第1089話 『トレーニングルーム その6』
リング中央。ノエルとブラッドリーが、試合開始の合図、グローブを合わせた。
ここまで来たら、スパーリングは止められない。まあ、なんだかんだ私もやっちゃっているし、責められない。互いがやる気になっているなら、ノエルを止めるなんてとてもできないんだけどね。自分だけ棚上げになっちゃうし。あははは……
カーーーンッ!
ブラッドリーの視線がエスメラルダ王妃に向けられると、彼女は頷いてゴングを鳴らした。試合開始。
合図と共に、互いが前に出て主導権を握る争いになる。ブラッドリーがそういうアグレッシブな戦法を取る事は、さっき実際に手を合わせてみて知ったばかりだし、ノエルもとても負けん気が強い。
だけど意外だった。ブラッドリーは、先ほどと同じように物凄いスタートダッシュでノエルに向けて、突撃さながらの勢いででパンチを連続で打ち込む。対してノエルは、前に出ない。ベタ足で重心を深く落とすと、試合開始した場所でブラッドリーを迎え撃った。
ブラッドリーのパンチが、ノエルの頬をかすめる。轟音。彼は更に手を休める事無く攻める。左のダブル、しかも頭部と腹部に綺麗にフックを打ち分けている。ノエルは、頭部の方は腕をあげてガードするも、脇腹まで追い付かずにパンチをもらってしまっている。
更にブラッドリーは、休みなく足を動かして軽快なステップワークを見せながらも、決して軽くないパンチを連射して、ノエルに打ち込んでいる。
「アテナさん……」
見えなくても、雰囲気や打撃音、周りから感じる何かでクロエはしっかりと状況を感じている。だから不安になったみたいで、私の名を呟いた。
「うん?」
「ノエルさん、もしかして押されていますか?」
「うーーん……うん。サンドバッグ状態かな」
「え? サンドバッグ……ブラッドリーさんって、そんなに強いんですか?」
「とても強いと思う。パスキアの最強騎士らしいけど、その剣術とかはまだ見せてもらっていない。だけど彼が趣味としているボクシングの技術に関して言えば、かなりのものよ。それも誰もが舌を巻く位にね」
「そ、そんなに……もしかしてノエルさんは、勝てないでしょうか?」
「今は、ハチの巣にされているからね。どうかな」
「と、止めた方がよくないですか? ノエルさん、わたしと同じ位の小さな女の子なんですよね」
「まあ、背丈はそんなものだけどね。でも年齢と腕力は、私よりも上よ」
所々で反撃のチャンスは伺っている。だけどブラッドリーは、ノエルにそのチャンスを与えようとはしない。彼は勝負ごとにおいては全力を尽くすタイプだけど、ノエルのあの可愛い見た目に騙されないで、厳しい攻めを続けているって事は、もうノエルの力を見抜いていて強者だと認めているのかもしれない。
そして……残念だけど、ボクシング対決なら、ブラッドリーの圧勝みたい。クロエの言うように、もうここらへんで止めた方がいいのかもしれない。ノエルには悪いけどね……
ブラッドリーの右ストレートが、ノエルの顔面を捉えた。まるでノエルの顔近くで爆弾が爆発したかのように、彼女の顔が後方へ弾け飛んだ。
「はい!! ちょっと、そこまで!!」
もう止めた方がいい。
私はスパーリングを止める為に、リングの中へ入ろうとロープを握った。刹那、後方へ吹き飛んだノエルの身体がロープでバウンドし、何もなかったかのようにもとの位置に戻る。前傾姿勢に入る。踏み込む。超低空からのアッパーカットが、ブラッドリーの顎を捉えた。
ブラッドリーは、慌ててノエルの繰り出したパンチと自分の顎の間に、両手を入れてガード。私もやってみせたけど、十字受けと言って正面からの攻撃に対しては、最強鉄壁のガード方法。ノエルの雄叫び。
「おらあああっ!!」
「ふぐうう!! 凄まじいアッパーカットだが、当てられなければどうという事はない。ブロックして、再び反撃。そして試合終了だ!」
ドスウンッ!!
おいしい!! ノエルのパンチ力はかなり凄い。クリーンヒットなら、勝てたかもしれないのに。
ブラッドリーは、ノエルの渾身のアッパーカットを十字受けでブロック――したかに見えた刹那、ノエルのパンチの衝撃でブラッドリーの大きな身体が20センチ程、宙に浮く。
「う、嘘でしょ……なんてパンチ力なの」
「ど、どうしたのですか、アテナさん?」
「え? うん。ノエルが反撃して放ったアッパーカットをブラッドリーは、防いで見せたんだけど……そのアッパーの威力が物凄すぎて、ブラッドリーの身体がその衝撃で宙に浮いちゃった」
「え? ブラッドリーさんって、かなり大きな身体の人ですよね」
「そうね。筋肉隆々だし、体重もかなりあるとおもうけれど……100キロは、あるよね。でも、浮いちゃっている」
でも一番驚いているのは、ノエルと手を合わせているブラッドリーだろうと思う。ノエルの鼻からは、先にブラッドリーにパンチを打ち込まれたダメージで、鼻血が出ていた。だけど不敵に笑っている。
「ああ? なんてったっけ? 当てられなければ、どうという事はないって言ったか? じゃあ今のは、どうっていう事はない訳か。ならもう一発位、ぶちかましても平気だな」
ブラッドリーは、まだ着地していない。だけどアッパーカットを打ち込んでいたノエルは、既にもう右腕を大きく振りかぶっていた。大きなパンチ。
「うおっ!! これは、予想外だ!!」
「予想外! それは、誉めてくれているのか? おらあああっ!!」
カーーーーンッ
ブラッドリーは、慌てて両腕を顔の前に引いて、再びノエルのパンチをブロックしようとした。そこで1ラウンド終了のゴング。
ノエルの思い切り振りかぶったパンチは、ブラッドリーを打つ直前で止まる。ブロックの上からでも、確実にその後方まで吹き飛ばせるパンチは、エスメラルダ王妃の鳴らしたゴングで帳消しにされてしまった。
私は自分の腕時計に目をやると、エスメラルダ王妃の方を振り返った。
「1ラウンド3分。少し早いような気がしたんですけど」
「そうかしら。だとしても、ゴングを任されているのはわたくしですから、開始と終了はわたくしに従ってもらいます」
な、なんじゃそりゃ。これは、単なるスパーリングなんだけど……
どう考えても、さっきはノエルにチャンスがあった。それをエスメラルダ王妃が阻止した。
うーーん、今行われているノエルとブラッドリーのスパーリングも目が離せないんだけど、どーもエスメラルダ王妃のブラッドリーに対するあの態度……気になるんだよね。スパーリング中のあの彼を見ている目もね。




