第1043話 『エスメラルダとアテナ その2』
エスメラルダ王妃がクラインベルト王国にやってきたのは、私の本当の母ティアナが亡くなって間もなくしてだった。
クラインベルト王国は、ドルガンド帝国と戦争を何度も繰り返した歴史があり、それからも冷戦が続いていた。だからお母様が亡くなられたというのに、私も姉のモニカも、お父様だって悲しみに沈みはしても、そのまま何時までも喪に服してもいられなかった。
クラインベルト王国の国王であり、私とモニカのお父様。セシル・クラインベルトは、直ぐに帝国に対して対抗する為に、東の大国ヴァレスティナ公国と同盟を結ぶ事にした。
お父様は、お母様を亡くした後、そう決めた。だけどそれを知ったヴァレスティナ公国の国主であるエゾンド・ヴァレスティナ公爵は、お父様よりも先に自分の娘をお父様の妻にして欲しいと申し出をしてきた。
私がそこまで話すと、クロエは言った。
「ティアナ王妃様には、わたしはお会いした事もありません。でも同じクラインベルト王国の者として、お噂は何度も聞いた事があります」
「え、そうなの? でもよくよく考えてみれば、王都からブレッドの街ってそれ程離れていないもんね」
「はい。でもわたしは、昔からそれ程体力がある方ではありませんでしたから。王都へ行った事もなかったですし……」
「それで、お母様の噂って?」
そう聞くと、クロエはにっこりと微笑んだ。
「女神様のように美しく、とてもお優しい方で、とっても面白い方だって」
私のお母様。そういう風に噂されていると聞いて、嬉しくない訳がない。私にとってもお母様は女神様のように綺麗な人で、いつも優しかった。
「そうなんだ。えへへ、嬉しいな。でも面白いとも言われていたんだね」
クロエは楽しそうな表情で頷く。
「ええ、そう言われていたのを耳にした覚えがあります。もちろん、いい意味でです」
「へえ、じゃあさ。その面白いって言われた話、その中でも特にクロエのお気に入りのエピソードを話してよ」
「え? お気に入りのエピソード……そうですね。確か、こんな話がありました。王妃様は、王都の外へ出られた時の話。沢山の兵隊に守られて、馬車で移動していた時、丁度橋に差し掛かった時に、その下の川で溺れていた男の子がいて、それを自ら助けられたとか」
あっ、知ってる。その話なら私も知っている。知ってびっくりしたんだよね。
「ティアナ様は、川で溺れている男の子を見つけると、馬車から飛び出して脇目もふらずに真っ直ぐに走って行き、そのまま橋から川へ跳び込んだって。それで男の子を助けたって聞いて、わたしはとても驚きました。本当の話なんですよね?」
あの時、私はまだとても幼かった。でもその話は後で、爺やゲラルドから聞いた本当の話。お母様が川に飛び込んだ事は、国中でも噂になったとか。
確かに一国の王妃が、村に住む男の子の為に馬車から飛び出して行き、川に飛び込んで助けるって、かなり凄い話かもしれない。全部事実で、後で国中の人々にその場に兵隊が沢山いたんだから男の子を助けなさいって命令すれば良かったのにと笑い話にもされた。
お母様はその時、爺やゲラルドにかなり怒られたって。でも溺れている男の子を見た時に一刻を争うって思ったのと、あれこれ考える前に身体が動いていたって。ウフフ……確かに面白い話。
「うん、本当のこと」
「やっぱり、そうだったんだ。フフフ、ティアナ王妃……アテナさんのお母さんは、やっぱりとても素敵な方だったんですね」
「こうなったら一直線て感じの人で、私も姉のモニカも大好きだったかな。もちろんお父様も、お母様の事を凄く大事にしていたし」
「でも、そんな沢山の人達に愛されるような王妃様を失ってしまったのに……」
クロエは険しい顔をして俯いた。そう、クロエが言いたいのは、そんな誰にでも愛されていたお母様が亡くなったのに、お父様は直ぐにエスメラルダ王妃との再婚をする事になり、その申し出をエゾンド公爵は当然のように言ってきた。
お母様が亡くなって間もない。誰しもがお父様とエゾンド公爵の事を、心の無い者だと罵るだろうと思った。私もとても複雑な気持ちになっていたし。
でも皆、心の中では理解していた。両国の平和、繁栄、帝国の脅威を跳ね返す為には、これは必要な事であったのだと……
そういった事をクロエに話ながらも、向こうの湖畔で、2人で話を続けているエスメラルダ王妃とブラッドリー・クリーンファルトを見つめる。
「アテナさんのお父さん……国王様も、大変な決断だったのではないですか?」
「お母様が亡くなって間もなく、お父様は再婚する事になった。それを聞いた私と姉のモニカは、とてもショックを受けてね。腹も立ったし、お母様がいた場所にズカズカと入り込んでくるエスメラルダ王妃には、とても堪えられないような怒りに溢れたかな。もちろん、お父様にも。でも時間が解決してくれた。暫くして私もモニカも、お母様が亡くなって一番つらかったのはお父様だったんじゃないかって気づいて。お父様はそれなのに、国民の為に……」
そう考えると、エスメラルダ王妃も可哀そうな人なのかもしれない。政略結婚なのだから。
ブラッドリー・クリーンファルトと話をしているエスメラルダ王妃は、相変わらずの仏頂面だったりするけれど、時折見せる笑顔と、なぜか少しお互いに楽し気に……というか、親しげに話しているような気がした。
クロエは、エスメラルダ王妃の事について更に聞いてきた。