔を舐めた。
「あははは! くすぐったいよー!」
え? 水蛇と戯れるアテナの様子を見ていると、確かに水蛇が可愛く思えてきた。そう思った次の瞬間、水蛇は頭をアテナの方へ突き出して、そのまま自分の頭の上にアテナも乗せた。
だから今、水蛇の頭の上にアテナとクロエが仲良く乗って座り込み楽しそうに会話をしている。
私は、唐突にどうしようもない気持ちに襲われる。
「そんな!! 私も水蛇の頭に乗ってみたいです!! 私も乗せて!! 私も頭の上に乗せてください!!」
水蛇に向かって懸命にせがんだ。それは見る人が見れば、物凄い駄々をこねているようにも見える。だけどそんな事は、今は気にしていられなかった。アテナもクロエもいる水蛇の頭の上で楽しそうにしている。私も登りたい。
チラリとマリンとカルビの方を見ると、目を細めている。でも、いいもん。
「水蛇さん! 私も一緒に……」
すると、水蛇はついに私の願いを聞き届けてくれた。私もアテナとクロエと同じように、水蛇の頭の上に乗ることができた。うー、楽しい。
アテナと同じように座り込み、クロエを挟む形で巨大な水蛇の頭の上に座っている。水蛇の頭の表面を触ってみると、冷たくて気持ち良かった。もっとよく見ると、鱗のようなものが確認はできるけど、その全てがこの泉の水で作られている感じ。
上手な例えじゃないかもしれないけれど、水蛇は蛇の形をしているスライム――そんな感じに思った。
岸の方で私達の事を、変わらず眺めているマリンとカルビ。アテナがそんなマリンに向かって叫んだ。
「それで、この子なんなの? マリンはこの子の正体を当然知っているんでしょ?」
私もそれは思っていた。この大きな蛇が魔物でないなら、なんなのかを知りたい。マリンは、水属性の魔法を得意とするウィザードだけど、マリンが魔法の力で作り出した蛇でない事も解る。
クロエも私とアテナ同様に気になっているらしく、マリンが答えてくれるかもと注目していた。
すると、マリンは答えた。
「この蛇はね、端的に言うと正体は精霊だよ。この泉に住んでいる水の精霊」
精霊――そう言えばルシエルが良く使う魔法、それが風の精霊魔法だった。旅の途中、何度も精霊魔法を見る事はあったけど、その実態を見る事はなかった。
確かに考えてみれば精霊魔法という位の魔法なのだから、精霊の力を借りて発動させる魔法なのだろう。
……っていう事は、精霊というものが存在していてもおかしくはない。ううん、存在していて当たり前。
昔、寝る前にお父さんやお母さんが、なかなか眠らない私とリアを寝かしつける為に、よくお話をしてくれた。それに精霊が登場するお話があったけど……
まさか本当に精霊を目にする事があるとは――
曇り空、霧のまだ晴れぬ泉で、私達は生まれて初めて目にする精霊を目の前にして感動をして、暫くそれに浸っていた。




