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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

獣、ゆめに鳴く

作者: 雑木

 獣の匂いがした。

 振り向くとそこにはしとやかな笑顔があった。同級生の女子だ。名前は知らない。


「ノート。落としたよ」


 言われて彼女の手を見るとそこには確かにおれのノートがあった。雑に抱えていたら廊下に落としたらしい。


「あ、ああ。うん。ありがとう」


 ノートを受け取り、もごもごしながらも何とか礼は言えた。おれにしてはましな対応だった。

 彼女はくすりと微笑むと後ろで待っていた女子たちの中に戻っていく。

 ふわりと漂うのはせっけんの香り。清潔な人のもの。

 暴力的な生臭さは夢のように消えていた。

 おれの意識に突き刺さる感覚だけを残して。

 予鈴が鳴る。いますぐにできることはない。

 おれは次の授業に向かった。




      ◇




芒塚柚月(すすきづかゆづき)。一年三組。テニス部。身長160センチ。体重さすがに知らん。性格は明るく、温厚。クラス内で出しゃばる方じゃないが良好な交友関係を築いているために一定以上の発言力がある。たぶん半分天然半分計算でやっているタイプ。そこそこ仲良い相手は多いが本当に身内に入れてる相手はかなり少ないんじゃないかな」

「詳しいな。知り合い?」

「んにゃ、顔と名前くらい。大体は同クラの女に聞いた」

「……じゃあ後半は推測では」

「ちらっと見ればわかるさ、女のことなんて」


 放課後、非常階段の踊り場で待ち合わせた男はそう言ってけらけらと笑った。

 笠井鉄蔵(かさいてつぞう)。名前から覚える印象に反して秀麗な美貌を持ち、細身ながら背が高い、見た目のいい男だがそういう風に粗野に笑う姿をたまに見せる。大抵人を嘲っているときだが、そういうときこいつは他人の中に見た自分を嘲笑っている。

 つまり、


「お前と似てるのか、彼女」

「一部な。おれは八割計算だから」

「うーん」


 すると非常に面倒なことになる。

 たぶん、話が合わない。


「陽の人か……」

「そうやってすぐ雑なくくりするから陰キャなんだよ。ていうかいいじゃん別に。やるこた同じだろ」

「や、ちょっと縁つないどこうかと思って」

「ムリ」

「は」

「やめとけ」


 鉄蔵は呆れた目でこちらを見ていた。


「やってみないとわからなくない……?」

「自信なさげな時点でムリだろ、やめとけって」

「でもさぁ、さすがに現時点だとどうしようもないんだよね。なんもわからん」

「あー」

「そういう鉄蔵はどうなの。陽の力でなんとかならない?」

「群れが違うとなぁ。時間かければどうとでもなると思うが」

「それじゃダメだ」


 時間なんてない。


「……そこまでか?」

「わからない。匂いも一瞬しか感じられなかった。外にまで漏れるくらいなら外見にも兆候があっておかしくないけどそれもない」

「なら余裕があるかもしれない」

「かもしれないなら悠長にはできない」

「……うーん」


 鉄蔵は手すりに身体を預けるとわずかに眉根を寄せる。


「わかんねえなあ、やっぱ。お前がそこまでする必要っつーか義理、ある?」

「ないけど」

「そこは嘘でも一目惚れしたとか言えんものか」

「性欲じゃん。そんなの気持ち悪くないか」

「いやぁ、そういうのの方が安心するねおれは」


 どうでもいいけどよ、と鉄蔵は本当に無関心につぶやくと外を見る。ここからだと景色のほとんどがグラウンドと体育館で占められる。いい眺めとも思えないが、やつの視点を追えば練習する運動部の様子があった。

 ため息が一つ聞こえる。


「ま、呼び出しくらいなら協力してやるよ」

「サンキュー」

「たぶん無理だろうけどさ」

「……おれもそんな気がする」


 鉄蔵は皮肉げに笑った。


「そこも嘘でもできるって言うところだぜ、句朗(くろう)




      ◇




 空が薄暗くなる頃、運動系の部活動もそろそろ撤収を始める時間。

 鉄蔵はどうやったのか違うクラスで関わりもないはずの芒塚さんを本当に呼び出してくれた。

 場所は体育館裏。ほどよく人の目がないため都合がいいとは鉄蔵の言だった。


「……話ってなんですか?」


 芒塚さんが目の前にいる。

 しっかりと見るのは初めてだったが、かなり整った顔立ちをしていた。

 後ろで一つに縛った艷やかな黒髪、少し垂れ気味な目がまっすぐにこちらを見て、鮮やかな唇がきゅっと結ばれている。温厚だと鉄蔵は言っていたが、芯はブレない人に見える。

 学校指定の野暮ったいジャージ姿がむしろぴしりと背筋の通った立ち姿を際立たせていた。

 警戒されているようだ。表情にゆるみがない。緊張の匂いがする。

 まぁ、話したこともない人間に呼び出されたらそうもなるか。


「急に呼び出してしまってすいません。あなたに聞きたいことがあって」

「はい」

「最近、なにか困っていることありませんか?」

「はい?」


 芒塚さんの目がわずかに広がる。


「困っていること……生活している上での違和感でもいいんですが、なにかおかしいなと思ったことありません?」

「ええ……」


 表情がほどかれる。緊張は解けきっていないが、そこに困惑が立ち上がっている。


「どんなことでもあればとりあえず教えていただきたいんですが」

「いま以上におかしなことなんてないんですけど……あの、これなんなんです? あなたなにが言いたいの?」

「えっ、なにもないですか? 金縛りにあってたり、疲れが抜けなかったり、立ちくらみにあってたりしません?」

「だったら保健室行ってます。ないです」

「マジですか」

「なんであなたが困った顔してるの。おかしいでしょ」


 芒塚さんはすうと息を吸い、吐くとおれの顔をまっすぐに見た。


「大体あなた、誰?」


 言われてようやくおれは自分が名前も名乗っていなかったことに気づいた。どうやらおれこそ相当に緊張していたらしい。


「……すいません。一年五組の城見句朗(しろみくろう)と申します」

「はい。一年三組の芒塚柚月です」

「さっき言ったとおり、芒塚さんになにか困ったことがないかお聞きしたくてこの場に来ていただきました」

「……まずそれがおかしいでしょ。仮に困っていることがあったとして、なんで見ず知らずのあなた、城見くん? にそんなこと言わなきゃいけないの」

「おっしゃるとおりだと思うんですけど、場合によっては解決できるかも知れないんですよ」

「はぁ?」


 いまや芒塚さんは完全におれを怪しんでいる。今にも立ち去ってしまいそうなくらいの雰囲気だ。その前に、言わなければいけないことがある。


「芒塚さん、最近悪夢を見ていませんか」


 空気が変わる。

 一転して、彼女の顔から色が抜け落ちた。


「あなた……」

「柚月!」


 叫びながら駆け寄る男がいた。

 彼は駆け寄ってきた勢いのまま芒塚さんを抱き寄せ、自身の背後にやるとおれを憎々しげににらんでくる。


「おいテメエ、こんなところに柚月を呼び出してなにしてやがった」

「……あー」


 マジか。

 これそういうあれか。


「ええと、あなたは芒塚さんのなにかで?」

「彼氏だよ!」

「おおう……」


 恨むぞ鉄蔵。恋人がいるなんて聞いてない。


「それは誤解を招くようなことをして申し訳ない。実は芒塚さんに聞きたいことがあってちょっとお話されてもらったんですが」

「なにをだよ」

「それは……」


 彼の肩越しに芒塚さんを見る。

 色の抜け落ちた青白い顔のまま、信じられないものを見るような目をこちらに向けている。


「大したことじゃないです。もう終わったのでこれで失礼しますね。本当に申し訳ない」


 さっと頭を下げると、そのまま彼がなにかを言ってくる前に立ち去ることにした。


「おい、待てよ」


 聞こえないフリ聞こえないフリ。

 彼らの横を足早に抜け、さっさと退散しようとしたおれの耳に、


「見てる……」


 ぽつりと、こぼれ落ちたように感情のない言葉が届いていた。




      ◇




『それで逃げてきたってわけ? ザッコ』

「うるさい。もとはと言えばお前が恋人いるなんて言わなかったからだろ。いたらあの手は使わねえよ」

『いようがいまいが上手くいったとは思えねえけどなあ。まぁ悪かったよ。ついさっき三組のやつに何人か確認とってみたら一人だけ知ってた程度だ。それも男の方がここ数日で距離近くなってるからそうかもってだけでな』

