第1話 私は森を逃走し、記憶は幸福を浮揚する
私の小説に興味を持ってくださり、ありがとうございます。
ごゆるりとお楽しみください。
左手の甲が桜色に輝いた。それはカメラのフラッシュに似ていた。
私たちを取り囲む世界が、その一瞬だけ停止したように思う。
穏やかな風が吹き抜け、木々を飾る色鮮やかな葉が揺れる。赤い葉、青い葉、黄土色に、白緑色といった、四種類の広葉樹がそれぞれに動く。風になびく葉は、ハープのような音を鳴らした。
目の前にいる赤毛の女が喉を鳴らす。驚きと興奮をカプセル剤に入れて、一度に飲みこんだような表情を見せた。
私は反射的に飛び退いた。女に背を向けて走り出す。
心臓が大きく脈打って、血液を全身に運ぶ。頭に届いた血液が、ようやく驚きと混乱を脳に送ってくれたらしい。
だが、光が驚きの原因ではない。
親切そうな女が、突如として私に刃物を振りかざしたことに驚いたのだ。
「逃がすか!」
森の中に、二つの規則正しいリズムがこだまする。
私は青く細い雑草を踏みしめながら、薄暗い世界を一直線に走った。
朽ちた木に寄生する蛍光色のキノコが、時折スプレー状に胞子を噴射する。
胞子は僅かに煌めきながら浮遊する。まるで星座空間のような森だった。
ここがどこで、なぜ追われるのか、私には何一つ分からなかった。
私は、音信不通になった彼氏を捜索していただけなのに。
もしも、人生において幸運と不幸が足し引きでゼロになるのなら、この後宝くじが当たるのだろうか。それとも、今までのツケが回ってきたのだろうか。
後者に違いない。私には出過ぎた生活だったのだ。
不自然なほどに鮮やかな葉が、ゆらゆらと揺れていた。どこかでこの光景を見た気がする。
私は現実逃避気味に、その記憶を思い出していた。
マフラーを首に巻くようになった時期のことだ。
薄暗い映画館の中を、大きなスクリーンの映像が照らす。ひそひそ話とポップコーンの香ばしい匂いが部屋には漂っていた。
左隣に座る私の彼氏、日下司は、背もたれに体重を預けながら満足気に息を吐く。
「かなりいい。これで電車を使わなくてすむな」
目尻の丸い一重まぶたが、忙しそうにまばたきを繰り返していた。
「嬉しそうだね」
「そりゃもう。アパート決める時、近くに映画館ないの残念だったんだよ」
司は大学一年生で、この辺りにある大学近くのアパートで一人暮らしをしている。
まだ高校二年生である自分が大学生と付き合っていると思うと、自分が周りよりも大人になった気がして口元が緩む。
司はかなりの映画好きで、もう何度も二人で映画館に来ている。
しかし、今回はいつもより特別だ。
都心から外れた東京郊外に住む私たちの近くには、あいにく映画館がなかった。そのため、いつも電車で三駅ほど離れた、新幹線が通る駅の近くにある映画館を利用していた。
ところがこの冬、近くに中規模の映画館がオープンしたのだ。司はいつにもまして上機嫌である。
「結実は嬉しくないのか?」
司の視線はスクリーンを見つめていた。
私はゆっくりと体を倒して、彼の肩に頭を乗せる。
「司と一緒だよ」
そっと呟くと、私の左手が彼の大きな手に包み込まれる。
彼の手は暖かく、私の熱くなった頬はそれ以上の熱を帯びた。
照明がゆっくりと暗くなる。映画の予告が始まった。
スクリーンの向こう側では、車にはねられた一人の少年が森の中で目を覚ましている。現実ではありえないような、カラフル葉っぱが鮮やかなアニメーションで描かれている。
「結実も、こういうの見るのか?」
結実も、という言葉に並べられているのは、司自身ではなく、私の妹を指しているのだろう。結実も夕陽のように、という質問だ。
「うーん、あんまり。少し前は、夕陽と一緒に見てたこともあるんだけど」
妹の笛吹夕陽はファンタジー世界を描いた作品が大好きだった。アニメやラノベなどを好んでいたし、特に大好きなゲームに関しては、楽しむだけでなく製作するほどに造詣が深い。
夕陽が私より地頭がいいのは明確だった。しかし、去年の高校受験に失敗してしまい、そこから引きこもりになった。
「そっか、前まで。今度こそ立ち直って、成功してくれるといいな」
両親はそんな夕陽を心配して、夏に家庭教師を雇った。なるべく歳が近く物腰が柔らかい人がいい、という家族の意見によってやって来たのが、アルバイトをしている司だった。
初めて見た時、かっこいい人だと思った。クラスメイトの男子にはない、品のある大人びた雰囲気があった。
一目惚れではなかったが、惹かれていくのに時間はかからなかった。
司は生徒である夕陽だけではなく、私に対しても優しかった。
偶然、映画館の中で出会い、そこからプライベートでも関係を持つようになるころには、彼のことがすっかり好きになっていた。
