決別
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次の日、勇気を持って行ってみたが、嵐が去る前の雲のように、周囲はどんよりとしていた。
憂鬱だなぁ。
そう思いながらも、午前中の作業は何とか終えたが、ご飯を食べ終わった午後に、事件が起きる。
それは何となく、ライン作業をしていた時だ。澤部さんが突然、私の隣でドンッ! と大きな物音を立て始めたのだ。
何事!?
と思いつつも、気にせずに作業を進めていたら、私の背後の容器に物が溜まってしまった。だけど、まだ入れるかな。と思った私は山になった容器に物を置こうとしていた。
すると、後ろで構えていた澤部さんは相当イライラしていた様で「いーやぁー!!」と癇癪を上げながらこう言ってきたのだ。
「何でいっぱいなのにまだ置くのかなぁぁ!?」
なので、「すみません」と咄嗟に言いながらライン作業に戻るが、ヒステリックになっている彼女の顔は鬼そのものになっていた。
そのせいか、怖すぎてしまい、微かながら、手が震える。隣にいたおばちゃんもこっちを見ていたはずなのに、何も言って来ない。まるで、触らぬ神は祟なし。と言った感じで終始無視を貫いていた。
しかし、作業をしている途中、冷凍庫に物を置いてきた澤部さんが戻ってくると、開口一番にこう言って来たのだ。
「あのさぁ。黙ってないで何か言ったらどうなのよ!!」
その時だった。
私の中で何かが崩れた。
そう。もう限界。と言った声が、心臓から聞こえてきたのだ。
そして、行くなら今しかない。と思った私は、トイレ交代のタイミングで、川口さんと場所を交代した後、速攻2階にある事務所へと向かった。
「どうしたんですか!?」
「あの。気分が悪いので、早退します」
『早退!?』
「はい。突然ですみません」
そう言うと事務所の人間は、かなり驚いた表情で訊いてきた。それはそうだろう。滅多に休んだり早退しない人がこう言うのだから、驚くのは間違いない。
「何か、あったんでしょ? 話聞くよ?」
「あ。ありがとう、ございます」
事務員の女性がそう言うと、更衣室の方まで来てくれたので、そこで全部色々されてきた事を話すことにした。
物を投げつけてきて、1ヶ月休んだこと。そして、澤部さんから『パワハラ』に近い暴言を吐かれたことも含めて。
「それは……、そんな事言われたら、辞めたくなっちゃうよね」
「ですよね。もう一刻もこの場所から離れたくて……」
「事情は分かったわ。派遣会社の担当にも連絡しておくから、近くの休憩室で休んでて」
「分かりました」
そう言うと、私は向かい側にある休憩室に向かい、誰にも入られないように内側から鍵をかけた。
「はぁ……」
ここの空気を吸うだけでも、吐き気が込み上げてきた。そのせいか、今まで食べてきたおにぎりを床に吐きそうになったので、咄嗟に天井を見上げ、逆流しかけた胃酸を戻す。
「あ。そういえば……」
ふと、今日は夫が家にいたことを思い出した。なので、咄嗟に夫に連絡する。
「どうした?」
「あのね……、私ね……、頑張ったよ。ちゃんと……、行けた……、のに……」
夫は低い声で訊いてきたが、この時の私は、夫の声を聞いて安心していたせいか、ボロボロと泣いていた。
息が苦しくなりながら話していたせいか、途中でしゃくりあげたりと、かなり号泣していたと思う。
「分かった。その、例のやつ、スクショ撮ったんだろ?」
「うん」
「俺に送れ」
「分かった」
すると、夫はストレス相談の番号が書かれた紙の画像を送って欲しいと言ってきたので、送ることにした。きっと、今の私だと、まともに話にならないのを、夫は分かっていたのだろう。
「それと、近々労基に行こうか」
「……うん」
「だから、迎えが来るまで、何も考えずに待ってればいいさ」
「……分かったよ」
そして、夫はそう言い残すと、ガチャりと電話を切る。
来るまでの1時間、とても長く感じた。心臓のバクバクも止まらない。こんなにも『早く出たい』と思ったのは初めてだった。途中、事務員の女性が心配そうに話しに来てくれるが、『もうここに来たくありません』とも言っていた。
「何もかも、辛いんです。疑われたり、裏切られたりして、もう嫌なんです……」
「気持ちは分かるよ。分かる分かる。でも、私だったらこうしちゃうなぁ……」
「え?」
「私だったらこんちくしょう! と思って見返すかなぁ」
「えぇ……」
それをした結果が今の私ですよ!
と、言い返したかったけど、実際に現場に行ってない事務員の姉さんに八つ当たりしても、分かんないのは当然か。
そう思いながら休んでいたら、担当から電話がかかってきた。
「大丈夫ですか!?」
「あぁ。何とか……、平気です……」
電話に出ると、佐賀さんは驚いた声で訊かれたが、大丈夫だと嘘を零した。そうでもしないと余計に心配されてしまう。
「それなら、今、違う担当が迎えに行くので、暫く待っててください」
「あ。はい……」
そう言うと、ガチャりと切られてしまった。
だけどもう、これで良かったんだ。
さようなら。今まで勤めてきた会社。
私は脱いだ制服を洗濯室にお願いしようと持って行った時、秀子さんが近くの自販機でジュースを買おうとしていた。
「あ……」
「愛ちゃん! こっちこっち!」
「えっ?」
そう言われ、近づいてみると、秀子さんから500円玉を渡された。
「これでジュース買っていいわよ」
「あ。はい……」
促されるがまま、私が好きだったアセロラジュースを購入すると、残りの400円を彼女の右手に握らせた。
「秀子さん、今まで本当にお世話になりました」
「えっ!? 愛ちゃん!?」
かなり驚いていたが、私は彼女を見た途端、思わず涙腺が緩んでしまう。「もう、限界なので……」と涙ぐみながら告げると、真剣な眼差しでこう訴えてきた。
「何があったか、少しだけ教えて?」
「実は……」
と言い、澤部さんに暴言吐かれたこと、隣ででかい物音を立てられた等、なるべく短めに零した。
「なんでそういうことするのかなぁ……。あの人は……」
すると、彼女はかなり怖い顔つきをして、続けてこう言ってきた。
「これは、本社に電話した方が良いわ。このままじゃ、彼女のやりたい放題になってしまうわ!」
「はい。このままでは無理だと、分かっています。会社の上司達も、上辺だけなのだと分かったので……」
「そうね。上の人達は本社に怒られないと動かない人達なのが、ほんとねぇ……」
「そうみたいですね……。分かりました」
私もそう言うと、「また後でLineします」と続けて言って、その場を後にする。
「えぇ。何かあったらLineでもいいから教えて!」
と、背後から声がしたが、後ろを見ずにそのまま進む。途中、澤部さんが驚いた表情で遠くから見ていたけど、別にいい。気にする余裕も無いし、もう二度と行かないと決めたので、一切振り向かずに事務所を通り過ぎようとした。
すると、奄美課長が呼び出されており、般若の目の様に、鋭く電話機を睨みつけていた。奄美課長があんな顔するの、初めて見た気がする……。
そう思いながらも、静かに会社を後にした。