「ふうん。本当にここ最近で付き合い始めたってことか」

『そうなるな。たぶん、周囲にもほとんど言ってないんじゃないか』

「うーん」

『気になるか』

「正直、違和感はある」

『でもにおいがしたのは女の方なんだろ』

「ああ」


 話をしている最中、芒塚さんからは獣臭が漂っていた。現実を侵食するほどに強く、彼女の肉体から立ち上がる感情の匂いと区別するのが難しかったくらいだ。


「間違いなく、芒塚さんはホラーに侵入されている」


 口にすると背筋にひやりとしたものが走った。

 なにもないのに、ないはずなのに部屋を見回してしまう。

 当然、自分以外に誰もいるわけがない。代わり映えのしない、おもしろみのない自分の部屋があるだけだ。

 机の上に置かれたスマホから鉄蔵の声が響く。


『サポートはしてやるよ。けどお前、結局ご縁はできたのか?』

「……わからない。出たとこ勝負だ」

『うわぁ』

「でも」


 目を閉じる。思い出す。あのときのにおいを。


「彼女の恐怖はおぼえてる」




 眠りにつく。

 多くの人にとっては意識の断絶だが、おれにとってはあの日からただの切り替わりになった。

 闇の中にいる。

 ゆっくりと落ちていく。

 底には薄い膜があって、ふれると感触さえほとんどなく通り抜ける。

 全身が抜けた瞬間、目が開く。

 気づくと床の上に立っていた。

 意識ははっきりしている。視界がぼやけるなんてこともない。

 でも、ここは夢の中だった。

 すでにおかしい点が一つある。着替えたわけでもないのに服が違っている。制服だ。それも今の学校のものではなく、中学の学ラン。

 部屋にいるのは変わらない。机と、ベッドと、漫画しか収められていない本棚が普段と同じくここにある。

 息を吸って、吐く。夢の中なのにまるで現実のような行動ができるし、肺に空気が入る感覚もある。

 もうおれにとって夢とは休息でなく、現実に等しい。

 ゆめとうつつの境目が曖昧になってしまっている。あの日から。ホラーに侵されたときから。

 ドアノブに手をかける。

 開ける。

 空が赤い。

 自宅の廊下はそこになく、奇妙に荒れ果てた雰囲気を漂わせる住宅街があった。

 どことなく見覚えがある。駅へ向かう途中で通る道だ。

 細部は違う。あの家の屋根の色は色が違った気がするし、クリニックの看板には文字化けしたように意味のない文字が並んでいる。通路脇の側溝はなくなり、代わりに亀裂が走っている。

 全体はそうだと思えるのに、一つ一つを見ると別物になっている。

 夢の中特有の支離滅裂さと言うにはあまりに鮮明で詳細な歪さが見るものすべてにある。

 見えてしまうのは、焦点があっているからだ。

 本来夢での感覚なんてもっとあいまいで肌触りに乏しい。熱はぼんやりして、匂いは届かず、色彩もはっきりしない。

 おれだって昔はそうだった。

 だけどいまはこんなにも確かに感じられる。存在感がある。本物だと思えてしまう。

 地に足がついている。

 だから、わかってしまうのだ。


「鉄の匂い」


 膝から力を抜き、頭を屈める。同時に頭上をなにかが勢いよく走った感覚がある。地を蹴り、身を翻し、相手を見据える。

 そいつは、ちぐはぐだった。

 黒いつば広の帽子、足元まである黒いロングコート、右手には斧を構え、左手には肉切り包丁を持っている。道化のような仮面をかぶっていて、さらに顔と手にはボロボロの包帯がぐるぐると巻かれ、その上から錆びついた釘がいくつも打ち込まれている。

 ごちゃまぜだ。

 まるで映画や小説、漫画の中に現れるイメージをいくつも持ってきては付け足し、盛りに盛ってむしろ個性を失ってしまったような。

 殺人鬼に襲われる夢。

 悪夢としてはポピュラーな部類だろう。


「今夜は誰の夢に潜り込むつもりだったんだ?」


 答えがないことはわかっている。こいつはただの悪夢だ。人の恐怖を形にして自動的に生まれ、機械的に襲いかかるだけの。

 せいぜい一晩誰かに悪夢をプレゼントする程度なら放っておける。

 だがこいつは、こいつらは本当に人の精神を蝕み、破壊し、いずれはまったく別物に狂わせる。

 恐怖という精神的怪物。

 ホラー、とおれたちは呼んでいる。

 無言で殺人鬼が襲いくる。

 斧がすさまじい力で振り回され、その合間合間から人体の構造を無視して包丁が突き出される。

 身をかわし、距離を取るも奇妙なほど静かに一瞬で距離を詰めてくる。

 理不尽な動きだった。

 物理法則すら無視しているような。

 おそらく普通に倒しても――心臓を貫き、頭を潰しても蘇る可能性すらある。

 そういった類の脅威。

 だけど悪いけど、おれはお前が怖くないんだ。

 自分の身体が勝手に変化していくのがわかる。

 ぞわぞわと背中がざわめき、足ではぎちぎちと肉と骨が軋み、吐く息の熱が人体の許容を超えて、気づけば右腕が肥大し真っ白な毛に覆われ鋭い爪が伸びて閃く。

 おれの頭をかち割る寸前だった斧が殺人鬼の腕ごと吹き飛んだ。

 殺人鬼は動揺しない。人体両断の威力を持った包丁が横薙ぎにおれの首を狙う。

 合わせる。

 包丁の刃先とおれの爪が火花を散らす。

 一瞬の拮抗。砕けたのは殺人鬼の肉切り包丁であり、そのままなぞるようにやつの腕から肩、胸を引き裂き頭を抉り取る。

 血が吹き出し、直後には塵となって消えていく。全身が煙のように散っていく。

 脅威が消えたからだ。恐怖を与える力を失ったホラーは存在できない。

 あたりを見回す。匂いはない。不審な影もない。

 今夜、この近辺にいるホラーはこいつだけだったようだ。

 息を吐き、力を抜く。

 異形と化した腕を見る。

 危険が迫っていない以上、そのうち元に戻るだろう。けれど気持ちのいいものではなかった。

 ため息をつき、歩き出す。

 夢はまだ始まったばかりだった。




      ◇




 学校まではそうかからなかった。夢の中ではそこまで時間は関係ないが、それでもおれの身からすると体感で経過するものはある。

 多少変な場所に出もしたが、目的地としてしっかり認識して進めばそう迷わずにたどり着くことができるものだ。

 校門を通ったところで、


「遅かったな」


 ひらひらと飛んできた蝶がおれの肩に止まった。

 やけに大きい。翅がちょうど両の手のひらを広げたほどもある。紫と銀、橙色に彩られた複雑な模様がどこか禍々しく、美しい。

 その胴体は人間の形をしていた。


「鉄蔵。なんだ、結局来たんだ」

「結果を見届けるだけだ。他にはなんもしねえぞ」


 妖精のような姿をした男は、美しい顔を冷酷に歪めて嘲笑した。


「いいよ、もともとおれが勝手にやってることだし」

「……」

「それよりお前のほうが早く着いてたんだろ。今日の学校はどんな感じだった?」

「気配はない。この様子だと今日ここに現れるやつはいねえな」

「そりゃ助かる。ここに来るまでもそんな見なかったし、毎日追い払ってる甲斐があったかね」

「学校自体は普段よりも鉄格子とかシャッター、鎖なんかをよく見るな。わかりやすく今度の期末試験のストレスが現れてるんじゃねえか」

「……夢の世界なのに現実が見えるの、本当に良くないと思うんだよな」

「いまさら。もともと現実の影だ」


 どうでもいいことを話しながらおれと鉄蔵は校内を巡る。

 校舎の中、一年教室がある三階、食堂、外へと向かってグラウンド、テニスコート、体育館までをぐるっと。


「捉えたか?」

「……ダメだな。多少匂いはするけど、芒塚さんのものだけじゃない。ノイズが多すぎる。これじゃたどれない」

「ふうん。一番マシなのは教室だったか。時間はかかるがそこから根気強くたどるしかないんじゃね」


 鉄蔵の案も一つのやり方ではあった。時間がかかりすぎるという点さえ無視すれば。今夜一晩では終わらないだろう。経験上、遅くとも明後日ならばたどり着くはずだ。

 おれと芒塚さんとの、同じ学校にいるだけでほとんど面識のない相手との縁など本来その程度のものなのだ。


「……もう一つ心当たりがある。ダメだったらそうしよう」


 体育館の裏側に向かった。

 果たしてそこには、確かな匂いが漂っていた。

 生臭く、荒々しい、獣のそれだった。


「なんだ、ここなら十分じゃねえか。なんでここに最初から来なかったんだ?」

「……なんでここで匂いがするんだ?」


 鉄蔵の問いかけは聞こえていたが、思わず独り言が口から出ていた。


「お前が来たんだろ」

「ダメ元だ。正直、無いだろうと思っていた。だってこんなとこ普通は来ない」

「……わからねえだろ。お気に入りの場所かもしれん」

「可能性はある。でも、毎日通う教室や部活の場所以上に彼女にとって思い入れのある場所なのか、ここが?」

「……」

「ぷんぷん鼻に来る。日々通って染み付いた感じじゃない。ちょっと前にここで本性を曝け出してしまったみたいな残り方だ」

「お前との接触で刺激されたか」

「ならおれがいるときにもっと匂ってもよかった。あのときの芒塚さんからはここまで感じてない」


 むしろ、ただ純粋な恐怖こそ覚えた。

 まだ恐怖そのものには成り切っていない証明といえる。


「おい、ここで考えてもどうせ答えなんて出ねえぞ」

「……そうだな。行こう」


 うなずいて、おれはその匂いの続く方へ踏み出した。。




      ◇




 またこの夢か。

 頭の片隅でひどく淡々とこの状況を受け入れている部分が悲しみながらもあきらめている。

 それ以外は止まっている。凍結だ。なにも感じないようにしている。無駄だけど。

 わたしは動けない。

 身体が動いている感覚はあるが、わたしの意思によるものじゃない。抵抗しようとしてもどうにもならない。全部決まっている。

 わたしは大きな足にまとわりついている。自分の背丈と同じくらいの。母の足だ。じゃれている。

 母が大きいのではない。わたしが小さい。

 これは過去の出来事だ。

 母がキッチンで料理している。幼いわたしは遊んでほしい。かまってほしい。見てほしい。母の足にしがみついて、体重をかけたり甘えて顔をうずめたりしては母を困らせている。