付き合い始めたのは、三ヶ月前の秋だ。
「なあ、異世界って行ってみたいか?」
その言葉が聞こえたのは、ファンタジーアニメの予告が終わるタイミングだった。
「景色は見たいけど……一人になるから行きたくないかな」
中世ヨーロッパのような街並みや、現実離れした鮮やかな魔法の森を実際に見ることができたら、それは楽しいだろう。だが、異世界で現実との繋がりが隔たれてしまうのは困る。
それに一人は怖い。
室内がさらに暗くなった。映画が始まるのだ。
暗闇の中にいると、知らぬ間に一人になっている。たまにそんな嫌な考えが浮かぶことがある。
だが、司が手を握ってくれている。それだけで自分が一人ではないと安心することができるのだ。
私は彼の体温を感じながら、スクリーンに映るミステリードラマを眺めた。
血と涙が流れ、謎と人間関係のわだかまりが解かれていく。司の選ぶ作品は、いつも面白い作品ばかりだ。
エンディングまで見終えて、照明が少し付いてから私たちは席を立った。
私は重ねられていた手を返し、彼の指と互い違いに自分の指を絡ませた。
映画館を出ると、夕日が沈んでいくところだった。
私は白いマフラーを、司は灰色のストールを首に巻きなおす。
「近くまで送ってく」
「うん、ありがと」
お互いに取り留めなく映画の感想を言い合いながら、枯れ葉が落ちる住宅街を歩く。
時折頬を撫でる冷たい風と、落ち葉を踏み鳴らす音が心地良かった。
「結実、ちょっといいか?」
家の近くにある橋の上で、司の足が止まる。
歩道と車道が分かれている大きな橋で、車通りの多い場所だ。河川敷ではランニングウェアを着た男性が、ジョギングしている。
私が彼に想いを告げた場所でもある。
「手、出して」
司に言われるままに手を伸ばすと、手の平に小さな水色の箱が置かれた。そこまで重くはないが、軽いという程でもない。中ぐらいの林檎を乗せた時のような重さだ。
「もしかして……プレゼント?」
言葉を声に出しながら、自然と口角が上がってしまう。
「そう。開けてみて」
「でも、なんで? 記念日でもないし、クリスマスでも……」
箱を開けると、黒いレザーのつるつるした箱が入っている。その箱をゆっくり開くと、中にはネックレスが入っていた。
金と銀のリングが、ぴったりとはまるように重なっている。二つのリングに、一つのハートが彫られていた。
「あ、可愛い」
声を上げた後に、チェーンが二つ付いていることに気が付く。
「記念とかじゃないけど、あえて言うなら開店記念か?」
司は覗き込むように、私の手にあるネックレスを見ていた。
「ねえ、チェーンが二つ付いてるけど……」
「気づいたか?」
彼は大きな手で、内側にある銀色のリングをそっと外す。ライムのような整髪剤の香りが香った。
「ペアネックレス。駅の近くで見つけて、なんか勢いで買っちまった」司は自分の首に銀のネックレスをかける。「何の記念でもないけど、俺が結実にあげたかったんだ。ダメだったか?」
「ううん、ダメじゃない」
私がネックレスを付けようとすると、司は手でそれを制する。
「こっち向いて」
囁くような言葉と一緒に、さっきよりも丁寧にネックレスを私にかけてくれた。
「うん、似合ってるな」
「司も似合ってるよ。あ、でも……」
「……でも?」
「これ、ハート欠けちゃうんだね」
お互いのリングに残った、半分このハートだったものを見つめる。
「一緒にいれば平気だろ?」司の手が、私の頭に優しく乗せられる。「これで、ずっと一人じゃないな」
私の中にある何かに、爪楊枝で刺したほどの穴が空く。だが、どんなに小さい穴でもそこから水が漏れるように、じわじわと涙がこみ上げてくる。
私は司に強く抱きついて、自分の顔を彼の胸に押し当てる。
「今のは……反則だよ」
「なんだよ、急に」
司は笑いながら私の頭を優しく撫でる。
彼の手は、今まで出会った誰よりも優しい手つきだった。
その後、クリスマスを迎える。家ではクリスマスパーティーが開かれた。
どういうわけか、パーティーには司も参加することになり、家族四人と司で聖夜を祝った。
年明けには、司と初詣に行った。二人で夕陽の合格祈願をして、お守りをプレゼントした。
だが、夕陽は高校受験をしなかった。
「……ごめんなさい、パパ、ママ」
ある夜、嗚咽を漏らさずに涙だけを流し、ただ謝り続ける夕陽の姿があった。
自分のタイミングでいい、無理に頑張らなくたっていい、両親は夕陽を抱きしめるように慰めていた。
その光景を見て、私も胸を痛めた。
両親の間でも司の評判は良かったため、夕陽の家庭教師として続投された。
私と司はお互いに学年を一つ上げた。
その後すぐに事件は起こった。
――明日の夕方、暇か?
