第2話 私は森を力走し、赤毛は私を追跡する
目を覚ました私は、悪い夢を見ているのだと思った。
競い合うように成長した四色の葉は空を隠している。胞子を噴き出すキノコは生きているような不気味さだ。
寝返りして目を閉じると、瞼の裏側に夕日に燃える桜が見えた。その次に近づく水面が見えて、叫び声が聞こえた。
私は橋の上から落ちたのだ。
勢いよく起き上がり、自分の体を確かめる。怪我は一つもない。財布もスマホも、ポケットには入っていなかった。
私はその場に立ち尽くす。
茂みが揺れる音が聞こえ、その後に動物のものらしき唸り声が聞こえた。
反射的に肩が上がり、両腕が胸の前に持ちあがる。
「助けて……司」名前を漏らしてハッとする。
私の前から司はいなくなったのだ。頼れる存在はどこにもいない。
どこかの茂みが再び揺れた。がさっ、というその音から逃げるように走り出す。
「誰かっ! 誰かいませんか!?」
頭の中は真っ白だった。迷子になった子供のように、目的も分からず駆け回る。
風が頬を撫でると、頭上で不自然な音が鳴る。グリッサンドのように高音と低音が流れていった。
私は悲鳴を上げる。
音の正体は葉同士が触れる音だ。しかし、私の不安を煽るには十分すぎる。
何分間そうしていたかは分からない。
だが、幸運にも太い木に寄りかかっている女と出会うことができた。髪の赤い女だった。
「あ、あのっ! 助け……助けて!」
私は赤毛の女の露出された肩に掴みかかる。
「なんだ、あんた!」
赤毛の女は女性とは思えないほどの強い力で私の腕を振り払う。
体重を乗せてしがみついていた私は、その場で前のめりに倒れる。
地面から伸びる真っ青な草が潰れる。ミントの香りがした。
私は顔を上げて赤毛の女を見つめる。
顔立ちは同い年くらいだ。目尻の鋭いまぶたの中から、赤い小さな瞳がこちらを見下ろしている。人を警戒している目だ。
よく見ると肩だけではなく、へそや太ももまで露出している。無駄な脂肪のない引き締まったお腹だ。
人を見つけ、少し冷静になったようだ。私は立ち上がって膝の土汚れを払う。
「えっと、急にすみません。焦っていて」
「何の用だ?」
とにかく人を探していた。改めて用事を聞かれると、なんと答えたらいいか分からない。
「敵ではないか……」
「……敵? そんな、敵意なんて」
物騒な言葉が聞こえ、即座に返答する。
「だろうな。身構え方で分かる」
「はあ、構え方」
剣道か何かの武術でもやっているのだろうか。
「何でこんなところにいる?」
「何でだろう……」
「は?」
「いや、えっと、道に迷って」
高圧的な返答に委縮して、咄嗟に嘘をついてしまう。
「仕方ないな。森の外まで連れて行ってやる。来い」
赤毛の女は私に背を向けて歩き出す。背中まで垂れ下がったポニーテールが揺れている。瞳と同じ色の髪は、根本と毛先が同じ色で、まるで染めたばかりのようだった。
「あの、ありがとう」
「別に」
それ以上、会話はなかった。
この数分後に左手が光り、赤毛の女から追われることになると、どうすれば予想できたのだろう。
胸が痛い。息苦しい。乾いた口の奥からは赤身魚の味がする。
運動神経にはそれなりに自信があった。陸上部に所属しているし、五千メートルの走者も努めている。
だが、赤毛の女のプレッシャーが強烈で自分のペースで走れない。黒い柄のダガーナイフを持って追いかけてきているのだから、当たり前だ。それに、デニムパンツとヒール付きショートブーツでは走りにくいし、リネンジャケットが邪魔で腕を振りにくい。
私の乱れた呼吸音は、赤毛の女にも聞こえているだろう。それに対して相手の呼吸は聞こえない。このままでは絶対に追い付かれてしまう。
私はひたすら直線で走る。足首ほどまで伸びた背の低い青草を踏みつぶしながら、行き先のあてもなく走る。だんだんと青空が見え始めて、周囲が明るくなっていた。森の奥から外側に向かっているのは間違いない。
声を上げれば誰かに届くかもしれない。私は声を振り絞る。
「……ぇっ!」
しかし、乾いた喉に声が詰まる。おまけに「げほっ」と咳き込んでしまう。