 母の顔は影になって見えない。覚えていないのかもしれないし、本当に見えなかったのかもわからない。すべてはこのあとの出来事に塗り潰された、

 どんなにわたしがせがんでも母は料理の手を止めなかった。当たり前の話。わたしはつかれて不貞腐れて、キッチンの床に寝転んだ。駄々をこねることもせず、むすっと母の足元で天井を見る。

 そのとき幼いわたしはいいことを思いついた。

 母の足が顔のすぐ横にある。くるぶしまでの靴下と、スリッパを履いている。母は敏感で、くすぐられるのに弱い人だった。トントントントンと軽快な音がリズミカルに響く。

 ちょっとくすぐれば、きっと母はびっくりして、こっちを向いてくれるに違いない。

 そろりとわたしは手を伸ばす。

 やめて。その先を知っているわたしは止めてしまいたい。できるならここで目覚めたい。無理だ。何度も願ったのにかなわない。

 わたしの手が母のかかとに届く。こしょこしょっと小さな手がうごめいた。

 音が止む。あったはずの母の叫びも覚えていない。急に空気が重くなる。

 視界の端で、母のひじがなにかを弾いた。

 それは、するっと先端からわたしの視界に入ってきた。

 背筋が凍る。吐き気が腹から喉まで埋め尽くす。いまのわたしだけ。幼いわたしはまだなにもわからずにぼんやりとそれを見ている。

 落ちてくる。

 わたしの背よりも高いところから、それが。

 最初はゆっくり、ゆっくり傾いて、あるところからまっすぐに。

 わたしめがけて――




 目が覚めた。

 覚めてくれた。

 肩を抱いて、ぶるぶると全身が震えるのを押さえ込む。びっしょりと冷たい汗で濡れた寝間着が肌に貼りついて不快。荒い息が止まらない。

 目だけであたりを見回す。机、本棚、クローゼット、バッグ……自室だ。自分の部屋のベッドの上にわたしはいる。やはり夢だ。夢だった。

 ため息をつく。

 ここしばらく、毎晩悪夢を見ている。

 原因はわからないけど、夢の内容自体は知っているものだ。昔よく見ていた悪夢。小さな頃のトラウマ。

 年齢を重ねるにつれて次第に夢に見る頻度も減り、いつしか忘れていた。

 それが、今になって、急に。

 どうして。

 汗の引いた額に手を当てる。

 なんとか落ち着いた。呼吸もおさまって思考も回り始めた。

 ひとまず着替えよう。できれば居間で水も飲みたい。汗に濡れた寝間着に手をかけ――ふと、違和感に気づいた。

 クローゼット。

 わたしの今いるベッドはクローゼットの向かいにある。起きて、ちょうど目の前に見える。

 だから毎晩わたしはなんとなくクローゼットを最後に視界に入れて眠るし、扉に服が挟まっていたりしたら気になって直しに起き上がってしまう。

 そうだ。眠りにつく前に目にするものはちゃんとしていないと気持ちが悪い。気になって眠れない。一日をきちんと終えたい。

 だからクローゼットの扉が少しでも開いていたら絶対にわたしは閉めて眠るはずだった。

 違和感がある。

 普段なら、それでも大したことはないはずの。

 わたしはそっと起き上がり、ベッドから下りた。

 努めてなんでもないことのように、家族の誰にも気付かれないように静かに歩く。

 狭い部屋の短い道のりは終わり、わたしはクローゼットに手をかけた。そして後悔した。

 ……においがする。

 なんだろう、生臭い。生物の活動から生じる汚濁が清められずにそのまま全身に染み付いてしまったような……獣のにおい。

 意識した瞬間、かすかに感じるだけだったそれは一気に強まった。鼻を突き刺すようなにおいととともに、息遣いが聞こえてくる。


 はーっ、はーっ、はーっ。


 ……なにかが、いる。

 クローゼットの中に、誰か、なにかが、いる。

 ごくりとのどが鳴った。なのに口の中はひどく乾いていた。手足が震えていないのは、ただ強張り固まっているだけだった。

 開けたくない。開けたくない。開けたくない。

 全身が嫌だと叫んでいる。けれどわたしの手は思うように動かない。どころか、クローゼットの扉を開き始めた。

 きぃぃ……とゆっくり、ゆっくり、開いていく。

 黒い影がその姿をのぞかせて、


 ――がん!


 なにかがわたしの手をかすめる感触の直後、嫌な音とともにわたしの足元から振動が伝わった。


「ひっ」


 目をやると、今度こそわたしは総毛立った。

 ハサミだ。

 料理に使うもので、少し古く、全体が金属で重く、先が鋭く尖っている。

 昔、母が使っていたものだった。

 床に寝転ぶ幼いわたしの頬のすぐ横に突き刺さったものだ。

 いま、同じようにわたしの足元に突き刺さったそれが、あのとき当たらなかったものがわたしの手を裂いていた。

 のどからは引きつけのような奇妙な音が漏れている。手が痛んでもそれ以上にハサミから目が離せない。

 視界が狭まる。頭に靄がかかったみたいになにも考えられない。

 ハサミに意識が支配される。


 ――がん!


 また一つ、ハサミがわたしの肩をかすめて床に突き刺さる。


 がん! がん! がん!


 二つ目、三つ目……次々とハサミが落ちてきてはわたしの身体をかすめては床に突き刺さっていく。

 次第にハサミが切り裂くのはわたしの身体だけではなくなっていた。

 部屋が降りしきるハサミに切り裂かれて崩れていく。すぱすぱと紙のように壁が、ベッドが、本棚が裂かれ、はがれ落ち、その本当の姿をあらわにしていく。

 夢だ。

 わたしは無駄と知りながら両手で頭を抱え、その場にただうずくまる中でようやく気づいた。思い出した。

 これは夢だ。悪い夢。

 わたしはちっとも夢から覚めていなかった。

 毎晩、これと同じ夢を見ながらいつもこの情景を忘れ、次の日もその次の日もまた同じように驚き、絶望し、あきらめる。

 そして麻痺した意識で悟るのだ。だんだん、ハサミの数が増え、その鋭さが増していることに。わたしの部屋の崩壊が、どんどん広がっていることに。昨夜、部屋の残りはついにわたしの立つ床だけになっていたことに。

