第1284話 『イーサン・ローグの世界 その6』
ローザは、私達の前に現れた。彼女が無事だったのを見て、緊張が解ける。でもそれは一瞬の事だった。ローザは、小さな何かを腕に抱えていた。アローだった。
「アローー!!」
ぐったりとしているアロー。私とセシリアは、ローザが抱きかかえているアローのもとへと近づいた。ローザの顔を見る。
「アローが、凄いぐったりとしています。な、何があったんですか?」
ローザは、顔を左右へ振った。
「解らない。見つけた時には、霧の中で既にこうなっていた。それからこうして抱きかかえて、何度も声をかけているが……うなされているような声をあげるだけで、まともな会話もできない」
「ど、どうしたのでしょうか、アローは……」
アローに触れようとした私の手が震えている事に、私自身が気づいた。アローは、私にとって大切な仲間であり友達。アローにもしもの事があったらと、欠片でもそんな事を思うと怖くて仕方がなくなる。
「セシリア……アローが……」
「そうね、確かにかなり具合が悪いようには見えるけれど……」
そう言ってセシリアはアローに、優しく触れた。するとアローは、微かに閉じていた眼を開いた。それを見たローザは、明らかに驚いた顔をしている。アローは、本当に今の今まで、完全に意識を失っている状態だったのだろう。
「アロー!! 大丈夫ですか?」
「…………アロー?」
「アロー!!」
「……はて。それは、誰のこと?」
「何を言っているんですか? アローは、あなたでしょ! 私達の事やレティシアさんの事、覚えているんでしょ?」
「レティシア……」
「ラビッドリームの事も、思い出してください。あなたは、アローですよ!!」
「ラビッドリーム……? それは……いや、そうか……なるほど」
セシリアとローザ、2人と顔を見合わす。するとぐったりしていたアローは、身を起こしてローザの腕から掌へと移動した。
「ふう、もう大丈夫。僕は、アローだ」
「解っていますよ! それで、大丈夫なんですか? 意識が……」
「ちょっと毒気にあてられてね。意識が混濁していたようだ。でももう大丈夫だよ、レディー」
セシリアが、アローの言った言葉に反応をする。
「毒気? 毒気って、あなたはいったい何の事を差して言っているのかしら? もしかして、この緑色の霧の事?」
「ああ、そうだね。説明が必要だね。毒とは、ずばり君達が今まさに目にしているものだよ」
「やっぱり、この緑色の霧の事なのね」
「イグザクトリー! そう、この霧の事です」
「確かにこの霧は、薬品臭いわ。でも本当に有毒なら、今頃私達もやられてしまっているのだと思うのだけれど……」
「ふむ、そうですね。普通に考えるとそうなるでしょう。この霧は、何か不思議な力を放っているようです。イーサン・ローグ。彼の心と記憶に僕がダイブした時、僕は彼の深層心理に触れて、彼が『狼』であるかどうか、もしくはそれが解らなくても、それに関係する者かどうか調べようとしたんだ」
セシリアは、強い眼をアローに向ける。
「あなた1人で?」
「ええ。もちろん、レディー。だって目的は、既にはっきりしているでしょう。僕だって理解しているから、僕一人でできる範囲で先行して調べようとした訳さ。でも予想外の事が起きた」
「予想外ってなんの事ですか?」
「どうやらこの濃い霧は、ラビッドリームの精霊力に悪影響を及ぼしているようだ。なのにその事にも気付かず、霧の中で僕はラビッドリームの力を使ってしまった。その瞬間、身体が何か暴走するような感覚に襲われて、次第に動けなくなった。それから僕はその場で意識を失ってしまって、気づいた時にはローザの腕の中にいたという訳さ」
ラビッドリームの力を使おうとしたら、身体が暴走したような感覚に襲われて、次に動けなくなったって……アローは、この緑色の霧のせいでそうなったと言った。緑色の薬品臭い霧。
「そ、それはなぜ、どうしてそうなったのですか? ただ単に、アローの具合が悪くなった訳ではないのですよね?」