喉が痛い。針を飲んだようだ。
「無駄なことを!」
ややハスキーな声が聞こえる。運動能力に差があることをさらに痛感した。
背後から聞こえる足音が、さらに細かいリズムを刻む。赤毛の女はさらに速度を上げられるらしい。
もう、諦めてしまった方がいいのだろうか。
そもそも、本来ならば橋の上から落ちた時点で死んだのだ。だが、目を覚ましてみれば、見知らぬ奇妙な森の中。ここで殺されたところで、帳尻が合っただけだ。
疲れ切った足を止めようとした時、ネックレスが光った。木漏れ日が反射したのだ。金のリングが揺れる。半分このハートが目に留まった。
死んでしまえばそこまでだ。だが、生きていればもう一度会えるかもしれない。
その可能性すら投げ出してしまうのは嫌だった。
私はジャケットを脱ぐ。
そしてそれを、勢いよく赤毛の女に投げ捨てた。
赤毛の女は足を止める。ジャケットで視界を阻めたのだ。
不意打ちをくらって避けられなかったのか、はたまた油断していたのか。理由は何でもよかった。
私は後ろを振り返らず、ただ真っ直ぐに走り続けた。頭が痛くなってくる。酸素が足りない。
周囲が明らみ、緑の若草が広がっているのが見えてくる。
一度足を止めた赤毛の女は背後まで迫っている。次は何を投げるべきか。いっそ、この身で突進してやろうか。だが、すでに向こうも警戒しているだろう。次は返り討ちに遭うかもしれない。
思考はまとまらなかった。
一か八か、相手の懐に飛び込もうとしたその時、金属同士をぶつけ合う鋭い音が空気を震わせた。
「大丈夫!?」
胸や肩を青い鎧で固めた緑髪の青年が、赤毛の女の両手にあるナイフを受け止めている。右手には刃の長い剣を持っていた。鋭い剣先が光で白く輝く。
「ぇっと……」
私は胸を押さえて肩で息をする。声は痰のように喉に引っ掛かっていた。
「お姉さん、大丈夫?」
小鳥のような声が聞こえたかと思うと、服の裾を引っ張られた。ベレー帽のような形状の青い帽子に、上下の繋がった青いワンピース状の服。青で身を包んだ小さな女の子が、宝石のような薄緑の瞳でこちらを見上げていた。羽毛のような白い髪からは、バターのような甘い香りがする。
「ビスケット、食べる?」
女の子は丸い焼き菓子の乗った小さな手を差し出す。
「ぃ、今は……水が欲しいかな」
彼女はビスケットを頬張ると、水の入った鉄製の容器を両手で渡す。
「あ、ありがとう」
うん、と頷いて笑みを浮かべた彼女は、緑髪の青年と赤毛の女の方へ体を向けた。
両者の武器が何度も衝突し、その度に鋭い音が鼓膜を刺激する。
映画やゲーム世界の中にいるような感覚だ。目前にある光景と現実離れした状況が、自分の立つこの場所を私の知る世界ではないのだと告げる。
両手が小刻みに震える。私は渡された容器を強く握った。
緑髪の青年は赤毛の女の攻撃を押し返し、力一杯に弾く。
赤毛の女の体勢がふらりと揺れる。
その瞬間、緑髪の青年は間合いを詰め、両手で剣を振りぬいた。
赤毛の女はバック転をするように後方に飛び退いて、その剣撃をかわした。
「魔法、使わないのか?」
「いらないわ。これで十分」
赤毛の女はナイフを握り直す。腰には同じナイフがあと二本携帯されていた。
「剣術比べか……俺はロネ・ソルテ。お前は?」
「エリス・デスレン」
「いい剣だね。覚えとくよ」
「それはどうもッ!」
エリスは声を上げ跳躍する。そして、刃をロネの剣に叩きつけた。
素早く繰り出される左右の剣撃。ロネはそれを一つの剣で受け止めていく。
時折、エリスの攻撃がロネの防御をくぐり抜ける。しかし、ロネは体をそらしてそれを回避する。
私の意識は両者の戦いに吸い寄せられる。手にした容器に口を付けることも忘れていた。
エリスの右手が振り下ろされる。
空中でナイフが静止した。
私はすぐにそれが錯覚であることに気が付く。
短剣はゆっくりと落下している。自由落下だ。
エリスは空いた右手で、腰に付けたナイフを手早く抜く。
その右手を目で追う。
だが、それが失敗だった。
左手にあったナイフが、こちらへ投げつけられていた。