 いつの間にか音も衝撃もやんでいた。ハサミはもう降っていないようだ。

 そのことに喜びを感じることさえなく、わたしは上手く動いてくれない手をなんとか頭からはがして、ゆっくり顔を上げた。

 赤い空だった。

 夕焼けよりも暗い、真っ赤な空が広がっていた。下に目をやればなにもない、乾いた地面がどこまでも続いている。

 空にはちかちかと光るものがたくさんあった。星だろうか。そう思ってからすぐに気づいて口元がひきつるのを感じる。

 ハサミだ。

 空にハサミが浮いていて――違う。今にも落ちる寸前のハサミが、その状態で止められたまま、いまかいまかと落下の瞬間を待ち望んでいる。

 いくつも、いくつも、星のように空を飾っている。


「いやだ……」


 声が漏れる。

 ふたをしていたはず、とっくにあきらめていたはずのわたしの身体から抑えきれない感情が溢れ出す。


「いや、いや、いや、いや……」


 怖い。

 恐ろしくてたまらない。

 あれはダメだ。どうしようもできない。どうにもならない。あれは絶対にわたしを壊すものだ。確信がある。根拠もなく不変の事実として認識できてしまっている。

 あれはわたしの恐怖が形をとったものだ。

 見た瞬間に、脳髄に叩き込まれた。わたしはあれに刃向かえない。

 そして、今度こそあれはわたしを刺し貫くに違いない。そうなってしまえば、わたしという存在はきっとそこで終わりだ。

 なにも残らない。おしまいなんだ。

 わたしが悟ったことを知ったのか、ハサミは次々と動き始めた。止められていた落下のエネルギーが開放された。

 天井よりも高く、星よりも近い場所からハサミが落ちてくる。

 わたしめがけて、まっすぐに。

 わたしは変わらず、いや、いや、と駄々っ子のように口にしながらなぜだか今日のことを思い出していた。



 ――ふと振り向いたのは、奇妙な感覚を覚えたからだった。

 わたしの中にある恐怖の刃先はずっとわたしに向けられていたはずなのに、その瞬間だけ違う方へと刃を向けた。そんな気がした。

 そうしたら、ノートを落とす後ろ姿が見えた。

 拾って、声をかけると彼はなぜだかびっくりしたような目でわたしを見た。

 それだけの出来事だったのに、放課後に呼び出されるとは思わなかった。

 しかも、言っていることがよくわからなくて、唐突だ。

 高校生にもなって、人と話し慣れてないのだろうかと心配になってしまうほど、なにを言いたいのかがわからなかった。

 だから、


『最近悪夢を見ていませんか』


 その言葉には、本当に不意をつかれた。

 わたしの中の恐怖が本当に外に突き出て、彼に届いたのかと馬鹿な想像までしてしまった。

 でも、そう。

 わたしはきっとその一言にそんな状況でもないのに少しだけ救われたのだ。

 夢を見るまでわたしでさえほとんど忘れている恐怖に、誰か一人だけでも気づいてくれたような気がして。

 少しだけ、楽になったのだ。




「たすけてって、言えばよかったのかな」


 ハサミが落ちてくる。

 何百何千ものハサミが、わたしの全身を的にして、もうあと何秒もしないうちに届いてしまう。

 わたしは恐怖を少しでも紛らわせるために目を閉じて――


「そうしてくれてたら話は早かったな、まあ」


 そんな、のんびりとした声の直後、雷鳴のような異様な音が間近で爆ぜて、全身を打った。




      ◇




 両手両足はすでに異形と化している。

 うずくまる芒塚さんの前で、全身を駆動させて飛来するハサミの大群を叩き落とす。

 一振りで十、二十、三十といったハサミがひしゃげ、威力を失い、地に落ちる頃には塵となって消えていく。

 足りない。

 次第に襲来するハサミの数は一つ一つを認めるのが難しくなっていく。群というより水流、滝のような。間断なく隙間なく向かい続けてくる力の奔流だった。

 手足の変化では不足だ。対応しきれない。やがて打ちもらしが出ておれの身体を貫くのが先か、芒塚さんを呑み込むのが先か。

 認識したときにはもう、身体はさらなる変化を始めている。

 どろりと空気が重くなる。急に、視界に映る全てが遅くなる。

 意識の加速が先に来たせいで身体がぞわぞわとゆっくり変化していくのが細かくわかって気持ち悪い。

 緩慢な動きで、腕を一振りする。流れを断ち切る。

 背の筋肉が変わる。増えたり膨らんだりしたのではない。肉の質が細胞から変化したのだ。その上から、鉄のような体毛がぞろりと剣山のように生え揃っていく。

 踏み込み、そこに何もないように薙ぎ払う。奔流を押し返す。

 下半身の変化も終わり、最後に残った頭部はもはや必要ないのだが、ここまで進んでしまったなら変わらない方が難しい。

 頭蓋と肉と神経が同時に組み替えられ、引き伸ばされて形を変える。鼻が前に突き出し、つられて顎も尖り、牙が伸び、やはり鉄の体毛が全体を覆う。耳さえ位置を変えて。

 世界の認識が変わる。嗅覚による情報が桁違いに増え、立体的な認識に加えて時間の累積による多層的な変化が把握できる。

 そういうことか。

 思ったのは一瞬、身体はすでに行動を起こしている。

 高く、遠く、吠えた。

 すでにハサミの襲来は止まっている。

 恐怖をエネルギーに動くホラーはこの場所、かつては芒塚さんの部屋だったのだろう荒野に満ちていたはずの彼女の恐怖を食らってハサミを生成していた。

 今夜、彼女の精神を壊すに十分なエネルギーが貯まったと判断して動いたのだろうが……おれが来た。

 いま、ホラーは再生産に追われている。あるいは、新鮮な恐怖を貪りたいはずだ。

 ホラーは生物ではない。少なくとも、物理的な実体を持った存在ではない。おれの所感では機械のようなもので、決められた行動をとることしかできない。

 すなわち、人間の恐怖に擬態し、精神を蝕み、破壊する。

 その過程がやつらにとっては何らかの利益をもたらすのだろうがそこに興味はない。

 やつらが人間の精神を破壊する。それだけで十分だ。

 そんなやつらも、例外的な行動を取ることがある。おれや鉄蔵のようなもはや恐怖に怯えることがなくなってしまった、それどころか恐怖を力に変えて夢の世界に踏み入るものたちにだ。

 明確な敵対行動をとる。排除しようとする。

 恐怖を見せ、恐怖を煽り、その心を恐れで染めようとする行動とはまったく違う。ただただ直接的にこの精神世界で押し潰そうとしてくる。

 今夜はじめに出会った殺人鬼などがいい例だろう。あれはおれの恐怖ではなかった。誰かの悪夢になりかけといったところか。だというのにおれを認めるや否や即座におれに襲いかかってきた。

 ホラーは、恐怖を恐怖と感じないやつらがゆるせないらしい。

 だから、こうして目前に姿を現してやると、必ずなんらかの反応を示してしまう。

 震えた。

 赤い空が、その一部が一瞬、ぶるりと身震いした。


「そこか」


 足に力を込め、跳躍する。

 羽のある生物以外、現実のいかなる獣であろうとありえない高さにまで到達し、がっ、とそれに手をかけ、爪を突き立てた。

 ぶるっとまたその空間が震え、徐々に振動を増し、ついにはぴしぴしと亀裂が走り、やがて塗装が剥がれるようにぽろぽろと真の姿を現していく。

 単純なものだ。

 巨大な机……台所だろうか。

 形自体はそう精細にできていない。おそらく芒塚さんの幼少時の傷なのだろう。ハサミの落下台としての用途だけ示せればいいわけだ。

 台所の上に飛び乗ると、そこにはひときわ巨大なハサミが一つあった。

 おれの身長と同じほどだろう。幼少期の身体と比較した、相対的なものだとしても異常に大きい。彼女の恐怖の大きさが表れていると見るべきだ。

 こいつが彼女の恐怖の根源だ。

 それそのものとなったホラーの姿。

 こいつを破壊する。これまで出くわしてきた多くのホラーと同じように。

 ハサミがその二つの刃を広げる。しゃ、しゃ、と音を立てて開閉を繰り返す。


「意味がない。お前は、おれの恐怖じゃない」


 おれは一歩を踏み出し、自らハサミの間合いに入っていった。




      ◇




「あんた、意外と余裕あるな」


 二度目の場違いに軽い声を聞いた。違う声音だった。

 そちらを向くと、


「妖精……?」

「違う。持ってかれただけだ」


 鮮やかな蝶の羽を生やした男子がいた。蝶にしては少し大きく、人間にしては小さすぎる。

 人間の身体の部分はなぜかTシャツにうちの指定ジャージの下を着ていて……顔に少し見覚えがあった。学校のどこかで、すれ違ったような。

 ここまでの衝撃が強すぎて、わたしは現実でなければそんなこともあるのだろうかとぼんやり思うだけだった。


「直にあんただってこんな風になってもおかしくなかった。完全にハサミに引っ張られてしまっても。あいつに感謝……しなくてもいいけどしてやると喜ぶぞ、たぶん」


 続く言葉で、わたしは目を見開いた。


「あなた、誰。この悪夢を知ってるの?」

「聞いたって仕方ないが、それじゃ納得しねえよな。知ってることだけ、そんなに多くはないが、教えてやる」


 彼はつまらなそうな目をわたしに向けると、投げやりに言った。


「あんたはハサミ。おれは蝶。経緯は知らんし、根本は別だろうが、それがおれたちの恐怖だ。心底恐ろしいと思うもの、その形の一つだ」


 淡々と語る声に感情は聞き取れない。やる気のない授業のほうがまだ伝えようとする意思を感じる。


「おれたちはそれをホラーと呼ぶことにした。やつらは恐怖を真似する。それそのものに成りすます。人間の集合的無意識から探りを入れ個人の部屋に侵入し恐怖の形を夢の中で毎晩見せ続けることでこの感情を煽り、肥大させ、やがては精神を一色に染め上げる」

「なんで、そんなこと」

「目的なんざ知らん。捕食活動かもしれねえし、遊びなのかもわからん。ただの反応だって言われてもふーんって感じだ。重要なのは、やつらはそういったもので、遅かれ早かれ獲物に選ばれた人間は最終的に壊れるってことだ」


 彼はもうわたしの方を見ていない。空を見ている。

 空にある台、そこから響く轟音から何かが争っていることがわかる。

 彼はやはりなんの感情も見せない声と表情を、空に向けていた。


「心が壊れる。ぱっと見普通でも中身はもう別物。恐怖に耐えられず、恐怖そのものに同化してしまったやつはもう人間とは言えない。行動さえやつらと同じになる。呼び水だ。そこにいるだけで周囲の人間も徐々にやつらに侵されていく、そんなはた迷惑な広告塔になっちまう」