「レディー。僕は間違いなく、この緑色の霧のせいでそうなったのだと確信している」
「じゃあ、この緑色の霧ってなんなんですか? もしかしてこれが、イーサンの心と記憶の世界そのものなんですか? だとしたら、ラビッドリームを再び使う事はできないですし、私達はこのまま……」
「いや、それなら大丈夫。ここから抜け出す事は、おそらくできる」
アローとの会話を聞いて、ローザがピクリと反応した。
「それは、おかしいな? この緑色の霧のせいで、ラビッドリームの力が使えないのであれば、もとの世界へだって戻れないんじゃないのか? もしかしてアローは、既に戻れるかどうかを試したのか?」
ローザの質問に頷くアロー。それなら……イーサンの深層心理に潜る事はできないけれど、ここから脱出する事は可能だということ。
「僕の具合が悪くなったのは、イーサン・ローグの深層心理に触れようとした時だった。この霧は、きっとそういう力に対して敏感に反応するようだ」
「……なぜだ? なぜそうなるのだ?」
「それは、僕にも解らない」
イーサンの心と記憶の世界。そこに出入りする事は出来ても、ダニエルさんやミルトを調べた時のように、深層心理に直接潜って調べるという同じ方法はできないとアローは言った。
深層心理にアローが直接触れて調べれば、相手が『狼』であるかそうでないか、はっきりと判明させる事ができる。でも今回は、緑色の霧に邪魔されてできない。
何か別の方法を考えれば、他に何かいい手はあるかもしれないけれど……今ここにいる全員が黙ってしまっているという事は、現時点では誰も何も思い付かないという事だった。
「じゃあ、どうするか? アローには頼らずに、私達だけで調べてみるか。ダニエル・コマネフやミルト・クオーンのように、この世界にもイーサン・ローグはいるのだろ? まずはイーサン自身を見つけて、声をかけよう。そして彼が『狼』かどうか、質問などして直接確かめてみればいい。それで答えてくれるかどうかは解らないが、私は試してみる価値はあると思う」
ローザの案は、現時点ではとてもいいように思えた。けれどアローは、残念そうに顔をまたしても横に振る。
「それは、駄目ですね」
「なぜだ? この濃い霧の中では、彼は見つけ出せないって事なのか? ならばなぜ、そうだと言いきれる? 試してみる価値はある。探せばすぐに、見つかるかもしれない」
「そうですよ、ローザの言う通りです、アロー。私もこんな緑色の他に何も見えない世界で、シャノンという……私の同僚なのですが、会う事ができました。もちろん、本物じゃないですけど……でも会えたんです」
「レディー、そうじゃないのですよ。この世界でイーサン・ローグに会おうとしても、彼は今こちら側にはいないのです」
「え? こちら側って……」
「もっと解りやすく説明すると、この緑色の霧が彼との接触を邪魔している。そう言えば解ってもらえますかね? まあ、だからと言って、何も仕様がない。この霧の正体を掴まなければ、対処のしようもないという事なのですよ」
そ、そんな……
困ってセシリアとローザの顔を見た。専門知識が最もあるアローに、絶望的とも言える事を言われ、困惑している。
それでも考えれば、何か他に手が……そう思っていると、また唐突に気分が悪くなってきた。アローと同じ症状が私にもでたのかもしれないとも思ったけれど、直ぐに本当の原因に気付く。
そう、これは魔力量の少ない私が、ラビッドリームの力を使い続けているせいで引き起こしている状態異常。セシリアはそんな私の身体の具合に気づいたみたいで、重い溜息をつくと言った。
「仕方がないわ。どうやら、ここまでみたいね。脱出する事が可能なら、ここは一旦出直しましょう」
このまま無理をしても、気を失う可能性もある。術者の私がそんな事態に陥ったら、この世界にいる皆もどうなるか解らない。
ここまで来て何の手掛かりも得ないまま、引き返すのは凄く無念に思う。けれどこれは仕方のない事だと思い、私達は今一度出直す事を決断した。




