プロローグ
平日、曇り。梅雨時期のせいか、朝からでもじんわりと暑い。今日も不快な日となるだろう。机に座りながらぼんやりとそんな事を思う。
というのも教室にはほぼ全員がいるのに、どんよりとした雰囲気が漂っている。ちょうど一ヶ月前の話だ。学年でもクラスでも人気者、学園のアイドルが事故死したのは――
清楚で品のある身なり、黒く長い髪は風に流され一枚の絵となり見る者を魅了する、誰にでも笑顔で接し、そして優しかった。
何気ない、いつもの帰り道だったはずだ。自宅のすぐそばの信号機を渡ろうとした彼女に迫って来たものは、酒酔い運転の暴走車だった。即死だった。その一報を体育館で受けた時は皆が凍り付いていた。教室へと戻る際にはみんな顔を下に向け、泣き、その場を動けない者も居た。
俺はその時にはあまり実感が湧かなかった。もちろん悲しいと思っていたが、急に会えなくなったと言われてもどうしていいかわからない。この一ヶ月でやっともう居ないんだと徐々に受け入れ始めていた。クラスのみんなもそうなんだろう。何人かはいつも通りの生活を送っているが、どことなくぎこちない。
ガララララ――
「全員、席に座れ。ホームルームを始める。」
担任の教師は変わりなく見える。薄情なのか大人なのか、俺には分からない。もう少し悲しんでもいいとは思う。
席に着いた全員を見渡し、何か言いたげな表情を押しとどめ口を開けようとしたその時だった――
ゴゴゴゴゴゴゴゴ――
揺れ?!地震か!これは大きい。窓、壁、机、電灯、色んなものが軋み揺さぶられ壊れそうになる。悲鳴、混乱、教師が何かを叫んでいるが、それを聞く余裕は無い。
その時だった、耳が痛くなる程の音を立て―――
――空が割れた。
穴だ、空に大きな穴が開いた。それは暗く淀み、まるで地獄の蓋が開いたかの様に何かが渦巻いている。余りにも非現実的だ、ありえない。空と穴の境界線がはっきりとしているのに現実味を感じない。巨大な構造物を見た時のように、距離感が掴めない。
穴からぽつりぽつりと黒い雫のような物が落ちている。一つ二つ、また二つ。次第に増えていくそれは、いつの間にか流れ落ちる一本の滝となっていた。
「お、おい、見ろよ!街が燃えてるぞ!」
ちょうど穴の下、生徒が指を刺した方向には火の手がもう何本も上がっている。
一体何が起こってるんだ、もう何が何やら分からない。
火元からぴょんと、黒い雫が跳ねた。その瞬間、雫は猛スピードでこちらに向かってくる。
「ぶ、ぶつかる!?にげ――」
言い終わる時間など無かった。校舎の三階に激突したそれは、コンクリートの壁を容易く破壊した。
逃げ遅れた者、茫然と立ち尽くした者、舞い散るガラス片、コンクリート片、これはクラスメートの…足か。
スローモーションで見える光景は何とも不思議で理不尽だ。何故なら俺も宙を舞っていて背中から落ちるのを避けられないからだ。
「ッ!!――」
全身に伝わる衝撃、痛み、俺の体は一度跳ねて二度目に転がった。教室の壁でようやく止まり呼吸困難、背中の鈍い痛みと合わせての苦痛で悶え打つ。
長い苦痛だ、一体どれだけ動けなかったのだろう。なん十分にも思えた苦痛から次第に解放され、目の前に広がった惨状は――
呻き、悲鳴、血、肉片、そして、黒く三対の足の生えた巨大な虫だった。ちょうど2tトラックを二台横に並べた大きさだろうか。
ギギギギギギギギギギッ!!
人を簡単に噛み砕きそうな鋭く大きな口を鳴らし、生徒だった肉片を次々に前足で捕まえて食っていく。
「あ、え?――」
なんだこれ、何が起こっているんだ。こんな虫は知らない!というより夢だろこんなの!現実な訳がない!
あ、まずい。虫の顔がこっちを向いている。逃げなきゃ…逃げなきゃ死ぬ!!
当然、足に力は入らない。いくら頭の中で命令しても動かなかった。
前足がゆっくりと振り上げられる、あの大きさなら体を貫かれただけで致命傷になる。もう死が直前なのに、それでも動けなかった。
諦めかけたその瞬間――
銀の巨人が突風と轟音と共に、虫の背後に降り立った。
それは美しい銀の甲冑、磨き上げられた装甲は装飾も相まって気品すら感じる。正しく巨人の騎士だった。赤の外套を纏い、颯爽と現れた騎士は片手で虫を押さえつけると胴体から一筋の何かが飛び出した。
「はあああああああ!”炎よ!わが剣に纏いて撃ち滅ぼせ!”」
グギギガガガギギギィィィ!
断末魔。飛び出した何かは、目にも止まらぬ速さで蟲の頭に剣を突き立て発火した。もう虫は動かない。頭が青い炎に包まれ絶命した。
人、虫を倒したのは騎士だ。青い炎の中、甲冑に身を包み細剣を携えたその騎士は、見たことのある馴染みのある女性で――
何かの冗談か?夢が終わっていないとか?あれは…確かに一ヶ月前に死んだはずの三島小雪じゃないか…。