「……見たことあるの、そんな人」

「何人か。一人は病院、あとは死んだ。そう成り果てたところで長生きできるようなもんじゃないらしいな」


 回避する道は二つ、と彼は指を二本立てながら言った。


「恐怖を克服する。言うは易しってやつだ。完全にできるやつはいねえだろう。だが、やつらの見せる悪夢にも怯まずに立ち向かったやつだけが恐怖を撃退することができる。その力を奪うことすらありえる」


 彼を見る。蝶の羽を生やした彼を。

 そして、またたく間に跳び上がり、いま空の上で轟音を発生させているのだろう、一瞬だけ目に写った白い巨体の……


「誰かに助けてもらう。これが一番手っ取り早い。簡単だ。あいつみたいな例外の手を借りるまでもなく、そもそも現実で満ち足りている人間は心底に恐怖を抱えていても滅多なことじゃ表に出さねえ。忘れることができるからだ。毎夜毎晩悪夢にうなされようが、次の日親しい友人と遊べばけろっとできる。人によるがな」


 再び彼がわたしに目を向けた。

 疑念の形に目が細められていた。


「あんた、やっぱり余裕ある。ちぐはぐだ。部屋はずいぶん荒らされているのに、あんた自身はまだ気力が切れていない。まだ当分持っててもおかしくないのに、今夜にもやられそうなほどガワだけ薄くなっている」


 彼の無関心な声が静かにわたしを叩いた。


「隠しているものがあるんじゃないか」


 同時に、轟音が地を揺らす。

 見ると巻き上がる砂埃の中心に、巨大な、かつてハサミだった物体を捻じ曲げながら抑えつける全身毛むくじゃらの存在がいた。

 狼男だ、と思った。

 直立する大型の生物ならば熊がいる。けれど、目前にいる存在の頭部は明らかに細長く、犬みたいだ。

 現実なら信じない。夢か幻かと思う。いまがまさに悪夢の延長だった。幻想的と言うなら、隣に妖精のような姿をした男子がいる時点でいまさらだ。

 すんなりと目前の存在を受け入れていた。


「これ、まだ恐怖を感じますか」


 狼男は立ち上がると、手に持ったハサミの残骸をわたしに差し出してみせた。残骸というしかないものだった。

 柄の部分が二つともまとめてねじられているせいでもう刃を開くことができなくなっている。だからといって刃の部分が無事なはずもなく、ぼろぼろに欠け落ち、刃先に至っては完全に潰されている。狼男の鋭い爪によるものか全体的にいくつものえぐられたような跡がある。

 ハサミとして、道具としてもう死んでいた。鈍器としてなら使えなくもないかもしれない。だからそれはもうゴミだった。


「……いいえ」


 怖くなかった。ちっとも。

 つい先程まで心臓を掴まれるような恐怖をずっと感じていたというのに、いまは驚くほどなにも感じていない。なにもない。

 他の感情さえ湧かなかった。喜びや安堵を覚えてもいいはずなのに。おかしなことに、夢を見ているときのようにぼんやりとした感覚だった。視界がぼやける。

 焦点が合わない。


「句朗、この人やっぱり妙だ。被害者なのは間違いないと思うが、奇妙なところが多すぎる」

「うん。ちょっと勘違いしてたな、おれも」

「あ? ……ああ、鼻が利くようになってなんかわかったか」

「そもそもはじめに彼女に感じたのは獣のにおいだ。金物のにおいじゃあない」

「……ホラーが二種類いる。そんなことがあるか?」

「ハサミは彼女の恐怖だ。間違いない。でもお前だって見てわかっただろ。恐怖としてはまだ弱い。全然彼女の気力を奪えちゃいない。幼少期のトラウマで、いまでもハサミは苦手かもしれないがそれだけだ。短期的に恐怖を煽れても、明日になったら回復してる」

「おれもそう見た。だからこそこの荒廃はおかしい。普通、精神が弱るから夢が荒れるもんだ。精神的にまだ余裕があるのにこの景色はちょっと納得いかねえ」

「そうだな。だからおれも戸惑ってた。でも、わかってしまえば簡単な話だ」


 ここは彼女の世界じゃないんだ、と狼男は言った。

 なんとなく流し見していた動画みたいに遠く、耳に入ってこない音だった。


「はあ? じゃあ誰のだってんだ」

「それは……もう、見ていればわかるな」


 狼男がわたしに目を向ける。

 わたしもだいぶぼやけた視界の中、なんとか彼の顔だけに意識を向けて、思った。

 狼じゃないな、この人。

 たぶん、ふつうに、犬だ。どこにでもいる。

 もっとよく見ようと彼の方へ手を差し伸べる。手にはいつの間にか何かが握られている。なんだろう。

 ぎらっと光ったそれが、彼の首にかけられて、


 じょきん、


 と、刃を閉じた。




      ◇




 血が吹き出た。

 地面に落ちるまでに塵となって消えていく。


「残念。首狙ったのに」


 そいつは、テストでうっかりミスしたときみたいに自然な声音で落胆していた。

 右腕を抑える。手首から先がすっぱりと断ち切られている。獣の皮をかぶり、この夢世界において鋼のように硬い体毛を備えた身体が傷つけられた。

 相手は、それだけ成熟したホラーだということだった。


「句朗っ、あいつは」

「……芒塚さんの恐怖は自分めがけて落ちてくるハサミだ。派生としてありえなくないが、断ち切るという機能にここまでの威力があるとは考えにくい」

「考察してる場合か!」

「答え合わせだよ」


 彼女を見る。

 芒塚柚月を。

 だらんと垂れたその両手に、巨大なハサミが握られていた。

 全体が金属でできたキッチンバサミをそのまま巨大化させて、おそらく実物よりも刃先を尖らせた、さきほどおれが上空で叩き壊したはずのものだった。

 彼女の目はうつろだ。

 おれを見ているようで見ていない。半開きとなった口はおれの言葉に応える様子を見せない。

 なのに、その口からその声は漏れたのだ。


「なんだ。おれに気づいてたってのか、お前」


 低い、男の声。

 のどもくちびるもわずかに見える舌さえ動いていない口から、出るはずのない音だった。

 外見も挙動も何もかもいびつな現象がそこにあった。


「この姿になると鼻が利くんだ。においっていうのはさ、夢でも現実でも感覚の中で一番精神に結びついている。……あんたの姿は見えなかったけれど、においだけは充満していた。芒塚さんよりも濃いくらいだ」


 においは多層的だ。

 その場所に積もった情報を完全に風化し切るまで保存し続けて、むしろかすれ具合からどれだけ古いものか推し測ることさえできる。

 この犬の姿をとったとき、おれにもその真似事程度だったらやれないことはない。感情や執着といった夢に表れやすいものでなおさらだ。

 特に、今回のようにある種わかりやすいものであったなら。


「そもそもおれが最初に彼女に感じたものは獣のにおいだ。金物じゃない。けどそれ以前、現実での様子からしてずっと違和感を覚えていた。あまりに自然で」


 普通、悪夢に侵された人間はその末期、恐怖に呑まれる直前ともなるとまともな生活を送ることさえ難しくなる。

 どんなに取り繕ったところで緊張の限界からくる生理反応は生じてしまう。手の震え、発汗、血の巡りは意思でどうにかなるものじゃない。

 彼女にそれはなかった。

 少しの困惑があるだけだった。


「すれ違ったとき、体育館裏で最後の質問を投げかけたときの二度を除いて、だ」

「あれは失敗だったな。正直おれはお前なんかどうでもいいんだけどさ、こいつらは違うみたいだ。お前を視界に入れてるだけでうるさくてたまらない。排除しろ、排除しろって言ってるぜ、いまも」


 芒塚さんの表情は変わらない。いまもぼうっとした顔のまま、その口から低く愉しげな声が漏れている。

 だが、様子に変化があった。

 震え出したのだ。

 最初はゆっくり、ぶる……ぶる……と間隔を空けていたものが、徐々に絶え間なく震え続けるようになり、ついには輪郭まで怪しくなっていった。

 形が崩れる。

 布が広がるように膨らんだと思えば、次の瞬間にはくしゃっと潰れて枯れ木のような姿を見せる。

 同じ形にとどまることはなく、ぶれて、崩れて、ぼやけて、混ざり、ぴたっと変化が止まった。

 そこには、芒塚さんが直前と変わらぬ姿で立っていた。

 表情だけが違う。

 満面の笑みが貼りついていた。

 美しく、空々しい笑みだった。

 ぴしり、とその額に亀裂が走る。

 ぴし、ぴし、ぴし、と稲妻が落ちるように、眉間を通り、鼻梁を割り、口と顎を裂いて、さらに首から鎖骨を抜けて、彼女の身体のみならず服まで砕き、亀裂は下へ下へと走っていく。