ナイフは一直線に飛来する。まばたきも許されない速さだ。
身体は動きたいという意思に反発した。筋肉が硬直したのだ。
突如、目の前に青い透明の壁が広がる。それは水だった。
女の子がこちらに手を伸ばしていた。
ナイフは水の中で失速する。
ロネは短くこちらを振り返る。
エリスは左手で自由落下するナイフを掴み直す。ロネに向かって、勢いのままに突進した。
剣を構えて突進を防ぐも、ロネの重心が後方へ傾く。
エリスは即座に体勢を切り返し、こちらに飛びかかる。女の子が立つ右側を避け、左手側から私に接近した。
滑らかな動きだった。まるで地を這う蛇だ。
「取った」
ナイフが私の頭部を狙って振り下ろされた。
私は両手を頭の前に掲げる。咄嗟の自衛判断だ。
そして、私の左手を刺し貫いた。
――そのはずだった。
左手に痛みはなかった。血も出ていない。
エリスが私に突き立てたナイフは、彼女の手からなくなっていた。
エリスは間抜けな表情で目を見開いている。
ロネは突撃していた。両者の距離はわずか三メートル。
状況を把握したエリスは、空いた左手を最後のナイフに伸ばす。
迷ったのだろう。左手の動きが途中で制止する。
そのまま、右手に残るナイフを胸の前で構えた。左手が上昇し、右手に近づく。
だが、遅かった。
両者の剣が、今までで一番強い音を立ててぶつかり合う。
ロネの勢いを片手では防ぎきれず、彼女は後方へと吹き飛んだ。
鮮やかな血が周囲に散り、雫のように草を伝った。
エリスは左手で腹部を抑えながら立ち上がり、私たちを睨みつける。
「まだやるか?」
ロネは剣先を彼女に向ける。
エリスは右手のナイフを腰にしまい、唇に引っかかった髪を払った。こちらを向きながら後ずさりし、森の奥へと駆けていった。
「助かった……?」
私は空気の抜けたような声を漏らす。途端に喉の渇きが押し寄せ、もらった水を勢いよく口に運ぶ。
「戦いには慣れてないのか? それ、隠すとかして、気を付けた方がいいよ」
ロネは私の左手を見ている。左手の甲には、花のような形を二重の円で囲った模様が浮かんでいる。ピンク色をしたその模様は、桜の花に見えた
「それじゃあ」
「あ、あの! 私はこれからどうすれば……」
ロネは足を止めて眉をひそめる。まっすぐこちらを見る一重まぶたの目元が司に似ていた。
「どうって……俺が分かるわけないよ」
その通りだった。
彼らが行ってしまえば、私はここで一人になってしまう。
心が小さい容器に無理やり詰められたかのように締め付けられる。それは、司が傍にいるようになってから忘れていた感覚だった。
一人が怖い。
自分の存在が全てに遮断されているような感覚に、どんどん押しつぶされる。
「じゃあ、お姉さん。一緒に来てよ!」
女の子は笑顔でこちらを見つめていた。
「私がメルナ・ピスケットで、こっちがロネ・ソリテ」
「いや、ちょっと待ってよ」
「なーに?」
「まさか……二人でついてくるつもりか?」
「そのつもりだよ?」
ロネは頭を掻いた。
「百歩譲って、勝手についてくるのは分かる。それで、どうしてお前が同行人を増やしてるのさ」
「じゃあ、行く当てがなくて困ってる子を放っておくの?」
「それは……。お前、本当に行く場所がないのか?」
「……うん。ない、と思う」
「ほらね?」メルナは得意げに胸を張った。
「分かったよ。お前の力になりそうな場所に案内してあげる。ついてきてよ」
「あ、ありがとう」
彼は首を鳴らして歩き出す。
「ねえねえ、お姉さん名前は?」
「えっと、結実。笛吹結実」
「そっかぁ。よろしくね、ユミ」
「うん、よろしく。メルナ」
メルナはこちらに手を伸ばす。
握手をするのだろう。そう思って手を伸ばしたが、彼女の手に菓子が乗っていることに気が付いた。
「食べる? ビスケット」
「……いただきます」
握手代わりに私はビスケットを齧った。子気味よい食感と、バターの香りが口に広がった。
第2話を読んでくださりありがとうございます。
ようやく異世界です。
それと、web小説の行間空けが不慣れです。