第1292話 『外壁』
私とローザは、会議室の割れた窓から外へ出て、市役所の外壁に掴まって、屋上に向けて移動していた。突如逃げ出したリッカーを、追っていたからだった。
屋上には彼の仲間がいて、ロープを垂らしている。リッカーはそれを掴んで、どんどん引き上げられる感じで登っていく。対して私達は、外壁に設置されている配管やらに不安定にも手と足をかけて、必死によじ登っていた。
ここは、8F。落ちたら転落死は免れない。どうしてあそこで引き返して、階段で屋上に向かわなかったのかと、今頃後悔をする。
そう、メイベルが私とローザに、窓から追うように指示したからそうしたけれど……怖くて仕方がない。チラリと僅かでも下をみると、足が震えて身体が硬直する。
メイベルはAランクのベテラン冒険者で、身のこなしも非常に軽く素早い。彼女にとっては、リッカーの後を追うのに、今の私達同様に外壁から出て上へよじ登るなんて、特になんでもない事なのかもしれない。でも彼女には普通に思えても、私とローザにとって同じとは限らないのに。
……下を見ると、市役所周辺が見えた。歩いている歩行者。あの人達は、まさか今この建物の外壁に、3人も人が張り付いていて、屋上に向かってよじ登ろうとしているなんて、夢にも思っていないだろう。
強い風が私の身体を揺さぶった。恐怖感と同時に身体が石化したように硬直する。
「ううううう!!」
「テトラ!! 私を見ろ!!」
声に目を向けると、私よりも先行して上に登っているローザがこちらを見下ろして叫んでいた。
「余計な事は考えなくていい。ただ私を見ていろ。そしてついてこい」
「は、はい! ローザを見てます!」
「そうだ、それでいい」
「でも、もしも手や足が滑って落下したらって思ったら……」
「だからそれを考えるな。もしそうなったら、私が助けてやる。だから心配せずに、前だけを見ていろ!!」
「え? 助けるってどうやって……」
言われたばかりなのに、どうしても後ろ向きに考えてしまう。それ程、8階というのは人を不安にさせる高い場所だった。しかも私達は命綱も無く、不安定に壁に張り付いている。
「テトラが落ちたら、私も落ちる。そして落下するまでに助かる手を考えて実行する! それだけだ!!」
「そ、そんな……いくらなんでも、それは無理じゃ……」
「アテナなら絶対にそうするし、やり遂げるはず……って、はは、いや、アテナ王女殿下ならこういう状況下に追い込まれた場合、最後まで諦めずに必ず打開策を見つけて吉と成す。必ずな。ならば、アテナ王女殿下の剣である私も同じようにするという事だ!」
「は、はあ……」
ローザは、アテナ様の剣……その言葉は、アテナ様に忠誠を誓っていると聞こえはするものの、言葉や表情から伝わってくるのは、どちらかと言えばローザがアテナ様に対しての信頼の気持ち、そして自分が心から愛する人に向ける好意そのものに感じられた。
でも、ローザのそんな気持ちは理解できた。なぜならアテナ様はとても素敵な王女様で、とてつもなくお優しい方だから……下級メイドにすぎない私がこんな事を思うのは、とても不敬な事かもしれないけれど……私もアテナ様と初めてお会いした時に、モニカ様とまた違った圧倒的な親しみを感じていた。
ローザのお陰で、なんとか心から恐れを追い出し、恐怖に支配される事無く屋上まで登りきる事ができた。
8階から、更にその上にある屋上。途中、この市役所の何かしらの設備があるからなのかスペースが少しあって、屋上への最後の所で距離があった。でもようやく登り切る事ができた。
屋上にあがると、リッカーがいた。立ってこちらを見ている。ローザは、剣を抜くと彼に向けて言った。
「もう逃げられんぞ、リッカー! 観念しろ!!」
まさに正義の味方のセリフ。ローザは最初に会った時から、騎士の風格というものを纏っていたし、いつも凛としている。だけどここへ来て、改めてローザの事を格好いい人だと思った。
さっき、ここへ登ってくる時に不安になってしまった私に対して、励ましの言葉をかけてくれて、安心させてくれた。屋上まで登りきる力を貸してくれたのも、含めてそう思う。
「しつこいなーーねーーちゃんよーーう。ここまで追ってくるとはーー、かなりーー暇なのかーー。しかもこの俺と同じくーー、外壁にとりついてなんてーーなーー。まーーったく、驚きをーー、隠せねーーなーー」
「驚きを隠せないだと? それはこちらのセリフだ。貴様はデューティー・ヘレントやゴーギャン・レイモンド、イーサン・ローグなどと手を取り合って、このリベラルを乗っ取ろうとしている『狼』を見つけ出し、倒そうとしていたんじゃないのか? そんな男が、悪を倒そうとする我々からなぜ逃げる?」
「セシリアとファーレーー……いや、ガンロック王国の第二王女ことエレファからーー、その話を聞いていたかーー」
「ほう、流石は情報屋だな。ファーレの正体も知っていたのか。ますます怪しい奴だ」
リッカーが不適な態度をとる事を見越していたかのように、ニヤリと笑い剣を構えるローザ。毅然とした態度は、見事としか言えない。そして既に彼女は、リッカーの事を味方として見てはいない。
「ローザ! リッカーが私達から逃げたって事は、もしかして――」
「8階建ての建物の外壁をよじ登ったんだ。単に精霊ラビッドリームの力を使って、心と記憶を探られるのが嫌だから逃げ出したって訳でもないな。デューティー・ヘレントも逃げ出したみたいだし、貴様らはさっき言ったように、『狼』に対して抵抗しようとしていた派閥のはず」
「デューティーが逃げたのはーーー、俺とは関係なーーい!! 俺は俺の都合でーーー、会議室を飛び出したーー」
「ほう、貴様の都合でか。それで手下を市役所に潜り込ませて、会議室に乱入させた。その隙をついて、逃げ出したって訳か!!」
ぺろりと長い舌を見せつけるリッカー。本当にこの人が、私達の倒すべき相手――『狼』なのだろうか。まだ私には、ハッキリとは解らない。それに……
「ローザ!」
「なんだ?」
「おかしくないですか? リッカーは、なぜ逃げたんでしょうか?」
「どういうことだ?」
「デプス市長は、まず最初に十三商人全員に市役所に集まって協力して欲しいと招集をかけています。でもそれに応じず、来ていない人もいます。ババン・バレンバンやボム・キング、ゴーギャン・レイモンドにビックマーサ。半分は来ていません」
「なるほど。逃げる位なら、最初から現れなければ良かったという事か」
ローザはそう言ってリッカーを睨みつけた。私が見ても、ローザは相手を威圧して何かしらの言葉を誘っている事が解った。こういう駆け引きができる所が、ローザが達人級の剣術を使えるだけではない、凄い騎士だという事を物語っている。
「うるせーー、よけーーな事は喋らねーーよーーー。逃げたいから逃げたーー。それだけだーー。それにーー俺はーー、情報屋だああああ。知りたい事があるなら、それ相応の金を払えーー。もしくは、姉ちゃんらの身体で払ってもらってもいいがなーー。うひゃひゃひゃーー」
リッカーはそう言って自分の長い舌をべろべろと振ってみせた。私はそれを見て完全に動揺してしまっていたけれど、ローザは相変わらず毅然とした態度でリッカーと向き合っている。
そして彼女は、前に出る。こうして話をしているよりも、さっさと押さえつけてしまった方が手っ取り早いと思ったのか、リッカーに向かって行った。