 それが下腹部までたどり着いたとき、ぬうっと彼女の胸の間の亀裂から突き出されたものがあった。

 腕だ。

 白い服を身に着けた腕が曲がり、無造作に彼女の胸をつかむや、ぐいっと横に開いた。

 広がった亀裂から、顔が覗いていた。

 見覚えのある顔だった。


「……そういえば、おれはあんたの名前を知らない」

「おれもお前を知らない。柚月の記憶を探ればわかるだろうが、興味ねえ。名乗ろうか?」

「いや、いらない。夢の中で聞いても意味なんかないだろ」

「違いねえや」


 その男は笑う。

 野卑に、愉しくて仕方ないといった様子で笑う。

 顔立ちに特徴はない。整っている方だろうが、際立ってはいない。髪型も、眉の整え方も、いまの流行りを押さえているがそれだけに特徴にはならない。

 でも、表情は違うな、と思った。

 あのときもこのようなギラついた目をしていたが、表情に余裕はなかった。敵意だけが向けられていた。

 いま思えば、自分の縄張りを荒らされ、獲物を横取りされると勘違いしていたのではなかったか。


「人の恐怖には、いろんな形がある」


 ぽつりと口にした。

 なんとなく話しておこうと思った。

 めりめりと彼女の身体を裂いて現れようとするものに、あるいはもう意識もないだろう彼女に。


「何を最も恐ろしいと思うか、思ったかなんて人それぞれなんだ。似ていても、同じものはない。人がそうであるように。同じような反応で犬を怖がっても姿が怖いのか、動作が怖いのか、牙や爪が怖いのか、内心は本当に様々だ。……それでも、いくらかカテゴリ分けはできる」


 男が外に出るほどに、彼女の身体は薄っぺらい抜け殻になっていく。

 ……きっと、あれが本当に彼女の部屋、自意識の殻と呼べるものだったのだろう。やはりここは他人の部屋で、彼女の部屋はすっぽりとそこに取り込まれていた。

 そしてさらに、彼女の部屋の中にはいつの間にか侵入者が身を潜めていたのだ。


「たぶん、一番多いのは死への恐怖だ。死に通じる痛み、苦しみをもたらすものへの恐れ。脅威。芒塚さんのハサミなんかはわかりやすい。獣への恐れもほとんどこれだが、少し違う点として、獣には意志がある。執着、遊び、飢え、そういった明確な害意が。

 ……あのときおれは獣のにおいを感じた。生臭く、暴力的な、獲物にひどく固執するケダモノのにおい。あれは彼女が発していたものじゃなかった。彼女の中に潜むものから漏れ出したものだ」


 男はいまや完全にその姿を現していた。

 中肉中背、整っているが特徴のないはずの容貌。しかし爛々と輝く目と、込み上げる歓喜がそのまま形をとったように歪んだ口が男の顔に異様な迫力を持たせている。

 男はうちの制服を着ていた。

 まさに体育館裏で芒塚さんの恋人を名乗り、おれを睨みつけてきた男だった。

 その手には巨大なハサミ。先ほどまで芒塚さんが持っていたものとの違いは、両の刃に彼女の全身がコーティングされていることだった。

 目を離したはずもないのに、気づけば抜け殻のようだった彼女の身体はハサミと変わっていた。


「他者をつけ狙い、自身のねぐらに閉じ込め、傷つけ苦しめて、ついには捕食する……陵辱の性を持った人という獣。それがあんただ」


 男は愉しげな笑顔をさらに、目に届きそうなほどに高く、深く刻んだ。

 ゆらりと芒塚さんだったハサミを持ち上げ、その刃を、刃に装飾された彼女の頬を舐め上げる。


「柚月はさ、きれいだろ」

「……そうだな」

「おれは小学校から同じだったんだけどさ、昔からひときわきれいだったんだよ。なのに成長していくにつれてどんどん美人になっていって……憧れだった」


 うっとりと、刃に頬ずりしながら男は独白する。

 ……独り言だ。会話できているようで、まるでできていない。こいつは話したいことしか口にしないし、聞きたいこと以外は耳に入らない。

 こう成り果てた相手とコミュニケーションなどできはしない。


「中学の時だったな、柚月がたちの悪いストーカーに狙われてさ。結構参ってる様子だったんだ。明確な被害がなかったから警察もなかなか動いてくれなくて、部活の連中でなるべく一緒に帰るようにしたりして。正直言うとうれしかったよ。中学になると男女一緒なんてそうないからな」

「ストーカーは、捕まった?」

「ああ。思い出すだけではらわたが煮えくり返るが、あの野郎、柚月が家に入る直前に忍び寄って、家に押し入ろうとしやがった。柚月の家は共働きだったから家に誰もいないのわかってたんだな。……おれはそれを見てたから、警察に通報して、男にもしがみついて抑えたから、一応、柚月は無事だった。その後しばらくして、お礼だって部屋に通してもらえて、お茶も出してくれてさ。あれは、人生で一番うれしかったなぁ……」

「なるほど」


 それでこいつは芒塚さんの部屋に侵入できたのか。

 か細い縁だが、その一時、彼女は確かにこいつに気を許したのだ。自分の部屋にいていいものとしてもてなした。


「それがあんたの恐怖か。もしも芒塚さんがストーカーに襲われて、そのまま誰も助けられなかったとしたら。そういった恐怖が、そのときのあんたに刻まれたんだな」

「そうさ。この世にあれ以上に恐ろしい瞬間なんてないと思ったね。恐ろしくて、恐ろしくて、たまらない。怖くて怖くて怖く怖くて……おれなら、怖くないのに。そう思いついたのは我ながら天才だったよ」

「同一化だ。多くの人はそうなる。……ストーカーから彼女を助けたはずのあんたが、あんたこそ今日まで恐怖を持ち続けていた。そこをつかれたんだ。あんた、どれだけ悪夢を見させられた? どれだけ彼女が襲われ、傷つく姿を見た?」

「ああ、本当に嫌な夢だったよ。いまでもそう思う。まったく、なんて悪夢だ。柚月を手に入れたのがおれじゃないなんて! こいつを壊すのは、支配するのはおれだ! おれじゃないければいけない!」


 タガが外れた。

 ついさっきまでにこやかに、奇妙なほど静かに語っていた男がいまは叫ぶようにして彼女への執着を吐き出している。

 こうなっては会話の真似事も終わりか。

 直に、男の精神は本当に生まれ変わるだろう。


「句朗。こいつ完全に侵食されてるってことでいいのか?」


 ずっと黙っていた鉄蔵がどうにも納得していない顔で尋ねてくる。

 おれはここのにおいをかいで直感的に理解したが、そうでもなければ受け取りにくい話だろう。


「ほとんど。なる寸前ってとこだ。話を聞いて彼の恐怖はお前もわかったろ」

「ストーカーね。他人の恐怖ってのは本当にわかんねえもんだな。……あ、そういうこと?」

「彼は彼女を害するものを恐れるあまり自分が彼女を害するものになればいいと思うようになった。その時点で恐怖の侵食はほとんど終わっている。次、その恐怖を周囲の人間に撒き散らす……そういった使命か本能が芽生えたときに彼が考えたことは明らかだ」

「彼女に恐怖を植え付けるのは自分でなくてはならない。はぁん、初めて見るタイプだ。わりといそうだが、いや、そうでもねえのか」

「うん、失うことを恐れるほど大切な人がいるなら、むしろその人がいる日々を過ごすことで恐怖は安らいでもおかしくない。彼の場合は実際に過去、現実の危険を目にしたことと、おそらく普段そんなに接してなかったんじゃないか」

「疎遠になってた女をそこまで心配するかね。つくづく感情ってのはどうすることもできねえな。で、となるとあのふたり、まだ染まりきってねえんだな結局」

「だろうさ。彼の完成はまさにいまだ。彼女が完全に折れてから、ふたりで堕ちるつもりなんだろう。……そのためには邪魔者がいるな」


 男の叫びは止まっている。

 じわじわと男の身体から漏れ出した闇が、彼の周囲にまとわりついては全身を覆っていく。

 次第に闇が形をとっていく。フード付きのパーカー、黒いマスク、サングラス、紺のジーンズ、スニーカー。それ以外の肌は闇に覆われて見えない。悪夢らしくところどころに悪趣味な装飾が施されているが、きっとこれがかつて芒塚さんを襲ったストーカーの姿だったのだろう。マスクとサングラスさえ外してしまえばありふれた格好だ。

 ありふれているだけに、ストーカーとしてはふさわしい。

 今夜遭遇した殺人鬼よりもよっぽど生々しく、真に迫った悪夢の姿だった。

 男の手には、やはり、巨大なハサミが握られている。

 笑顔のままの芒塚さんが貼りついたハサミが、開かれ、おれに向けられる。


「死ね」


 まばたきもしていないのに男は目の前にいた。

 考える間もなく飛び退きながら先を失った右腕を突き上げる。

 痛みはない。そんなものとっくに切られている。衝撃だけが手首で爆ぜて、視界にたったいま弾いたハサミがよぎり、一瞬芒塚さんと目が合ってしまう。

 止まってはならない。

 残った左手がすでに爪を立てて突き出されている。

 男はやはり人体の構造どころか存在の連続性を無視するような、まるでラグったゲームみたいなワープとでもいうしかない移動を見せて態勢も崩さずにすでにそこにはいない。

 どうせ避けられると知っていた。

 腰を回転させ、足を刈りとるつもりで蹴りを放る。

 風を打つようなものだ。すり抜ける。それどころか足の先がやられた。つながってはいるが、皮一枚だ。足を戻す途上でぶらんと垂れ下がったそれのせいで一瞬、本当に一瞬、態勢がズレた。