――映画、どう?
『うん、いいよ。行きたい』
私は司から送られたチャットに返信し、赤いシャープペンシルを器用に指で回した。大学受験対策用の問題集とにらめっこしながら、スマホへと定期的に視線を向ける。
机の上へ無造作に広げた問題から、明日のデートには何を着ていくべきかという問題に思考が切り替わる。
受験生の私と違って司は大学生だ。子供らしさが出ないように、大人びた恰好で彼の隣に立ちたい。
ペンを机に置いて部屋のクローゼットの戸を開ける。戸の内側に付いた鏡の中で、毛先を膨らませたボブカットが揺れた。
想像の試着室で自分と服を格闘させながらも、意識が吸い寄せられるようにスマホに向く。
しかし、いくら返信を待ってもそれ以上のメッセージはなかった。「既読」の表示が付くこともない。
不安を感じながらも、ベッドに入るとすぐに意識が沈んでいく。そして、夜が明けた。
目を覚まして、すぐにスマホの画面を見る。通知は一つも入っていない。
太陽が真上に昇っても、家庭教師の予定時刻になっても、司からの連絡はなかった。
司が連絡もなく休みを入れるなんて、今まで一度もなかったことだ
。
「あの、娘の勉強を担当している日下司くんなんですけど、来てないんです。ええ、本人に連絡もつかなくて」
下の階で、担当者に電話をかける母の声が聞こえる。
めったに開くことのない妹の部屋を見る。受験をしないと打ち明けたあの夜から、夕陽の引きこもりは悪化した。
部屋のドアには「夕陽の部屋」と書かれたプレートがかけてある。きらきらと光るビーズが、ピンクの文字を飾っている。
一緒にドアプレートを作った、小学生の頃が懐かしい。
私はスマホを見る。時刻は四時過ぎ。いまだに司からの返信はなく、私からの着信を受け取っていないことを意味する「応答なし」がチャットには並んでいる。
昨晩から強くなっている不安が、ぎちぎちと私の心臓を締め付けていた。
もう限界だった。
私は家のドアに手をかける。
「結実、今から出かけるの?」
母が居間から声をかけてきた。
「ちょっとね」
「まあいいけど」
気を付けてね、という母の声も聞かずに私は飛び出した。
二人で何度も訪れた映画館や駅近くの商店街、彼がよく勉強をしているカフェ、思いつく場所をしらみ潰しに駆け回る。
ガラス越しにカフェの中を覗く。窓ガラスに自分が反射した。まるで枯れたほおずき、蝉の抜け殻、命が宿っているようには見えなかった。外套を羽織った骸骨のように、目一杯の背伸びをした服装だけが浮いているようだ。
私は彼が一人暮らしをしているアパートに向かった。狭い廊下、隅に溜まった土埃、小さな蜘蛛の巣、埃っぽい臭い、全てが不安を煽る。
崩れそうな体を動かして階段を上がる。ドアの前に立ち、震える指でインターホンを押した。
間抜けなベルが二回鳴った。
もう一度押す。
誰もいないトンネルの中のように、ベルの音がどこまでも反響している気がした。
スマホを見る。17:48と表示されていた。
私はふらふらとその場から離れた。
思い出深い橋の上を渡る。車道を走る車のエンジン音が耳に残った。
見知らぬ土地で迷子になった時のような空虚な心が、私を内側から痛めつける。中身の腐った卵みたいだ。
欄干に全体重を預けて、水面に視線を落とす。魚の影が揺れて小さな波を立てている。水面まで高さがあるため、魚の種類は分からない。
土手の上で、小さな子供と若々しいお父さんが水切りをして遊んでいる。笑い声は後ろから聞こえる自動車に遮られて聞こえなかった。
今にも沈みきってしまいそうな夕日を見て、少しばかり妹の顔が頭によぎった。
二度と司に会えないのだろうか。彼がいなくなっただけで、一人ぼっちになった気分だ。
足が震え、感覚が遠くなっていく。立っているような、浮かんでいるような現実離れした感覚。
ビデオカメラを落とした時のように、私の視界ががくっと下を向いた。
「え……?」
水面がどんどん大きくなっていく。
自分が橋から落ちたことに気付くのには、少し時間がかかった。
子供と遊ぶ父親の叫び声が聞こえた。子供は状況が飲みこめていないのだろう。
私は目を閉じた。
川辺に沿って咲く桜の花が、夕日の光で燃えているように見えたのを覚えている。
第1話、最後まで読んでくださって大感謝です。
お久しぶりです。柊 真詩です。ピンとこない方は初めましてですね。
だいたい初めましてだと思います。
およそ一年以上の間を開けて、再び投稿を始めたいと思います。
前作の打ち切り作品と設定の類似点がございますが、
双方の作品に関係はありません。
それにきっと、前作より面白いと思います。多分。
期待はほどほどにお願いします。
完結までお付き合いくださると喜びます。