第504話 『ブレッドの街の喫茶店 その2』
マスターの珈琲を入れる姿は、それだけで絵になると思う程に絵になっていた。まさに珈琲の達人って感じ。
私とルキアがマスターの入れる珈琲をじっと見つめていると、奥さんが話しかけてきた。
「もし良ければ、カウンターの方に座って珈琲を入れている所を見てもいいですよ」
「ええ! いいんですか!!」
「ええ、どうぞ」
即答してしまった事に、恥ずかしいと思って顔を赤らめる。ルンはカルビに何か話しかけながら両前足を掴んで夢中になって遊んでいるので、ルキアの手を引いてカウンターの席に移動した。そして、マスターの珈琲を入れる所を見学させてもらった。
カウンターの後ろにある棚には、いくつもの綺麗な絵柄が施されている陶器のコーヒーカップが並んでいて、それを見たルキアが声をあげた。
「凄く綺麗なカップですね。高そうです」
それを聞いたマスターと奥さんは、ルキアに微笑みかけた。
湯の入ったポットがコトコトと音を立て始めると、いよいよ珈琲を落とす準備を始める。マスターは、ガラス製のコーヒーサーバーを私達の良く見える位置に移動させると、コーヒーサーバーの上にドリッパーをセットした。ドリッパーも陶器でできたもので、特注品のようだった。
セットが完了すると、ドリッパーの中に布を入れる。珈琲豆をミルに入れて挽き、粉にするとそれを布の中へ入れた。私はそれを見て驚いた。だって、いつも私は紙製の……ペーパードリップで珈琲を落としているから。
「紙じゃなくて、布で落とすんですね」
私の質問に、白い髭を蓄えたマスターはにこりと微笑んだ。
「紙で落とす場合もあるね。でもこれはね、ネルドリップと言ってネルを使って珈琲を落とす方法なんだよ。うちの店では、ペーパードリップかこの方法で落としているんだよ。豆によっては、こちらの方が美味しい場合もあるんだ」
「へえ、面白いですね! そんな方法があるんですね!」
「お嬢さんは、珈琲がとても好きなようだね。いつも自分で入れて飲んでいるのかい?」
「はい。このお店のマスターが持っているような立派なものはないですけど、一応コーヒーのドリップセットは持っています。それで、朝起きたらとか食後に珈琲を落として飲んでいます」
「ほう、それはいいね。珈琲は安らぎを与えてくれる」
「ええ」
珈琲の香りを楽しみながらマスターとの会話に酔いしれる。とても雰囲気の良いお店だし、マスターも奥さんも優しそうな人で、凄くこのお店が気に入ってしまった。私がこの街の住人なら、毎朝このお店に通うだろうな。
流石は喫茶の街、ブレッド。目についたお店に入ってはみたけれど、いきなり当たりのお店を引き当てたみたいで良かった。
マスターが珈琲を入れ始めると、私はその珈琲の入れ方をまじまじと見つめた。
まずは、挽いた珈琲にお湯をさっとかけて蒸らす。すると、ドリッパーの下のサーバーにポタポタと珈琲が落ちる。蒸らすだけだから、お湯は少量。その注いだお湯が落ちきった所で、本格的に珈琲を入れ始めるのだ。
マスターのひとつひとつの洗練された珈琲を抽出する技に見惚れていると、隣で同じように見ていたルキアが私の服を引っ張った。
「アテナ、ちょっといいですか?」
「うん、なにルキア?」
「今、おじさんとアテナがペーパードリップとかネルドリップって言ってました」
「うん、言っていたね」
「ペーパードリップって、いつもキャンプでアテナが珈琲を落とす時に、専用の紙を使っているので解るんですけど、ネルドリップのネルってなんですか? 今目にしているもので、布みたいなものっていうのは解るんですけど」
「ネルっていうのはね、寝る事なのよ。珈琲にはね、睡眠が何より大事なの」
「え? 珈琲って眠るんですか? で、でも確かにパンとか焼くときに生地を寝かすともいいますし……」
ルキアとの会話を聞いていたマスターと奥さんは、声をあげて笑った。え? え? っときょろきょろと見回して慌てるルキア。
「ごめん、冗談だよ」
「じょ、冗談ですか⁉ 私、アテナが言うから本当に珈琲が眠るのかと思って……は、恥ずかしい!!」
「ごめんごめん、ネルっていうのはね、ウールと綿を合わせた生地なの。さっきルキアがパンの生地って言ったけど、服とかベッドのシーツとかの生地だね」
「そ、そんなので珈琲を入れるんですか?」
マスターがにこりと笑った。
「そうだよ。紙は紙の良さがあり、布は布の良さがあるように、ネルにもネルの良さがあるんだよ。それは使用する珈琲豆や珈琲を落とす物の性質と相談して最も適した物を選ばなければならないんだがね。それがまた拘りがあって面白い。因みにうちのブレンドコーヒーは、このネルドリップ方式が一番美味しく入れられるんだよ」
「お、奥が深いですね。それになんだか珈琲って苦いものなのに、おじさんが入れている珈琲はお湯を注ぐと膨れ上がってシフォンケーキのようになって、なんだか美味しそうです!」
「はっはっは、シフォンケーキかい! それはなんとも可愛らしい表現だね」
ルキアのその言葉を聞いて、マスターは大笑い。奥さんはそんなルキアと旦那さんのやり取りを幸せそうに眺めたあと、私達の座っていたテーブルの方へ歩いていく。そして、カルビと遊んでいるルンに何か喋りかけては微笑んでいた。
私とルキアは、マスターが美味しい珈琲を落とし終えるまでの間、ずっとカウンター席で見学をさせてもらった。