 胸に、刃が突き刺さっていた。

 深く押し込まれる前に必死で身をよじる。えぐられる。痛みはない。ただ持っていかれる感覚だけがある。

 振り回した腕は間合いをとるためのものだった。意味はない。そこにいない。

 ストーカーは背後にいるものだ。

 振り向いたときにはもう、左腕は肩から断たれていた。




      ◇




「弱っ」


 男は、本当に驚いたように思わずと言った様子で口にした。

 男の目の前では句朗が膝をつき、なんとか立ち上がろうともがいている。

 胸に大きな穴が空き、両手を失い、片足がほぼもがれた状態では、一度倒れたら起き上がることさえ困難だろう。

 句朗の目はまだ男を睨みつけており、おそらく再び近づかれた瞬間を狙っているのだろうが……


「その腕じゃもう防げねえだろ」


 男は動かない。

 句朗に対してわずかに持っていた感情……敵意が消えている。

 終わったものと思っているようだ。

 付け入るすきがあるとすればその油断だろう。

 だが、男はハサミを宙に放った。

 投げたというよりも軽く手放す動きだったにも関わらず、ハサミは異様な勢いで上空に飛び上がり、ぴたり、と止まるや一転、即座に急速に落下する。

 どこに落ちるかなど考えるまでもなかった。

 断末魔の叫びを上げることさえなく、句朗の首下、鎖骨の間が刺し貫かれていた。

 溢れ出る血と全身を覆っていた体毛が塵となって消えていく。

 犬のものに変化していたはずの顔面はすでに句朗本来の姿に戻っていた。目を閉ざされ、口はわずかに開き、青ざめた肌さえ考慮しなければまるで眠っているようだ。

 終わった。

 おれもまたそう思った瞬間、がしっ、と身体の自由が奪われる。。

 男がおれの前にいて、おれの身体を握っている。一切遠慮のない握力だ。翅はぐしゃりと潰され、手足さえ折れそうなほど軋んでいる。


「あとはお前だけだ」


 傍観者気分でこの場にいたおれは、今日初めて男をまともに見、また見られた。

 サングラスを通し、闇を通して見えた目に、当然、怯えの色はなかった。

 おれはまだ少し夜と眠りが恐ろしいというのに、その恐れに屈したこの男は活き活きとしている。

 ねたましく、あわれだった。

 男も、男をねたましく思うおれも。


「その小さな身体に、しかも蝶が怖いってどういうことだよ。どれだけビビりならそんなことになるんだ?」


 男はそう言って、おれを嘲笑った。

 まだ人間性が残っているらしい。それとも、句朗の奮戦はけして無意味ではなかったということか。恐怖の力が削がれて、本来からかなりねじれているだろうが男の人格がいくらか出ているようだ。


「……まぁおれは恐怖を克服したと言ってもおこぼれでな、そこのそいつに助けられながらどうにかってところだ。小さいのはきっとそんな理由だろうさ」


 そうだ。おれの恐怖は小さくなどなかった。いや、どのような形であれ、恐怖が小さいなどということはない。恐れるという感情そのものが自分の中に大きな穴を空けるようなものなのだから。


「ビビりっていうなら、犬が怖いっていうのも相当だよな」

「ああ? 命乞いか?」

「いいや、世間話だよ。犬嫌いなんてさ、大体が犬に吠えられたとか噛みつかれたなんて理由だろ。昔は野犬がいたからもっと怖かったかもしれねえが、現代じゃそう大事じゃねえよな」


 男はおれをつかむ手に力を込め、握りつぶそうとしたようだった。

 だがしなかった。おれの話になにか不穏なものでも感じたのだろうか。途中で力を緩めた。そのまま締めていたら終わっていたかもしれないのに。


「近所の優しいじいさんが飼う、優しい犬だったらしい」


 その言葉は、勝手に口をついて出た。


「じいさんにもあいつにもよく懐いて、ちと食い意地が張ってる感じの。最近だといろいろ言われるかもだけど、あいつんちは緩くてさ、じいさんの家に一人で遊びに行くなんてこともよくあったと。で、まぁ、あいつの家が引っ越したりなんだりでじいさんと犬とは疎遠になってしばらく会えなくなった。気にしていたがまだ幼いあいつにゃなかなか機会も時間もなく、一年二年が経って、ようやく行ってみたらそこには変わり果てたじいさんの家があったとさ。わかりやすく言うなら多頭飼いってやつだよ。おれも同じ地区に住んでたから噂は聞いてたよ。見たこたないがすごかったらしいぜ。家の中にも庭にも犬がびっしりいて、全然始末できていない糞がそこら中に落ちていてそれはもうものすごい悪臭だったってさ。じいさんの家はそこそこ金があってそこそこ広くて隣の家との距離もあった。なのに近所の評判はもう最悪だったってんだから、本当にやばかったんだろうな。まぁにおいだけじゃなくて鳴き声なんかもしただろうしな。話は戻るけどあいつが訪ねたタイミングは最悪だったんだよ。悪臭はひどくなる一方なのに鳴き声が細くなってじいさんの姿を見ない。近所の人もそうだろうなと思っていよいよ警察に連絡してたそうだ。あいつは中に入った。じいさんに鍵の隠し場所も教わっていた。悪臭、か細い犬のうなり声、そこら中に打たれた杭にそれぞれ何頭もつながれた犬たちはほとんど倒れている。動かない。寝ているか死んでいるかもわからない犬だらけの家の中にあいつは入っていった。家の中も同じだ。そこら中に犬は倒れている。床はもう床板が見えないほどに糞尿が地面をつくっている。じいさんの部屋は二階にある。あいつは階段を登って廊下を通って、じいさんの部屋についた。そこにはさ、ベッドの縁に寄りかかって倒れるじいさんがいた。じいさんは目をかっぴらいてよだれも糞尿も垂れ流しになっていた。死んでいた。滑って転んでベッドの角に頭ぶつけたのが死因だと。不運だけどない話じゃない。奇妙なのはじいさんの周囲には何匹もの犬が倒れていた。他の犬と同じように飢えて倒れた? いいや、じいさんの部屋の犬は例外的に繋がれていなかった。同じ部屋で寝るくらいだ。お気に入りの犬たちだったんだろうな。そいつらがじいさんの周りで倒れている。じいさんを慕って死体に寄り添ったのか? それでもおかしい。なぜってちょっと離れていたからだ。ただ一頭を除いてほかはどいつもじいさんに触れていない。そして、血。血痕が散らばっていて、犬たちにもかかっている。じいさんのものにしても量も飛び散り方もありえない。あいつは全部見た。見たからわかった。噛み跡だ。どの犬にも深い噛み跡があって、場合によっては噛みちぎられている。一頭だけ、じいさんに寄り添って伏せる犬がいた。そいつだけふつうに犬が寝る姿でじいさんの足元に寝そべっていた。あいつは気づいたよ。じいさんとともに昔優しくしてくれた犬だってな。見る影もない姿だ。美しかった白い毛はところどころはげて、やせ細り、血の前にいろんな汚れが全身にこびりついている。その犬はうっすら目を開けた。あいつに気づいた。よろよろと身体を起こして、近寄り……がぶり、と、あいつに噛みついたんだってさ」


 男は最後まで黙って聞いていた。

 表情はなかった。無だけがそこにあって、おれにもおれの話にも揺らされた感情はなにもないようだった。

 だから男がおれを握りつぶさなかったのは、途中で気づいたからだろう。握りつぶすだけの力が手に残っていないということに。


「それが、あの犬男の恐怖だと?」

「恐ろしい話だろう? どの角度から見ても、どう解釈しても嫌だ。精神を病んだっておかしくない話だ」

「だからなんだってんだ。おれには関係ねえ」

「事実として、あいつは通院することになった。学校もほとんど休み、来たとしても保健室。当時顔を合わせることはなかったし、それ以前も話すことがなくなっていたおれは気にかけることさえしなかった」

「おい」

「そして、あいつは恐怖と悪夢に呑まれた。新しく生々しい恐怖は煽られるまでもなく、きっと一瞬で落ちたことだろうさ。あんたと同じだよ。ホラーに全部食われたんだ。まわり全部に自分の恐怖を押しつける、はた迷惑な広告塔になっちまったんだ」

「なにを言っている。あの犬男は」

「それがおれたちの同級生でおれたちが初めて対峙することになったホラー。いまは病院で眠り続けるある女の話だ」

「だから待てと、女?」


 そうして男は力の入らない手を強張らせ、おれを引き寄せようとした。

 その左肩に、ぽんと手が置かれる。

 なんの変哲もない、血色の通った人間の手だった。

 男が振り返る。

 その視線の先には、誰もいなかった。

 手は男の肩に置かれて、その先は垂れ下がっていたからだ。

 男の足元に、城見句朗がハサミで胸を貫かれたまま膝をついてうなだれていた。

 いつ、どうやって移動したのか、ずっと視界に収めていたはずのおれでさえわからない。

 パラパラ漫画の間がごっそり抜け落ちたような、現実ではありえない……成熟したホラーがよく使う手だった。その場、狙った人間の意識をほとんど侵食したからこそできる瞬間移動。悪夢の演出。

 足が再生途中でふつうに移動するのが億劫だったんだろうな。

 ただの推測だが、たぶん当たっている。


「な、あ……え?」


 男は混乱していた。

 目の前にあるものが信じられないようで固まってしまっている。

 早く気づかなければ、失う一方だというのに。


「なぜ、手が」


 男の肩に置かれたのは右手だった。手首から先が切り落とされたはずの。

 だが男が真に驚くべきは手ではなく、手に触れられた場所だ。


「うあああああああああっ!」


 男が跳び退く。ついでにつかまれていたおれも解放される。

 句朗につかまれていた左肩の部分のパーカーがごっそりと失われていた。その下にうちの制服が見える。

 句朗の方はようやく足がくっついたのか立ち上がり、いまだに自身を貫いているハサミを左手で掴んだ。肩から断ち切られていたはずの左腕もまた、もとに戻っていた。人間のものに。

 足元にのぞく白い体毛を見る限り、下半身にはわずかに犬の力が残っているのだろう。だが、ここまで消耗し、もはや上半身にまで力が及ぶとは思えない。終わりだ。

 おれの思考を追うように、句朗の生身の手で触れられたハサミは徐々にその形が崩れていく。そんなに力を込めているようにも見えないのに触れている箇所からひび割れ、欠け、やがてぼろぼろとこぼれ落ち、地面に届く前に塵になる。

 力を失ったホラーの末路。触れられただけで芒塚柚月の恐怖はその脅威を失っていた。


「なんだ……なんだそれはっ!」


 一度間合いをとった男が再び句朗に向かって襲いかかる。

 句朗は左手はそのままに、右手だけをただ男に向かってかざす。

 男の手にはスタンガン。リーチはないが、現実で触れればただではすまない。当然この夢世界でもそうだろう。

 句朗はひるまない。

 右手でスタンガンをそっと包み込んだ。

 じじ、という音ともに一瞬光が閃いた。それだけだった。

 句朗が手を開くと、スタンガンはぼろっと崩れ落ちた。

 男は呆然と手を突き出したまま、その有様を見ていた。


「……お前、なんなんだ」


 句朗はその場に立ったまま、申し訳ないように眉尻が下がった顔で男を見た。その間も左手でつかんだハサミの崩壊は止まらない。


「あんたは子どものころ、くだらないこと、たとえば宇宙の終わりとか妙にスケールのでかいこと考えすぎて怖がったりした経験あるかな」

「は」

「おれはあるんだ。本当にくだらないことなんだけどさ、中学生までずっと怖くて、怖いくせに信じ込んじゃってバカみたいな生き方してたよ」

「だけどあの夜、この夢世界で犬に襲われて、自分の恐怖と彼女の恐怖に否応なしに向き合わされて、気づいたんだ。おれの恐怖に意味なんてなかったってことに」


 句朗は淡々と語るが、きまり悪い様子だ。

 あいつにとってこの告白はひどく居心地の悪いことらしい。どこか恥ずかしいことだとさえ思っているようだ。

 心底から他人に申し訳ないと思っている。


「おれはこの世の人々がすべて空っぽの人形で、自我を持っているのはおれだけだとずっと疑っていた。それが怖かったんだ」

「……はあ?」

「わかる。そうなるよな。でも本当に怖かったんだよ。証明できないことだから余計に考えすぎてこじらせて、どうせみんな空っぽなら好き勝手生きてやろうなんてことも思った。けどさ」


 恐怖は直感で理解できる。

 意識に直接叩き込まれるものだろ、と句朗は言った。


「犬に襲われて、彼女の恐怖を体感してさ。なんだ、他人もちゃんと意識あるんじゃんってようやく実感できたんだよ」


 しみじみと、感慨深げに言う。

 男はもう呆れているのか、狼狽しているのは間違いなく、じりじりと後ずさっている。


「おれの恐怖はそのとき意味をなくした。間違いだと他ならぬホラーが教えてくれた。……で、同時に気づいたんだよな。ホラーに完全に侵された人間の意識は、おれの恐れた空っぽの人間と同じだって」


 句朗が一歩踏み込む。

 その身体を貫いていたハサミはすべて塵となって消えた。句朗の背後に芒塚柚月が倒れている。目は閉じているが、ただ本当に眠っているだけだろう。

 両手を広げ、表情を変えず、敵意も戦意もなく、句朗は男に近づいていく。


「それは困る。せっかく一人じゃなくなったのに。そう思ったら、そのときにはもうこの手にはホラーの脅威を失わせる力が宿っていた」


 その力でおれも助けられた。

 犬に襲われ、ホラーに侵され、おれの恐怖の形である蝶に毎晩襲われるようになっていたところに、やつはいまと同じようにまるで気負った様子もなく現れた。


「犬の姿はまた少し別でさ。実は最初に襲われた犬のホラーすげえ強くて消しきれなかったんだよ。で、向こうとしてもホラーを消されるのは困るらしくて、普段は自分の力全部使っておれの力を封じ込めにきてる。さっきまではそのガワを利用してたんだ。いまは、あんたとの激突で一時的におれを封じ込められないほど弱っているから……」


 句朗は立ち止まった。

 男も、もう少し距離をとってから止まった。いつでも逃げ出せるような姿勢だった。


「あんたの質問に答えた。次はおれの番だ」


 そして、男に尋ねた。

 やはり敵意も悪意もなく、特に興味もなく、ただ思いついたからといった様子で。


「芒塚さんと付き合うようになったのって、あんたがホラーに侵された前と後、どっちなんだ?」


 果たして、その問いかけの効果はてきめんだった。

 揺れていた水面が一瞬で静まるようにぴたりと男は動きを止めると、次の瞬間にはもう句朗に襲いかかっていた。

 素早く突き出された腕の先にはナイフが握られていた。

 のどを狙った、鋭い一撃だった。

 届く直前、句朗の指が刃をなでるや、崩壊する。

 そのまま、押し込むように進んだてのひらが男の顔面を覆った。


「……ごめん。聞いといてなんだけど答えはいらない。どっちでも悲しいと思う」


 サングラス、マスク、フードが消え去る。

 同時に、地響きとともに地面のあちこちに亀裂が走る。

 男に取り憑いたホラーが消え去るのだ。ほとんど侵食されていた男の意識もまた無事ではすまないだろう。

 おれは倒れている芒塚柚月のところに向かうと、たぶん大丈夫だろうが一応保護のためそばに降り立った。

 その顔は状況にそぐわず、奇妙に安らかだった。


「彼女の恐怖はハサミの形をとった。ストーカーじゃなく。……幼い頃の恐怖が弱いというつもりはないけど、それでもそのとき、あんたは彼女をより大きな恐怖から守ったんだと思うよ」


 きっともう男に聞こえていないだろう。

 けれどその言葉を契機に地響きはますます強まり、地面の亀裂は空にも広がり、割れて……その場は、崩壊した。




      ◇




「最後の問い、怒るってわかってたのか?」


 非常階段の踊り場でおれと鉄蔵は紙パックのジュース片手に外を見るともなしに見ていた。


「いや、半分ハッタリ。逃げの一手が一番困ったから、とにかくなんかないかなと思って」

「はっ、カマかけに引っかかったのか、お気の毒だね。まぁ反応しちまった時点で答えたようなもんだ」

「わからないぞ。本当にタイミングが悪かったかもしれない。長年の思いが成就してってときにホラーに侵されたのかも」

「家族でも恋人でもない相手がストーカーに襲われるのを恐怖に思うようなやつにその気があったらとっくにコクってるだろ。侵食後に彼女の中に潜り込むためそうしたんだと思うね」

「……そうでも、おれの答えは変わらないよ。どっちでも悲しい」

「芒塚柚月の方はほぼ無事なんだ。上出来だろ」

「彼は」

「さぁな。自宅療養中ってことは寝たきりじゃねえと思うが、詳しくは知らん。興味もない。調べるか?」

「いや、いい。なにもできないのに知りたがるもんじゃないな」

「そういうことだ」


 鉄蔵はそのまま昼休みが終わっても踊り場でサボる気満々だったので、おれは一人で校舎内に戻ろうとした。

 句朗、と背中に声がかかる。


「芒塚柚月も、あの男も、最後はほぼ五体満足で倒れて、目覚めることができたんだ。これ以上はバチが当たるぞ」


 それに振り返って軽く手を挙げるだけで返事をすると、おれはその場を後にした。

 廊下を通り、教室に戻る途中で女子たちの中で談笑する彼女とすれ違った。


「そう。だから今度お見舞いに行こうと思って」


 そんな言葉が耳に届いた。

 足は止めない。今度は落とすようなものもない。

 漂うのは、せっけんの香り。清潔な人のもの。

 獣のにおいは、夢の中で眠っている。




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